安倍総理夫妻主催晩餐会(スウェーデン国王王妃をお招きして)
4月25日(水)夕刻、東京の赤坂離宮迎賓館にて行われた安倍総理夫妻主催によるスウェーデン国王・カール16世グスタフ殿下及びシルヴィア王妃をお迎えしての晩餐会に出席させて頂いた。
新年度が始まって忙しい日程であったが、今年も総理の〝桜を見る会〟の御案内を頂きながら御無礼していたため、貴重な機会でもあり万難を排して出席することとした。
以前、安倍総理の父上(晋太郎外相)の秘書をしていた頃、随行秘書として訪れたことはあったが、自らが招待客として迎賓館に赴くことは今回が初めてのことであった。
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった所に、明治42年(1909年)に皇太子の居所として東宮御所(現在は移転)が建てられたものである。建物は、地上二階、地下一階建で、幅125メートル、奥行き89メートル、高さ23.2メートルの広大なものである。
明治の高名な建築家・片山東熊(かたやまとうくま)の総指揮の下に、当時の一流の建築家や美術工芸家が総力を挙げて建築した、日本における唯一のネオバロック様式の西洋風宮殿建築である。
戦後、国に移管され、国立国会図書館、内閣法制局、50年前の東京オリンピック組織委員会などに使用されてきた。その後、外国の賓客を国として接待する施設の必要性が高まり、5年の歳月と108億円の経費をかけて、昭和49年(1974年)に現在の迎賓館・赤坂離宮となった。
開館当時、大学生であった私は、風流人の先輩から期間限定の一般公開があることを知らされて見学の誘いを受けていたのであるが、その頃はそうした素養も建築に対する興味も薄く、断ってしまったのである。そのため、きちんと見るのは今回が初めてのこととなった。
行きに東京駅から乗ったタクシーの運転手さんも、正門から入り、宮殿の入り口に乗り付けたのは初のことであったらしく、到着時に「貴重な経験をさせて頂いてありがとうございました」と感謝されたのはおかしかった。
開館以来、世界各国の国王、大統領、首相など国・公賓の方々がこの迎賓館に宿泊し、歓迎行事を始め、首脳会談、要人との会談、晩餐会の開催など、外交活動の舞台として活用されてきている。1979年、1986年、1993年の先進国首脳会議、2003年、2013年の日本・アセアン特別首脳会議など重要な国際会議の場となっている。平成21年(2009年)には国宝に指定された。
フランスのヴェルサイユ宮殿にも比肩する、このような大理石造りの立派な建物が日本にあることは、国民にとっても一つの誇りである。
荘厳な雰囲気の玄関を抜けて、一階のホールの奥にある待合室に通された。待合室とはいえ、豪華なシャンデリアとギリシャ風の円柱に囲まれた西洋風の大広間である。そこでウェルカム・ドリンクを頂きながら、他の来訪者と挨拶を交わしつつ開会の時を待つのであるが、久しぶりに初対面の女性と英語で話をするのは疲れるものであった。
ほどなく階段を通って二階へと案内されることになった。イタリア製の白い大理石の階段の上に敷かれた朱色のジュータンを踏みながら上階へ上がる折に、左右の壁面の黄土色とベージュの混じった大理石(仏産のルージュ・ド・フランス)や、天井の白と金箔張りの装飾に目を奪われてしまう。
キョロキョロと周りを見渡しながら、ちょっとしたシンデレラ気分(?)のまま、次の「羽衣の間」に通された。ここはフランスのルイ16世様式で造られた部屋であり、館内でも最も大きな部屋の一つであるそうだ。
「羽衣の間」という名は、謡曲の「羽衣」の景趣が曲面画法によって天井一面に描かれていることによる。天井の3基のシャンデリアは、およそ7000個の部品で組み立てられており、高さは約3メートル、重さはそれぞれ約800キロあるという。壁は楽器や楽譜をあしらった石こうの浮き彫りで飾られている。
かつてこの部屋は舞踏会場として設計されたものだそうであるが、現在はレセプションや会議場等に使われている。私達はここで招待グループごとに振り分けられ、隣の本会場の「花鳥の間」に案内されることとなった。
「花鳥の間」の名は、天井に描かれた36枚の絵や、欄間に張られたコブラン織風の綴織、壁面に飾られた30枚の楕円形の七宝焼きに花や鳥が描かれていることに由来している。
周囲の腰壁は茶褐色の木曽産のシオジ材の板張りであり、その壁の中段を飾る七宝は、日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい)が下絵を描き、明治期の天才七宝焼師である涛川惣助(なみかわそうすけ)が焼いたものだという。
部屋の装飾はアンリ2世様式で、天井には、格子状の区画に、フランス人画家が描いた花卉鳥獣の油絵24枚と、金箔地に模様描きした絵12枚が張り込まれている。この部屋のシャンデリアもフランス製で、重量は迎賓館で一番重く、約1,125キロあるという。
「花鳥の間」は主に公式の晩餐会が催され、最大約130名の席が設けられる。これまで首脳会談やG7(1986年)にも使われた会場である。
少し説明が長くなったが、あまり紹介される機会も少ないと思い、少々マニアックに詳しく書かせて頂いた。
当日、日本側は40人、スウェーデン側も40人という同人数であり、それぞれに両国の友好通商に何らかの関係のある方々ばかりであった。
私は、言うまでもなく、岡崎市とウッデバラ市が姉妹都市提携50周年という御縁で招待されることとなったのである。ちなみに、40年前に同国王が来日された折には私の父が招かれており、不思議な御縁ではある。
「花鳥の間」に通され、ほどなくして安倍総理ご夫妻と共に国王ご夫妻も入場され、私達は拍手でお迎えした。開会後の挨拶は総理と国王のお二人だけであった。
安倍総理は、箱根駅伝の創始者であり、明治期の名マラソンランナー・金栗四三(かなくりしそう)氏の逸話を話された。
1912年のストックホルムオリンピックに出場した金栗氏は、当時の世界記録保持者であったものの、船と列車で20日間かけて日本から到着したばかりだったことや、大会当日の高温(摂氏40度)と慣れぬ食事や習慣による不調から、日射病により途中退場した。しかし正式な棄権届けが出ていなかったため、当時現地では「消えた日本人」としてニュースになったそうである。
後に、1967年のストックホルムオリンピック55周年の式典に、スウェーデンのオリンピック委員会から金栗氏に招待状が送られ、75才となっていた金栗氏がスーツ姿のまま競技場を走り、ゴールすると言う粋なセレモニーを行なったという。
安倍総理はそのことを感謝すると共に、金栗氏の記録を「54年8ヶ月5時間32分20秒であった」と紹介して場内に笑いを誘っていた。
その後「スコール」(乾杯)の声と共に、テーブルごとになごやかに会話が続けられた。私はこの手の正式な国レベルのパーティーの作法がよく分からず、同席してみえた駐スウェーデン大使夫人に「40年前に父が国王と握手している写真が、家に飾ってあることを話しに行ってもいいですか?」と尋ねたところ、困った顔をされていた。はっきり答えて頂けなかったが、相手は仮にも国王である。「イナカの飲み会で、隣のオジさんにちょっとあいさつ」という訳には参らぬようであった。
いずれにしても、左右は外国人となるこうしたパーティーに出席するためには、適した話題をいくつか用意して来ないと苦労することになる。私も話題に困って「サシミは大丈夫ですか?」などというベタな話から始まって、昔留学中に先輩から聞いた、アメリカ中西部に初めて日本人が訪れた時、町の人が生魚を食べるという日本人を歓迎して「ナマズを皿にのせて出した」という話までしてしまった。その時、町の人達は生の魚をどうやって食べるか窓の外から見ていたそうである。もちろん、昨今日本に来る外国人、ことに本席に招待されるような方々は、サシミに限らず私よりも日本食通の人が多いようである。
それまで録音と思っていたBGMがすべてオーケストラの生演奏であったことを知ったのは、帰る間際のことであった。
50年前、岡崎市は駐日スウェーデン大使館から、本市と同様に花崗岩の上に築かれている都市・ウッデバラ市を紹介された。これがきっかけで昭和43年(1968年)9月17日に姉妹都市提携が結ばれ、以来、両市の交流は行政視察や相互訪問などを通じて継続されている。
この5月17日、姉妹都市提携50周年を記念して、ウッデバラ市からアルフ・ギルベリ市長を団長とする使節団と合唱団総勢44人が来岡される。また10月には本市から使節団を派遣する予定である。
今後も友情の輪を広げていきたいと考えている。
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