スウェーデン訪問記

2019年2月 6日 (水)

スウェーデン訪問記 7.ストックホルム日本商工会と日本大使公邸

ストックホルム日本商工会、樗木健一会長

(ストックホルム日本商工会にて。樗木健一会長を訪問)

 私達の最終日程は、ストックホルム日本商工会におけるスウェーデンの国内事情の調査と市内の再開発プロジェクトの視察、そして日本大使公邸の訪問であった。

 スウェーデンは北ヨーロッパのスカンジナビア半島に位置し、北東にフィンランド、西にノルウェーの二国に挟まれ、南西のカテガット海峡の向こうにあるデンマークとは歴史的に長く対峙してきた。バルト海の向こうには大国ロシアとドイツが控えるという地政学的条件にある。そのため、スウェーデン王国は昔から近隣の国家との軋轢が絶えず、領土や国境も度々変わることになった。
 近代に入り、立憲民主国家の体制に移行し、ことに1974年の憲法改正以降は国王に官吏任命権が無くなり、日本と同じように象徴君主制の形となってきている。
 政治的には、1932年のスウェーデン社会民主労働党(社民党)政権成立の折に武装中立政策をとり、第一次、第二次の両世界大戦を回避することができた。大きな戦禍に巻き込まれずに社会インフラを維持できたことが、その後の安定した経済発展につながったものと考えられる。(しかし、いったん廃止された徴兵制度が2018年に復活している。)
 言うまでもなく、スウェーデンは世界に冠たる福祉国家であるが、前述した如く男女共働きを前提とした社会づくりを行ってきたことによって、出生率の維持と人口増を達成できている。
 人口1千万人規模のコンパクトな国家であったことにより、国民の意志の統一が図りやすく、国のトップダウンの政策を短期間のうちに実現でき、社会システムの変革がスムーズに行われてきたことが、これまでの経済的成功と社会の安定の基となっているように思われる。女性の労働環境、子育てシステム、教育、税金のあり方については学ぶべき点も多いが、それを日本の社会で実現するためにはそれなりのアレンジが必要であろう。

 また、ストックホルムは、現在大規模な再開発事業にとりかかっており、かつての港湾地区、隣接していた旧工業地帯の跡、そして外国からの流入者によりスラム化した下町地帯などで集中的に都市再開発を行っている。(難民の大量流入は犯罪の増加、治安の悪化をはじめ社会システムにも影響を及ぼしている。)
 跡地に新築された集合住宅地域は、美しい市街地を形成すると共に新しく機能的なシステムが設置されている。これまでゴミ収集車によって一括回収されていた各種生活ゴミを5~6種に分別し、曜日、時間帯によって車を使わない回収を始めている。そのユニークなシステムは、地下埋設されたゴミ専用収集管を使って行われる。ゴミの種類で収集、日時を分けて同じ管を使い、空気圧の差を利用しゴミ袋のまま時速40~50キロのスピードで各終末処理場(再生場)へ風送されるという。

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 燃えるゴミは岡崎市と同様に、そこで生まれる熱が電力源として再利用され、周辺国のゴミも有料で処理し、電気を売電しているという。
 夏季はバルト海の深層水をくみ上げ、そこから得られた冷気をビル等の冷房に活用している。原子力発電所の廃棄物はきちんと鉛で密封処理し、地下1万メートルの岩盤の中に収容している。将来、合理的な処理方法か再利用の方法が発見された時にちゃんと使えるように考えられているのである。
 このようにあらゆることに合理的な資源利用・再活用の試みがなされている。

 ストックホルム中心街にある世界貿易センタービルの5階にある「ストックホルム日本商工会」において、樗木(おうてき)健一会長さん達の説明を受けた我々は、その後現地視察を行った。そして50周年にわたるウッデバラとの友好関係に対する御褒美のような形で、日本大使公邸での昼食会に招かれることとなった。その理由は前述してあるので省かせて頂く。

廣木重之・特命全権大使

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 日本大使公邸はストックホルム郊外の高級住宅街の一角にあり、バルト海につながる入江沿いの道路に面していた。瀟洒(しょうしゃ)な3階建ての洋館は旧貴族の邸宅を改装したものだと言う。防犯カメラのついた鉄格子の門があり、テニスコート付きの奥行き50メートル、幅100メートルほどの芝生の庭が続いていた。
 護衛官の許可を得て、写真を撮りながら邸内へと歩を進めることとなった。廣木重之・特命全権大使のような立場の方は、スウェーデン国内はもちろん、全ヨーロッパ地域における様々なVIPと会談をすることが多く、こうした公邸が必要とされるのである。決してぜいたくをしている訳ではなく、施設のあり様そのものが日本という国家の存在を代弁しているのである。

 玄関から入ってすぐ右手にある応接室でウェルカム・ドリンクのサービスを受けた我々は、ほどなく階下にあるホールに設営された会場に通された。由緒ある建物を改修したとのことであり、まるで映画に出てくる晩餐会のような雰囲気であった。
 一人一人の席には日本政府を表す桐の葉のマークと共に個人名入りのネーム・プレートが配置され、同じく桐の葉のマーク入りの食器と同じマーク付きの箸、袋に入った割り箸が配膳されていた。

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 次々と運ばれてくる料理は我々が日本の料亭で頂くようなまぎれもない正統な日本料理であり、よく見るとお品書きには夕食会との文字が記してあった。昼過ぎの御招待であったため、ランチ・メニューを予想していたのであるが、正式なディナーであった。聞けばコックさんは日本人ではなく、長年日本食を作り続けているタイ人の方であった。
 正式な日本料理の専門学校を卒業し修業をされてきた方で、長年外務省の海外公館のコック長をされてみえたそうであった。日本料理の神髄を極めるために、香辛料を多く使うタイ料理は食べないばかりか料理もしないそうである。外国人であってもこういう料理人もあるのである。さすがにこの日は、前日に日本食モドキに腹を立てていた某氏も笑顔で箸が進んでいた。
 大使館の方にこっそりお聞きしたところ、「地方議会の関係者や一般人をこうして招待する例は珍しく、こちらの大使館では初めてのことである」とのことであった。改めて歴代の市長ならびに関係者の友好親善の努力に対し、頭の下がる思いであった。なお、これまでの50年間で岡崎市からは332人、ウッデバラ市からは271人の市民が相互訪問をしている。

 今回私達が体験することのできた貴重な経験と学んだ知識は、今後しっかりとさらなる両市の親善関係と両国の友好のために反映できるよう努めていきたいと思う公式訪問であった。(完)


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 なお「スウェーデン訪問記」は、『東海愛知新聞』に2019年1月22日から29日までの間、「姉妹都市ウッデバラ訪問記」のタイトルで連載されました。

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2019年2月 5日 (火)

スウェーデン訪問記 6.ノーベル賞の舞台

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 ストックホルム旧市街・ガムラスタン地区は、スターズホルメン島という島に作られた中世の面影を残す町である。第二次世界大戦後、開発のため一部の区画が崩されているが、歴史的にも貴重な存在と言える。ガムラスタンとはそのまま〝古い街〟という意味であり、別に〝橋の間にある都市〟とも呼ばれているという。
 この島の東側には、王宮や教会、大聖堂が建ち並び、中央部にはストールトルゲット広場という100メートル四方ほどの空間がある。広場の右手にある旧証券取引所は、現在ノーベル博物館として再利用されている。

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(ストールトルゲット広場)

 この広場は、1520年11月にデンマーク王によって81人のスウェーデン貴族が処刑された舞台となり、今も向かいの5階建ての建物の壁面には81個の白い石で犠牲者の数が表示されている。

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ガムラスタン地区

(ガムラスタン地区の路地)

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 一般に私達は、ノーベル賞というと、スウェーデン王家の主催する会場で授賞式も晩餐会も一緒に行われているようなイメージを漠然と持っている。
 ところが実際は、授賞式が行われるのはコンサートホールであり、晩餐会は市議会議事堂の大ホールで、それぞれ別の場所で行われている。
 議事堂では、紹介された順番に、二階のフロアから晩餐会の行われる一階の青の広場まで、50段ほどの石段をL字型に降りてこなくてはならない。正装姿の受賞者夫妻は、スマートにこの長い階段を下りていくために、正面にある壁面のマークを見つつ、会場に笑顔をふりまきながら登場しなくてはならず、これが一番難しいとのことであった。

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(市庁舎、青の間とL字の階段)

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 さらに、この晩餐会で使用したイスは、裏側に各受賞者が自らサインをして、その後はノーベル博物館にあるカフェで使用されることとなる。展示されるのではなく、普通のイスのようにノーベル賞受賞者サイン入りのイスが使われているのである。我々が博物館を訪れた時には、授賞式前であるのに、すでに本年度の受賞者、本庶佑(ほんじょ たすく)さん達を紹介するコーナーが作られていた。館内はノーベル本人の紹介や各受賞者の研究成果が数々の写真と資料で展示されている。

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 毎年当たり前のように、世界の知の権威の最高峰の如く報道されるノーベル賞であるが、いつから、どのように始まったのであろうか?
 アルフレッド・ノーベルと言えば、ダイナマイトの発明者として有名である。そもそも彼をダイナマイトの発明へといざなったのは、スウェーデンという国が氷河の通過した跡の岩盤の上に成立した国家であったことに由来する。
 固い岩盤の上にある国では、あらゆる公共事業は難工事となる。道路、トンネル工事、地下鉄やダムを造るにも岩盤との戦いとなる。ストックホルムの地下鉄駅に行ってみると、まるで洞窟か鍾乳洞の中に入ったような気がするものである。駅ごとに壁面の色を塗り分けて、照明されている所があり、現在ではそれが各駅のセールスポイントになっている。
 いずれにせよ、こうした工事の遂行のためには強力な火薬が使用され、事故も多く発生した。そこで安全に使用できるニトログリセリンを固形化したダイナマイトが発明されることになったのである。ノーベルの弟も、開発実験の過程で亡くなっている。本来はこうした実用目的で開発されたダイナマイトであったが、予想以上の破壊力と使い易さから軍事転用されることになり、後の様々な大量殺戮兵器への開発につながることとなる。
 彼は50ヶ国以上で特許を取り、100近い工場を持ち、一躍世界の大富豪の仲間入りをすることとなった。ちょうどコンピューターやIT開発により億万長者となった現代のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズらと同様である。時代の変わり目となるような発明をするとこうしたことがおきるのだろう。

 そもそもアルフレッド・ノーベルは、建築家であり発明家でもあったイマヌエル・ノーベルの四男として生まれている。そうした環境下、幼少期より工学に興味を持ち、父親から基本的な知識や技術を学んでいる。のちに各国で短期に専門技術を学んではいるが、正式な高等教育は受けていない。それでも語学には堪能であったらしく、スウェーデン語に加え、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語も使いこなしていた。
 1888年に彼の兄が亡くなった時、新聞に自分と取り違えた死亡記事が載り、その見出しに「死の商人死す」と書かれたことが生涯こたえたようであり、それがノーベル賞創設の動機ではないかと言われている。
 1895年、自らの心臓病の悪化にともない、ノーベル賞設立に向けて遺言状を作成。遺言状には、人類の進歩と幸福に寄与する研究・発明を行った物理学、化学、生理学ならびに医学、文学などに貢献した個人や団体に賞を授与する内容が記されていたという(平和賞は後に追加)。
 ノーベルはダイナマイトの発明後、様々な権利問題の裁判に巻きこまれ、弁護士不信が強かったらしく、遺言状の内容について生前誰にも相談せずに作成したという。そのため、彼の死後、相続をめぐって様々なトラブルが発生した。現在、彼の遺産はノーベル財団によって管理運営されている。
 生前、ヨーロッパと北米の各地、ロシアにおいても会社を経営しており、世界中を飛び回っていた。1873年から20年近くパリで生活しており、それが一番長い。個人的には孤独な性格で、うつ病になったこともある。生涯独身で子供もいない。3度恋愛したものの女性運も悪く、女性不信感も強かったという。巨万の富があっても幸せな人生とは言えなかったようである。

 これまで世界中で約900人がノーベル賞を授賞しているが、このところの平成のノーベル賞ラッシュのおかげで、日本人ノーベル賞の受賞者は昨年の本庶さんを加えて、外国在住の方も含め、27名となった。以前アメリカ人の友人から、「ウチの大学(UCLA)は日本よりたくさんノーベル賞を取っている」(注)とシャクなことを言われたことがあったが、ようやくそんなことも言われずに済むと、個人的にもよろこんでいる。

(注) UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)出身のノーベル賞受賞者は現在13人。

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2019年2月 2日 (土)

スウェーデン訪問記 5.スウェーデンの街並と日本食に見る国際化

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 ウッデバラでの3日間の公式日程を終え、翌日、スウェーデンで2番目に大きな都市であるヨーテボリ(イェーテボリ)までバスにて移動した。
 ウッデバラは、その地理的位置の関係上、これまで歴史的に支配者と領有権がノルウェー、デンマーク、スウェーデンと、度々移り変わってきた。隣接するヨーテボリ(ゴッテンブルグとも呼ばれる)も、同じく北海に面した重要な港湾都市であることから、17世紀にグスタフ二世アドルフの治世にスウェーデン領として確立されるまで、同様の変遷があった。

 深い緑に囲まれ、石畳の上を市内電車が走る古風な風情を漂わせたヨーデボリの街並みを抜け、ハーガ地区と呼ばれる旧商業区の一角にある歴史的趣(おもむき)のあるレストランで昼食をとる。

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 石畳の舗道というのは、絵画の題材や写真の被写体としては見映えがするものの、実際にそこを歩行する者にとっては、デコボコとしていたって歩きにくいものである。維持管理にも手間がかかるものと思われる。人は10センチほどの段差はしっかり視認するものであるが、車道と歩道の段差が2~3センチの当地では、同じ様な石造りで判別しにくく、歩行者は注意が必要である。(同行の一人も、足を引っ掛けて転倒したようだ。)
 また、日中に街中でベビーカートを一人で引いている男性の姿を見ることも珍しくなく、この国に置ける男女共生社会の実相が垣間見えるような気がした。

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 昼食に前後して、今では中国資本の傘下にあるボルボの博物館と、水際都市の面影を残す魚市場の見学を行った。こうした場所は、国は違えど、どこも観光客向けの施設として整備されている。
 古風な商業地域を一周した後、映画『ハリー・ポッター』の冒頭に出てくるようなクラッシックな造りのヨーデボリ中央駅から一等列車(座席指定)に乗り、3時間ほどの電車の旅を経て、夜のストックホルムに到着した。
 ストックホルムに来るのはこれが2回目である。40年前に来た時には、父の知人である岡崎出身の渡辺さんという建築家の方の自宅にお世話になった。

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 その時この街の案内役をしてくれたのは、当時小学校4年生の渡辺さんのハーフの長女であった。私と一緒に古い建物めぐりではかわいそうと思い、途中地下鉄の近くにあったチボリという遊園地に行き先を変更したため、中心街を正式に見学するのは今回が初めてのこととなる。

 翌朝は朝9時から、ノーベル賞の祝賀晩餐会場となっているストックホルム市庁舎をはじめ、中世の趣(おもむき)を残したガムラスタン地区に並ぶ王宮、大聖堂、国会議事堂、オペラハウス等の視察と共にノーベル博物館を訪れることとなった。

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 前述した如く、この国は200年以上に渡り外国との戦争をしていないため、中世から近代にかけてのヨーロッパの伝統的建築や街路の風情が、今も色濃く残っている。パリやロンドンにもそうした場所がないわけではないが、大きな内戦や第二次世界大戦の戦後復興都市として再生した所と、オリジナルなものがそのままの形で残っている場所とでは、実際に自分の足でその空間を歩いて見た時の空気感が違うことを強く実感したものである。
 レストランの地下室部屋に通されると、中世の石造りの壁から独特の匂いまで感じられる。古めいた木製のイスとデーブルに腰を下ろして一つ一つの調度品に目をこらしていると、いつしか意識が時代を遡ってゆくような気がしてくる。私は下戸で、酒の味は全く分からないのであるが、酒豪の方々ならば、こうした雰囲気の中で地酒のワインをじっくり堪能できるのではないかと思う。

 近年のテレビ番組は、国際化社会を反映した様々な興味深い取り組みがなされている。
 私も度々家で目にすることがあり、知ったのであるが、日本食の料理の達人が身分を偽って外国人が営業している日本料理モドキの店で働き始め、その不思議なあり様を伝え、最後に自らの身分を明かして日本料理の真髄を伝える、というパターンの番組がある。
 実際にあんなことを内緒で行ったら、トラブルや裁判沙汰にもなりかねないため、一部は了解の上でのヤラセ番組であろうと思って観ているが、時に海外で日本食の名のもとに提供されている食事の中には、目を疑いたくなるようなものがあることも事実である。
 今回、私達がストックホルムで連れて行かれたSという日本料理店は、まさにそうした所であった。調理人の顔を見たところアジア風でもなく、どうやら中東の人のようであった。必ずしも日本人の調理師でなくとも立派な日本料理を作る人はいるが、ここはそうではなかった。
 インスタントミソの方がおいしいミソ汁、小麦粉のダマの残っているテンプラ(天フライの感じ)、市販のみたらしダンゴのタレを使った焼き鳥など、居酒屋の定食にしてもおかしな組み合わせの料理が出てきた。

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 店内の異国趣味の装飾も、日本では見かけないシロモノが多い。スモウ取りの陶器の置物、富士山と五重の塔に満開の桜の絵、黒澤明監督が描いた映画の絵コンテを引き伸ばしたような図柄の壁紙等々。おまけにトイレ前の敷き物には、徳川家の葵の紋の入ったモノが使われていた。
 同行の人の中には、怒ってしまいハシもつけない人もいたが、これも外国の勉強の一つである。国際化の時代と言っても、所によってはまだこの程度の理解であり、ひょっとすると私達自身も、相手のことを同程度にしか理解していないことがあるのかもしれないと思った次第である。

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2019年1月30日 (水)

スウェーデン訪問記 4.学生交流、国家システムについて

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 ウッデバラでの歓迎式典と除幕式、記念行事を終えた我々は現地視察の日程に入った。3日目の朝、最初に訪れたのはウッデバラに5つある高等学校の一つであるオストラボー高校であった。
 小雨に濡れながら訪問した我々を迎えてくれたのは、3組の高校生グループであった。彼らは洋服のリサイクルや地元産品を活用したビジネスを考案していた。すでに高校生にして起業家としての発想を持ち、学校もそれを支える教育を行っている。このグループの中にはすでに全国大会に出場し、起業して利益を出している学生もいた。大学で行うビジネススクールの高校生版と言えるかもしれない。昨夏、現地を訪れた岡崎商業高校の代表も彼らと交流をしている。

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 この学校のカフェテリアで、スウェーデン料理ではポピュラーなミートボールとポテトのグラタンの昼食を食すこととなった。かつての給食を思い出させる味であった。

 食堂に向かう途中、突然髪の長い女子高生に声をかけられた。なんと彼女は3年前の中学生訪問団の一員として岡崎を訪れており、「これがその時に市長さんと一緒に撮った写真です」と言って、自分のスマートフォンの画面の写真を何枚も見せてくれた。彼女はリム・ゼライヤさんという方で、当時岩津中学校に通ったそうであった。

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(後列一番右がリム・ゼライヤさん。2015年10月、岡崎市役所にて)

 全国に国際交流を謳っている自治体は数多くあるが、姉妹都市の看板を掲げているだけの所も多く、岡崎市のように様々な形で実のある交流を続けているケースは稀である。この点が本市の強みであり、外務省からも高い評価を受けている所以(ゆえん)である。
 その後、幼児向けのプレスクール(保育園)と高齢者のケアホームの視察を行った。改めてこの国が社会主義を基礎に置いて国づくりを続けてきた国であることを感じたものである。

 現地で聞かされた話であるが、今から60年程前には、スウェーデンでも人の考え方は日本と同じ「男が外で働き、女が家を守る」であったそうだ。しかし人口の少ない国で(1960年は約750万人、現在は約1千万人)、生産性の高い豊かな国家を保つため、男女共働き社会のシステムの必要性を説き、現在の仕組みを作り上げたそうだ。
 子供が生まれれば両親はそれぞれ240日(夫婦で計480日)の産時休暇が認められ、その後職場復帰ができるシステムも確立されている。男女共働きを前提とした社会であるため、すべての子供は保育園に入園できる。
 スウェーデンの学校は小学校から大学までほとんど公立であり、本人の意志と能力さえあれば、すべて公費で面倒をみてもらうことができる。入学金も授業料も必要なく、しかも義務教育である小中学校の9年間は教科書代、文房具費、教材費に加え、給食費や学校医療費も必要ないという。高等学校、大学も教育費は無料である。
 スウェーデンには学習塾や家庭教師のようなものはなく、中学2年生までは成績表もないそうである。それでも経済協力開発機構(OECD)により3年ごとに行われる高校生対象の国際学力試験(PISA)において、参加国60ヶ国ほどのうち、中・上位の成績を保っている。所定の条件を満たせば、こうした権利は外国人も同様の恩恵を受けられることになっているが、近年の中近東からの難民の急増によって運用に難しさが出てきているとのことであった。
 医療においても年間13,400円ほどの支払い上限で外来診療を受けることができ、入院した場合でも一日当たり最大1,200円程度の負担で済むそうである。基本的にスウェーデンの医療システムは国とランスティング(県)、そしてコミューン(市町村)の三つのレベルで役割を分担対応している。

 このように行き届いた高福祉の制度を維持するためには、当然のことながら高い税制がしかれている。現在、スウェーデンでは消費税は25%(食品などは12%または6%)。一般に収入の半分近くは所得税となり、累進課税率も高く、超高収入のテニスプレーヤーであるビョン・ボルグのような人は税率の低い国に移住している。しかし一般のスウェーデンの国民は国と社会に対する信頼感が高く、高い税金と社会保障のための高コストを容認しているという。「大金持ちにはなれないが、そこそこに安定して暮らしてゆける」ということだろう。こうしたシステムのために企業の果たす社会保障コスト負担は大きい。その代わりにこちらの企業は日本のように個人退職金を支払わないし、会社の福利厚生に大きな費用を使ったりはしない。
 またスウェーデンには強力な労働組合があり、「連帯賃金政策」という大原則が定められている。同じ仕事には同一の賃金を支払うことになっており、賃下げを行うこともできない。そのため企業としては従業員のリストラをするか効率の悪い事業から撤退するしかない。
 こうしたスウェーデンの賃金制度は経営の弱い企業産業の淘汰につながってきている。(失業者対策は国の責務となっている。)

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 基本的に企業は経営難となっても国の支援を期待できないため、有名な自動車メーカーのサーブやボルボにおいても政府の救済措置はされなかった。サーブはゼネラルモーターズの子会社になったのち経営破綻し、ボルボは外国資本の傘下に入っている。こうした政府の方針の背景には、1980年代の造船業界の危機において政府の援助が衰退産業の延命にしかならなかったことに対する反省があるのだという。
 スウェーデンのシステムには学ぶべき点も多くあるが、機能的である反面ドライなシステムのあり方が日本人の伝統的価値観、考え方に合うかどうかは何とも言えない。
 2005年に行われたスウェーデン財務省のシミュレーションでは、納めた税、保険料のうち45%はその年のうちに本人にサービス還元され、また38%は生涯のうちに本人に還元され、残り18%は他者への再配分となるというが、本当にそんなにうまくいっているのであろうか?

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2019年1月27日 (日)

スウェーデン訪問記 3.キャッシュレス社会と市民交流

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 このところ、我が国の社会においても、カード経済の流れが進んでいるが、スウェーデンにおいては、すでに現金をほとんど使わない社会へとシステムが移行しつつあるようである。
 今回の訪問にあたって私は大きなミスをしていた。引っ越し作業のゴタゴタの中で、切り替え時期を迎えて送られてきた新カードを紛失し、期限の切れている旧カードのまま出発してしまったのである。さらに、頼みとすべきもう一つのクレジットカードはヨーロッパでは歓迎されていないものであり、使えるのは空港だけであった。また少額のお金をユーロに替えてはいたが、スウェーデンはEUに加盟しているものの、ユーロを導入しておらず、町中の店でユーロは使えないのである。
 銀行で両替をしようとしたところ、週末でそれもかなわず、ホテルにおいては両替え業務を行っていないばかりか、全てカード決済システムとなっていた。
 おかげで、旅行中に買いたい時に買い物ができず、何とも情けない有様となった。そのため、同行の方にクローネ(スウェーデン通貨)をお借りしたり、他の方のカードで買って頂き、後日、円でお返しするというご迷惑をおかけすることになったのである。
 いくら忙しくても、出発前に一度しっかりとチェックすべきであったと反省している。現地ではコーラやサンドウィッチを買うにもカードを使う人が目についたほどである。いずれ日本の社会もこのような仕組みに移行してゆくのであろうか?
 今後、人が現金を持ち歩くことがなくなり、自宅に現金を置かないようになれば、窃盗や強盗などのドロボー犯罪は減少することになるのだろう。そのかわりに、キャッシュ社会には無かったようなITがらみのさらなる知能犯罪が増加してくるものと思われる。IT社会の変化になじめない者にとっては、また生きづらい世の中になるのだろう。

 記念品の除幕式を終えた我々は、郊外にある改築中の大型ショッピングモール「トープ」に出かけた。「外国で良いオミヤゲを買ったと思ったら、日本製や中国製であった」ということがよくあるので、各店を注意深く見て回った。
 時節柄、ハロウィーンからクリスマスに向けての商品が多く店頭を占めていた。チョコレートの棚の前で品定めをしていたところ、驚くべきことが起きた。私の背後から、「あれ、市長さんじゃないですか、どうしてこんな所にみえるんですか?」と日本語で声を掛けられたのである。私に話し掛けてきたのは、現在岡崎市内にお住いの女性であった。友好40周年の折に、市民訪問団に参加してウッデバラの一般家庭にホームステイしたことが切っ掛けとなり、以来個人的に親戚づきあい(?)をしており、度々訪れているのだそうである。今回、50周年で私達が訪問していることはご存じないようだった。
 私も驚いたが、こうした事実が岡崎の国際交流が形だけのものではなく、実のあるものとなっていることの証しである。

 また中学生の相互交流からも大きな成果が出ている。
 初期にウッデバラ訪問の代表となった中学生の中から、交流が切っ掛けとなって外語大学に進み、スウェーデン語を専攻し、現在外務省に入って外交官となっている方がいるのである。私はたまたまその人のお母さんにお会いし、そのことを知ったのであるが、ストックホルムの日本大使館勤務を経て、今は同じ北欧のノルウェーで大使館勤務を行ってみえるそうである。

 その夜、私達は旧造船所の関連施設を再利用したアレクス・ガストロノミ・ホテルの大ホールにおいて、歓迎夕食会に招待された。このホールは造船業が順調な時期に建てられた施設らしく、石材の町の技術をつくした立派な建物であった。

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 今回ウッデバラ市は、岡崎との長年にわたるすぐれた国際交流の功績によって、日本の外務大臣表彰を受けることになった。そのため、わざわざストックホルムから廣木(ひろき)特命全権大使が河野太郎外務大臣の名代として夕食会に参加し、表彰の典礼を行って頂くこととなった。
 まだスウェーデンに着任して2週間足らずであるのに、廣木大使は見事なスウェーデン語でユーモアを交えてあいさつをされた。「スウェーデン語は専門ではない」と言ってみえたが、プロの外交官のスゴさを垣間見た思いがした。
 これまで、ロンドンやニューヨークなどに加え、アフガニスタンや南アフリカも任地として担当されたそうである。治安の悪い国では、大使が外出する際には武装した護衛が4~5人付くそうである。確かに外交官が誘拐されたら大変である。
 私も県議時代に南米のペルーやキューバ、中東のクウェート、ドバイの日本大使館などを訪れたことがあるが、いずれも大使館の警備は厳重であり、建物前の道路は直線でなくクランク状に曲げられており、大使館前には小さなトーチカが設けてある所もあった。ペルーの大使館は、私が訪れた一年後にゲリラに占拠されたので、ニュースのテレビ放映中には家族に内部の解説ができたものである。

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 「大使は、任地によっては命懸けの仕事ですネ」という私に、「その覚悟で職務に当たっております」と答えられた。
 また大使というものは、毎年一回本国で行われる大使会議に情報交換のため帰国する以外、簡単に日本に戻れないそうである。廣木大使も、日本にいる娘さんやお孫さんの顔はもっぱら写真で見るだけとのことであった。

 ふだんこうした話を一般国民は知るすべも無いが、日本が国際社会で無事に存続していくためには、この様に国家を背負って活躍している方達のいるおかげであることを、私達は認識しておくべきである。
 なお廣木大使の奥様は、12月の本庶教授のノーベル賞授賞式に、大使夫人として民族衣装を着て出席するため、只今、日本で新しい着物の着付けの特訓中とのことであった。

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2019年1月24日 (木)

スウェーデン訪問記 2.ウッデバラ市到着

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 岡崎市と姉妹都市であるウッデバラ市は、スウェーデンの西海岸にあるヴェストラ・イェータランド県の中心都市である。首都ストックホルムの西方400キロにあるスウェーデン第二の都市イェーテボリから車で1時間ほどの距離にある。
 そもそも岡崎市との縁が始まったのは、外務省を通じてヨーロッパにおける福祉モデル都市との友好提携先を探していた本市に、駐日スウェーデン大使館より、同じ花崗岩の大地の上に発展し、石材業を伝統産業とするウッデバラを紹介されたことによる。
 スウェーデン語で「ウッデ」は「岬」、「バラ」は「壁」を意味し、その名の通り、美しいフィヨルドの入江の奥にある町である。

 今から40年前、アメリカでの勉強を終えた私は、日本への帰国の経路として、インディアナ州の隣のイリノイ大学が主催していた「ヨーロッパ周遊・バスの旅」に参加していた。多くのアメリカ人学生とバスでヨーロッパ各国を2ヶ月間巡る旅であり、当時日本人は私一人であった。
 その折、日本に報告電話をしたところ、ちょうど姉妹都市提携10周年で、ウッデバラを訪問してきたばかりの市長である父から、「ウッデバラにも行くように」という要請が出たのである。

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(スウェーデン国王、内田喜久市長)

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 当初、北欧へは、ノルウェーのオスロとベルゲン、スウェーデンのストックホルムの3ヶ所を訪ねるつもりでいたが、ロンドンでアメリカ人の仲間達と別れ一人旅となったこともあり、ウッデバラも訪れることにしたのであった。その後、フィンランドからソビエト連邦(現ロシア)に入り、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、ナホトカから横浜に単身帰国した。
 私にとって、ウッデバラはその時以来40年振りの訪問である。前回は、ベルギーから列車に乗ったところ、デンマークからノルウェーへは、私の車両だけ切り離され、フェリーに乗せられた。そのことを夜中に車両のユレと波音で気がつき驚いたこともなつかしい思い出となっている。今では大陸回りの高速鉄道が走り、飛行機の便数も増えているため、海上コースはないとのことである。

 今回私達が到着したウッデバラのホテルでは、日の丸の旗がスウェーデン国旗と共に掲げられていた。さらに翌朝、市内の沿道にも50周年を祝う日の丸の旗がいくつも飾られており、先方の丁重な歓迎ぶりに感謝すると共に、おもてなしのあり方を反省するものとなった。

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(ウッデバラ市旧市庁舎)

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 初日は日本からの移動のみであったが、2日目は早朝より友好の翼のメンバーの方々と合流し、共に旧市庁舎へと向かった。岡崎の伊賀川のように、市の中心を流れ、大きさも同様なベーオン川という川があり、その横に細長く続く公園を歩き続けると、王の広場が見えてくる。町の中心にある広場を公共の建物や商店が取り囲むように発展してくるという、ヨーロッパによくあるスタイルである。石畳の中央にはこの地のスウェーデン支配を確立したカール10世グスタフ国王とエリック・ダールベリー伯爵の騎馬像が建っている。

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 40年前にも同じ場所に来たのであるが、当時は知人の一人もなく、赤い屋根と白と黄色にぬり分けられた旧庁舎の写真を撮りながら、帰国するまで何の建物か分からなかったものだ。訪れた日が日曜日であり、ほとんどの店が休みであったことも不運であった。そのために旧庁舎に入り、内部の様子を見るのは今回が初めてのことである。現在、市役所としての機能は、別の場所に建てられた新庁舎に移っており、旧庁舎は式典や重要な会議を行うときに使われているという。
 二階にあるバロック風の格式あるつくりの部屋に通された我々は、長テーブルを挟んで対面してイスに座り、代表者のあいさつと共に、相互にプレゼントの交換を行った。(この時の様子は、翌朝の地元新聞の一面で大きく紹介されることとなった。)

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(旧市庁舎2F大会議室)

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 この部屋は、会議室としても使われており、我々に先立ってこの地を訪れた中学生訪問団の来訪時にも歓迎会の場として使われたそうであった。
 スウェーデンは1808年~9年の第二次ロシア・スウェーデン戦争以来、200年以上戦争をしておらず、地震もほとんどない安定した地盤のおかげもあって、各地にこうした古く由緒ある建物が多く残っている。

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(寄贈した絵画の前で。アルフ・ギルベリ市長と)

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 市長主催の船上レストランでの昼食後、午後には岡崎市から贈られた「早春の岡崎城」という岡崎城と満開の桜を描いた女性画家(鈴木由紀子氏)の絵を、友好50周年の記念品として贈呈する式典を行うためにボーヒュスレーン高等職業・教育センターに出向くことになった。絵は中央ホールの壁面に黒い布で覆われていた。
 ここで我々のためにミニ演奏会が行われたのだが、日本の曲として演奏された曲が中国の二胡の曲であったことは、ご愛嬌であった。
 日本の我々がこうしたことを行う時には、しっかりと下調べを行うものであるが、直接日本と関わりのない一般の人にとっては、日本と中国の違いは、ムーミンを共有している北欧の三国の違いと同じくらいの認識なのかもしれないと思ったものである。
 いずれにせよ、今回岡崎から贈られた岡崎城と桜舞い散る春のうららかな情景を描いた絵画は、そうしたボタンの掛け違いを払拭する素晴らしいものであった。

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2019年1月20日 (日)

スウェーデン訪問記 1.岡崎からウッデバラへ

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 昨年、岡崎市とスウェーデン王国ウッデバラ市は、昭和43年(1968年)に姉妹都市提携を結んでから50周年を迎えた。日本全国でも、半世紀にわたる友好都市の関係は珍しく、しかも岡崎市のように中学生の訪問をはじめ、実のある民間交流が長年継続しているケースは、さらに少ないそうである。
 今回は、友好提携50周年を記念し、5月にウッデバラからアルフ・ギルベリ市長を始めとする公式訪問団が市民合唱団と共に来岡された。

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 そして10月には、岡崎から2つの団体がウッデバラを訪問することとなった。市長、議長、教育長、総代会会長、商工会議所会頭、国際交流協会理事長、観光協会会長、市議会議員有志を中心とした「公式使節団」と、国際交流協会の会員並びに市民参加の方々による市民訪問団「友好の翼」の皆さんの2つである。
 公式使節団は一日遅れてフィンランド経由でスウェーデンに入国、ウッデバラ市、イエーテボリ市、首都ストックホルムを訪れ、友好の翼の皆さんはドイツ経由でスウェーデンに入り、公式日程に同行した後、再びドイツ回りでフランクフルト、ライン河畔の古城、ハイデルベルグなどを訪れるというものであった。

 「なぜ同一ルートにしないのか?」と問うた私に対し、「公式使節団は、公式目的を行うことがその任務であるため、単なる観光と見られそうなコースははずしました」というのが担当課長の答えであった。
 もっともな理由であるが、せっかく地球の裏側まで出かけているのであるから、後学のために役立つ視察はしておきたいものであったと思う。ことにフィンランド航空によるヘルシンキ経由の旅程でありながら、単に乗り換えをするだけというのは、いかにももったいなかったような気がする。現在私が推進しているリバーフロント計画のコンセプトイメージは、若い日に見て歩いたヨーロッパの風景が下敷きとなっているからだ。
 いずれにせよ今回、両訪問団は、しっかり友好の実を上げてきたといえる。大きなトラブルと遭うこともなく、無事に帰国できたことも幸いであった。同時期にインドネシアでは旅客機がナゾの墜落をし、アメリカのピッツバーグではユダヤ教会がテロに遭っていた。改めて、自然災害を除く、日本社会の安定と安全をありがたく思うものである。

 今回も出発直前まで日程が詰まっており、十分な下準備なしに現地に出かけることになってしまった。そのため帰国後、この報告を書くために苦労している。
 久し振りに国際便の長距離飛行を行うことになったが(10時間)、このところ飛行機に乗る度に客席周りの機材が進化しており、アナログ世代の私にはいたって面倒くさいことおびただしい。しかし一方、使い方を覚えれば、最近話題の映画が無料でいくつも観られ、手軽に映画館に足を運べない身としては、誠にありがたかった。今回も往復の間に6本の映画を堪能できた。中でも近未来の進化したITと人体の融合を描いた『アップグレード』は秀作であり面白かった。

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(ヘルシンキ、ヴァンター国際空港)

 我々公式使節団は、10月24日午前10時半にセントレアを発ち、7時間の時差のあるフィンランドのヘルシンキに午後2時半に到着した。そして、スウェーデンへの国内便に乗り換えるための入国審査を行った。フィンランドでスウェーデンの入国審査を行うというのもおかしなことであるが、国々が隣接しており、国境を越えて飛行機の乗り換えをすることがめずらしくないヨーロッパではよくあることである。
 さらに最近、中国とスウェーデンの間であるモメごとがあった。マナーの悪い中国人をホテルのロビーから強制排除し、そのことをTVで面白おかしく描いてインターネットに流したため、両国間の国際問題となっていた。そのせいなのか、入国審査に思ったより時間がかかってしまった。北欧の官憲の目には、アジア人は皆同じに見えるのかもしれない。
 かつて昭和40年代に、日本も経済の好調を背景に農協のツアーなどが大挙して外国へ出かけ、数々の文化摩擦やトラブルを起こしたものである。ちょうど今、中国がそうした段階にあるのであろう。
 私の場合、「観光ツアーです」と簡単に答えればよかったのに、「友好提携50周年での公式訪問」とバカていねいに答えたために、よけいにあれこれと確認の質問をされてしまった。通関をスムーズにするためには、身なりをキチンとしておく他にも、コツがあるのである。
 空港の窓から見える北欧の空のどんよりとしてぶ厚い雲と、膚を刺す冷気は、秋のヨーロッパに来たことを感じさせるものであった。

 その後、1時間半のフライトの後、イエーテボリに到着し、専用バスによりウッデバラに向かった。到着は夕闇迫る時刻となったが、アルフ・ギルベリ市長はじめ、ウッデバラの関係者の丁重なお出迎えを頂くこととなった。我々の訪問の2週間ほど前には、中学生代表の訪問団も訪れていて、彼らも同様の温かい対応を受けており、誠に感謝にたえない。

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(ストックホルム、スカンセン島)

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(ストックホルム宮殿)

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(提携40周年時に寄贈した雪見灯籠)

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