モンゴル訪問記

2019年11月 1日 (金)

令和元年9月議会 その2(一般質問答弁前編)

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 9月定例会一般質問の市長答弁を2回にわけて掲載します。前編では磯部亮次議員にお答えしています。


磯部亮次議員(自民清風会) 8月30日(金)

磯部亮次議員

――モンゴルのホストタウンとして、提携をしてから初めての公式訪問行事になったと思われますが、大変な歓迎を受けたと聞いております。そこで、訪問に至った経緯とモンゴル国での出来事など内容について教えてください。

○市長 少し長くなりますが、正式に報告する最初の機会となりますのでご容赦いただきたいと思います。
 昨年4月にモンゴル国アーチェリー協会ツァガン会長が来訪され、本市がモンゴルのアーチェリー・チームのキャンプ地となる覚書きを結び、昨年来、モンゴル国から「一度、岡崎市長に首都のウランバートルまで来てほしい」という要請を何度も受けておりました。
 その後、今年3月末に、中国と共にモンゴル国のホストタウンに登録されたこともあり、東京オリンピックのキャンプ地としてだけでなく、ホストタウンとして、オリンピック後も引き続き交流を図る目的で、去る7月24日から3泊4日の日程で訪問してまいりました

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 今回の訪問先は、首都ウランバートル市であり、主な訪問先は街の中心部にありましたが、先方のご好意により久しぶりに郊外で乗馬も行い、テレルジという国立公園にあるゲル型の宿泊施設にもお招きいただき、一夜を過ごすという貴重な体験もできました。このゲル型の宿泊施設はバス・トイレ付きであり、額田地域で山間リゾートを模索している本市として近年、デラックスなキャンプ、グランピングの流行する世相において参考になると思いました。
 全行程において、モンゴルアーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏が案内してくださいましたが、大統領府にいたこともある37歳の若きエリートである彼は、私と同じ米国インディアナ大学に留学しており、その思わぬご縁にも驚いた次第であります。
 表敬訪問は、モンゴル国のオリンピック協会への訪問を皮切りに、要人のスケジュールを縫うように密な日程で行われました。
 モンゴル国ナショナルオリンピック協会のバダルウーガン副会長とあいさつを交わしたのち、岡崎でのキャンプ実施の支援に対し、ゴールドに輝く「名誉記章」の授与があり、大変驚くとともに本市でのキャンプの成果を認めていただき光栄に思いました。正確に言うならば、いかにも冷戦時代の東側の軍人が好みそうな金ピカの大きなバッジであり、付けるのは少々恥ずかしくありましたが、滞在中は岡崎の桜バッジとともに胸につけておりました。

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 この後、全国からの寄付金とボランティアの奉仕で建設された「アーチェリー360会場」において開催されている「アーチェリー青少年全国大会」の開会式に来賓として招かれまして、挨拶をさせていただきました。また、この折、先方から将来「岡崎杯(カップ)」を作ってさらに交流を深めたいという話がありました。
 ここでは、本年2月の強化合宿で本市を訪れたアーチェリーナショナルチームの選手の皆さんから温かい出迎えを受けたほか、全国ネットのテレビ局からインタビューを受けるなど、本市への注目ぶりにも驚かされた次第であります。

 今回の訪問で、これほど多くの要人と面会の機会をいただけたのは、先の国務大臣であり、大統領顧問の一人でもあるツァガン会長の深い信頼と大変な骨折りのおかげであります。

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(モンゴルアーチェリー協会のツァガン会長)

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(モンゴル国のハルトマーギーン・バトトルガ大統領)

 ことに、モンゴル国第5代大統領バトトルガ氏とは渡航の直前に面会の約束が取れ、表敬訪問が叶ったわけでありますが、地方都市の首長が大統領と会見できるという予想外の出来事については、お会いするだけでも誠に名誉なことと思っていただけに大変感謝しております。
 大統領はかつてモンゴル相撲の選手だったということがしのばれる武道家らしい頑丈な体つきの方で、大きな手で握手をしながら「あなたのことはよく聞いております」と言われ、すでにある程度リサーチ済みであるのか、予想外に話が弾み、時間をオーバーして約1時間の会談となりました。
 大統領からは、環境や資源に関する問題意識や製品開発、また二国間との経済連携について大変熱のこもった具体的なお考えを伺いました。
 こちらからは、都市間交流についての考えをお聞きしたところ、ビジネスも視野に入れた交流への期待や、首都のウランバートル市との交流として9つある行政区のうち、候補となりそうな相手先について具体的な助言をいただきました。

 また、当初の予定にはなかったのですが、ウランバートル市長のサインブヤン氏とは、ツァガン会長の親しい友人であることもあって急遽市庁舎を訪問し面会できることとなりました。

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(ウランバートル市のアマルサイハーン・サインブヤン市長)

 面会では、岡崎市におけるモンゴルアーチェリーナショナルチームのキャンプ受入れについて謝意を受けたほか、アーチェリー以外の教育文化、市民交流についても前向きな言葉をいただき、大統領と同様に、具体的に今後大きな開発計画のある行政区との交流についての提言がありました。これから、事務方同士でつめの話が行われますので詳しくは今後の報告とさせていただきます。
 在モンゴル日本国大使館の高岡大使とは、岡崎市の交流相手としての、ウランバートル市の二つの行政区について紹介を受けたほか様々な助言をいただきました。
 この他にもウランバートル市スフバートル区議会議長には、わざわざ朝食会場にまで足を運んでいただき、意見を交換するなど関係各位の細心なご配慮により大変有意義な訪問となりました。
 アジア圏において、日本の4倍の豊かな国土と貴重な天然資源を持ち、飛躍の可能性を秘めたモンゴル国の若き有能な指導者の知見に触れることができたことは大きな収穫であり、こうした関係性をスポーツ交流だけでなく、人的交流や経済交流にもつなげていきたいと思っております。
 なお、今お話ししたこと以外の詳しい内容は、写真付きで東海愛知新聞やブログでまもなく公表される予定ですので楽しみにお待ちいただきたいと思います。私からは以上であります。 (つづく)

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2019年10月14日 (月)

モンゴル訪問記 12.バヤルタイ(さようなら)

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民族の祭典「ナーダム」
 日本に帰ってから、多くの方から「馬乳酒」の味について尋ねられた。一口に言って「酸味のあるヨーグルトドリンクのような甘酸っぱい味」であった。中には観光客用に炭酸水を混ぜて飲みやすくしたものもあるという。モンゴルでは伝統の飲み物であり、日本の梅酒のような健康酒として子供から大人まで愛飲している。
 また酒やお茶に家畜の乳を入れることが一般的で、馬の乳だけでなく、牛やヤギ、ラクダの乳も使われるそうだ。私は馬乳酒しか飲んでいないが、個人的にはホテルで飲んだコーヒーミルクセーキの方が口に合っている。

 もう一つモンゴルについて記述する場合、はずすことができないものが、民族の祭典「ナーダム」である。ちょうど私達が訪問する前に終了したようであるが、毎年7月11日から3日間、国をあげて行うお祭りである(国家ナーダム)。モンゴル相撲と弓射(きゅうしゃ)、競馬の3種の競技が様々な形で全国各地で行われている。
 そもそもは騎馬民族として遊牧生活をするモンゴル人が大地の神と祖先に感謝の意を表す祭りとして始まったという。中でも競馬が一番有名である。かつて私の友人の娘も日本から参加したことがあり、その時の写真を見せてもらったことがある。
 騎手は7歳から12歳の子供達が務めることになっている。レースは馬の年齢ごとに2歳馬は15km、5歳馬は28km、6歳馬以上の成馬は30kmとそれぞれ全国から集まった数百頭で順位とタイムを競う。
 中には騎手が落馬して馬だけゴールしたり、途中馬が死亡したりすることもあるという。その他に羊の皮で作った獲物を、馬に乗った男達が奪い合う競技もある。

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 ところで、「おかしなことを言う奴だ」と思われるかもしれないが、モンゴル滞在中に郊外の緑の草原と青い空と白い雲を眺めていて、初めての体験であるはずなのに、なぜかなつかしい想いがしたことが実に不思議であった。
 「ひょっとすると前世でモンゴルの馬に乗って草原を走っていたことがあるかもしれない」ともらしたところ、「一度占い師にみてもらったら」と言って笑われてしまった。
 いずれにしてもどこへ言っても笑顔と温かいもてなしで迎えられた訪問であった。
 連載の最後は「幸せと共にまたあなたと会いたい」という意味のモンゴル語「バヤルタイ」(さようなら)で結ぶことにする。

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*その後、9月10日~19日の期間、再び岡崎でモンゴルアーチェリーナショナルチームの秋のキャンプが行われた。お世話を頂いた愛知産業大学の皆さんとサガミコーポレーション様には感謝を申し上げます。

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2019年10月11日 (金)

モンゴル訪問記 11.モンゴル抑留、26日の夕食会

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モンゴル抑留
 すべての公式日程を終えた我々は、さわやかな気分でウランバートルの市街地へと足を進めた。渋滞する夕暮れの道を車で移動するよりも歩いた方が早いということで、ホテルの夕食会場に向かった。会場にはモンゴルの経済界の要人も招かれているという話であった。
 中心街には外資系の新しい高層ビルが点在するが、ビルの多くは4~5階建てで、社会主義時代にソ連邦の指導と援助の下に造られた建物のようである。また、表通り沿いにある大きなモンゴル国立歌劇場は古めかしくも凝った装飾に彩られた立派な建物である。

 司馬遼太郎氏の『モンゴル紀行』によると、どうやらこうした建物の多くは戦後抑留されていた日本兵を動員して建てたものであるらしい。モンゴルに抑留されていた1万2千人あまりの日本人のうち、1600人が亡くなっている。これは決してモンゴル国に対して文句を言っているのではない。当時モンゴルはスターリンの政策には従うしかなかったのである。
 いずれにせよ日本は先の大戦に敗れたために一部の国から必要以上に過重な要求をされることになった。
 確かに古代であるならば、敗戦国は勝者に対して「問答無用」で服従しなくてはならなかった。近代から現代にかけての戦争の裁定は国際法の下に行われるようになったが、太平洋戦争の敗戦の混乱期には日本人の方もかなり非人道的な扱いを受けている。そうした事実をなぜ我が国はもっと広く発信していかないのだろうか? 戦後長らく相手国の人間を抑留して食べ物も満足に与えず重労働に使役するというのは完全な国際法違反である。共産主義の信奉者は常々、立派な理想主義を唱えているが、実際に歴史のページをめくってみると、御都合主義で自分勝手なことをたくさん行ってきている。しかも都合の悪いことは決して認めようとはしない。我々はそのことを忘れるべきではない。

26日の夕食会
 市役所から15分ほど歩いた我々は夕食会の行われるホテルのレストランの別室に通された。会場にはモンゴルアーチェリー協会のツァガン会長はじめ、日本で言えば経団連のようなモンゴルビジネス評議会のバヤンジャルガル・ビャンバーサイカーン議長も同席されていた。
 公式日程がすべて終わったため、夕食会はなごやかな雰囲気の中で行われた。私もこの日は朝から緊張の連続であったため、まさに肩の荷を下ろした気分であった。

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 来春に行われるモンゴルの国政選挙には、エルデネボルド副会長が立候補することを本人の口から聞いていたが、どうやら大統領の要請で、ツァガン会長も再度の出馬ということになりそうである。ツァガン会長の場合、経歴から考えると当選後即入閣となりそうである。今回我々はモンゴルの国政の中核を担う人々のもてなしを受けたことになる。
 「あなたも来秋には選挙があるそうで、我々もできる限りの協力をします」と温かい言葉を頂いたものの、日本の法律では外国人の選挙応援や支援を受けることはできないため、その旨を伝え、気持ちだけ頂くことをお話し、お礼を申し上げておいた。ところが帰国後何気なく調べてみたところ、選挙運動をすることは問題がないようであった。そう言えば、私もかつてアメリカ人の友人に選挙の応援をしてもらったことがあった。
 様々にフランクな話が続き、その間に中国やロシアの習慣の影響であるのか「トクトイ!」(乾杯)と13回も杯を上げることになった。もちろん私はこの習慣にまともにお付き合いすることはできないため、もっぱらジュースやお茶で応えていた。ここでは酒の苦手な人は初めからそのことを相手にハッキリと伝えておいた方がよい。

 モンゴルビジネス評議会のバヤンジャルガル議長はモンゴルに対する日本の投資やビジネス環境について具体的な話をされた。ビジネス評議会には、国内企業はじめ数多くの世界の企業が加盟している。三菱UFJ銀行や日本大使館もそのメンバーとなっている。
 バヤンジャルガル議長は以前は国営の鉱産企業の代表であり、現在は公共公益施設エネルギー関連企業の代表をしてみえる。将来は北東アジア全体をカバーするエネルギー拠点としてのモンゴルの立場を確立したいという夢を語られた。
 またツァガン会長は1990年代に自由化に転換した折に日本から大きな支援を受けたことを感謝された。「当時、外国からの支援の60%は日本からのものであり、私達はそのことを忘れていません」と言われ、さらに続けて「モンゴルは平和な国です。大空、太陽、星、草原、風の音、雨などを体で感じてほしい。次回はぜひ御家族でおいで下さい。その時にはゴビ砂漠でラクダに乗りましょう。確かにあなたも私も忙しい身です。しかしあなたが再訪される時には必ず時間をつくります。そのためには来秋の選挙はぜひガンバって下さい」と私を励まして下さり、「再選に乾杯!」と杯を上げられ大笑いとなった。

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 最後に私から岡崎の伝統工芸品の一つでもある「かぶら矢」の飾り物を贈呈し、先方からはモンゴルの馬頭琴の本物がプレゼントされた。(この「馬頭琴」は市役所1階のホールで「名誉記章」や「市のスプーン」と共に展示されているのでぜひ一度御覧下さい。)
 宴席は夜の8時過ぎにお開きとなり、市内視察ができなかった我々はデパートが10時まで営業していることを知り、オミヤゲ物の購入のために近くのデパートへと案内された。
 そこで驚かされたのはオミヤゲ物のコーナーの一角の天井から体長2メートル以上ありそうな狼の頭からシッポまである毛皮が何匹も吊されていたことだ。首都の中心街のデパートに狼の毛皮が売られているとは思わなかった。現在、世界各国で狼は絶滅危惧種として保護されているが、モンゴルでは家畜を襲う害獣として今も駆除されているそうである。北川氏の話では「この毛皮を家の玄関に吊しておくと、ニオイに怖れをなして絶対に犬が寄ってきませんよ」ということであった。 (つづく

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2019年10月 9日 (水)

モンゴル訪問記 10.高岡正人大使、サインブヤン市長

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高岡正人特命全権大使
 臓器売買にまつわる話をしているうちに面会時間となり、二重ロックのドアを通り施設の上階へと向かった。
 在モンゴル特命全権大使である高岡正人氏は、これまでイラク、オーストラリアの大使、総領事を歴任されたベテランの外交官であり、多忙な勤務の間を縫って私達に時間を割いて頂いたことに感謝している。
 さっそく、今回の訪問の目的と日程をお話し、大統領やツァガン会長から交流先としてスフバートル区やハンオール区を友好提携先として勧められたことをお話すると、スフバートル区は長野県の佐久市と友好都市の関係にあることを知らされた。佐久市は岡崎市と長年、ゆかりのまち提携を行っており、またしても不思議な御縁である。そして、ハンオール区については将来有望な地域であり、近くウランバートル市の新市庁舎の移転建設が行われ、新空港の建設予定地でもあり、大規模再開発が計画されている先進的な区であることを教えて頂いたのである。
 また大使からは、中心地ばかりでなく、今は人口が少なくとも発展性のある美しい自然を持った郊外の地域との友好提携も一つの方法であるといって、いくつかの地方都市を紹介された。
 中でもセレンゲ県は、横綱・鶴竜の出身地であり、日本の都市との友好協定を望んでいる意向があることを伝えられた。今後、事務方を通じて選考してゆくつもりであるが、ニューポートビーチ(米国)、ウッデバラ(スウェーデン)、フフホト(中国)等と同じく実りのある交流にしてゆきたいものである。

ウランバートル市のアマルサイハーン・サインブヤン市長
 大使館を後にした我々は市庁舎へと歩を進めた。出発前にウランバートル市とは事前連絡が付かず、今回は市長との面会を諦めていたのであるが、ツァガン会長が市長の親しい友人であったことから、我々が到着した夜、連絡をとって頂き急遽面会が叶うことになったのである。

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 市庁舎は国会議事堂の西側に位置する、もえぎ色の屋根をもつ白い上品な3階建ての建物であった。市庁舎では入口で手荷物のチェックがあっただけで、そのまま2階の市長応接室に通された。一昨日の夜に連絡したばかりであるのに、部屋にはカメラを持った新聞記者が待っていた。
 ほどなく入室してみえたアマルサイハーン・サインブヤン市長も46歳と若く、またもやモンゴル国の各界のリーダー達の若さが目についた。

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 私の訪問の目的と経緯を説明したところ、市長も大統領と同じく、ウランバートル市の行政区との交流を勧められた。来年の国政選挙後、憲法改正が行われ、同時に行政区の見直しも行われるということであり、現在の区が市に昇格するかもしれないという話であった。
 最後に市長から友好の印としてスプーンを頂いたが、欧米を公式訪問したときに度々頂く「市の鍵」や「市のスプーン」はおしゃれで便利である。岡崎もこうした気の利いたオミヤゲを作れないものかと、帰国後さっそく副市長に相談した。

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 いずれにしても今回、訪問した各所で具体的な提案がなされたことに驚かされた。昨日の朝食の折にも、スフバートル区議会議長が早朝にもかかわらずおいで頂いており、先方の熱意ある対応に対し心から感謝を申し上げるものである。 (つづく

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2019年10月 1日 (火)

モンゴル訪問記 9.中国で暗躍する臓器ビジネス

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 大統領の思わぬ大サービスにより、次の面会時間の迫っていた我々は市内見学の時間をはぶいて、在モンゴル日本大使館へと向かった。
 昨今の世情を反映してか、大使館の警備もしっかりしている。外門で予約のチェック、館内に入ってからは荷物検査と二重ドアによる防御が施されていた。大使は会議中ということで、しばしホールで待つことになったが、その間に大変興味深い話を耳にすることができた。

 以前テレビの特番でロシアの港湾都市のマンホールに暮らすたくましいストリート・チルドレンの話を見たことがあるが、近年はロシアの景気回復に伴い、めっきりその姿を見かけなくなったという。同じくモンゴルのウランバートルでも多くのストリート・チルドレンが存在したそうであるが、こちらもこのところすっかりその姿を消しているという。
 親か親族のもとへ身を寄せるか、自ら職を見つけて移動したならよいが、その可能性はあまりないという。そもそも親から見捨てられた存在である。
 そこでささやかれている話が、近年中国で盛んになっている、外国人や金持ちを対象にした〝臓器ビジネス〟との関わりである。通常、臓器の移植手術を行うには費用もさることながら、血液型、体質の適合(拒否反応の有無)した個体を入手しなくてならず、運が良くても1~2年、時には何年も待つうちに命をなくすこともある。
 ところが、なぜか中国へ行けば、申請してしかるべきお金を払うと数ヶ月で手術まで辿り着けるという。「地獄の沙汰も金次第」ということなのだろうか? 臓器移植しか生存の道のない人でもお金を用意して中国へ行けば助かる道がある。中国の裏社会が臓器調達に関わっているというのである。身寄りがなく、いなくなっても捜索願いの出される可能性のないストリート・チルドレンを、中国の極道(蛇頭?)がかき集めて利用しているという。恐ろしい話であるが、地元では、治安対策にもなるとのことから人々のストリート・チルドレンへの関心は低いという。
 先日TVの深夜番組を見ていたら、元シベリア抑留者の日本人で、当時モンゴルへ送られ強制労働に従事した友弘正雄さん(94歳)という方が出ておられた。友弘さんは自由化後にモンゴル慰霊の旅を続ける中でストリート・チルドレンの存在を知り、保護育成施設(孤児院)を作って、90人ほどの子供を育てたという。そういう人もいるのである。

 中国では、思想犯や宗教問題で収監されている囚人から臓器の収奪が行われているという疑いがあり、先般、6月17日、イギリスで開かれた民衆法廷において「人道に反する罪で、中国は有罪である」という判決が出されている。民衆法廷とは、国際法上、あるいは人道的に問題があると思われる事件を有識者らが公開検証する模擬法廷のことである。強制権や「判決」の執行はできないものの、これまでイランやベトナム、北朝鮮などにおける人道犯罪を多く取り上げている。
 ことに中国では、1980年代に処刑された囚人の臓器を一定の条件の下に使用できるという法律ができている。その後、この法律の下にウイグルの政治犯などが献体として使われ、問題となっている。中国政府は「市民の自主的なドナーである」と公表しているが、臓器手術を行える病院が大きな収容所の近くにあるケースも多く、疑惑の声が絶えないという。
 事実、収容所では思想改造教育や拷問を行う一方で、血液検査、レントゲンなど、健康診断と称して内診を行い、献体を探しているという。
 社会問題として取り上げられる前、中国ではウェブサイトで心臓、肺、肝臓などの臓器が事前予約のもとに販売されていたと言われる(現在は禁止されている)。しかし今でも国際常識では考えられないような期日で臓器の入手と手術ができるため、臓器ビジネスと裏社会の結びつきが今日も言われているのである。こうした事実を踏まえ、現在欧米各国では中国への「移植ツーリズム」の自粛、ならびに禁止の運動が始まっている。
 関係はないかもしれないが、大使館のロビーにも誘拐に対する注意を喚起するチラシが他のチラシと共に置かれていた。
 かつて中国では、出稼ぎで亡くなった人の遺体を国境を越えて移送する際、脳みそを抜き取り、空になった頭蓋骨に鼻から砂金を流し込んで密輸をしていたこともある。世の中には金になるならば何でもやる人々がいるのである。 (つづく

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2019年9月28日 (土)

モンゴル訪問記 8.バトトルガ大統領

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 その後、モンゴル国第5代大統領、ハルトマーギーン・バトトルガ氏(56歳)との面会のため、国会議事堂へ向かった。大統領の執務室は国会の中にある。
 議事堂への入場検査は実に厳格であり、我々外国人はパスポートの提示が求められる。入口では飛行機搭乗チェックと同様の身体検査がある。そして3階にある大統領執務室前でも、再び同様のチェックを受ける。さらに手荷物もすべてロッカーに預けることになった。カメラもレコーダーも一切持ち込み禁止である。後ほど専属のカメラマンが撮った写真の中から許可の下りた写真を数枚受け取ることができる。SNSでの発信は不可との但し書き付きであった。なぜかと言えば、動画ですら本人の過去の映像や音声を加工してニセのニュースが作られ、流されることがあるからである。現代はここまで注意をしなくてはならないのである。

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 執務室に通された我々は、少し遅れて入室されたバトトルガ大統領のぶ厚く大きな手でしっかりと握手を受けることになった。
 大統領はモンゴル相撲の元選手であり、サンボ(ロシアの格闘技)ワールドカップのチャンピオンでもある。そう言えば最初のモンゴル出身の関取となった旭鷲山(きょくしゅうざん)は帰国後、国会議員となり国務大臣になっている。かつての横綱・朝青龍は将来大統領選に出るというウワサもあり、この国では武道に秀でた人物が出世することが多いようである。

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 今回、大統領と面会できたことは幸運であった。せいぜい挨拶をしてくるだけと思っていたところ、いきなり「あなたのことはよく分かっています」と言われ、椅子をすすめられ、お茶まで出されることになった。しかも席に着いてから40分以上様々な問題についてお話をさせて頂き、大変驚かされた。
 大統領はまず、執務机の左角に置いてあるタテヨコ40~50センチの青銅の馬の像を指さし「これは安倍総理からのプレゼントで、いつもここに飾ってあります」と言われた。
 私は改めて今回の訪問のいきさつを述べ、スポーツ交流を切っ掛けに、人の交流を重ね、経済交流をさらに発展させたい旨の話をした。
 都市間交流について大統領は、「ウランバートル市は首都であり、すでに日本を含め10ヶ国ほどの市と友好提携をしているため、9つあるウランバートルの行政管区のうちのハンオール区を考えてはどうか」と提案された。
 ローカルな問題について直々に提案を受け恐縮してしまった。ハンオール区は東京で言うなら世田谷のような高級住宅地で、しかも大統領の出身地区であり、ウランバートル市の新市庁舎の建設予定地でもあり、近く新空港計画を含めた大規模な開発計画のあるエリアであることを後ほど知ることとなった。こちらとしても特段、具体的な条件を持っていたわけではないので、今後ウランバートル市とも御相談の上、話を進めさせて頂きたいと考えている。

 バトトルガ大統領との会談はそこで終わらず、さらに広範な話題へと広がっていった。日本とモンゴルは共にロシアと中国という個性の強い大国に挟まれた立地条件にあり、相互に協力関係を高めてゆくことは両国の今後の発展にとって有効である。ことにモンゴルは石炭、銅、ウラン、モリブデンはじめ、多くのレアメタル、レアアース等の豊富な地下資源に恵まれた国であり、これから資源の入手先の多元化を図る我が国にとって重要な存在となっている。
 大統領は型どおりの儀礼的挨拶をはぶいて、私達の前にコンピューターのパネル板のようなモノを差し出し、「ICチップを含め、こうしたものが我が国ですでに作られ、日本に輸出されている」と言われ、高次元の経済交流の希望を述べられた。ことに現在モンゴルで多く使用されている日本の電気自動車の燃料電池の再生事業において、現況、中国が間に入っているものを日本と直接取引ができるようにしたいと語られた。さらに国際的なゴミ処理システムの必要性を取り上げ、海のない国でありながらビニール袋やペットボトルの処理等海洋ゴミの処理対応にまで話が及んだ。
 私のことを国務大臣と勘違いしているのではないかと思えるほど、具体的な問題について情熱的に語られる大統領の姿にこちらも心打たれるものがあった。

 大統領がその週に面会される外国人は私が最後ということでもあり、そのせいで大サービスとなったのかもしれない。週明けにはアメリカのワシントンまで飛んで、あのトランプ大統領と会談する予定とのことであった。
 ロシアと中国にはさまれながら、欧米とも上手に付き合っているバトトルガ大統領の政治的手腕に学ぶべき点は多いと思われる。 (つづく

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2019年9月25日 (水)

モンゴル訪問記 7.オリンピックとアーチェリー

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モンゴル・ナショナルオリンピック協会
 3日目の7月26日は、今回の訪問の目的が凝縮されたような一日となった。
 前日と同様、早朝に出発した我々は昨日と同じ悪路と渋滞を抜けて、ウランバートルにあるモンゴル・ナショナルオリンピック協会に到着した。
 ソ連邦の時代に建築されたことを物語るように、いかめしい造りの古い建物であった。玄関から中に入り、登る階段の一段、一段の側面にこれまでモンゴルが参加したオリンピック大会の名前と年号が書かれてあった。さしずめ日本ならば交通安全の標語でも書いてあるところである。

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 3階にある広い部屋に通された我々は、カメラ撮影用に用意された五輪のマークを背景にした応接イスに座らされた。間もなくモンゴル・ナショナルオリンピック協会のバダルウーガン副会長が入室され、今回の訪問のいきさつと目的を説明すると、先方からも歓迎の挨拶を受けた。副会長はかつてボクシングのオリンピック選手であったそうである。

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 この時、事前に知らされていなかったのであるが、「オリンピック競技の広報及び地位向上に貢献した」功績に対し、協会より名誉記章が贈られるととなり、私の胸に副会長自ら記章を付けて頂いた。いかにもかつての冷戦時代に東側陣営の軍人が好んだ金ピカでものものしいバッジ(タテヨコ7~8センチはある)であったが、せっかくのご好意でもあり、この日一日私はこのバッジを着用して行動することとなった。

アーチェリー青少年全国大会
 その後、開会時間が迫っていたこともあり、あわただしくアーチェリー青少年全国大会の行われている会場に向かった。都市公園の一角に造られたアーチェリー360会場は全国からの寄附金とボランティア奉仕によって造られた施設である。会場にいる選手からも「私も建設作業に来ました」という声を度々聞かされる。

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 会場に来てからうれしかったことの一つは、昨年、岡崎を訪問したアーチェリー・チームのメンバーが勢揃いして出迎えてくれたことである。これも昨年の岡崎市民のホスピタリティーのおかげであると思っている。
 会場は小学校のグラウンドほどの広さがあり、クラスごとに区分けされ、標的が設置され、20レーンほどの位置からそれぞれの選手が準備の練習を行っていた。

 ほどなく開会式となり、ツァガン会長から順次挨拶が始まった。ツァガン会長はこの席で「アーチェリー大会の優勝者に『岡崎杯』(オカザキカップ)を授与して、さらに岡崎市へ派遣して友好を深めたい」とも言われた。
 私は紹介されたら頭を下げればいいと思っていたところ、マイクが回ってきて挨拶をすることとなった。急な指名であったため、話すことをしっかり考えていたわけではないが、開会のお祝い、訪問のいきさつ、偉大な歴史を持つモンゴルの弓道の復活のためアーチェリー協会の進展に向けて岡崎市として協力してゆくことを伝えた。
 式典後すぐに、取材に来ていたモンゴルのテレビ局のインタヴューを受け、現地での注目振りに改めて驚かされた。

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 さらに1980年代のオリンピック代表であった現役員のお姉様方を紹介され、一緒に写真も撮ったのであるが、モンゴル人の名前は長く耳慣れしていないため顔と名前と役職がしっかりと結び着かなかった。主賓として訪問するといちいちメモがとれない点が辛いところであった。

恐竜博物館
 午後3時からのバトトルガ大統領との面会時間までの間に昼食を済ませ、恐竜博物館を訪れた。

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 近年の恐竜研究は飛躍的に進んでいる。恐竜と怪獣の区別もつかない方もみえるが、20年ほど前の映画『ジュラシック・パーク』の世界的大ヒット以来、全世界的に考古学や古生物学を志す優秀な研究者が増えているせいかもしれない。「たかが映画」と侮ることはできない。
 もう一つの要因は、研究者が増えたことにより、世界的に新たな発掘、発見が増えたことにもよると考えている。ことにモンゴルのゴビ砂漠からは大量に新たな化石が発見されているのである。
 鳥のように抱卵をし、子育てをしたと言われるマイアサウラの巣と卵の化石をはじめ、鳥と恐竜の関係性が推測される切っ掛けとなった羽毛恐竜の化石などが発掘された。近年では小型恐竜だけでなく、大型肉食恐竜の中にも羽毛があったと考えられる化石が発見されている。そうしたものによってこれまでの定説がいくつも覆(くつがえ)されている。

 そのため、モンゴルに行く機会があれば、ぜひ恐竜博物館を訪れたいと考えていたのである。かつてはウランバートルの自然科学博物館に恐竜コーナーが設けられていたのであるが、このたび旧レーニン記念館が改築され、恐竜博物館として独立した施設となったのである。(やはりレーニンより「恐竜」の方が今風ということであろうか?)
 そうした話を聞いていたため、食事時間を短縮して日程に組み込んだのであるが、結果は少々期待はずれであった。

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 メイン展示品のタルボサウルス(ティラノ系)の全身骨格の復元化石がホールの中心に置いてあったものの、これはアメリカから返還されたものである。その他の化石も体の一部分のものが多く、併設展示されているプラスチック樹脂製の再現恐竜の模型もデキは今イチのものであった。
 先月、上野の国立科学博物館の「恐竜博」に足を運んでみたが、こちらの方がよほど展示品の中身が濃く、資料やグッズ、サービスもゆき届いていた。展示化石の多くが近年モンゴルで発見されたものであったことも皮肉であった。
 しかし、これには理由がある。この分野の研究は外国の方が進んでおり、ことに化石のクリーニング技術や設備も整っている。その結果、発掘調査に来た外国人研究者が一度化石を本国へ持ち出してきれいにしたものを展示してから返却することになるため、こうしたことが起きているのである。
 モンゴル人自身で発掘、整備ができるようになれば、こうしたことも減ることになるだろう。 (つづく

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2019年9月20日 (金)

モンゴル訪問記 6.肉食文化について

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モンゴルの食生活
 その後、大型ゲルにあるレストランで夕食をとることになった。やはりこちらでは肉料理が多い。
 昨今は北海道の名物となっているが、私が子供の頃から三ヶ根山のふもとではジンギスカン鍋というのが名物であり、三ヶ根山の山麓園のケースでは羊の肉ではなく、牛肉であったように記憶している。モンゴルでも羊ばかりではなく牛やヤギの肉も使われている。
 私達は物事を先入観で判断していることが多いが、モンゴルにおいてもそうであった。遊牧民は肉食で活動的であり、そのエネルギーが世界征服につながったというイメージを私は抱いていたのであるが、伝統的な遊牧民の食事は、夏は馬乳酒やお茶にチーズなどで、冬は夏に作っておいた干し肉を食べるというのが普通であったそうである。遊牧民にとって家畜は大切な存在であり、肉は祝祭日や特別な時にのみ食していたとのことであった。
 近代化が進み、家畜の数が飛躍的に増え生活が豊かになったことで、肉食化が進んだということであった。昔のモンゴル人はあまり太った人はいなかったそうであり、町を歩くと朝青龍や白鵬のような立派な体格の人を見ることがあるが、それは最近の傾向とのことだ。

 テレルジへの道中にも羊やヤギの群れに道をふさがれることがあり、牧畜の国であることを実感したが、実際全国で人口の20倍の6,300万頭ほどの家畜がいるそうである。

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 一番多いのは意外にも、乳がとれ、質の良いカシミアのとれるヤギで、40%を占める。羊は30%、牛は15%、馬が10%、ラクダが5%という内訳だそうである。他にもヤクやラマ(リャマ)も飼育している。モンゴルのカシミアは中国やロシアとの取引が多かったそうであるが、現在はアメリカが高値で買ってくれる上客となっているそうである。

 私は昔極端な偏食であり、大学生になるまでハムとウィンナー、ハンバーグ以外の肉製品をほとんど食べなかった。長じて大分直ってきてはいるが、本格的な肉食主流の外国料理は苦手である。モンゴルの食事も肉系のものが多く、しかも量が多い。肉に付いて出てきた太い骨も叩き割って中の髄までスプーンで食するのである。そのためか、一般にモンゴルの男性は腰に刃渡り10センチほどのナイフをぶら下げていることが珍しくない。

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(ビフォア)

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(アフター)

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(腰のナイフ)

 モンゴルでは固い肉をおいしいと思う文化があり、「最近の若い奴はやわらかい肉しか食わず軟弱になった」という話を聞かされた。どこの国でも年寄りは同じようなことを言うものである。
 以前ドイツを訪れた時に、カゴに山盛りの骨付き肉や、頭も足も付いたトリの丸焼きを出されたことがあるが、私は全くダメである。こんな時はもっぱらパンやご飯を食べることにしている。私のように肉が苦手の人は、モンゴル旅行の際は何か副食を用意しておかれるといいと思う(ウイロ、煎餅、ビスケット等)。 (つづく

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2019年9月18日 (水)

モンゴル訪問記 5.久しぶりのホースバック・ライディング

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テレルジ国立公園
 巨大チンギス・ハーン像の見学を終えた我々は、ウランバートルの東北東に位置するテレルジという国立公園に向かった。なだらかな山に囲まれ、美しく広がる緑の景観の中にゆるやかに川が流れている。今、新たなリゾート地として、モンゴル人ばかりでなく外国人旅行者も対象に開発を進めている場所である(チン・チャンドマン・キャンプ)。
 ウランバートルから日帰りもできるが、宿泊施設も充実している。伝統的なゲルの形の宿泊施設だけでなく、外資による様々なリゾート・ホテルやマンションの建築が各所で続けられている。これからのモンゴルは、天然資源と畜産製品だけでなく、観光事業に重点を置いていることがよく分かる。

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 2日目はゲル型の施設に泊まることになった。ゲルと言っても、遊牧民の宿泊する小型のものではなく、直径10mほどある。一つで5人は泊まれる大きさがあり、天井も5mほどの高さで、水洗トイレとシャワー・ルームに洗面台まで付いている。
 このレベルのものならば、岡崎の中山間地再開発計画に使えそうな気がする。通常の建物を建てていたら費用がかかりすぎるし、何の目新しさも感じられない。ゲル型の施設はグランピング(ハイクラスのキャンプ)愛好家達のニーズにも合致するように思われた。

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 30~40人収容できる大型のゲルを使用してレストランも営業されており、このシステムは参考にしたいものである。

モンゴルの馬
 レストランで遅い昼食をとった我々は、少し休憩をとってから乗馬に出かけた。
 言葉には気をつけた方がいい。昨年、アーチェリー・チームの歓迎会の席でウッカリ「若い頃に馬に乗っていた」と言ったことを覚えていた人がいて、隣接の牧場に馬が用意されていた。

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 若い頃と言っても40年も前のことであり、当時は今より20キロは軽く、スマートな体型であった時のことである。
「あなたには落馬されては困るので、おとなしい馬を用意しました」
 と言われて出かけることとなった。確かに飛んだり跳ねたりする馬では困るが、草ばかり食べていて一向に歩き出してくれない馬も考えものであり、苦笑させられた。

 モンゴルでは男のたしなみとして、乗馬とモンゴル相撲、そしてかつては弓の三つが必須とされていた。考えてみればこの三つを基にユーラシア大陸を制覇した歴史があるのだ。東は朝鮮半島から中国全土、西は中部ヨーロッパ、北はシベリアからロシアまで、南は北インドまでその支配下に入れていたのである。
 そうしたモンゴル支配の歴史を持つロシアとしては、そのトラウマは大きく、その反動としてその後様々な形でモンゴルに圧力をかけた。長らく弓の使用を禁じられたことがモンゴル国のアーチェリーの技量低下につながったのかもしれない。

タタールのくびき
 歴史上〝タタールのくびき〟と呼ばれるユーラシア大陸におけるモンゴル人の支配は、人種や文化、国の成り立ちにまで様々な影響をもたらしている。私も改めて調べて驚いたのであるが、後世「ボヤール」と呼ばれるロシアの大貴族の中には祖先をモンゴル人やタタール人にさかのぼる家系も多いという。実際、家名にモンゴルやタタールの名前に由来するものも確認される。

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 17世紀のロシア貴族に関する調査ではロシア大貴族の15%以上が東洋系に由来する血筋であったという。その他、ロシア正教会の聖職者の中にもキリスト教に改宗したモンゴル・タタール系の人物が多数あるそうである。北欧のフィンランドは白人国家と思われているが、現在でもフィンランド人の中にはモンゴル系の証しである蒙古斑が出現する人があるという。
 ちなみに蒙古斑は、モンゴル人、日本人にはあるが、中国人や朝鮮人にはないそうである。そのせいか認知度も一般的でないため、アメリカなどで子供を病院に連れて行った際に児童虐待と間違えられて親が逮捕されたこともある。

 昔、私がニューヨーク大学に通っていた頃、アルメニア(西アジア)から来ていた友人がいた。ある時彼から「モンゴル帝国がアルメニア王国を攻めてきた時、我々の先祖の首を集めてピラミッド状の山を作った」という話を聞かされた。その語り口が面白かったため声を上げて笑ったところ、「ヤス、これはジョークではないんだ、本当の話なんだ」とたしなめられた。

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 この手の話は時代を経ることに誇大に表現されて伝わるものである。当時を伝える資料の絶対量が少なく、残されている文献の中にも今日言われるほどの破壊と虐殺の記述は残っていない。確かにモンゴル軍が攻城戦を行う際には降伏勧告の使者を送り、降伏開城をすれば、略奪はされても命までは奪われることはなく、町の自治権も保てたという。
 しかし抵抗し、戦いに敗れた場合、「男は皆殺し、女子供は奴隷」とされたそうである。この点についてはかつてのローマ軍も同様の対応であったはずである。また、支配下に下った場合は、人頭税と共に10%の物品税が課せられたと言われる。各支配地域においては人口調査と徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、司法制度の確立、治安体制の維持などが行われていたという。
 とはいえ、もともとが遊牧の民であり、定住して汗国(キプチャク、チャガタイ、オゴタイ、イル)を統治することには向いていなかったらしく、いつしかシステム崩壊を起こし四散していったものと思われる。これがモンゴル人が大陸に広く分布することになった理由でもあろう。
 その後時代は移り変わるものの、短期間にユーラシア大陸を席捲し膨張したモンゴル騎馬軍団の鮮烈な記憶は、時代を超えて各地に伝えられているようである。

 もう一つ意外だったことはモンゴルの馬が思っていたよりも小ぶりであったことである。観光客用に小ぶりな馬が用意されていたかもしれないが、歴代の中国皇帝が欲しがったという駿足の汗血馬(かんけつば)のイメージと異なっていたので驚いた。

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 確認をすることを忘れてしまったが、世界征服の頃もこの程度の大きさだったのだろうか? 一般に肉食のせいかモンゴル人はアジア人にしては背が高く、体格も立派である。いくら複数の馬を乗り替えて戦いに臨んだとしても、戦場でこんな馬ではもたなかったのではないかと思う。もっとも日本も戦国時代には実際にこの程度の大きさの馬を使用していたらしい。結局どんな馬でも乗り手次第ということなのであろうか? 久しぶりに乗馬をやって、そんなことを考えた。 (つづく

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2019年9月15日 (日)

モンゴル訪問記 4.歓迎会、ウランバートルの郊外

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初日の歓迎会
 7月24日、私達を歓迎して下さった方達は、自由化した社会の経済的成功を背景に政界へ歩を進めている人達であった。若い政治家の多くはかつてのようにソ連邦ではなく、欧米や日本への留学経験者が多く、会話をしていても進歩的で合理的な思考と優秀さが感じられる。
 ことに私を空港まで出迎えてくれたアーチェリー協会の副会長である37歳のエルデネボルド氏は、モンゴル国立大学で学んだ後、国費留学生として私と同じ米国インディアナ大学に留学しており、モンゴル滞在中は「インディアナ・ブラザーズ」とお互いを呼び合っていた。ハーバード大学のケネディスクールにも学んだ彼は、モンゴルの次代を担う若きエリートの一人である。

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(左側がモンゴルアーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏、右側がウランバートル市のスフバートル区議会議長)

 エルデネボルド氏は帰国後、モンゴル大統領府に職を得、その後、モンゴル民主党の政策担当の一人となった。現在は民主党青年協会のリーダーで、来年の国政選挙に立候補することになっており、「来年、再会する頃は私も政治家です」と言っていた。
 また彼は、国際的火星探査計画推進に携わるモンゴルの重要人物の一人でもある。モンゴル南部に広がるゴビ砂漠の自然環境が、重力と大気以外が火星と酷似していることから、現在、国際的火星探査計画であるマーズワン・プロジェクトのキャンプ地として計画が進められている。この計画には世界107ヶ国の人々が関わっているという。この計画の目標は「火星への移住」であり、組織は研究者、技術者、教育者の3部門によって成り立っている。

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 彼の面白いところは、こうした高尚な話をしているときに突然スマホの写真を見せて「この美しい女性が私の奥さんです」とアメリカの芸能人のような言いぐさで話を振ってくることである。

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 事実、写真のとおり、楊貴妃(ようきひ)もかくあらんという美女ではあるが、日本人で自分の嫁さんについてこういう紹介の仕方をする人はあまりいないだろう。この写真はハーバード大学留学中のパーティーでの奥さんの出で立ちであるが、彼曰く「やり過ぎだ」ということである。確かにまるでマリリン・モンローのようなこうしたメイクとスタイルでパーティー会場に現れれば、男達が放ってはおかないだろう。
 奥さんもモンゴル国立大出で、共にハーバードに留学した才媛であるが、この時彼は怒って帰ってきてしまったそうである。実に人間的な話で面白かった。
 いずれにせよ、明治時代の我が国のように外国で高等教育を受けた、こうした若きリーダー達が育っているこの国が間もなく転換の時を迎えることは十分予想されるものである。
 初日の夜はホテルのレストランで歓迎の宴を開いて頂いたのであるが、上記の話を除けば固い話に終始した。

ウランバートルの郊外へ
 翌朝、道路が渋滞することを見越して早めにホテルを出て郊外に向かった。予想どおり市街地から渋滞は始まっていた。郊外に向かう枝道に入ると、デコボコの悪路を縫うように路線区分を無視して車が走っている。センターラインをオーバーしてS字型に対向車線に入り、本線に戻ってくるのだが、初めて見た時は驚いた。まるで日本の暴走運転(あおり運転)のようである。それでもお互いに了解の上での運転であるせいか事故もなくスムーズ(?)に走ってゆく。
 2時間ほど走ってゆく間に、故障のために路肩に駐車してボンネットを上げ修理をしていたり、タイヤ交換をしたりしている車を何台も目にした。郊外に向かうドライブは、まるでダートトライアル・レースに参加しているようなあり様であり、車の天井に頭をぶつけたり舌をかんだりしないように注意する必要があった。横ユレもかなりのものであり、このような中、私達にモンゴルの説明をしながら運転を続ける様は曲芸のようであった。

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 途中、休憩のために何度も道路ワキに車を止めて車外に出た。波のようにうねりながら地平線まで続く一本道。その上に限りなく広がる青空とゆるやかに移動する白い雲。道路の左右には薄緑色のじゅうたんのような草原が曲線を描いている。平原というより緑の海のようである。
 こうした風景を眺めていると、日本の4倍の面積を持つ国土、そこに住む300万人余りの人口、遊牧民としての悠久の歴史を体感できるような気がした。ドライ・アンド・
クールと言えばいいのか、いかにもオゾンをいっぱいに含んだ草いきれと共に、草原を渡る風のさわやかさが際立って心地良く感じられた。

 私達はウランバートルの東、約54キロの地にある「ツェンジンボルドグ」という名のテーマパークに立ち寄った。

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 ここには高さ12m、直径30mの円形の台座の上に、高さ30mの全ステンレス製の巨大なチンギス・ハーンの騎馬像が建っている。エレベーターで像の腹部まで上がり、そこから馬のたてがみ上を通り、馬の頭の上の展望台まで登ることができる。台座の中は博物館とレストラン、オミヤゲ物売り場となっている。
 像は現在の大統領が民間企業のトップを務めていた頃に、私財を投じて建てたものだそうである。中央ホールには像の大きさに合わせた巨大なムチと高さ9m、長さ6m、幅2m半の長靴が置かれている。

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 この長靴は画家である大統領の娘さんのデザインによるものだそうだ。巨大な像ではあるが、世界第8位の大きさとのことである。この秋、東岡崎駅前に完成する若き家康公の騎馬像も大したものと思っていたが、上には上があるものである。 (つづく

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