
テレルジ国立公園
巨大チンギス・ハーン像の見学を終えた我々は、ウランバートルの東北東に位置するテレルジという国立公園に向かった。なだらかな山に囲まれ、美しく広がる緑の景観の中にゆるやかに川が流れている。今、新たなリゾート地として、モンゴル人ばかりでなく外国人旅行者も対象に開発を進めている場所である(チン・チャンドマン・キャンプ)。
ウランバートルから日帰りもできるが、宿泊施設も充実している。伝統的なゲルの形の宿泊施設だけでなく、外資による様々なリゾート・ホテルやマンションの建築が各所で続けられている。これからのモンゴルは、天然資源と畜産製品だけでなく、観光事業に重点を置いていることがよく分かる。




2日目はゲル型の施設に泊まることになった。ゲルと言っても、遊牧民の宿泊する小型のものではなく、直径10mほどある。一つで5人は泊まれる大きさがあり、天井も5mほどの高さで、水洗トイレとシャワー・ルームに洗面台まで付いている。
このレベルのものならば、岡崎の中山間地再開発計画に使えそうな気がする。通常の建物を建てていたら費用がかかりすぎるし、何の目新しさも感じられない。ゲル型の施設はグランピング(ハイクラスのキャンプ)愛好家達のニーズにも合致するように思われた。


30~40人収容できる大型のゲルを使用してレストランも営業されており、このシステムは参考にしたいものである。
モンゴルの馬
レストランで遅い昼食をとった我々は、少し休憩をとってから乗馬に出かけた。
言葉には気をつけた方がいい。昨年、アーチェリー・チームの歓迎会の席でウッカリ「若い頃に馬に乗っていた」と言ったことを覚えていた人がいて、隣接の牧場に馬が用意されていた。


若い頃と言っても40年も前のことであり、当時は今より20キロは軽く、スマートな体型であった時のことである。
「あなたには落馬されては困るので、おとなしい馬を用意しました」
と言われて出かけることとなった。確かに飛んだり跳ねたりする馬では困るが、草ばかり食べていて一向に歩き出してくれない馬も考えものであり、苦笑させられた。
モンゴルでは男のたしなみとして、乗馬とモンゴル相撲、そしてかつては弓の三つが必須とされていた。考えてみればこの三つを基にユーラシア大陸を制覇した歴史があるのだ。東は朝鮮半島から中国全土、西は中部ヨーロッパ、北はシベリアからロシアまで、南は北インドまでその支配下に入れていたのである。
そうしたモンゴル支配の歴史を持つロシアとしては、そのトラウマは大きく、その反動としてその後様々な形でモンゴルに圧力をかけた。長らく弓の使用を禁じられたことがモンゴル国のアーチェリーの技量低下につながったのかもしれない。
タタールのくびき
歴史上〝タタールのくびき〟と呼ばれるユーラシア大陸におけるモンゴル人の支配は、人種や文化、国の成り立ちにまで様々な影響をもたらしている。私も改めて調べて驚いたのであるが、後世「ボヤール」と呼ばれるロシアの大貴族の中には祖先をモンゴル人やタタール人にさかのぼる家系も多いという。実際、家名にモンゴルやタタールの名前に由来するものも確認される。

17世紀のロシア貴族に関する調査ではロシア大貴族の15%以上が東洋系に由来する血筋であったという。その他、ロシア正教会の聖職者の中にもキリスト教に改宗したモンゴル・タタール系の人物が多数あるそうである。北欧のフィンランドは白人国家と思われているが、現在でもフィンランド人の中にはモンゴル系の証しである蒙古斑が出現する人があるという。
ちなみに蒙古斑は、モンゴル人、日本人にはあるが、中国人や朝鮮人にはないそうである。そのせいか認知度も一般的でないため、アメリカなどで子供を病院に連れて行った際に児童虐待と間違えられて親が逮捕されたこともある。
昔、私がニューヨーク大学に通っていた頃、アルメニア(西アジア)から来ていた友人がいた。ある時彼から「モンゴル帝国がアルメニア王国を攻めてきた時、我々の先祖の首を集めてピラミッド状の山を作った」という話を聞かされた。その語り口が面白かったため声を上げて笑ったところ、「ヤス、これはジョークではないんだ、本当の話なんだ」とたしなめられた。

この手の話は時代を経ることに誇大に表現されて伝わるものである。当時を伝える資料の絶対量が少なく、残されている文献の中にも今日言われるほどの破壊と虐殺の記述は残っていない。確かにモンゴル軍が攻城戦を行う際には降伏勧告の使者を送り、降伏開城をすれば、略奪はされても命までは奪われることはなく、町の自治権も保てたという。
しかし抵抗し、戦いに敗れた場合、「男は皆殺し、女子供は奴隷」とされたそうである。この点についてはかつてのローマ軍も同様の対応であったはずである。また、支配下に下った場合は、人頭税と共に10%の物品税が課せられたと言われる。各支配地域においては人口調査と徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、司法制度の確立、治安体制の維持などが行われていたという。
とはいえ、もともとが遊牧の民であり、定住して汗国(キプチャク、チャガタイ、オゴタイ、イル)を統治することには向いていなかったらしく、いつしかシステム崩壊を起こし四散していったものと思われる。これがモンゴル人が大陸に広く分布することになった理由でもあろう。
その後時代は移り変わるものの、短期間にユーラシア大陸を席捲し膨張したモンゴル騎馬軍団の鮮烈な記憶は、時代を超えて各地に伝えられているようである。
もう一つ意外だったことはモンゴルの馬が思っていたよりも小ぶりであったことである。観光客用に小ぶりな馬が用意されていたかもしれないが、歴代の中国皇帝が欲しがったという駿足の汗血馬(かんけつば)のイメージと異なっていたので驚いた。

確認をすることを忘れてしまったが、世界征服の頃もこの程度の大きさだったのだろうか? 一般に肉食のせいかモンゴル人はアジア人にしては背が高く、体格も立派である。いくら複数の馬を乗り替えて戦いに臨んだとしても、戦場でこんな馬ではもたなかったのではないかと思う。もっとも日本も戦国時代には実際にこの程度の大きさの馬を使用していたらしい。結局どんな馬でも乗り手次第ということなのであろうか? 久しぶりに乗馬をやって、そんなことを考えた。 (つづく)
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