告示日から投票日まで


第1回 「初日から中盤戦へ」

内田やすひろ出陣式(三河別院)

 今回の選挙では、初日(10月14日)の出陣式に、ご主人の安倍晋三総裁が来られないということでまたしても奥様の昭恵さんにお出で頂くことになった。

 昭恵さんは出陣式だけでなく、その後の街頭宣伝活動にもご参加頂いた。
 驚いたことに、自分の話が終わると街宣車を降り、道行く人ひとりひとりにお願いしながら握手をしている。交差点の信号が青に変わると、横断歩道を走って道路の向こう側の人たちにもお願いをして回っている。自分の選挙ならともかく応援に来てここまでやって下さる方は珍しい。さらに、お帰りになる直前に残していった言葉は、
「もう一度主人には選挙中に来るように頼んでみます。そのときには大きな会場で話をさせるのではなくて、大通りだとかスーパーの前とか駅前とかそうしたところを歩かせて下さい。大きな会場で話をしても聞いているのは味方ばかりです。外に出れば必ずしも支援者ではない方たちに接触できます。そういう使い方をした方が効果的だと思います」
 なかなかここまでは言えない。まさに政治家の妻の鑑である。

安倍昭恵さん

 その後中央から続々と応援がかけつけた。
 丹羽秀樹衆議院議員、参議院議員の片山さつき先生、佐藤ゆかり先生、藤川政人県連会長(参議院議員)、鈴木政二参議院議員、鈴木淳司前衆議院議員、伊藤忠彦前衆議院議員、などの方々の激励を頂いた。
 またいつになく尾張名古屋の先生方のご協力が多く、ほとんどの自民党の県会議員の方々にかけつけて頂いた。

安倍昭恵さん

 今回は毎朝、各駅の駅頭で朝7時ころから「駅立ち」をおこなった。
 8時前にはマイクも使えない。ただ「おはようございます。市長候補の内田です。よろしくお願いいたします」と連呼するだけである。100人にひとりくらい握手をしてくれる人がいる。その人の顔が神様のように見える。

 昨年の県議選で、私の後援会の主要地盤でない岡崎市内の北部や南部を街宣車で回ると、現地の反応はきわめて冷ややかであった。当り前である。地元の候補者がいるところでよその候補者が来て宣伝活動をやっても、誰も振り返らない。ところが今回は北部の中根よしたか県会候補、南部の青山秋男県会議員ならびに周平さん、そして額田からのうめむら順一県会候補、それぞれの協力と支援を受けている。そのため今まで無反応に近かった街宣活動に対して、各地であたたかい応援を頂くことができた。同じことが各地域でおこなわれた個人演説会の場にお集まり頂いた皆様の顔ぶれにもあらわれていた。
 ばらばらであったそれぞれの保守勢力が今回の選挙を通じて、初めてひとつの方向に結集しつつある兆しを感じた。


第2回 「自民党安倍総裁来たる」

 各候補の運動は徐々に熱を帯びてきた。
 岡崎市内を45人の市会議員候補者と4人の県会議員候補者と2人の市長候補者、そして各党ならびに市長候補の確認団体の街宣車約60台が大音量を上げながら走りまわっているのだ。
 今回の選挙で各候補者の主張における大きな違いというのは、あまり見受けられない。岡崎市という限定された地域での政治課題というものを現実的に考えれば、対応策、政策といったものが似通ったものになってくるのは当然のことであろう。そうした中で市長選における考え方の違いが二つ浮かび上がってきた。

 ひとつは、わたくしの唱える市民生活に密着した医療・福祉・教育の重点主義の堅実政策。
 もうひとつは、対立候補の方の、借金を増やしても新文化会館、第二市民病院を作るという積極政策。

 という姿勢の違いが明確になってきた。
 ただ私の場合、堅実と言っても、決して何もやらないということではない。岡崎市政100周年記念事業として「岡崎ツインブリッジ」構想(殿橋、明代橋の橋上公園化+石のモニュメント)による岡崎の新しいシンボル(使えるモニュメント)の建築も提案している。
 これは「観光都市岡崎」を作るためのひとつの目玉であり、中心市街地再開発への道程であるとも考えている。

 10月19日(金)。
 自民党安倍総裁、来たる。

安倍晋三自民党総裁

 奥様の昭恵さんのご尽力始め、各国会議員の働きかけ、そして佐藤裕彦元都議会議員の粘り強い交渉のおかげをもって、半ばあきらめかけていた安倍総裁来訪が実現した。国政選挙が近づいていることもあって、総裁の地方応援は原則的に国会議員だけである。地方選挙の応援の前例を作ると収拾がつかなくなる。よって自民党本部は個人的な人間関係による地方選挙への党幹部の応援を歓迎しない。そのことがわかっているだけに、今回の安倍晋三総裁の信義ある行動には頭が下がる。
(お父上の安倍晋太郎先生もわたくしの最初の県会議員選挙のときに、当時自民党総務会長の立場でありながら、応援にかけつけて下さった。)
 何よりも驚いたのは、この日は午後4時から各党党首会談が予定されており、国政選挙の解散問題が話し合われるのだ。そんなときによく応援に来て頂いたものだ。
 選挙後、多くの人から「あのタイミングで安倍さんが来てくれたことが決定的だったね」ということをよく言われた。


第3回 「10月20日(土)選挙戦最終日」

 緑丘学区市民ホームにおける今選挙最後の個人演説会を終え、事務所に帰ってきた。
 事務所常勤者とともに多くの支援者の方々のお迎えを受けた。ホールで選挙のご協力に対するお礼の挨拶を終え、事務所の椅子に腰かけたところ、どっと疲れが出てきた。

街頭演説。2012年10月15日

 選挙の始まる前は、
「たいへんなのは選挙が始まるまでで、選挙が始まれば、あとはレールに乗って走るだけだ」
 などと言っていたものだが、とんでもなかった。
 やはり、議員選挙と首長の選挙とでは同じ選挙でも質が違う。

 今回の選挙では毎日の選対会議で次々と予定の変更があった。選挙戦の戦い方も、夜の個人演説会主体のものから街頭における街宣活動重視の“都市型選挙”へと変化してきた。
 ことに今回の選挙の特徴は相手の姿が見えなかったことである。通常、議員選挙では毎日のように相手候補の活動状況の情報が入ってくるものである。今回は相手のそうした動きがなかなかつかめなかった。
 わたくしたちの選挙のやり方は地域後援会を主体とした地域ごとの人間関係をもとにした役員会、総会、そして励ます会、語る会といった地に足のついた地域運動の積み重ねによるものが基盤となっている。
 どうやら相手はそうした方法をとっていない、あるいはとれないのではなかったかと思う。ちょうど衆議院選挙で、後援会選挙型の自民党が実体が見えているのに対し、組合や特別な支援団体を母体とする候補者の選挙のやり方が外からは見えにくいのに似ている。

 今回相手候補の支援団体がそうした関係の方たちであるだけに、脅威でもある。
 この選挙を戦っていて、なんとも言えない底疲れがするのはそうした見えない敵を相手に戦う精神的なストレスからくるものだと思う。ふつう選挙戦の終盤に入れば、一応の選挙に対する見通し、強弱、そんなものが感じ取れるものだが、今回はさっぱりわからない。やれるべきこと、考え得ることはほとんどやってきた。しかしそれが効果があるのかどうかわからない。地方における選挙も新しい段階に入ったのかもしれない。


第4回 「10月21日(日)投票日」

 10月21日(日)。
 今日は久しぶりに朝をゆっくり過ごした。
 8時ごろ起きだして、コーヒーを飲んで、ひとりで投票所に向かった。

 今回は投票所が変わって、りぶらの中である。
 背広を着て行くのがいやだったので、綿パンにジャケット姿で出かけた。町なかですれ違う多くの人は気がつかなかったが、それでも時折気がついて挨拶をされたり、「今投票してきました。がんばって下さい」などと言われて握手をされてしまう。投票所は意外に混んでいた。投票所の数が減らされたせいか、20メートルほどの人の列ができていた。こんなところであんまり声をかけられたくないと思っていたが、やっぱり見つかってしまった。何人かの方とご挨拶をしながら、ようやく投票用紙を受け取る。聞いていたとおり、市長と市議はひとつの投票箱であった。間違えて入れたらどうなるかと思っていたら、間違えたものも正当にカウントされるそうである。それよりも投票用紙に記入間違いの可能性が高いのではないか。やはり面倒でもひとつひとつ個別で投票するのが有権者に対する親切ではないだろうか、と思った。(なお県議は別の箱であった。)

 昼から一度事務所に行き、開票後の打合せをして帰宅。

 夕食をとってから、DVDで『ウエストサイド物語』を見ることにした。なぜかというと、選挙中に個人演説会の会場から次の会場に行く途中、なぜか突然頭の中に「トゥナイト」のメロディーが浮かんできたからだ。それも何回も。そのせいでなんとなく選挙が終わったらこの映画を見ようと思っていたのだ。自分としては珍しい。戦争映画や西部劇が見たくなるのなら話はわかるが、選挙中に「ロミオとジュリエット」の現代版と言われるミュージカルの『ウエストサイド物語』を見たくなるなんてどういう心境の変化だろうと思う。

Natalie Wood in West Side Story

 いずれにしても毎回、開票結果が出るまでは、何かテレビで映画を見ることにしている。
その理由はいちばん最初の選挙のときに、気を揉んでずっとテレビの前に座って開票結果を見ていて、敗戦に至った経験があったからだ。以来、運を天に任せて映画を見ることに決め込んでいる。

 11時を少しまわったとき、選挙事務所から迎えの車が来た。
 開票状況はどうかと訊くと、「接戦だが少しこちらが勝っている」という。ただ開票立会人の内田勝美さんがにこにこ笑っているのでたぶん大丈夫だろうということであった。
 その後、選挙事務所のすぐ近くの駐車場に待機することになった。
 11時40分に、内田68,000で、先方66,000と少し差がついた。
 それからしばらくして事務所に来るようにという電話がかかってきた。ぐるりと回りながら、事務所の正面に車で乗り付けた。
 大勢の支援者と共にテレビカメラやマスコミのカメラのフラッシュに出迎えられた。玄関から中に入った瞬間、割れるような拍手とともに、大歓声が上がった。
 そのとき初めて自分が勝ったのだということがわかった。

岡崎市長選挙・初当選(2012年)

 中央の台の上に立たされるが、挨拶の順番がなかなか回ってこない。次から次へと来賓の方のお祝いの言葉が続く。あんまり遅くなると、せっかく考えきた台詞を忘れてしまいそうである。ただでさえ、テレビカメラの放列とカメラのフラッシュで緊張が高まってきているのだ。
 7、8人の方のご挨拶のあとようやく順番が来て、次のように話をした。

「皆様のおかげをもちまして、このたびの岡崎城攻防戦とも言える、厳しく難しい市長選挙に勝利することができました。心より感謝申し上げます。今回の選挙は相手候補もさることながら、その背後にあるいくつかの大きな力との戦いでもありました。そのため、いつもの選挙と異なり、選挙戦の実体がなかなか掴めず、対策のとりにくいストレスの多い選挙戦となりました。
 それにもかかわらず、連日連夜にわたる多くの支援者、支援団体の皆様のご協力のおかげでこの難局を乗り切ることができました。まさにこれは、岡崎市民の良識と団結心、伝統の力による勝利であると確信いたしております。これからは選挙中にお約束いたしました、数々の公約実現のため、ひとつひとつ着実に努力を重ねて参ります。
 今回の選挙戦に際し賜りました、おひとりおひとりの皆様のご厚情、お力添えに対し、重ねてお礼申し上げ、ご挨拶といたします。ほんとうにありがとうございました」

(2012年10月23日記)

小呂町の選挙事務所

→「初登庁と市長訓示