映画

2017年1月31日 (火)

藤岡弘、さん、今春本多忠勝役に!

藤岡弘、さん

 昨年、NHKの大河ドラマ『真田丸』で本多平八郎忠勝役を演じ存在感を示していた藤岡弘、さんが、今春の岡崎桜まつりの「家康行列」において本多忠勝役で再び登場することとなった。
 出演交渉は、昨年の夏頃から東宝の事務所を通して行ってきた。そして昨秋行った仮契約により正式に出演して頂けることと相成った。
 昨春の〝里見浩太朗・家康公〟による盛況ぶりを見ても明らかな通り、大物スターの登場は家康行列の魅力と集客力アップにもつながり、沿道の商店街からも「朝から来客が増えた」と好評だったことから、この度の藤岡さんへの出演交渉を行うことになったのである。ただ、今回は10月に選挙があったため、私が直接御挨拶にうかがうのが12月となってしまった。

家康行列(2014年4月6日)

 国交省への来年度予算要望に出かけた12月12日(月)の午後、電車を乗り継いで世田谷区に到着。駅から東宝の担当者の車で藤岡さんの事務所へと向かった。
 さすがにスターの個人事務所らしく、鉄筋コンクリートのがっしりとした建物であった。事務所の前には撮影機材を満載したと思われる大型車両が停められていた。なんとこの細い道路を通ってここに駐車させるのは、藤岡さん御本人だそうである。ちなみに藤岡さんは大型、大型特殊はじめ、ほとんどの車両の免許を持ってみえるそうだ。
 2階にあるガラス張りの応接室に向かった。階段をのぼる途中、テラスに本物かと見まがうような陶器製のトラの置物が我々の方を向いて座っており、ドキリとさせられた。
 応接間のテーブル上には、本多忠勝に関する資料や藤岡さんの雑誌インタヴューに答えたコピーなどがていねいに並べて置かれており、藤岡さんのこの役に対する思い入れと、来客に対する細やかな心配りが感じられるようであった。窓際には初代仮面ライダーの当時のポスターや貴重なフィギュアなどが並べられており、きっとマニアにはたまらないお宝であろう。
 そう言えば今回の話を本多家の御当主・本多大將(ひろゆき)さんに伝えたところ、初代仮面ライダー世代でもある大將さんは「ともかく理屈を超えてうれしい」とコメントされていた。

 ほどなくして入室してみえた藤岡弘、さんは肩書きに武道家とある通り、1メートル80センチを超える体軀(たいく)に筋肉のヨロイをまとっているような方であった。そうした見かけに反して、声はソフトでラジオの朗読番組に合いそうな、やさしい語り口であった。
 今回の本多忠勝役については一番敬愛する戦国武将であり、NHKの大河ドラマに忠勝役の出演依頼があった時は運命的なものを感じたそうである。私達にはこれまでも主役を歴任されてきたイメージが強いのであるが、御本人は「役者人生で初めて本当にやりたい役が回ってきた」と熱く語られた。
 藤岡さんの武士道と日本文化・伝統に対する思い入れは深く、俳優業の傍ら、武士道と日本文化の伝道師として世界中を回って活躍されていることはつとに有名である。私もこれまで70数ヶ国を訪れているが、藤岡さんの100ヶ国近くにはとても及ばない。

 職業軍人であると同時に武道家でもあり、戦後は警察官として指導的立場にあった父君喜一氏から「文武両道に通じる規律ある生活と古武術に始まり、柔道、剣術など各種武道を厳しく指導を受けたこと」が今日のベースになっているということであった。
 父君は戦時中に受けた弾の跡やキズ跡があり、そのせいか長生きはされなかったとのことである。そのため戦友でもあった小野田寛郎少尉が戦後29年経って(昭和49年)フィリピンのルパング島で発見され、帰国した折には、息子である藤岡弘、さんと出会う機会があり、小野田さんとはその後も親交が続き、父君の語られなかった戦時秘話を聞くことができたという。その後小野田さんがブラジルへ移住し、牧場を始められ、ブラジル軍に関わりを持たれていた頃にも藤岡さんは南米まで出かけられたそうである。小野田さんが亡くなられる前にもう一度会うという約束が果たせなかったことが心残りであると語られた。

藤岡弘、さん

 藤岡さんは東宝映画『大空のサムライ』(昭和51年)にも主演されている。原作者であり物語の主人公でもある零戦の撃墜王・坂井三郎氏とも面識があり、多くのお話を直接聞かれているそうである。藤岡さんはこの映画の後に小型飛行機操縦の免許もとっている。小型船舶の免許もあるそうであるから、陸・海・空すべての映画に対応できる。無線の資格もあるそうで、これで爆発物取扱の資格があればアメリカ海軍のネイビー・シールズの隊員も務まりそうである。

 それから時代劇の話でも盛り上がった。友人から「映画オタク」と呼ばれる私であるが、『椿三十郎』における三船敏郎と仲代達矢の終盤の決闘シーンについてつい熱く語ってしまった。
 瞬時に決まる三船さんの居合い抜きの場面をスローモーションで観てもよく分からず、後に何かの本で読んで「右手で抜いた刀の背を左手のヒジで押し切りするように高速回転させる」ということを知ったとお話したところ、さすが刀道教士七段、抜刀四段に加え、居合道も極めてみえる藤岡さんは、すでに御自身も試みておられ、「あれって本当に出来るんですよ。私もやってみました」と軽く答えられ、またもや驚かされた。
 よく手入れされている日本刀の刀身は台所の包丁とは違い、うっかり刀の部分を握りでもすれば手の平が切れるほど鋭利である。私達がマネでもしようとすれば、自分の手足を切るのが関の山である。武芸百般に通じた現代のサムライ・藤岡弘、さんにおいてこそ成し得る技であることを明記しておく。

藤岡弘、さん

 話がはずみ、1階の奥にあるお茶室にも案内して頂いた。室内には藤岡さん自らデザインされた鎧兜をはじめとし、何領もの甲冑(かっちゅう)が並んでいた。囲炉裏の周りに腰を下ろした我々は、藤岡さん手ずから入れられたお茶を頂き、足元に置いてあった仕込みヅエ(レプリカ)も見せてもらうことができた。
 これらの凝り具合に私は同じ傾向の趣味の臭いを感じ、個人的にも藤岡弘、さんを好きになりそうである。
 別れ際に「また、ぜひ遊びに来て下さい」と言われたことを女房に話すと、「バカじゃない、社交辞令に決まってるじゃない!」と一笑に付されてしまった。
 しかし帰りに外まで出て、私達の車が角を曲がるまで見送って下さった藤岡さんの誠実な姿からは真実しか感じられないと、私は勝手に思っている。

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2016年9月13日 (火)

シン・ゴジラに見る危機管理

GODZILLA

 「秋に選挙を控えて何が映画だ!」とお叱りを受けそうだが、正月に次男と約束したことでもあり、8月16日の夜、最終のレイトショー(9:30PM、1000円です)を利用して、話題の『シン・ゴジラ』を観てきた。
 新作のゴジラは長らく続いていた、ゴジラが他の怪獣と戦うという子供向きのものではなく、第一作のゴジラの内容を現代に焼き直したような、文明批判を含んだものでもあった。

 はじまりは、得体の知れない怪現象の原因となる物体として描かれており、生物というよりその存在の無機質性(ロボット的)なところが目についた。幼体のゴジラは目がぬいぐるみの目のようであり、コッケイであった。東京湾で続発する原因不明の事故、海底トンネルの浸水、船の沈没などに対する政府の危機管理対策からストーリーは始まる。
 今回の映画の特徴はリアリズムに基礎を置いた点にある。現実の日本の行政機構と法体系の中で、何ができて何ができないかという問題が次々にあぶり出される。国防・防災の要諦は「想定外の現実に対して、いかに迅速、かつ適確に対応できるか」ということに尽きると思う。想定されていることには準備ができ、対応もできる。防災、防衛問題のシミュレーションとして参考になった。
 2001年の9・11の折、ブッシュ大統領は小学校の視察中であった。大統領は教室でハイジャック機のWTC(世界貿易センター)ビル突入の報を受けるが、茫然自失となり20分近く思考停止状態の様に見えた(マイケル・ムーア監督の『華氏911』で映像が確認できる)。他人のことを批判するのは簡単であるが、何か予想外のことが起きた時の咄嗟の判断、行動は訓練していない限り容易なことではない。

 映画の中では、動く原子力発電所とも言えるゴジラの活動に対して為すすべが無い。実際に自衛隊に配備され、装備されている兵器・武器によって対処するのであるが、無力であることが実証される。判断の誤りから、初期の段階において主要閣僚の乗ったヘリコプターが墜落してしまい、指揮系統の混乱を招くこととなる。今年の8月、防衛大臣に女性が就任したが、映画も現実と同じく女性であることも面白い。
 優柔不断な臨時内閣に対し、米露中などの大国から、ゴジラ問題を日本国内にとどめるために核兵器を使用するよう圧力がかかる。東京に核攻撃を行うに当たり、「米国はたとえ場所がニューヨークやワシントンであっても同じ判断をするだろう」という台詞はいかにもアメリカらしいと思った。危機管理能力を問われる臨時総理(演じるのは、今年岡崎市の市民栄誉賞を受賞された平泉成さん)の迷い、事後処理と外国からの復興支援までを考える為政者の思惑など、様々な現実的政治の要素をちりばめながら物語は進んでゆく。
 科学者の分析により、ゴジラは深海に不法投棄された核廃棄物に汚染されたものを吸収して、進化したモノであるらしいことが分かってくる。より巨大化し破壊活動を続けるゴジラに対し、最新兵器の数々も歯が立たない。まるで温度の上がった海水の影響と他の低気圧を吸収することにより巨大化する昨今の台風やハリケーンのようでもある。
 最後になってゴジラ対策の秘策を知る科学者が出現するのが映画らしいところと言える。途中までの不作為とは対照的に、終盤のゴジラ対策だけがスピーディーに進んでゆくのも不思議なことであるが、制限時間のある映画ではやむを得ないことだろう。

 防災を担う者はぜひ一見しておくべき映画であると思ったので、部長会の後、防災担当部長に「ヒマな時に一度見るように」と言っておいたところ、さっそく課長と連れ立って観劇に出かけたそうである。そこまでは言っていなかったのに報告レポートが提出されたので、その一部を紹介したい。

シンゴジラを視聴しまして
防災担当部長

考察

① ゴジラを巨大な災害に比喩しての、事実(災害対策基本法第105条に基づく「災害緊急事態の布告」、これに伴う緊急対策本部の設置といった実際の対策)に即した脚本であると感じた。放射能は原発災害、破壊された都市は首都直下型地震を彷彿とさせるものがあった。住民の避難誘導シーンでの「地震時の避難場所では無理だ」という警察官の言葉が印象的であった。

② 初動期における情報収集能力の重要性、想定外の事態に対する対処、また応急時における決断力、臨機応変に対応する能力や人物評価能力の重要性を改めて考えさせられた。

③ シンゴジラの「シン」は「神」、神の雷(いかずち)を表し、現代社会への戒めを象徴しているのではないかと感じた。

 念のため、映画は私費で観に行っている。改めて本市職員のまじめさと優秀さを知ったものである。

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2015年9月29日 (火)

おまけ達の時代

ミーちゃん

 ネコのミーちゃん17歳9ヶ月で亡くなって一ヶ月近くになる。
 これまで多くのお悔やみの言葉を頂き、ありがとうございました。ちゃんとお花と手紙を付けて送り出しました。

 夜中に2~3時間おきに私を起こしてエサをねだるネコをうとましく思ったり、老ネコのエサ代が意外と高くつくこと、その他様々に世話のやけることを面倒に思ったりしたこともあるが、彼女がいなくなってみて、それらのことが自分の生きがいの一つになっていたことに気づかされた。
 人や動物の死に直面する度に思うことであるが、今までそこにいることが当たり前であった者がいなくなると、その空間の空虚さというものが一層きわ立つものである。
 今までミーが好んでたたずんでいた辺りの後ろ壁面に、実物大の写真のコピーを貼って朝夕話しかけている。その姿を見て女房は「バカみたい。それは老人性痴呆症の前触れよ」とか「全く、女々しい」などと言う。「お前が死んだ時には間違っても写真など飾ったりしないから安心してくれ」と言ってやれば、「私より7つも年上のくせに、私より長生きしようなんてアツカマしい」と返ってくる。とは言いながら、犬猫が亡くなった時に、黙っていても供花を用意してくれるのがこの人である。

 こんなことを書きながらネコの写真を見ていると、古いイタリア映画を思い出す。アンソニー・クインの出世作の一つでもある『道』である。フェデリコ・フェリーニ監督による、古めかしい白黒の映像と、ニーノ・ロータの哀愁に満ちた音楽がなつかしく感じられる。

Anthony Quinn, Giulietta Masina

 アンソニー・クイン扮する大道芸人ザンパノは、粗野な乱暴者であり、大道芸の相方として知恵遅れのジェルソミーナという娘を雇って旅から旅の生活を続ける。そしてある時、ジェルソミーナにやさしくする「キ印」と呼ばれる男をケンカの末に殺してしまう。それまで奴隷並みの扱いにも健気に耐えてきたジェルソミーナは泣くばかりで仕事の役に立たなくなり、ザンパノに捨てられることになる。それから時が経ち、ザンパノは旅先の港町でジェルソミーナが4~5年前にすでに亡くなっていたことを知らされる。当たり前のように近くにいた明るい娘を失って、初めてその価値に目覚めたザンパノは孤独の悲しみの中に打ちひしがれるという物語である。ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナのくったくのない子供のような笑いが印象的な映画であった。かつて「あの女はお前に似ている」と嫁さんに言って、猛反撃をくらった思い出の映画でもある。
 淀川長治氏ではないので、本題と関係の無い映画談義はここまでにして本題に戻る。

 そもそもオマケの立場にあったのは後から家族に仲間入りした三匹の捨てネコ、ピーコ(白黒)、プースケ(白茶)、トラオ(キジトラ)のことである。
 これまで、先般亡くなったミー(三毛)、昨年死んだ犬のアル、そして行方不明の猫キック(白黒)の先輩達に気兼ねしながら生きてきたような三匹のネコ達の態度が急にデカくなったような気がするのだ。

内田家の猫 ピー子

内田家の猫 ぷーすけ

内田家の猫 虎男

 私としては、今までどの犬や猫に対してもすべて自分の子供のように接してきたつもりであるが、動物の世界には彼らなりの序列があったようである。
 それまで年長ネコのミーのいる私の部屋に他のネコ達は滅多に入ってこなかったし、侵入でもすればたちまちミーの本気攻撃を受けることになった。そのせいか、いつもミーと一緒にいる私にもあまり近づいてこなかったのである。
 ところがアルとキックに続き、ミーの姿が見えなくなってから彼らの行動が変わってきた。横になっている私に近づいてきて体の上に上がってきたりするのだ。彼ら三匹のネコは、自分達は後から来たアミちゃん(犬)よりも上位であり、「いよいよ我らの時代が来た」と思っているのかもしれない。〝おまけ達の時代〟の到来、いわば世代交替である。
 これまでもそうであったが、飼っていた動物と、その頃の時代というものが妙にリンクして記憶に残っているものであり、今回家の動物達の変化の様子を見るにつけ、また時代が一つ変わったということをつくづく感じている。

 思い出しついでにミーのことをもう一つ書く。昨年亡くなった義母が生前、私が出張中のミーの様子をこんな風に話していた。
「ヤっちゃんが家にいない時、夜ミーちゃんが2階から階段をトコトコ下りてきて、下の部屋を見渡してガッカリしたように戻っていく姿を見ると何だかかわいそうになっちゃうわよ。後でのぞいてみると、あなたのベッドの上で一人(?)で寝ているのよ」とのことであった。(今いるネコ共は気まぐれな奴ばかりで、誰もこんなことをしない。)
 私が家に帰った時に玄関まで迎えてくれるのがアル(犬)とミー(猫)であっただけに、最近一層自分がザンパノになったようなさみしさを感じている。

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2015年6月28日 (日)

人生、これ忍耐?

 先日、某新聞を読んでいたら、40代の男性が「妻のくだらない話が悩みの種」と書いている記事を見つけた。「主語がなく何の話だか分からない。盛り上がりもオチもないマシンガン・トークが延々と10分くらい続く」というのである。思わず「オーッ同志よ!」と叫びたくなってしまった。私がいつも家で思っていることと同じであった。(不幸なことに彼の場合、対面して話を聞かされるそうだ。)
 ことに、仕事で疲れ、ようやく家に帰りつきホッとした時にこれをやられるとたまらない。インディアンの待ち伏せをくらった第七騎兵隊のようなもので、ひとたまりもない。疲労感は倍増、不快指数は300%となる。
 しかもNHKの定時ニュースを見始めたような時に限って話しかけてくる。そのため「人が国際情勢を考えている時に、隣の猫が屁をこいたみたいなくだらない話をしてくるな!」とか言ってモメることになる。いつもあまりのタイミングの良さに、嫌がらせでワザとやってるのかと思うほどである。

Clint Eastwood (The Good, the Bad and the Ugly)

 かつてカリフォルニア州のカーメル市長をやっていたクリント・イーストウッドは、記者から「夫婦生活を円満に長く続けるコツは?」と尋ねられた時、「忍耐の心で、ともかく妻の話をよく聞いてやることです」と答えていた。「さすがはダーティ・ハリー、クールだ」と当時感心したものであった。確かこのセリフを私は結婚式の祝辞の中で使ったこともある。ところがしばらくして、御本人のイーストウッドも離婚したため、「やはり、彼の我慢にも限界があったのか」と思った次第である。
 新聞には、併せて妻対策も掲載されていた。「10分くらいのことなら我慢して聞いてあげて下さい」とか「聞いているフリだけしていればいいのです」とか、「時には怒った方がいい」から「自分が選んだ相手なのだから、あきらめなさい」、はたまた「ダンナの方もつまらないグチ話を繰り返すことが多く、お互い様」といった意見が寄せられ、最後は「くだらない会話でもあるだけマシ。夫婦間で会話の無くなった状態こそ危機的状況を招くことになる」という警句のような言葉で結ばれていた。
 「あんなに情熱的であった二人なのに、〝あれから40年!〟」。どっかで聞いたセリフである。

 近年、60代の再婚が急増しているという。60代で再婚と言うことはこの長寿時代、死別より離婚の挙げ句というケースが多いのであろう。60面(づら)下げて再婚なんて、さらにめんどうくさそうである。そうならないためには「ただ忍耐あるのみか」と思うこの頃である。

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2015年6月17日 (水)

徳川家康公顕彰四百年記念座談会

徳川家康公顕彰四百年記念座談会(2015年4月4日)

 本年は徳川家康公顕彰四百年を記念して、静岡市、浜松市と共に、この岡崎市においても様々な事業を展開している。
 この4月、徳川家第18代徳川恒孝(つねなり)様はじめ、四天王の各宗家、ゆかりの各藩当主の皆様が家康行列参加のため勢揃いされた。またとない機会であり、ぜひ何か記録として残したいと考え、4月4日(土)、座談会を持つこととなった。
 いずれにせよ、遠路はるばる、それぞれの皆様が古(いにしえ)の縁(えにし)によって家康公の生誕の地・岡崎市へお越し頂いたことは、誠に感謝に堪えない。心から「おかえりなさい」という言葉と共にお迎えしたいものである。
 会場となった八丁魚光の御主人も、古書をめくり、歴史をしのばせる三河になじみのある料理に工夫を凝らしてくれた。戦国時代の兵糧(ひょうろう)でもあった焼きミソと干飯(ほしい)を湯がいたものが最初に運ばれて来た時には、一種の感動のような気持ちがわいてきた。
 私も「どうぞ食事をしながらざっくばらんにご歓談頂き、皆様の御先祖が四百年以上前にこの地で団結し、世界史上にも類のない260年に及ぶ平和国家を築かれたことに思いを馳せながら、楽しいひとときをお過ごし下さい」などと御挨拶申し上げたものの、考えてみれば世が世なら拝謁すらかなわないお殿様方ばかりである。頂いた名刺を並べてみれば、歴史の重みのようなものを強く感じるのであった。
 どんな口切りで座談会が始められるものかと思っていたが、郷土の歴史家である市橋章男先生がコーディネーターとして手際良くリードして下さりホッとした。

 当日お越し頂いた宗家、当主の方は以下の8名の皆様である。

徳川御宗家第十八代当主 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主
 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主夫人 徳川幸子 様
徳川御宗家第十八代当主
 夫人 徳川幸子 様
四天王 榊原家第十七代 榊原政信 様
四天王 榊原家第十七代
 榊原政信 様
四天王 本多家第二十二代 本多大將 様
四天王 本多家第二十二代
 本多大將 様
四天王 酒井家第十八代 酒井忠久 様
四天王 酒井家第十八代
 酒井忠久 様
四天王 井伊家第十八代 井伊直岳 様
四天王 井伊家第十八代
 井伊直岳 様
旧西大平藩 大岡家第十五代 大岡秀朗 様
旧西大平藩 大岡家第十五代
 大岡秀朗 様
旧奥殿藩 大給家第十四代 大給乘龍 様
旧奥殿藩 大給家第十四代
 大給乘龍 様

 そして地元からは郷土史家でもあるおかざき塾代表の深田正義様、岡崎商工会議所会頭の古澤武雄様、それに私と司会の市橋先生の総勢12名による座談会とあいなったのである。

 まず始めに徳川様より時計回りに自己紹介を兼ねて御先祖と岡崎の関係、徳川家とのエピソードをお話して頂くことになった。
 徳川恒孝さんは、毎年様々な事業で本市がお世話になっており、徳川記念財団の理事長として、あるいは静岡商工会議所最高顧問として高名であられるが、奥様については御存じない方が多いことと思われる。
 徳川家18代当主御令室徳川幸子(さちこ)さんは、今でこそ徳川姓であるが元は細川家(熊本)に縁の深い寺島伯爵家の出自である。いかにもお姫様という風情をお持ちの方であり、元スチュワーデスとのことであった。
 また一つ面白い話を加えると、徳川恒孝さんが学習院初等科に通ってみえた頃、クラスメートに松平姓を名乗る方が2人、徳川姓の同級生が2人いたそうである。ところが一番仲の良かった友人は隣の席の毛利君であったという。かつては関ヶ原の合戦で雌雄を決した間柄の者同士が、席を同じくしてなごやかに語り合っているというのも四百年の月日の経過のなせるワザであろう。

 榊原政信さんは現在東京在住であり、会社を経営しておられ、榊原家17代目の当主である。先祖の領地替えが度重なったため全国各地に御縁のあるお寺が36ヶ寺もあり、そのおつきあいが大変であるということであった。現在は半分ほどのお墓を各県や市の文化財として委託してみえる。初代当主の榊原康政公は、在・岡崎時代は今の康生通東一丁目あたりにお住まいであった。江戸期の古地図によれば、現在のみどりや、さくらや、宝金堂、そして私の家の敷地のあたりまでが榊原家のお屋敷であったことが近年判明している。今回私も、かつての地主さんと記念写真を撮らせて頂いた次第である。

 「家康に過ぎたるモノ二つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と讃えられた本多忠勝の子孫にして、本多家第22代となる本多大將(ひろゆき)さんは、旧岡崎藩の最後の当主の末裔でもある。現在岡崎で行われている家康行列は、かつての藩士達が「徳川の伝統と本多家の恩を忘れないように」と、大正初期に行った武者行列を始まりとしている。本多大將さんは昭和45年のお生まれで、今回の参加者の中では一番お若く(44歳)、最後の岡崎藩主の子孫として今後ともよろしく御協力願いたいものである。

武者行列(岡崎市)

武者行列(岡崎市)

 酒井家第18代の酒井忠久さんは、現在山形県鶴岡市にお住まいであり、代々その地でお住まいとのことであった。任地が度々替わられたり、東京にいて大震災や戦災に見舞われたりした方々は、せっかくの先祖伝来の宝物や書類を消失されているケースが多いという。酒井家の場合、領地を移ることが少なかったため比較的そうした貴重な古文書等が多く残されているそうである。
 「いざ戦さ」となった時のために、御先祖様が自藩の城ばかりでなく、全国各地にある(あった)様々なお城の見取り図や絵図のようなものを多く収集されており、現在も忠久さんが代表理事をされている致道博物館に収蔵されているそうである。(岡崎城のものがあればありがたいのであるが・・・。)

 井伊家第18代の井伊直岳(なおたけ)さんは京都大学大学院を修了された博士であり、『新修彦根市史』編纂のお仕事にも関わっておみえになる。昭和時代には御先祖が9期連続して彦根市長職を務められたそうである。
 井伊家は滅亡した武田家の遺臣を配下に加えて以来、井伊の〝赤備え〟として武勇をうたわれてきた家柄でもある。井伊家は幕末の井伊大老の一件(桜田門外の変)でも有名であるが、私は個人的には50年程前に製作された小林正樹監督の松竹映画『切腹』を思い出してしまう。
 徳川幕府の治世が始まってからしばらく、江戸に流れついた旧西軍方の浪人が大名の邸宅を訪れ「生き恥をさらすことなく、庭先で切腹させてほしい」と頼み込むことがよくあったという話が映画の冒頭で紹介される(ストーリーは創作である)。
 しかしその本心は、自宅を血で汚されることを嫌う大名から追い銭をもらって退散すること、あるいは仕官のチャンスを狙うことにあった。ある時、そうした気風を嫌う井伊家の家老(三國連太郎)が、子供の医者代の工面のために狂言切腹をしようとした若い侍に対し切腹を断行してしまう。竹光(たけみつ)で詰め腹を切らせる仕打ちに怒った、若侍の育ての親(仲代達矢)は同様の仕立てで井伊家の屋敷に臨み、切り死にをする。
 昭和38年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した作品でもあり、私の好きな日本映画でもある。近頃リメークされた海老蔵主演の映画は華麗な仕上げではあるが、どうもウソっぽくて頂けない。そう言えば、時代劇を製作しなくなった晩年の黒澤明監督は、問われて「サムライの顔をした日本人がいなくなったから」と答えていた。

 大岡秀朗(ひであき)さんは、御存じ名奉行大岡越前公の第15代であり、現在メルセデス・ベンツ日本の常務取締役をしてみえる。1年に何度もドイツを訪れる多忙な方であるが、毎年本市の大平町で行われる西大平藩・大岡稲荷大祭には欠かさず御出席を頂いている。ちなみにゆかりのまち茅ヶ崎市で毎春行われる「大岡越前祭」も御先祖のものである。

 旧奥殿藩第14代の大給乘龍(おぎゅう のりたつ)さんは、御先祖の始められた株式会社日赤振興会の社長さんである。なんと私の高校の同級生の一人とかつて仕事仲間であったことが分かり、世の中の意外な狭さを実感したものである。大給家は江戸末期に長野県の臼田(現在の佐久市)に移っている。

 それぞれ十代、二十代と世代を重ねた名家の方々ばかりであるが、江戸幕府が始まってからはおのおの、城持ち大名や旗本として独立しているため徳川直参の家臣とは言えなくなっている。
 また今回私が面白く感じたのは、かつての武門の誉れ高き家系の子孫の方々が学者や文化人の風貌となっている点である。徳川恒孝さんなどはどこかの国立大学の教授のような感すらある。
 長らく岡崎に住み続けている私達も忘れてしまっていることがいくつもある。江戸時代に大名諸侯と呼ばれた人々は279家あったそうであるが、三英傑の出身地であるせいか、その内130家は現在の愛知県の出身者であり、さらにその内60家余りはこの三河岡崎一円の出であったそうである。もっとも、以来何百年もの時の経過があり、今も自らの出自を意識して生きている方がどれほどいるか分からないわけであるが、岡崎の人間としてはそのことをぜひ覚えていてほしいものである。

 私は26年間の県会議員時代、日本全国を訪れる機会に恵まれた。その折に各地において三河と同じ地名や言葉、文化・習慣を見たり聞いたり感じたりしたことが度々あった。考えてみれば決して故無きことではないのかもしれない。このところテレビは維新ものでニギヤカであるが、明治維新とても江戸時代の遺産による産物であると言えないこともないのである。
 日本人の几帳面で集団志向的性格が定まったのも、日本の伝統文化、独自の生活習慣と言われるものが発達・熟成し、定着していったのも、徳川時代の三百年近い平和な時代のことである。諸大名の力をそぐために行われたとされる参勤交代さえ、結果としては江戸の最新文化や風俗を全国に伝播させ、日本の文化水準の向上に寄与したとも言える。
 そして何よりも重要なことは、藩校や寺子屋教育による読み書き、ソロバン等の基礎教育の普及により、当時世界のどこもなし得なかった識字率90数パーセントという質の高い国民が誕生したことである。明治維新があの短期間で大きな改革を成し遂げられたのも、中国や朝鮮と異なり、国民全体で新しい思想や文化技術を学びとる国民国家の形成にいち早く成功したからである。そうした基礎を形づくったのはまぎれもなく、あの江戸時代のパックス・トクガワ(徳川による平和)であったと言える。
 私達はこうした歴史的真実を再認識し、自信と誇りを持ち、もっとそのことを力強くアピールしてゆくべきであると思っている。


上様のおな~り Ⅰ (2013.01.31)

上様のおな~り Ⅱ (2013.03.04)

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2015年5月18日 (月)

茅ヶ崎市2015 その2(ゆかりの人々)

Chigasaki2015050312

 今回はまた、これまでまだ訪れていない「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」を訪問することができた。
 茅ヶ崎市は地理的に東京から近く、保養地としての歴史も古いことから、政財界の著名人、作家、俳優が多く在住したことでも知られる土地である。

 私はかねてより、「名誉市民」とは別の形で市から表彰を行うことができないかと思案していた。〝名誉市民〟というと何かと堅苦しいし、選考基準も面倒くさそうなので、社会の各分野で活躍し、岡崎市の名前を様々な形で広めて下さった方達に対して、もっとフランクにその労をねぎらう表彰はないものかと考えていた。その点、茅ヶ崎市が行っている〝市民栄誉賞〟の設定はなかなか良いアイデアであると思う。岡崎市にもスポーツや芸術、芸能等の分野で様々に御活躍頂いている方は数多くいる。

茅ヶ崎ゆかりの人物館

Chigasaki2015050316

 「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」は国道135号線近くのこんもりとした木立に囲まれた丘陵の上に併設されていた。木造を基調とした人物館とどっしりとした造りの開高館の対比もなかなか面白いと感じながら石段をのぼり、人物館の入口に辿り着いた。現在、市民栄誉賞受賞者8名のうち、次の4名の方の企画展がされている。

Chigasaki201505032

Chigasaki2015050321

 初めは日本人として5人目の宇宙飛行士となった野口聡一氏である。彼は生まれは横浜市であるが、12歳からこの地で育っている。子供時代の思い出話と共に学生時代のノートや写真、そして宇宙服のレプリカ等の展示がある。
 次に女子ソフトボール選手としてアテネ・オリンピックで銅、北京オリンピックで金メダルを獲得した三科真澄選手。
 3番目に日本を代表する女子テニス・プレーヤーの一人、杉山愛さん。写真やラケット、トロフィー等が展示されていた。彼女は横浜市出身で、5歳から茅ヶ崎に在住した。
 最後に女子野球選手の出口彩香さん。彼女のユニフォーム等が解説付きで並べられている。
 木造平屋建ての簡素な建物の中に、郷土出身のガンバル・マン(ウーマン)達をさりげなく紹介して讃える施設はなかなか良いものであると思う。本人はもちろん子供達の励みにもなるだろう。同館には俳優の加山雄三氏や中日ドラゴンズの山本昌選手の展示もあり、そのうちサザン・オールスターズの桑田佳祐氏も加わることだろう。

開高健記念館

開高健記念館

開高健記念館

 中庭にある山荘風・板張りのテラスを通って、森の小径のような通路を抜けると、隣の旧・開高健邸(現・記念館)に出る。開高健は昭和49年に東京から茅ヶ崎市に移り住み、平成元年に亡くなるまでここに暮らしていたという。この記念館は元々開高氏の私邸であり、同氏没後に遺族から茅ヶ崎市に寄贈され、公開されているものである。
 玄関からホールに入ると、開高氏の著作と共に数々の資料が展示されている。我々の世代には開高氏はベトナム戦争の取材(『ベトナム戦記』)とプレイボーイ誌の人生相談で知られている。ホール中央には取材に使用した道具と共に米軍の鉄カブトもある。

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 私は同氏の作品では『オーパ!』シリーズの3冊と他に数冊の随筆集を持っている。残念ながら小説はほとんどまともに読んでいない。しかし、その文体からは私の好きなアーネスト・ヘミングウェイと同質のものを感じている。すなわち、旅(放浪)、戦い、酒、女、釣り(狩り)など、いわゆるマッチョな路線である。
 〝オーパ!〟とは、ブラジルで驚いた時に発する叫び声である。この本はアマゾンやアラスカ、カナダを始め、世界の秘境を旅しながら各地の怪魚、幻魚、珍魚を釣り上げようとする写真付きドキュメンタリー随想である。私のように放浪癖がありながら、なかなか自由に歩き回ることのできない男達にウケたのか、今日まで続くベストセラーとなっている(文庫本もある)。記念館の奥には、釣りの成果の大物の剥製と熊の敷物まであった。今回、旧・開高邸を見て、同氏の作家としての成功を納得したものである。

 先日久しぶりにテレビを観たら、NHKで上原謙・加山雄三親子の年代記をやっていた。やはり私にとって茅ヶ崎と言えば加山雄三である。人生でこれほど影響を受けた人はいないし、私の年代に同様の人間は少なくないと思っている。
 そもそも私は音楽というものにあまり関心が持てなかった。近くの映画館で聴いた洋画のサウンド・トラックは耳に馴染んでいたが、当時の日本で一般的だったのはTV番組で流れるような歌謡曲や演歌、民謡ばかりで、あとはアメリカン・ポップスを和訳してマネて歌っているようものがあるぐらいだった。
 小学校に入学した頃、母親にヤマハ音楽教室なる所へ連れて行かれたことがあった。回りは女の子ばかりであったため「絶対に嫌だ!」と言って一度しか行かなかった(今思えば惜しいことをしたと思っている)。そんな私であったが、ゴジラ映画を観に行くと必ず二本立てでやっていたのが加山雄三の若大将シリーズであった。
 今もはっきり覚えているが、昭和38年『ハワイの若大将』の中で夕暮れのワイキキの浜辺でウクレレを弾きながら英語で歌ったのが「DEDICATED」(加山氏大学3年時の作品)であった。

加山雄三

 それまでの日本の歌と全く違う、スマートで甘いメロディーラインに体に電気が走るような思いがしたものである。この曲は後に「恋は紅いバラ」という名で故岩谷時子氏の作詞でヒットした(60万枚)。映画館を出てすぐにレコード店に出かけてみたものの、その時はまだレコード化もされていなかった。後日、私が初めて買ったレコードとなった。(私は英語の歌の方が好きである。)
 以後、海のスポーツにのめり込み、スキーも始め、へたくそなギターやウクレレも弾き始めた記念すべき瞬間であった。おかげで現在様々なジャンルの音楽を楽しめる素地ができる切っ掛けとなった。加山氏はある意味で人生の恩人の一人であるとも言える。

 誰しも似たような出来事が人生にはあるものであるが、以上の理由から、かつて茅ヶ崎が岡崎とゆかりのまちとなった時、理屈を越えてうれしく思ったものである。

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茅ヶ崎市役所文化生涯学習課の方々にこのたび御案内頂きました。)

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2015年2月25日 (水)

『リバ!』2015年3月号

『リバ!』2015年3月号

おはようございます。内田康宏事務所より、リバーシブル2015年3月号発行のお知らせです。3月号の市長のコラムは先月ブログに掲載した「フューリー(FURY)を観て」。

特集は「わたしがかわいきゃそれでいい」と「いまさら聞けぬ家康公ってどんな人?」です。
このたび編集長の浅井寮子さんから“名前に「康」がつく内田市長”にインタビューがありました。ご一読下さい。

名前に「康」がつく内田市長に聞いてみた

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2015年1月31日 (土)

フューリー(FURY)を観て

 昨年の『永遠のゼロ』に続いて、正月早々、またしても戦争映画を観てしまった。こういうことを書くと戦争映画ばかり観る奴だと思われそうであるが、決してそんなことはないのである。
 切っ掛けはたわいもないことであり、「元日は映画に行こうと思っていても、飲んだくれたり、コタツから出るのが面倒くさくなって結局TVを観ておしまいといった人が多い」と家族親類の前で言った私の一言であった。
 自分が言ったことを証明するために、次男と甥の三人で出かけた映画館のレイトショーはやはりガラ空きであり、我々の貸し切り状態であった。
 『FURY』は昨年から気になっていた映画の一つではあったが、必ずしも主演のブラッド・ピットのファンという訳ではない。ただ最近の彼は渋みと風格が出てきて、かつてのロバート・レッドフォードに近づいているような気がしている。

Brad Pitt as Wardaddy

 物語は第二次大戦末期まで生き延びたアメリカ陸軍の戦車兵達の話である。
 砲身に「フューリー」(激しい怒り)と白く書きなぐったM4・シャーマン中戦車は、北アフリカの砂漠でロンメル将軍の軍団と戦い、ヨーロッパ戦線でも数々の激戦をくぐり抜けてきた強者(つわもの)である。なお車体にフューリーと書かれたシャーマンは実在したという。
 「ウォーダディー」(戦いの父)と呼ばれる、ブラピ演じるベテラン戦車長とくせ者ぞろいの戦車兵の中に、元タイピストだったという若い新兵が補充されて来るところから物語は始まる。「リアリズムに徹すると映画はこうなる」とでも言うように、ただただ、重苦しい空気に包まれた作品であり、男性が女性と二人で観に行くことはおすすめしない。
 大戦末期、本国に深く踏み込まれたドイツ軍と連合軍の狂気の戦いが続く。次々と舞台を移しながら、戦闘と殺戮が淡々と展開されてゆく。登場する兵士達は一様に無表情で病的に描かれている。
 映画は、朝もやの中を白い軍馬に乗ったドイツ軍将校が前線検分に現れるところから始まる。この幻想的な場面も、たちまち砲撃にのみこまれてゆく。新兵とドイツ人娘とのつかの間の出会いも、ドイツ軍の砲撃によってガレキの下に消える。当たり前のようにブルドーザーでかき集められ処分される死体の風景は、戦場における死の意味を象徴しているようでもあった。

 登場する戦車は各博物館から引っ張り出して来た本物の戦車である。それに手を加えて動かしており、マニアにはたまらない魅力である。当時の戦車は砲塔に弾薬が格納されており、そこに有効な直撃弾をくらうと、誘爆を起こして砲塔が吹き飛んだと言われている。それも見事に再現されている(今回もCGが素晴らしい)。
 戦車戦はまるで重量級のボクサーがノーガードで殴り合っているようなスゴみと緊張感があり、車速を利して敵の後方に回り込もうとするのも、足を使うボクサーを連想させる。

 「残された4両の戦車で敵の大部隊の進撃を食い止めろ」という無理な命令に従い、彼らは前進する。途中遭遇したドイツ軍の対戦車砲とタイガー重戦車との対決の結果、たった一車両だけとなる。おまけに、頼みのその最後の戦車は地雷を踏み、十字路のど真ん中で動けなくなってしまう。そこで300人対5人の最後の戦いが始まる。
 舞台は、歴史的に有名な大会戦ではなく、大戦中ヨーロッパのそこかしこで行われていたであろう小規模戦闘をつなげた形で進行する。そのため、より現実味があり、観る者の臨場感が刺激されることとなる。つまりこの映画は『バルジ大作戦』や『パットン大戦車軍団』的なものではなく、『クロス・オブ・アイアン』(邦題「戦争のはらわた」)の系列に属するものである。

 決戦の後、矢尽き、刀折れ、降伏しようとする新兵に対して瀕死のブラッド・ピットが言う。「止めておけ、ひどいことになる」
 この一言が戦争の真実を伝える声として重く耳に響く。
 アメリカ映画によくある、最後にヒーローが登場してハッピーエンドとなるウソっぽさはなく、ただただ無常観が心に残る映画であった。この映画が今年のアカデミー賞にノミネートされなかったことは不思議でならない。ひょっとすると時節柄内容が生々しすぎて受けなかったのかもしれない。いずれにせよ、ここしばらくの新作戦争映画の中では、秀逸なものであったと思っている。
 昨年、陸上自衛隊の「富士総合火力演習」を見たせいもあってか、私には戦車戦の生々しさが妙に強く印象に残っている。かつてこれほどマニアックに戦車戦のありさまを描いた映画は観たことがない。男の人はチャンスがあったらぜひ観て下さい。

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2014年1月27日 (月)

映画『永遠の0』を観て

永遠の0

 1月1日夜、甥や姪たちと共にレイトショーなるものに初めて出かけることとなった。映画館で映画を観るのは実に20年ぶりのことであった。これまではすっかりビデオやDVDで観賞する習慣となっていた。しかし今回だけは、どうしても映画館の大画面で最新鋭のコンピューターグラフィックスの出来映えを味わってみたいという思いが強かったのである。

 結論から言うと、『永遠の0』は期待感が大きかっただけに少々ガッカリしてしまった。途中まではストーリー展開の巧みさや、CGの緻密さ、時代考証をしっかりとらえた飛行機や軍艦の様子に感心して観ていた。ところが後半の四分の一ぐらいから物語の運びが少々雑になり、小説かマンガを読んでいない人には話のつながりが分かりにくかったのではないかと思う。
 また、真珠湾攻撃の成功の後に一人だけ「空母がいなかった」と沈痛な顔をしていたのもウソっぽい。当時、どこを攻撃するかも知らずに何ヶ月にもわたって猛訓練ばかりやってきた下士官・兵の中にそんな奴がいるはずがない。ただただ喜びにはじけていたはずだ。あの時点で空母の心配などしていたのは、山本五十六大将と一部の幕僚ぐらいのはずである。第一アメリカですら、やられてみて初めて空母中心の航空機動部隊の力を思い知ったのである。それまでは仮に攻撃のあることを知っていたとしても、彼らは日本の力などなめていたのだ。
 もう一つ、小説の中で最重要であった、姉の婚約者の新聞記者と大企業の会長となった元・特攻隊員とのやりとりが、友人との合コンの単純な討論にすり替えられていたことは実に残念であった。
 日本の戦後歴史教育と戦争中から今に至るマスコミの欺瞞性を、戦争の当事者との対話によってアブリ出すというところにこの物語の一つのポイントがあったのに、あの描き方では映画の価値を下げてしまっている。映画製作への協力と完成後の宣伝活動に対する配慮があったせいか、お茶を濁した切り口になってしまったのは、やはり営業第一なのかと思わされる。
 それから最終盤。現代の幸福な家族風景の場面と共に、主人公の孫が歩道橋を渡る場面がある。そこに向かって宮部の乗った零戦が幻想的に飛んで来るという、マンガチックであざとい仕掛けがこの映画を台無しにしてしまっていると思う。またその時の孫役の男の演技がオーバーでクサイ。ここで感動を盛り上げようという製作側の企(たくら)みが見え見えで、シラけてしまった。
 あれだけの原作とすぐれたCG技術を駆使しておきながら、どうしてこんなつまらない結びにしたのかと残念でならない。想像による余韻効果を期待して〝突入場面〟で終えたのであろうが、シリ切れトンボの感がある。
 最後の特攻場面は「マジック・ヒューズ」(VT信管)の意味も含め、素人には少々説明不足である。米空母艦上での艦長と兵士のやりとりを削除したのも理解できない。唯一反対側の視点を見せる、締めとして重要な場面だったのだが、あの部分を省略したことで、何となく情緒性にのみ流れてしまったように思う。これではとても外国に持って行ける映画とはならないだろう。

 長大な物語を2時間強の映画にくまなくまとめることは無理なことはよく分かるが、小説が100点とするならば、マンガは96点、映画は78点といったところだと思う。
 配役が良かっただけに本当にもったいないことである。しかしCGの部分を見直すためにDVDは買おうと考えている(再編集のディレクターズ・スペシャルが出ることを期待している)。
 映画と小説は別物と割り切って観れば、それなりに楽しめる映画ではあるが、できればぜひ小説を読んでほしいものである。
 とはいえ、ふだん辛口のコメントの多い下の息子が「日本の映画で初めて感動した」と言っていた。ひょっとすると、この映画はそうした世代向けに作られているのかもしれない。

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2014年1月22日 (水)

インディアナ大学同窓会 in 岡崎

インディアナ大学同窓会(愛知県岡崎市)

 青年期のアメリカ留学は、私の人生で大きな転機となった出来事の一つである。それまでの私は自分の好きなことしかあまり熱心に取り組んでこなかった。高校時代は自省的・内向傾向に陥り、今でいう引きこもりに近い状態であったこともある。
 そんな私が自分から手を挙げて積極的にアピールしていかなくては認められない世界に放り込まれ、生きているうちに自分を変質させ、あるいは本来の自分を取り戻すことができたような気がしている。

 今手元に、戦後まもなくから最近までのインディアナ大学の日本人留学生650人あまりの名簿がある。目を通すと、そこに私の名前があることが恥ずかしいくらい立派な経歴の方々が並んでいる。一流企業の重役、大学の学長・教授になられた方々、研究者、ベンチャー企業の社長、あるいは国際的な音楽家などの各分野の専門家も多く、政治畑にいるのは私くらいのものである。
 毎年6月に東京の富国(ふこく)生命本社の会場をお借りして同窓会が開かれている。同社の小林喬元会長が同窓生であり、その御好意により続けられているものである。私も一、二度出席させて頂いたことがある。毎年講演会やパーティーが行われていることは知っているが、6月は議会のある時期でもあり、私のような職業の地方在住者にはなかなか出席が難しかった。

The Japan Chapter of the Indiana University Alumni Association

 ところが、先年私が市長に当選したことを知った有志の方々が岡崎で同窓会を開いて下さることになった。双方の都合で、11月下旬の日程となったのであるが、なにせ年末に向けてそれぞれ多忙な時期であり、最終的に参加者は8名となった。かく言う私自身、昼食会にしか参加することができなかった。もうすでに35年程前のことになるのに、かつての仲間や先輩方と昔話に花を咲かせる楽しい時を過ごすことができた。

インディアナ大学剣道部

 名古屋に本社のあるキムラユニティー株式会社現社長の木村幸夫氏は、インディアナ大学剣道部の創始者であり、私の前任の日本人会の幹事であった。勉強以外の様々な活動に携わるきっかけを与えて下さった恩人である。剣道だけでなく料理も教えて頂いた。後に私が一人でアメリカ大陸を長距離バス(グレイハウンド)で一周したり、南米のアマゾン探険の旅に出かけたりしたのはこの人の影響でもある。
 アメリカで剣道修業というのもおかしなものだが、ハワイ出身の有段者の日系人や物好きなアメリカ人学生を引き込んで、木村さんの弟の昭二さんと2年間剣道部を引き継いできたものだ。
 現・同窓会会長の服部恭典氏は、時計の服部セイコーの一族の方であり、私はイトコの方と「アイゲマン・ホール」という14階建ての学生寮で生活していた。
 副会長の小幡恭弘氏は現在、東京で公認会計士を営んでみえる。奥様には日本人会でパーティー等を行う時によくお世話になったものである。
 二村幸男さんは現在、名古屋でライフ・メディカル・アセット・デザイン研究所の所長をしてみえる。
 そして浜松からみえた伊藤元美さんは、在米中会社経営の経験もあり、現在は帰国して弟さんの会社の顧問をされているという。皆さんそれぞれ多様な人生航路を送っておられるようだ。

Indiana University

木村昭二さん、内田康宏ほか

 当時私達は、ふだんは広いキャンパス内にバラバラで生活していたが、日本人会でパーティーをやると何十人も集まったものだ。試験明けに公園でバーベキュー大会を開くという情報が伝わると、アメリカ人や外国の留学生まで集まってきて100人を超えることがあった。こうした準備はなかなか大変で、前日の夜、翌日の天気予報と参加人数を確認してから、生鮮食品のバーゲン・タイムを狙ってスーパーに買い出しに出かける(しくじると全部自腹になってしまう)。その後の味付けや調理の準備もけっこう大仕事であったが、今となっては集団マネージメントの良い経験となっている。

Indiana University

Indiana University

 かつて『Breaking Away』(邦題ヤング・ゼネレーション)という映画が全米でヒットしたことがある。その舞台となったのがインディアナ大学ブルーミントン校である。校舎があったのは緑の田園地帯の真ん中にある人口3万人ほどの大学町であった。
 映画は大学生と地元の青年達との恋のさやあてと、インディ500マイルレースを真似た「リトル500」自転車レースの物語である。私達は自転車ではなく、休みになると近くの牧場へ20人くらいで繰り出して、団体割引の交渉をして馬に乗っていた。日本の牧場のように同じ広場をぐるぐる回るのではなく、丘や森の中を小川が流れている広大な敷地を馬で走り回るのは実に爽快な気分だった。近くにはヨットに乗れる湖や安価なゴルフコース(10ドルくらい)もあった。
 そう書くと遊んでばかりいたようであるが、ふだんは試験とレポートと膨大な量の課題図書の読破に追いまくられる毎日であった。(今こんな文章を書いているのも、その時の習練のおかげであると考えている。)

 当時、日本人会の幹事として様々な体験をしたことが自信となり、それが今日までつながっているのだと思う。そんな機会を与えて下さったすべての留学生仲間と両親に今はただ感謝あるのみである。

インディアナ大学

インディアナ大学

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