母校

2017年12月22日 (金)

岡崎北高19回生「緑寿を祝う会」

岡崎北高19回生「緑寿を祝う会」

 この秋は9月の同窓会総会(ただし台風のため中止)ののち、11月9日に創立110周年記念式典、11月11日に昭和46年卒業の19回生の同窓会、北高卒の県教委並びに高校管理職の親睦会である「白亜会」が行われ、岡北がらみの行事が続いている。
 岡崎ニューグランドホテルで開かれた19回生の会に、一員である私も出席したが、65歳を緑寿(ろくじゅ)と呼ぶことを改めて認識した次第である。久しぶりの同年会でもあり120名余りの参加があった。中には50年ぶりの再会となった同級生もいて、懐かしい時を過ごすことができた。
 半世紀の月日の経過の中で、それぞれの人生を生き、今日があり、風貌もモノの考え方にも変化があるはずであるが、再会と共に気分は昔に戻ってしまうことがまことに不思議である。しかし中にはすでに亡くなっている友人もあり、現在20人ほどは所在不明で、連絡もとれないとのことであり、時の移ろいの無情さを感じさせられるものであった。

 当日、挨拶の機会を得たが、時間を気にして思っていたことを適確に話せなかったため、以下に補足した文章を記すこととします。


 御紹介頂きました3年8組の内田康宏です。今回御案内を頂いて、改めて65歳が「緑寿」と呼ばれることを思い出しました。
 高校生の頃は65歳と聞けば、棺桶に下半身が入った存在のように思っておりましたが、自分がその年になってみると「こんなものか」とあっけなく感じております。これまで諸先輩からも同様の感想を聞いておりましたが、今はそれを実感しております。
 いずれにせよ、このところ同年代の親しい友人が相次いで急逝しておりまして、我々もそうした年でありますので、元気なつもりであってもどうぞ御自愛下さい。

愛知県立岡崎北高等学校

(昭和34年3月竣工の岡崎北高本館)

 本年は母校、岡崎北高校の創立110周年にあたり、先日記念式典に来賓として出席してきました。その折久しぶりに体育館に入ることができましたが、通路を通り体育館に向かう途中、記憶の彼方に沈んでいた様々な出来事が思い出され、不思議な思いがしたものです。
 今改めて高校時代を振り返ってみて、自分の人生の中で一番元気の無かった時代であったような気がします。私の場合、自分が何をしたら良いのか分からず、迷ってばかりいた日々のように思い出されます。しかし当時の友人から受けた様々な刺激や先生方の示唆に富んだ言葉がその後の人生の歩みの糧となり、今日の思考の形成、生き方の選択につながったような気がします。
 言い換えるならば高校時代は将来へのサナギの時代であったにようにも思われ、そうした時間と空間を与えてくれた母校と学友の皆さんに感謝しております。
 それから本日は久しぶりに岡崎にみえた方もあると思いますが、岡崎はこれからまだまだ変化してゆきますので楽しみに見守って頂きたいと思います。これまで他の三河の諸都市と同じく「モノづくり」を中心に栄えてきた岡崎市ですが、これからはもう一つの経済の柱として岡崎のもつ美しい自然景観と歴史的文化遺産を活かした「観光産業都市」として発展致します。これから数年の内に私が公約として掲げた事業が一つ一つ実現して参りますのでぜひ御期待下さい。
 65歳で緑寿、70歳で古希、77歳で喜寿となります。また元気で再会できますことを楽しみにしております。ありがとうございました。

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2017年11月15日 (水)

岡崎北高等学校創立110周年記念式

愛知県立岡崎北高等学校

 本年、岡崎北高等学校が創立110周年を迎え、11月9日(木)午後に記念式典が行われました。OBの一人である私も来賓として出席し、お祝いを申し上げましたので御報告致します。


 本日、愛知県立岡崎北高等学校創立110周年の記念式典が挙行されるに当たりまして、岡崎市を代表して、お祝いのご挨拶を申し上げます。
 ご案内のとおり、岡崎北高等学校は明治40年(1907年)に岡崎町立高等女学校として、ここ岡崎の地で開校されました。それから110年の長きにわたり、岡崎市民のみならず西三河地域に暮らす多くの方々の期待に応えながら順調に発展を遂げられ、今ではこの地域に欠くことのできない存在となっておられます。

岡崎町立高等女学校

(明治40年、随念寺を仮校舎として開校)

 また、「高い知性と豊かな情操、たくましい気力・体力の養成」を教育目標に掲げ、今までに数多くの優秀な人材を世に送り出してこられました。卒業生には岡崎市をはじめ西三河各地で、あるいは日本全国でご活躍をいただき、地域社会の発展に貢献をしていただいているところです。
 これもひとえに、歴代の校長先生をはじめ、教職員の皆様方の熱心なご指導と保護者、同窓会並びに地域の皆様の温かいご支援の賜(たまもの)と、心から敬意を表する次第であります。

 今日は久しぶりに懐かしい体育館の中に入りましたが、私が本校に在籍したのは昭和43年から昭和46年ですから、現在の生徒さんのご両親が生まれる前後のこととなります。しかし今も水泳部の活動の折にプールサイドから見たオレンジ色の夕日の鮮やかさは脳裏にしっかりと残っております。

内田康宏

(内田康宏、岡崎北高3年)

愛知県立岡崎北高等学校

 さて、この110年という長い年月の間に、私たちを取り巻く社会・経済・国際情勢はめまぐるしく変化を遂げています。しかしながら、将来の岡崎市を担うであろう生徒の皆さんの自信にあふれた、堂々とした姿を拝見いたしまして、これまでに諸先輩方から引き継がれた精神がいささかも変わることなく脈々と受け継がれていることを実感し、OBの一人としてもうれしく思っております。
 学校関係者の皆様におかれましては、どうか今後とも優れた教育、学校運営を続けていただきますようご期待を申し上げます。

 岡崎市におきましては市制の施行から101周年を迎え、今年は次の100年に向けて新たな一歩を踏み出す大変重要な年になります。これから数年の内に手がけた事業も次々と実現を迎え、本市の景観も人の流れも大きく変わってまいります。これからも私の究極の目的である、岡崎の子ども達が自らのふるさとに対し、これまで以上に大きな愛情と誇りを持てる、そんな「夢ある新しい岡崎」を目指し、全力で取り組んでまいりますので、今後とも一層のご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
 最後になりましたが、愛知県立岡崎北高等学校が創立110周年を契機としてさらに発展されますこと、並びに生徒の皆さんの輝かしい未来と、本日、ご参会の皆様方のご健勝を祈念いたしましてお祝いの言葉といたします。

平成29年11月9日
岡崎市長 内田康宏

愛知県立岡崎北高等学校

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2015年2月22日 (日)

城北中AKBフォーラムに参加して その2

前回のつづきです。)
 若い皆さんの中には、現在の自分や安定した生活が今後もこのまま続いていくように思っている人もいるかと思います。しかし時間の経過と共に皆さんも確実に年をとりますし、時代の移り変わりの中で社会の形態も人の考え方も変わってゆきます。何もしないでいたら、現状の生活レベルの維持すら難しくなるのが世の中というものです。
 私達の国や社会を少しでも良くして、先人から受け継いだものを次世代に伝えるためにどうするべきかを考え、実行してゆくのが政治であります。そんなに遠くない将来、私達大人が持っているバトンは皆さんの手に渡されることになります。

岡崎市立城北中学校 第2回AKBフォーラム

岡崎市立城北中学校 第2回AKBフォーラム

城北学区の未来は大丈夫か
 今回の大きなテーマである「城北学区の未来」についてですが、まだ議会でも話していないことですので、私の夢の話として聞いて下さるとありがたいと思います。
 少し前のこと、商工会議所の幹部の皆さんと同様のテーマについてお話をしたことがありました。切っ掛けは、ある方から「中心街に市電を復活してほしい」という言葉を頂いたことによります。
 その時私は、「単純に市電だけを復活させることは難しいと思いますが、康生から本町、元能見、井田にかかる5~6kmの旧電車通りの沿線を特別区に指定して開発すれば、その中でトロリーバスを走らせることぐらいはできるようになるかもしれませんね」と答えたものです。
 特別区の中では、特定の公用車(消防車、救急車、パトカー、郵便資材運搬車等)のみの限定使用となり、一般の人の移動手段はトロリーバスか徒歩か自転車ということになります。

ブラジル・クリチバ市にて(2008年8月6日)

 この計画のモデルはブラジルのクリチバという都市で、かつて産業都市であった町の再開発事業として、全長26kmほどの中心幹線道路の沿線を高層ビルで囲うようにして、中を特別区にして、人が歩いて生活できるまちづくりを目指したものを参考にしています。(平成20年8月、県議会海外調査団の副団長としてブラジルを視察したことがありました。)
 起伏が大きく東西に大きな幹線道路が走っている岡崎ではこんなに大きな計画は無理ですが、例として次のようなまちづくりを考えました。

・ 康生から井田くらいの限られた空間の外周を8~10階建ての高層ビルで囲む。

・ それぞれのビルの1階をショッピング街として整備し、すべての生活必需品はそのエリア内で調達できるようにする。

・ もちろん理容店や美容院などの店もその中に含まれる。いくつかのビルの中には各専門分野の医者を集めた医療アパートのような設備も整える。

・ 初期医療についてはそこで対応し、重度の病気やケガの場合、救急車で市民病院へ搬送する。

 議会こそそこには含まれていませんが、一種の都市国家のような地域的に自己完結した機能を持つまちづくりです。これをモデルケースとして、これからの高齢化社会において同じような特別区を市内の適地に地域に合った形態でいくつか造ることができないだろうかと考えております。タテに伸びたまちづくりで生まれた土地空間は公園として活用したり、個別住宅用に使ったりすることができます。
 城北学区においては、その土地空間を岡崎公園とつなげて、より大きな中央公園(セントラル・パーク)としてかつての城郭区域を再興できたらと考えます。

岡崎城

20年後の城北学区について
 もしこれから20~30年後に皆さんの中で岡崎に住んでいる方がみえれば、必ず対応策を考えなくてはならない問題の一つが「岡崎城をどうするか」ということです。
 岡崎城は今年で築後56年目です。もう20~30年すれば建て替えるのか、延命措置をするか決めなくてはならない時を迎えます。建て替える場合、木造で建て替えるのか、今と同じ鉄筋コンクリートで再建するのかの判断もしなくてはなりません。
 木造にすると、50年ごとに手入れをすれば400年は持つそうです。しかし本式の木造の城というのは戦時の物見やぐらであって、田舎屋敷を積み重ねたようなものです。階段は急傾斜のハシゴのごときものですし、子供や老人、身障者の方が登って楽しめるものではありません。しかも冷暖房やエレベーターもなく、照明も不十分な代物であり、専門家、好事家以外にとって楽しい建物とは言えません。
 鉄筋コンクリートの場合、現在と同様の博物館使用もできますし季節を問わず快適に誰でも天守閣に登って展望を楽しむことができます。ただしコンクリート製の寿命は木造より短く、80~100年くらいであるそうです。

岡崎城

 どちらにせよそうしたことを総合的に判断して決めることになるのは若い皆さんの世代の責任となります。私達は考えられるだけの資料を準備しておきますのでよろしくお願いします。
 またこれからどのような〝まちづくり〟をするにせよ、何か一つの政策を行えばそれですべて完成するということはありません。中心市街地は川と道路で切り分けられていますし起伏もあります。この近辺は地面が硬い岩盤でできていることで知られています。地震には確かに強いですが、地下利用には大きな費用と難工事が予想されます。今後岡崎をどのような街にするにせよ、そうした自然条件は変わることはありません。
 私達の世代もベストを尽くすつもりですが、皆さんの時代にはまた異なった課題が生まれるでしょう。その時にも、岡崎の伝統、文化、歴史、先人の知恵と偉業に思いをはせたまちづくりをして下さることを望んでいます。

 当日(2月9日)、十分な準備もせず参加したため、まともな答えになっていなかったような気がしましたので、改めて文章にしてみました。
 3年生の皆さん、高校入試、御健闘をお祈り致します。

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2015年2月19日 (木)

城北中AKBフォーラムに参加して その1

岡崎市立城北中学校 第2回AKBフォーラム

 2月9日(月)、久し振りに母校・城北中学の校門をくぐり、中学生の皆さんの未来に対する熱い思いを聞かせて頂きました。高校入試を控えたこの時期、3年生を対象にこうした取り組みのできる城北中は素晴らしい学校であることを再認識しました。
 授業で習う教科の知識は大切なものですが、それはあくまでも基礎としてのものです。大切なことは、そうした知識をもとにしてどこまで自己の思索を深めることができるかということです。自ら考える能力は、人生を生きる力となります。大切にして下さい。

 岡崎市の財政について心配してくれた生徒さんがいましたが、ありがたいことに岡崎市は年間2,400億円ほどの大きな予算を計上することができる優良自治体です。これは皆さんのお父さんやお母さん、先輩の方々が長年しっかり働いて税金を納めて下さっているおかげです。名古屋市や豊田市の財政力には及びませんが、愛知県の年間予算(一般会計)2兆4,000億円の約10分の1ほどですので大したものです。
 一部の人達は「橋の建造や川の整備などにお金を使わずに、老人や子供のためにお金を使え」ということを言われます。しかし岡崎市は教育・福祉・医療において、他の都市に負けないだけの政策を行っていますので安心して下さい。それら教育・福祉・医療の基本的な予算に影響がないように未来への政策は進められます。(注)

 そのほか、「岡崎は都市化するべき」、「小京都的なまちづくりをするべき」、「今のままの岡崎を保っていくべき」等、様々な意見がありました。
 重要なことは、自らの考えを実現するために具体的にどんな政策が必要か、有効であるかを見つけることです。そしてさらに、それを進めるためにどのくらいお金がかかり、その財源をどこから調達するかということも考えなければなりません。
 現在岡崎市では「リバーフロント構想」という政策を打ち出して〝夢ある、次の新しい岡崎〟づくりに邁進(まいしん)しています。

岡崎市 殿橋付近

岡崎市 乙川の葵桜(河津桜)

 この「リバーフロント構想」は、私がある日突然思いつきで言い出したことではありません。ここ40~50年にわたって、岡崎の先人(せんじん)達が議会や商工会議所、地域の商店会、あるいは街角や飲食店など様々な場所で話し合ってきたことです。それを「岡崎活性化本部」という各分野の専門家を集めた団体が検討し、修正を加えて提言書を作成しました。その提言書を受けて岡崎市役所は昨年夏、「乙川リバーフロント地区整備計画」を発表しました。
 それぞれの事業の実施にあたっては、市役所が国や県の協力を得ながら、市議会が承認した予算の中で順番に実現の努力をしています。しかし大きな事業は、国や県の補助金をもらう都合上、順位が入れ替わることもあります。それは、行政というものが、市の仕事であっても国や県との連携の中で進められているものであるからです。

 岡崎市は今年「徳川家康公薨去(こうきょ)400年」、来年は「市制施行100周年」という歴史的な節目の年を迎えます(徳川家康は1616年に亡くなりました。岡崎市は1916年7月1日に誕生しました)。
 私達はこの機会に内外に岡崎の持つ良さというものを強くアピールして、「モノづくり」(自動車、機械、繊維など)で発展してきた岡崎に、もう一つ「観光産業」という大きな経済の柱を造り上げようとしております。
 その第一歩が、川の流れと河川空間を活用したまちづくりと、独自の歴史的文化遺産を活かした観光産業による活性化であります。この政策のもう一つ大切なことは、岡崎に生まれ育った子供達に、自らのふるさとに対するより大きな愛着と、先人の遺業に対する誇りを持ってほしいという思いを込めたものであることです。

家康プロジェクト (2015年2月10日)

岡崎公園

 また岡崎市には県下で一番多い13の国の文化財指定の歴史的建造物があります。また京都よりも多い神社仏閣があると言われながら、そうしたものが十分に活かされていないばかりか、その存在すら市民に忘れかけられているのです。今こそ、そうしたかけがえのない宝を再検証し正しく認識して、後世に伝えていかなくてはならないと考えております。
 現在、まちづくりの政策として具体的にいくつかの施策が同時進行しています。今までも駅前の再開発や中心街の振興、公園や岡崎城の整備等に個別の政策が行われたことがありますが、今回のように、駅前から中心街、岡崎公園、そして城郭全体にまで思いをはせた統一計画というものが提示されたことはありません。今回が初の試みであると言えます。
 このような政策は全体として関連づけて整備をしなくてはムダが出るし、十分な効果も期待できないであろうと思います。

東岡崎駅 北口

 ただ今、東岡崎駅の周辺整備が大きく進んでおります。中心街への導線としての人道橋(じんどうきょう)の建設。殿橋と明代橋の整備。道筋における歴史を伝える文物の整備(四天王像など)。中心街における工夫(名物料理、オミヤゲ、イベント、サービス)。行路案内の明確化。その先にある岡崎公園とお城の効果的アピール。そうした様々な施策を河川空間の整備(遊歩道、サイクリングロード、ボート等)と一緒に進めているのが「リバーフロント構想」であります。
 そしてもう一つ忘れてはいけないことは、これは岡崎のまちづくりの第一歩にすぎないということです。これから引き続き全市にわたって、それぞれの地域の持ち味を活かした整備をして参りたいと考えています。 (つづく

乙川リバーフロント地区整備計画

(注) 昨日、2月18日、岡崎市は平成27度当初予算案を発表しました。一般会計、特別会計、企業会計の合計予算額は2,428億4,677万円を計上、過去最高の予算規模となりました。教育・福祉・医療の分野においては新規の事業も含め、充実した予算の編成を行っています。

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2014年1月22日 (水)

インディアナ大学同窓会 in 岡崎

インディアナ大学同窓会(愛知県岡崎市)

 青年期のアメリカ留学は、私の人生で大きな転機となった出来事の一つである。それまでの私は自分の好きなことしかあまり熱心に取り組んでこなかった。高校時代は自省的・内向傾向に陥り、今でいう引きこもりに近い状態であったこともある。
 そんな私が自分から手を挙げて積極的にアピールしていかなくては認められない世界に放り込まれ、生きているうちに自分を変質させ、あるいは本来の自分を取り戻すことができたような気がしている。

 今手元に、戦後まもなくから最近までのインディアナ大学の日本人留学生650人あまりの名簿がある。目を通すと、そこに私の名前があることが恥ずかしいくらい立派な経歴の方々が並んでいる。一流企業の重役、大学の学長・教授になられた方々、研究者、ベンチャー企業の社長、あるいは国際的な音楽家などの各分野の専門家も多く、政治畑にいるのは私くらいのものである。
 毎年6月に東京の富国(ふこく)生命本社の会場をお借りして同窓会が開かれている。同社の小林喬元会長が同窓生であり、その御好意により続けられているものである。私も一、二度出席させて頂いたことがある。毎年講演会やパーティーが行われていることは知っているが、6月は議会のある時期でもあり、私のような職業の地方在住者にはなかなか出席が難しかった。

The Japan Chapter of the Indiana University Alumni Association

 ところが、先年私が市長に当選したことを知った有志の方々が岡崎で同窓会を開いて下さることになった。双方の都合で、11月下旬の日程となったのであるが、なにせ年末に向けてそれぞれ多忙な時期であり、最終的に参加者は8名となった。かく言う私自身、昼食会にしか参加することができなかった。もうすでに35年程前のことになるのに、かつての仲間や先輩方と昔話に花を咲かせる楽しい時を過ごすことができた。

インディアナ大学剣道部

 名古屋に本社のあるキムラユニティー株式会社現社長の木村幸夫氏は、インディアナ大学剣道部の創始者であり、私の前任の日本人会の幹事であった。勉強以外の様々な活動に携わるきっかけを与えて下さった恩人である。剣道だけでなく料理も教えて頂いた。後に私が一人でアメリカ大陸を長距離バス(グレイハウンド)で一周したり、南米のアマゾン探険の旅に出かけたりしたのはこの人の影響でもある。
 アメリカで剣道修業というのもおかしなものだが、ハワイ出身の有段者の日系人や物好きなアメリカ人学生を引き込んで、木村さんの弟の昭二さんと2年間剣道部を引き継いできたものだ。
 現・同窓会会長の服部恭典氏は、時計の服部セイコーの一族の方であり、私はイトコの方と「アイゲマン・ホール」という14階建ての学生寮で生活していた。
 副会長の小幡恭弘氏は現在、東京で公認会計士を営んでみえる。奥様には日本人会でパーティー等を行う時によくお世話になったものである。
 二村幸男さんは現在、名古屋でライフ・メディカル・アセット・デザイン研究所の所長をしてみえる。
 そして浜松からみえた伊藤元美さんは、在米中会社経営の経験もあり、現在は帰国して弟さんの会社の顧問をされているという。皆さんそれぞれ多様な人生航路を送っておられるようだ。

Indiana University

木村昭二さん、内田康宏ほか

 当時私達は、ふだんは広いキャンパス内にバラバラで生活していたが、日本人会でパーティーをやると何十人も集まったものだ。試験明けに公園でバーベキュー大会を開くという情報が伝わると、アメリカ人や外国の留学生まで集まってきて100人を超えることがあった。こうした準備はなかなか大変で、前日の夜、翌日の天気予報と参加人数を確認してから、生鮮食品のバーゲン・タイムを狙ってスーパーに買い出しに出かける(しくじると全部自腹になってしまう)。その後の味付けや調理の準備もけっこう大仕事であったが、今となっては集団マネージメントの良い経験となっている。

Indiana University

Indiana University

 かつて『Breaking Away』(邦題ヤング・ゼネレーション)という映画が全米でヒットしたことがある。その舞台となったのがインディアナ大学ブルーミントン校である。校舎があったのは緑の田園地帯の真ん中にある人口3万人ほどの大学町であった。
 映画は大学生と地元の青年達との恋のさやあてと、インディ500マイルレースを真似た「リトル500」自転車レースの物語である。私達は自転車ではなく、休みになると近くの牧場へ20人くらいで繰り出して、団体割引の交渉をして馬に乗っていた。日本の牧場のように同じ広場をぐるぐる回るのではなく、丘や森の中を小川が流れている広大な敷地を馬で走り回るのは実に爽快な気分だった。近くにはヨットに乗れる湖や安価なゴルフコース(10ドルくらい)もあった。
 そう書くと遊んでばかりいたようであるが、ふだんは試験とレポートと膨大な量の課題図書の読破に追いまくられる毎日であった。(今こんな文章を書いているのも、その時の習練のおかげであると考えている。)

 当時、日本人会の幹事として様々な体験をしたことが自信となり、それが今日までつながっているのだと思う。そんな機会を与えて下さったすべての留学生仲間と両親に今はただ感謝あるのみである。

インディアナ大学

インディアナ大学

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2013年7月12日 (金)

中学生と語る「未来の岡崎」Ⅱ ―城北中学―

 先回の南中学に続き、6月14日(金)、城北中学において2回目の「次の新しい岡崎」についての講演をさせて頂きました。
 若い人と話す楽しさは、彼らが素直で率直なモノ言いをしてくれる点であると思います。大人は変な遠慮をしたり、余計な思惑が邪魔して本音を言わないことがあります。また思想的違い(モノ事の考え方の違い)から、自分と異なった考えを理解しようとせず、相手を攻撃し、誹謗中傷すること(悪口を言うこと)に生きがいを見出しているかわいそうな人達もいます。こうした大人達との対話は、しないよりした方がいいとは思いますが、時に、おこなったというだけであまり実りのあるものとならないこともあります。
 思ったことを率直に述べてくれる若い人との対話は、一般の人の本音を推し量る意味でも大変参考になります。
 城北中は私にとって母校であり、私が初代校長の鈴村正弘先生のスパルタ教育時代の卒業生であるせいか、もう何十年も経っているのに、この学校の正門をくぐるたび、なぜか今もって体が緊張感に包まれます。

2013年6月14日 岡崎市立城北中学校

 また今回も講演後ほどなくして生徒さん達からの感想文集を頂き、大変参考になり、また心温まる思いがしました。ページをめくる度に個々の生徒の岡崎への思いが伝わってくるような気がしました。こうした機会を与えて下さった皆様に改めて心から感謝申し上げます。

 しかし今回もまた、言葉の難しさということを痛感しました。初代校長のモットーが「勉強だけできてもダメだ、スポーツだけでもダメだ、両方できなくてはダメだ」というものであったため、「昔の城北中の伝統は?」という問いに対しその言葉を返したところ、どうやら私自身がそう思っていると受け取った生徒さんがたくさんいたようです。
 私の考えとしては、初代校長はそういう高い目標を掲げてみえましたが、実際に「文武両道に秀でる」ということは誰しも簡単なことではなく、それはあくまで努力目標であると言いたかったのです。「人にはそれぞれ個性や特徴があり、そうしたものを活かした生き方を模索してもらいたい」というのが私の真意であります。それに我々の時代の常識やモットーを数十年後の現代にとりあげても、それは時代錯誤(時代に合わないこと)となってしまうことでしょう。これからはもっと丁寧なモノ言いをしなくてはいけないと反省しております。

 講演後の質疑応答は、城北中の生真面目な伝統のせいか事前に伝えられた通りの政策的な質問が主であり、おおむね好意的なものでしたが、中には、「ツインブリッジやリバーフロントのような計画では名古屋に勝てない」という厳しいご意見も頂きました。全校生徒のそろったあのような場で、堂々と異論を述べた後輩の勇気と着眼点に頼もしいものを感じたものです。
 しかし私としては、初めから名古屋と競争するつもりなど無く、ただ岡崎を中核市にふさわしい町にしたいと思い、あの計画を発表したのです。そもそも名古屋は230万都市であり、政令指定都市で、かつ県庁所在地であります。岡崎は中核市とはいえ人口38万。予算規模は名古屋は愛知県の半分近くもあり、大体毎年、岡崎市の約5倍です。岡崎が競争する相手としては大きすぎると思います。
 またついでに言えば、名古屋市長の政策には、「尾張名古屋共和国構想」のように一都市ですべての施設を保持しようとするのではなく、尾張地域全体で施設計画や運営を考えて、共有できるものは共同使用して利用率も上げるという合理的なものもあります。しかし、中にはあまり賛成しかねるものもあります。
 例えば「名古屋城・木造化計画」です。コンクリート造りとは言え、空調も効いたあの美しいお城を壊してまでやろうとする意味が私は分かりません。まだ耐用年数も耐震強度も大丈夫ですし、お城の解体費用だけで数十億円はかかるでしょう。これから木造で本格的に造るとすれば数百億円の建設費を要しますし、本格的にやればやるほど、資材の調達が大変ですし、何より建築基準法をどうやってクリアーするかも問題です。今まではエレベーターで上階まで上がれた高齢者や身障者、幼児も簡単には登城できなくなるでしょう。「はたして、そんなモノを大金をかけてまで造る必要があるのか?」というのが外から見ている私の意見です。大都市名古屋ですから、やる気になればできるでしょうし、寄付金も期待できるし、人も集まると思いますが、一度木造にした場合、維持管理の方も大変なお金がかかります。姫路城のように本物の歴史的遺産でもないのに、木造であるがゆえに定期補修費用もバカにならない額となるでしょう。あえて実施するならば、天守閣の最上階のみ木造化するとか、内装を木質化するという方法も考えられますが、将来市民の重荷にならないことを祈るばかりです。いずれにしても、それを選択するのは名古屋の市民です。
 私としては、名古屋には東京や大阪、横浜に負けない都市づくりを目指してもらいたいと思っています。

 では岡崎は何を目指すべきか? 岡崎が目指すべきは人口38万都市の身の丈(たけ)に合った都市づくり、施設整備であると考えます。そして近未来の50万都市・岡崎を念願に置いた各市域の実情に合った都市計画を立てることが必要であると考えます。そのために将来は、次のような事業が不可欠になってくると思っています。
(1)愛環鉄道と名鉄本線が交差する場所に総合駅としての「岡崎中央駅」(セントラル・ステーション)を建設する
(2)岡崎城を中核とする岡崎公園の周辺を、史実に基づいて城郭公園化する
 もちろんこれは私一代でできることではありません。それともう一つ、新東名高速道の開通を考慮したまちづくりも重要なポイントであります。
 そして講演でも申し上げましたが、岡崎には他の都市にはない歴史的価値の高い文化遺産がたくさんありながら、質実剛健の土地柄のゆえ、観光政策というものが派手で浮かれたイメージとしてとらえられ、今日まであまり重要視されてきませんでした。もともと実利的な「モノづくり」を重視してきた地域性もあり、今も自動車、機械産業がこの地域の中核であり、大きな成果も出ていることもあって観光産業育成に対する熱意は高まらなかったものと推測しております(そのためこれまで大きなホテルが市内にできなかったのです)。
 もちろん、現在の岡崎の豊かさの源泉は「モノづくり」にある訳ですから、それをおろそかにはできません。これからもこの岡崎の産業特性である「モノづくり」にはしっかり力を込めて参ります。
 しかし、岡崎各地にたくさんある徳川にまつわる歴史遺産をはじめ、古くからの歴史文化遺産を、まちづくりや新しい経済の柱として活用しない手はないと思います。このままでは宝の持ちぐされです。そうした新たな経済の柱となる「観光おかざき」づくりに向けての第一歩が今回、私の提唱する「ツインブリッジ計画」であり、国の「かわまちづくり推進事業」に連動した「リバーフロント構想」であります。時々「歴史観光などくだらない」という御意見の方とお会いすることがありますが、ほとんどの場合、岡崎の歴史や伝統、文化、地域的特性を十分理解されていない方が多いようです。

 よその都市の成功例をマネしても、必ずしも岡崎に適しているとは限りません。岡崎市の特性、置かれている情況を踏まえ、市民の要請や投資効果も考慮に入れた上で、岡崎の持ち味を活かしたまちづくりを考えることが大切だと考えます。
 そのための最大のキーポイントが「川」であります。市域を分断する川を、市民生活を豊かにするための空間として十二分に活用することが必要であります。それを「新しい岡崎」への第一歩として、次の段階へ進んでゆくべきと考えます。
 こうした私の提案は、あくまで一つの基本プランにすぎません。これから岡崎活性化本部の専門家の皆さんも含め、多くの方々のアイデアを結集させて、より良い実施プランへ高めて参りたいと思っております。どうぞ積極的に御意見や計画案をお寄せ頂くことをお願い申し上げます。

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2013年3月13日 (水)

城北中学・ロボコン・全国制覇!

岡崎市立城北中学校の生徒たち

 2月早々、嬉しいニュースが飛び込んで来た。1月末に東京で行われた「全国中学生創造ものづくり教育フェア・アイデアロボットコンテスト」(全国ロボコン)において、我が母校城北中学の後輩たちが優勝、3位、5位、さらにプレゼン賞まで獲得する快挙を成し遂げたのである。
 その彼らが2月7日、わざわざ私を訪ねて市役所まで凱旋報告に来てくれた。

 私は高校生のロボコンの大会を、よくNHKの深夜番組で見ることがあるが、正直言って中学生にもロボコンがあることを今回まで知らなかった。
 彼らは校内の予選で選抜され、県大会で3台がベスト4入りし、東海北陸大会では1位、2位、3位を城北中が独占した。そして全国大会では32台中、城北Bが優勝、城北Kが3位、城北Aが5位となった。城北Aはプレゼン賞も受賞したそうである。私もかつて、第1回の城北科学賞の受賞者の一人であるが、彼らの方が何百倍もすごい成果である。
 城北中学校では技術家庭科の授業で、ひとり一台ずつロボットづくりを学んでいるそうだ。そうした全体的な底上げの競争がこうした大きな成果となって実ったのではないかと思っている。

 言うまでもなく、この愛知県はモノづくりの県である。このところ日本の製造業は、世界経済の不安定な動向の中で苦しんでいるが、世界の主要な工業製品の中で、自動車でも飛行機でも家電においても、日本の技術力なしに成立しているものはほとんどないと言える。
 将来、こうしたモノづくりの分野の日本の屋台骨を担う人材が城北中教育の取り組みの中から生まれてくることを強く期待するものである。またほかの学校も城北に負けずにチャレンジして欲しいものである。そうした相互の切磋琢磨が次の世代をより高い次元に導いてくれることになると思う。

 会見の最後に私は、「よその学校は、ビッグクロスだとかバルジ3号とか白虎というように強そうなチーム名を付けているのに、なぜ君たちは城北A、城北B、城北Kという地味な名前を付けたの? そして、どうして城北Cでなくて、Kなの?」という馬鹿な質問をしてしまった。
 答えは、ご存じ、AKB であった。
 またしても私は、年齢の壁を超えることができなかったのである。

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2013年1月10日 (木)

城北中学校 第50回文化祭

岡崎市立城北中学校 第50回文化祭

 11月4日(日)。
 城北中学校で第50回の文化祭が開かれました。その開会式で以下のようにご挨拶を述べました。

「城北中学校第6回生の内田康宏です。今日は市長就任後初めての母校の行事ですので、ぜひ顔を出さなくてはと思って参上した訳ですが、花束まで頂いてかえって恐縮いたしております。まずは創立50周年の文化祭の御盛会をお祝い申し上げます。
 私が本校に学んだのは、もう45年も前のことですが、当時、理科クラブの一員として体育館の一角で『真空状態での物体の落下実験』をやったことを今も覚えております。今日は日頃の皆さんの勉学の成果を発表する場であると共に、心に残る思い出ができる日でもあると思います。
 本日がそうした素晴らしい一日となることをお祈り申し上げます。最後にお世話を頂いた先生方、PTAの皆様に感謝を申し上げてご挨拶とします」

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2012年9月24日 (月)

平成24年 県立岡崎北高校同窓会

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 私の母校である県立岡崎北高校の同窓会が、9月23日(日)、竜美丘会館大ホールにて行われました。

 気分はまだ若いときのままのつもりなんですが、ふと見た鏡の中にある自分は、間違いなくそれなりの年齢を重ねています。
 そんなことを思う今日この頃ですが、同窓会に出席すると、現役の高校生が自分の子供より年下であることを発見してまた愕然とします。同時に、久しぶりに会う同級生の顔を見ればたちまち高校生時代の自分に戻ります。そこが同窓会のいいところではないでしょうか。

 合唱部の歌と吹奏楽部の演奏を聴きながら自分の青春時代のことを思い出しました。カーペンターズ・メロディーの中の「クロース・トゥ・ユー」は、ちょうど高校三年生のときに流行っていた曲。カレン・カーペンターの清冷な歌声と姿が今も脳裏に甦ります。昭和45年。万博の年でした。

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  ダニエル・ビダルが歌っていた「オー・シャンゼリゼ」を聴いたときには、大学の法律学科にいたある友人のことを思い出しました。

 ふだんは理屈っぽくて、理知的で、感情的な動揺というのがほとんどない男であったが、どういうわけだかフランスの女性歌手、ダニエル・ビダルの熱狂的なファンであった。「最近学校で見ないな」と思っていたら、実は来日中のダニエル・ビダルを追っかけて大阪まで出かけていたということもあった。
 あるときテレビで彼女のコンサートを見ていたら、舞台上まで花束をもって駆け上がる男がいた。それが彼であった。
 弁護士志望の友人であったが、広島出身の彼がその後司法試験に受かったかどうかは定かではない。
 当時それを見たときに女のおそろしさと男のかなしさを思った。

 その後、先輩や同級生のテーブルを回ってご挨拶をして中座いたしました。最後までいることができず申し訳ありませんでした。

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