安倍昭恵さん/ミャンマー

2018年5月 8日 (火)

安倍総理夫妻主催晩餐会(スウェーデン国王王妃をお招きして)

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 4月25日(水)夕刻、東京の赤坂離宮迎賓館にて行われた安倍総理夫妻主催によるスウェーデン国王・カール16世グスタフ殿下及びシルヴィア王妃をお迎えしての晩餐会に出席させて頂いた。
 新年度が始まって忙しい日程であったが、今年も総理の〝桜を見る会〟の御案内を頂きながら御無礼していたため、貴重な機会でもあり万難を排して出席することとした。
 以前、安倍総理の父上(晋太郎外相)の秘書をしていた頃、随行秘書として訪れたことはあったが、自らが招待客として迎賓館に赴くことは今回が初めてのことであった。

 迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった所に、明治42年(1909年)に皇太子の居所として東宮御所(現在は移転)が建てられたものである。建物は、地上二階、地下一階建で、幅125メートル、奥行き89メートル、高さ23.2メートルの広大なものである。
 明治の高名な建築家・片山東熊(かたやまとうくま)の総指揮の下に、当時の一流の建築家や美術工芸家が総力を挙げて建築した、日本における唯一のネオバロック様式の西洋風宮殿建築である。

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 戦後、国に移管され、国立国会図書館、内閣法制局、50年前の東京オリンピック組織委員会などに使用されてきた。その後、外国の賓客を国として接待する施設の必要性が高まり、5年の歳月と108億円の経費をかけて、昭和49年(1974年)に現在の迎賓館・赤坂離宮となった。
 開館当時、大学生であった私は、風流人の先輩から期間限定の一般公開があることを知らされて見学の誘いを受けていたのであるが、その頃はそうした素養も建築に対する興味も薄く、断ってしまったのである。そのため、きちんと見るのは今回が初めてのこととなった。
 行きに東京駅から乗ったタクシーの運転手さんも、正門から入り、宮殿の入り口に乗り付けたのは初のことであったらしく、到着時に「貴重な経験をさせて頂いてありがとうございました」と感謝されたのはおかしかった。

 開館以来、世界各国の国王、大統領、首相など国・公賓の方々がこの迎賓館に宿泊し、歓迎行事を始め、首脳会談、要人との会談、晩餐会の開催など、外交活動の舞台として活用されてきている。1979年、1986年、1993年の先進国首脳会議、2003年、2013年の日本・アセアン特別首脳会議など重要な国際会議の場となっている。平成21年(2009年)には国宝に指定された。
 フランスのヴェルサイユ宮殿にも比肩する、このような大理石造りの立派な建物が日本にあることは、国民にとっても一つの誇りである。

 荘厳な雰囲気の玄関を抜けて、一階のホールの奥にある待合室に通された。待合室とはいえ、豪華なシャンデリアとギリシャ風の円柱に囲まれた西洋風の大広間である。そこでウェルカム・ドリンクを頂きながら、他の来訪者と挨拶を交わしつつ開会の時を待つのであるが、久しぶりに初対面の女性と英語で話をするのは疲れるものであった。

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 ほどなく階段を通って二階へと案内されることになった。イタリア製の白い大理石の階段の上に敷かれた朱色のジュータンを踏みながら上階へ上がる折に、左右の壁面の黄土色とベージュの混じった大理石(仏産のルージュ・ド・フランス)や、天井の白と金箔張りの装飾に目を奪われてしまう。
 キョロキョロと周りを見渡しながら、ちょっとしたシンデレラ気分(?)のまま、次の「羽衣の間」に通された。ここはフランスのルイ16世様式で造られた部屋であり、館内でも最も大きな部屋の一つであるそうだ。

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 「羽衣の間」という名は、謡曲の「羽衣」の景趣が曲面画法によって天井一面に描かれていることによる。天井の3基のシャンデリアは、およそ7000個の部品で組み立てられており、高さは約3メートル、重さはそれぞれ約800キロあるという。壁は楽器や楽譜をあしらった石こうの浮き彫りで飾られている。
 かつてこの部屋は舞踏会場として設計されたものだそうであるが、現在はレセプションや会議場等に使われている。私達はここで招待グループごとに振り分けられ、隣の本会場の「花鳥の間」に案内されることとなった。

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 「花鳥の間」の名は、天井に描かれた36枚の絵や、欄間に張られたコブラン織風の綴織、壁面に飾られた30枚の楕円形の七宝焼きに花や鳥が描かれていることに由来している。
 周囲の腰壁は茶褐色の木曽産のシオジ材の板張りであり、その壁の中段を飾る七宝は、日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい)が下絵を描き、明治期の天才七宝焼師である涛川惣助(なみかわそうすけ)が焼いたものだという。

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 部屋の装飾はアンリ2世様式で、天井には、格子状の区画に、フランス人画家が描いた花卉鳥獣の油絵24枚と、金箔地に模様描きした絵12枚が張り込まれている。この部屋のシャンデリアもフランス製で、重量は迎賓館で一番重く、約1,125キロあるという。
 「花鳥の間」は主に公式の晩餐会が催され、最大約130名の席が設けられる。これまで首脳会談やG7(1986年)にも使われた会場である。
 少し説明が長くなったが、あまり紹介される機会も少ないと思い、少々マニアックに詳しく書かせて頂いた。

 当日、日本側は40人、スウェーデン側も40人という同人数であり、それぞれに両国の友好通商に何らかの関係のある方々ばかりであった。
 私は、言うまでもなく、岡崎市とウッデバラ市が姉妹都市提携50周年という御縁で招待されることとなったのである。ちなみに、40年前に同国王が来日された折には私の父が招かれており、不思議な御縁ではある。

 「花鳥の間」に通され、ほどなくして安倍総理ご夫妻と共に国王ご夫妻も入場され、私達は拍手でお迎えした。開会後の挨拶は総理と国王のお二人だけであった。

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スウェーデン国王・カール16世グスタフ殿下

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 安倍総理は、箱根駅伝の創始者であり、明治期の名マラソンランナー・金栗四三(かなくりしそう)氏の逸話を話された。
 1912年のストックホルムオリンピックに出場した金栗氏は、当時の世界記録保持者であったものの、船と列車で20日間かけて日本から到着したばかりだったことや、大会当日の高温(摂氏40度)と慣れぬ食事や習慣による不調から、日射病により途中退場した。しかし正式な棄権届けが出ていなかったため、当時現地では「消えた日本人」としてニュースになったそうである。
 後に、1967年のストックホルムオリンピック55周年の式典に、スウェーデンのオリンピック委員会から金栗氏に招待状が送られ、75才となっていた金栗氏がスーツ姿のまま競技場を走り、ゴールすると言う粋なセレモニーを行なったという。
 安倍総理はそのことを感謝すると共に、金栗氏の記録を「54年8ヶ月5時間32分20秒であった」と紹介して場内に笑いを誘っていた。

 その後「スコール」(乾杯)の声と共に、テーブルごとになごやかに会話が続けられた。私はこの手の正式な国レベルのパーティーの作法がよく分からず、同席してみえた駐スウェーデン大使夫人に「40年前に父が国王と握手している写真が、家に飾ってあることを話しに行ってもいいですか?」と尋ねたところ、困った顔をされていた。はっきり答えて頂けなかったが、相手は仮にも国王である。「イナカの飲み会で、隣のオジさんにちょっとあいさつ」という訳には参らぬようであった。
 いずれにしても、左右は外国人となるこうしたパーティーに出席するためには、適した話題をいくつか用意して来ないと苦労することになる。私も話題に困って「サシミは大丈夫ですか?」などというベタな話から始まって、昔留学中に先輩から聞いた、アメリカ中西部に初めて日本人が訪れた時、町の人が生魚を食べるという日本人を歓迎して「ナマズを皿にのせて出した」という話までしてしまった。その時、町の人達は生の魚をどうやって食べるか窓の外から見ていたそうである。もちろん、昨今日本に来る外国人、ことに本席に招待されるような方々は、サシミに限らず私よりも日本食通の人が多いようである。
 それまで録音と思っていたBGMがすべてオーケストラの生演奏であったことを知ったのは、帰る間際のことであった。


 50年前、岡崎市は駐日スウェーデン大使館から、本市と同様に花崗岩の上に築かれている都市・ウッデバラ市を紹介された。これがきっかけで昭和43年(1968年)9月17日に姉妹都市提携が結ばれ、以来、両市の交流は行政視察や相互訪問などを通じて継続されている。
 この5月17日、姉妹都市提携50周年を記念して、ウッデバラ市からアルフ・ギルベリ市長を団長とする使節団と合唱団総勢44人が来岡される。また10月には本市から使節団を派遣する予定である。
 今後も友情の輪を広げていきたいと考えている。

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2017年4月22日 (土)

春のメイン行事、桜を見る会、桜バッジ

内田康宏、原田範次市議

家康行列
 昨年から続けてきた市制100周年記念事業が3月末で終了し、春のメイン事業「岡崎の桜まつり」が続いて行われた。今年は例年になく桜の開花が遅く、4月の半ば過ぎまで桜の花が残っていた。
 4月9日(日)に行われた家康行列も晴天に恵まれ、藤岡弘、氏が扮する本多忠勝公に三河武士の勇姿を御披露頂き、盛況の内に終えることができ喜んでいる。

藤岡弘、さん

藤岡弘、さん

岡崎城下 舟遊び

朝鮮通信使の隊列

2017観光大使おかざき(白井梨花さん、田村汐里さん)

内閣総理大臣主催「桜を見る会」
 4月15日(土)に東京の新宿御苑で行われた総理主催の「桜を見る会」も、開花の遅れのおかげで文字通りの満開の桜の中で行われた。この「桜を見る会」には昨年も出席しているし、秘書時代、県議時代、そして市長になってからと、これまで5回も出席している。今年は御無礼しようかとも考えたが、かつて秘書として仕えた身でもあり、安倍家に逆風の時こそ出席するべきと思い、前日から上京した次第である。
 ところがそんな私の心配をよそに、今年も日本全国から1万6千人を超える招待客が参集し大変な盛況であった。

桜を見る会(2017年4月15日)

桜を見る会(2017年4月15日)

 受付の午前8時半前に到着するために迂回路を通って出かけたのであるが、すでに会場周辺道路は渋滞しており、少し手前でタクシーを降り歩くこととなった。入口で受付票を渡し、識別のリボンを受け取る。昨年はピンクのフチどりのものであったが、今年は黄色であった。

桜を見る会のリボン

桜を見る会(2017年4月15日)

 会場中央では、9時に登壇した総理を中心に、内閣の顔ぶれが並び、後方のテントの中には政財界の要人や各国の駐日大使の姿も見受けられた。挨拶後、総理をはじめ閣僚の巡回が始まったが、いつもの通りロープで仕切られており、しかも20名ほどの護衛のSP(セキュリティ・ポリス)が周りを囲んでいるためなかなか見つけてもらえない。観衆からも「総理!」「安倍さん!」と掛け声が続き、なかなか話しかけることができなかった。
 そこで思い切って「晋三さん」と声を掛けたところ、私の声に気がついて戻って来て下さり、市長選当選祝いの言葉のあと、「次の選挙(衆院選)は大変だから頼むよ」と言って再び列に帰って行かれた。その時には深く考えていなかったが、数日後、幸田町が14区に編入されるニュースを知った時に「あっ、このことを言っていたのか」と思ったものであった。

 続く昭恵さんにも励ましの言葉が飛んでいたが、何度も会っている私の家内を見つけると、手を握って何か話しておられた。涙ぐんでいる様にも見えた。

桜を見る会(2017年4月15日)

 政治家の家で育った訳でもないお嬢さんが、良かれと思って行動したことを悪用され、連日の様に国会とマスコミに叩かれてさぞかし驚かれたことだろうと思う。新聞にはまだそれなりのコード(規定)というものがあるが、週刊誌の記事となると憶測ネタをさらにふくらまして記事とすることもあり、そうしたことに不慣れな当事者のショックは大きく、さぞかし辛いことだろうと同情するものである。

岡崎の桜バッジ
 岡崎市の市制100周年記念の桜バッジのインパクトは意外に大きく、これまでに各地で注目を集めてきた。今回東京でも、何人かから「そのバッジは何?」と聞かれたものである。7期ベテランの山東昭子参議院議員からもおほめの言葉を頂き、一つ差し上げてきた。
 余談となるが、今回のこの桜バッジは100周年事業担当者のヒット作であり、少々大きくはあったがPR効果という点では抜群であった。
 昨年陳情のために上京した折、衆議院第二議員会館地下の食堂に行った。その時レジの御婦人から桜バッジについて問われ「付けてくれるなら差し上げます」と言って渡したことがあった。その後、愛知県の他市の市長から「岡崎のバッジを国会で見た」という目撃談を何回も聞くこととなった。
 それが切っ掛けで各地のバッジが届けられることとなり、今ではレストランにコルクボードが置かれ、そこに各地のバッジが50~60個並んで飾られているとのことであった。何でそんなことを書くかというと、それらのバッジの先頭を飾っているのが東京のオリンピック・バッジでなく、我が岡崎の100周年記念バッジであるということが何とも小気味良かったからである(以下がその写真である)。

衆議院第二議員会館、岡崎市の桜バッジ

 岡崎市役所では桜の季節の終了と共に、新しい岡崎ルネサンス・バッジに付け替えていますが、それはあくまで役所の都合であり、市民の皆様には引き続き桜バッジを御利用頂けるとありがたく思っております。
 ことに女性の方の中にはアクセサリーとして使って頂いている方もみえ、桜バッジを付けて頂いているだけで、即、岡崎市の宣伝になりますので、大変感謝しております。


藤岡弘、さん、今春本多忠勝役に! (2017.01.31)

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2016年5月12日 (木)

「桜を見る会」と「家康行列」

桜を見る会(2016年4月9日)

家康行列

内閣総理大臣主催「桜を見る会」
 もうすでに一ヶ月前の出来事となってしまったが、春の大きな行事であるので書かせて頂こうと思う。
 昨夏の花火大会に引き続き、安倍昭恵夫人には今年の家康行列の案内状を送らせて頂くつもりでいた。岡崎の春のメイン行事と乙川リバーフロント計画の進み具合を共に御覧頂き、総理にお伝え頂く考えであった。ところが反対に、総理主催の「桜を見る会」の御案内が先にこちらに届き、せっかくの御招待でもあり夫婦共々上京することとなった。新宿御苑で行われる「桜を見る会」に出席するのは県会議長の時(平成19年)以来であり、そう言えば前回御招待頂いたのも安倍総理の時であった。

 4月8日(金)の臨時議会を終えてから、夕刻に上京した。明朝8時半には会場に出向かなくてはならず、当日は初の新宿のホテル泊となった。久しぶりに見る夜の歌舞伎町は、昨今の外国人観光客増加の影響もあって、まるで同じ国内とは思えない街の様子であった。タクシーから降りた街角には黒人のグループがたむろし、ホテルの受付係は韓国人と中国人、お客も日本人は我々くらいしか目につかなかった。翌日表通りで目にしたのは新宿東宝ビルに最近できたという実物大のゴジラの頭と半身であり、不思議な雰囲気をかもし出していた。

ゴジラ

 9日朝は新宿御苑の西口である新宿門の受付を通っての会場入りとなった。岡崎においてはすでに桜は満開の時期を迎えていたが、こちらも新緑の鮮やかさと共に満開の桜が我々を迎えてくれた。限られたスペースに1万6000人もの人々が集うため、会場はロープで仕切られていた。各国大使などの外国人招待客、国会議員、各業界・団体の代表者に加え、芸能人も招待されており実に多彩な顔ぶれの催しであった。

桜を見る会(2016年4月9日)

桜を見る会(2016年4月9日)

 「桜を見る会を久しぶりに満開の桜の下で開くことができ、うれしく思います」という総理の挨拶は、天候を含め自然現象をコントロールできないはがゆさが感じられ、私も同じ心境であった。それから総理が前日面会したという、インドネシア人留学生達が作った桜の歌の一節が挨拶で紹介された。「桜よ咲け、日本の真ん中に、日本よ咲け、世界の真ん中で」というフレーズが印象的であった。やはり外国人にとって桜は日本のイメージなのであろうか?
 岡崎市の市制100周年の記念バッジは桜の形である。少し大きすぎるとは思ったが、先般ある岡崎の方が文部科学大臣に面会された時に、胸のバッジについて「そのバッジのデザインをオリンピックのシンボルマークにすればよかった」と言われたそうであり、うれしく感じたものである。

 「桜を見る会」は園内各所に軽食を楽しむ場所が設けられていたが、安倍総理と昭恵夫人への挨拶を済ませた我々は早々に御無礼することとなった。この日は、翌日に開催される「市制100周年・家康行列」のために、親善都市(石垣市、福山市)・ゆかりのまち(茅ヶ崎市、佐久市、関ケ原町)・観光交流都市(金沢市)の代表の方々と家康公役の里見浩太朗氏が岡崎にお越し頂いており、その歓迎夕食会でお迎えをしなくてはらなかったからである。

岡崎市制100周年・家康行列
 それにしても、こうした他市との御縁というのは本当にありがたいものである。
 昨年5月、ゆかりのまち・茅ヶ崎市の「大岡越前祭」を訪れた折に、夕食会に同席された前川・茅ヶ崎商工会議所副会頭に「100周年の家康行列に時代劇のスターをお願いしたいと思っている」とお話したところ、偶然にもその方は里見浩太朗氏の親しい友人でゴルフ仲間であることが判明した。「よかったら話してあげましょう」と宴席の最中にお電話して頂き、突然私に携帯電話を手渡されることとなった。「また改めて後日、正式に~」という話かと思っていた私は、いきなりの御本人の里見さんとの会話に驚いてしまったが、思い切ってお願いしてみた。里見浩太朗さんは大変紳士的で気さくなお人柄の方であり、それが切っ掛けとなり今回の出演ということになったのである。

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 そのほか、家康行列で心配していたのは天気であった。このところ開催日は天候不順が続いており、昨年は小雨混じりでさえあった。議長とも「天気が買えるものならぜひ買いたいものだ」などと話していたくらいであったが、なんとか久しぶりのお天気となってホッと一安心であった。

 さすが千両役者の里見浩太朗さんの御登場であり、才色兼備の美人女優・菊川怜さんの出演も加わり、すばらしい盛り上がりの家康行列となり感謝感激である。菊川さんも、東大工学部卒の知性派女優ということもあって、この夏の参院選候補として名前が挙がっており直前のキャンセルを心配していたが、快くお引き受け頂けた。

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 当日4月10日は、一日警察署長としての菊川さんの車を先頭に、おなじみの徳川四天王と武者行列、奴(やっこ)列や姫行列、少年少女隊に加え、昨年に続く民団岡崎支部による朝鮮通信使列、昔なつかしのレトロ市電、オールド・カー、100周年PR隊等、多彩な隊列となった。そして何よりも気品と貫禄十分な里見さんの家康公姿は、先日まで舞台で使用していた衣裳とあいまって錦上花を添えるものとなった。46万人を超える、これまでに最高の人出を記録したことはお二人をはじめ多くの皆様方の善意と御協力の賜(たまもの)であり、今改めて感謝御礼申し上げるものである。

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 行列の通る経路は私にとって、広幡、連尺、梅園、三島学区という、まさにワンパク坊主時代からの地元である。沿道には子供時代からの知り合いも多く、「ヤっちゃん!」との掛け声には思わず立ち上がってしまうものであった。「まさかあのヤっちゃんが市長になるとは思わなかったわネ」というかつてのお母さん方からの声が耳に聞こえてきそうでもあった。
 ともかくこのように大きなイベントを事故なく終えることができたのも、当日警備と安全に御尽力頂いた警察、消防、役所関係者、ボランティアの皆さんのおかげであり、沿道の皆様方に重ねて感謝と御礼を申し上げるものである。本当にありがとうございました。

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2015年8月20日 (木)

家康公夏まつり 第67回花火大会

岡崎城下家康公夏まつり 第67回花火大会

 8月1日(土)、いよいよ夏まつりのクライマックスである花火大会を迎えた。
 今年と来年はそれぞれ「家康公四百年祭」と「市制100周年」という大きな冠がのるため、花火師や関係者の皆さんは一層気合いが入っており、見上げる市民や来訪者の期待感も否応なく大きなものとなっている。
 特に今年は顕彰400年という節目の年でもあり、徳川御宗家18代当主の德川恒孝(つねなり)様と奥様の幸子様はじめ、岡崎藩最後の当主であった本多家の皆様、大岡家といった御縁の深い方々にも、春の家康行列に引き続きおいで頂いた。また、恒例の親善都市・ゆかりのまちである石垣市、福山市、茅ヶ崎市、佐久市、関ケ原町からも多くの御来賓のお越しを頂いた。

 そしてこのところ国政運営で多難な状況にある安倍総理御夫妻に「ちょっと息抜きに、岡崎の花火でも御覧にみえませんか?」とダメ元でお便り差し上げたところ、奥様の昭恵さんがおいで頂けるということにあいなった。(本来ならば花火会場で御挨拶頂くところであったが、警備の都合もあって行わなかった。)

安倍昭恵様(2015年8月1日)

徳川恒孝様、徳川幸子様、安倍昭恵様

 歓迎夕食会の席では、期せずして徳川御当主と長州(山口県)の旗頭の間にはさまれて座ることになった私ではあったが、「今宵だけは、徳川と長州の立場を離れてぜひ花火を楽しんで頂きたいと思います」と御挨拶させて頂いた。
 私の心配することもなく、大学教授のような博識の徳川様と、こうした席の場数は数々体験済みの安倍昭恵さんは随分と話がはずんでいた。

 岡崎市の花火の歴史は、戦国期の終わりに伴い、大砲・火薬を扱っていた職人達を三河の地に集めたことに由来するという。その後、三河花火の伝統は、江戸時代を通じて花火師達の工夫と努力によって発展してきたものである。
 本年は家康公顕彰四百年を記念して、例年よりも手の込んだ仕様であり、打ち上げ総数も2万発となった。ことに、よりにもよってエンディングを盛り上げるためのドラマチック・ハナビのテーマは「決戦! 関ヶ原」であった。
 昨今の花火は昔のものとは異なり、コンピューター制御による電気着火システムとなっているため、クラシック音楽に合わせて花火を打ち上げるような芸もできるようになっている。フィナーレは関ヶ原の戦いを実況中継するようなナレーションと共に音響効果も素晴らしく、映像的なアピールにもすぐれた作品となった。今年の花火大会は、きっと多くの人の記憶に残るものとなることだろう。
 私の知る限り、日本全国を見回してもこれほど市街地のど真ん中で花火を打ち上げる花火大会はないと思っている。これまでも市外からお客さんをお迎えした時は、皆一様に驚いてみえた。何せ頭の真上に近いところで花火の大輪の花を見ることになるのである。

岡崎城下家康公夏まつり 第67回花火大会

菅生神社の鉾船(天王丸)

馬場小雪さん、内田康宏、家康公、志賀爲宏会長、須貝美咲さん

 今年の花火は、私の記憶に無いほどドハデであったため、安全管理に御尽力頂いた岡崎警察署・消防関係者の皆様には感謝、御礼申し上げます。ことに山内岡崎警察署長は花火を見ずに最初から最後まで陣頭指揮をとられていたそうであり、誠に頭の下がる思いであります。
 こうした大がかりな地域の伝統行事を継続してゆくためには、多くの事業者の皆様の協賛と、関係者はもとより市民の御協力、さらには安全に行事をすすめるために影の力となって働いて頂く多くの方々の尽力のおかげで成り立っていることを忘れてはなりません。警察官、消防署員の中には徹夜の方もあったと聞いており、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。 (つづく

追伸
 花火大会の終了後、慰労の意味も含めて、有志・関係者のみでささやかな懇親会を行った。その席で、突然、対面席の昭恵さんから「ハイ!」と言って携帯電話を手渡された。何事かと思って耳に当てたところ、「安倍晋三です。本日は家内がお世話になりまして~」という声が耳に飛び込んで来た。
 その時、改めて昭恵さんが総理大臣の奥さんであることを再認識すると共に、30年近い御縁であるにもかかわらず、安倍晋三という人は「総理大臣になられてもなお、こんなことに対しても心遣いをする方であるのだなあ」と思った次第である。

徳川恒孝様、徳川幸子様、安倍昭恵様、松井幸彦先生ほか

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2014年10月27日 (月)

安倍昭恵さんとミャンマー大学生訪日団

安倍昭恵さん、キンマウンティン駐日大使御夫妻

 10月22日(水)から26日(日)まで、ミャンマー大学生訪日団の皆さんが本市に滞在されました。その最終日の昨日、ミャンマーの皆さんとホストファミリーの方々が一堂に会し、報告会と歓送会が開かれました。総理夫人である安倍昭恵さんの講話があるとのことで、私も御招待頂きました。

 ミャンマーの子供達のために小学校をいくつも作って来られた昭恵さんですが、その切っ掛けは御主人のひとことにあったそうです。当時、子供達の支援をアジアのどこかの国でしたいと考えていた昭恵さんは「どこの国がいいと思う?」と御主人に聞いたところ、晋三首相は迷わず「ミャンマーがいい」と答えられたということです。戦後の賠償問題などまだまだ難しい議論がアジア各国で続いていた時代、父上の安倍晋太郎外務大臣の秘書官だった晋三首相は「最後に訪れたミャンマーだけはそういう難しい話にならず温かく歓迎してくれたことが、今も強く心に残っている」と話されたそうです。

安倍昭恵さん、内田康宏

安倍昭恵さん、松井幸彦先生

ミャンマー大学生訪日団、ホストファミリーの皆さん

―当日の挨拶文―
 本日はミャンマー訪日団の報告会とホストファミリーの歓送会に家内ともどもお招き頂きまして、ありがとうございました。また安倍昭恵夫人ならびにキンマウンティン駐日大使御夫妻も御苦労様であります。
 先日ミャンマーの学生さんたちに市役所を訪問頂きましたが、その日は東海市長会に出席していたために留守をしておりまして失礼致しました。改めて本日、皆様の日本訪問を歓迎致します。
 私の今から16年ほど前の県会議員時代に、ミャンマーを訪れたことがあります。そのときの美しい自然やパゴダと夕陽の風景は忘れがたいものがありました。
 今日(こんにち)、松井幸彦先生の御縁により、岡崎ではミャンマー展は何度も開かれております。また、松井先生の御尽力と安倍昭恵さんの御縁で、毎年古くなった消防自動車をミャンマーへ送らせて頂いております。日本とミャンマーは仏教を通しての共通性もあります。これからは皆さんが新たな時代の両国の架け橋となることを期待しております。
 最後に今回の催しにあたり、お世話を頂きました皆様方に心から感謝を申し上げ、御挨拶とします。

ミャンマー大学生訪日団

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2014年3月24日 (月)

安倍昭恵さんの来岡、安倍家の思い出

安倍昭恵さん

 平成26年3月3日(月)、昨年に引き続き、再び安倍昭恵さんを岡崎市にお迎えすることとなった。今回は岡崎の北中学校での講演のための来岡ということで、総理夫人の正式な来訪である。昨夏の友人とお二人でのお忍び訪問の時とは異なり、昨今の世情の中、内閣官房から女性秘書が二人同行し、岡崎警察署から警備がつくことになった。もっともこうしたケースにおいて、今回の方が本来の姿なのである。
 3日の夕刻より、かねてよりの親交の深い「ミャンマーの会」(「ミャンマーの子どもたちに学校をおくる会」と「ミャンマーに消防車をおくる会」)の皆様を中心とする懇親会に、私共夫婦も招かれ同席させて頂くこととなった。

東海愛知新聞(2014年3月4日)

 今回の来岡にあたって安倍総理は「なんだ、また岡崎に行くのか」と言ってみえたそうである。確かに私の選挙の折に晋三総裁(当時)が1回、昭恵さんが2回、選挙の前後のものまで入れるとこの2~3年で4~5回の訪問ということになる。
 これは決して私が総理夫人をかどわかして何度も岡崎に足を運ばせているものではなく、これまでブログでお話してきたように様々な人間関係の御縁によるものである。そしてもう一つ、東京や選挙区(山口県)におられる時のような難しい気遣いの必要がなく、岡崎が昔からの友人と「ホッとできる場所」となっているのであれば大変うれしいことであると思っている。

 このところ、週刊誌などで昭恵さんについて家庭内のことまで無責任な中傷記事が出回っているが、これは政治的対抗勢力が安倍総理の高支持率に攻めあぐねて、攻撃する材料としてこうしたプライベートな問題を取り上げてきたものであり、いわば有名税の一つである。
 昨年もブログで記したが、身近で拝見する昭恵さんは、まさに現代ふうの自己の確立した若奥様という感じの方である。物言いも率直でこだわりが無く、本当の良家の子女というのはこうした方ではないかと思わせるさわやかな風をまとった女性である。
 時に素直な物言いが、彼女をよく知らない人間から誤解を受けたり、攻撃の材料として使われたりする元になるのだろうと思っている。またこのところ〝嫁姑問題〟がまことしやかに週刊誌上を面白おかしくにぎわしているが、そんなことは古くからどこの長男の家庭でも大なり小なりあることである。私はジェネレーション・ギャップ(世代意識の差)からくる生活習慣、価値観の違いによる一種の文化摩擦に過ぎないと思っている。

 私の知る総理の母上、安倍晋太郎先生夫人・洋子奥様は知る人ぞ知る賢婦人である。岸信介総理の娘ということばかり言われるものの、御本人そのものも大変な胆力と知力を備えた方である。私が秘書の頃、応対していた地元の支援者が「ダンナ(晋太郎先生)もいいけど、奥様が男じゃったらオヤジ(岸総理)よりスゴイ政治家になったかもしれん」という話を何度も耳にしたことがあった。
 また当時、御本人からも、父上(岸氏)が戦犯として巣鴨に収監されている間、手のひらを返したような世間の風の中で、長女として家族を守るために御苦労された話をうかがった覚えがある。
 一升ビンに入れた玄米を、竹の先に布切れを巻いたものでつつき、自宅で精米を自らされていたそうであるし、ただの苦労知らずのお嬢様ではない。

安倍晋太郎先生

 私個人もこんな思い出がある。
 「年末に先生の自宅で大そうじがあるので手伝ってほしい」と事務所から言われ、当時独身でヒマな私もお手伝いに行くこととなった。ところが事務所から言われた時間より他の秘書は早く到着しており、私が着いた時には大きな荷物は片付いてしまっていた。おまけに、そうじをするのだからとジーパンにバックスキンの皮ジャン姿(しかも途中までレイバンのサングラスをかけていた)で出かけた私に対し、他の秘書は皆背広姿であった。この点が当時の私の意識が世間とズレていた点であるが、そんな見当違いの新参者の秘書に対しても大奥様は全く分け隔てなく接して下さり、帰りにはオミヤゲまで下さった。そのやさしさと心遣いは、今も大変印象深く心に残っている。
 もちろん他人に対する接し方と、跡取りの嫁に対する対応が同質のものであろうはずがない。活発に自分の意志で社会活動を展開する昭恵さんに対して、長州の名門の伝統的価値観を体現する大奥様が時に苦言を呈することがあったとしても、それはしごく当然のことである。
 私は、お二人ともそれぞれの生き方を尊重しつつ、安倍家の伝統を継承していかれる賢さを備えられた女性であると思っているので、この件に関しては全く心配はしていない。

 それよりも困ったことは、昭恵さんがウチの嫁さんに「総理や首長というのは周りがお世辞ばっかり言うものだから、家の中では私達が耳に痛いことを本人に伝えるようにしなければいけないのよ。だからあなたもガンバってネ」などとハッパをかけるものだから、最近ウチの家内の鼻息の荒さには少々閉口することがある。
 安倍総理も、テレビのインタビューの中で「夫婦生活をうまく続けるには、夫の方が妻に全面降伏するに限る」というようなことを述べられていたので、「それが大人の智恵というものか」とは思うが、私はまだとてもそんな境地にはたどりつけていない。
 ついつい「やかましい」とか「黙っていろ」とかいう言葉が先に出てしまう。自分の修行の足りなさを少し反省しているこの頃である。

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2013年10月11日 (金)

青年部ブドウ狩りと「よいこの会」

三国観光農園

 昨年は選挙のため実施することができなかったが、9月29日(日)、2年振りに後援会青年部の主催によるブドウ狩りが駒立の三国園(みくにえん)にて行われた。
 これは私が県会議員の時代から、ほぼ毎年恒例の秋の行事として三国園の鈴木靖司さんの御協力を得て実施されてきたものである。当日は台風22号の接近が心配される中ではあったが、青空の下80人を超える皆さんの参加により開催することができた。感謝申し上げます。
 県議の頃は、私自身がバーベキューの肉やソーセージ、焼きそばを焼く係を兼務していた。そのためブドウ狩りに行ったはずなのに、現地でブドウを食べたという記憶がない。
 ところが今年は市長になったせいか、調理係の役を免除して頂くことができた。他の行事もあったため現地には2時間ほどしかいられなかったものの、席に座ってブドウを口にすることもできたし、参加者の皆さんとも親しくお話することができて良かったと思っている。

 それにしても昨年のこの時期は、10月の市長選の直前でテンテコ舞いの日々であった。9月26日開催の総決起大会には、メインゲストとして安倍晋三代議士(現総理大臣)をお招きすることになっていたのであるが、自民党の総裁選挙の当日と重なってしまったこともあって、代わりに奥様の昭恵さんに御出席頂くことになった。
 そのことが御縁となり奥様には何度も岡崎においで頂くことになり、選挙戦の終盤には前代未聞の現職自民党総裁の地方市長選挙応援が実現した。偶然から始まっためぐり合わせとはいえ、お世話になった皆様と神仏の加護に対し改めて感謝とお礼を申し上げたいと思う。

安倍昭恵さん

安倍昭恵さん

Grape201309294

 今回ブドウ狩りの催しの準備をし、バーベキューの支度をしながら語り合っている一人一人のメンバーは、ちょうど一年前の選挙の時に共に厳しい選挙を戦い抜いた、まさに〝選友〟(戦友)と言える。
 一年前の日々の出来事を一つ一つ思い出してみると、今私が市長職をさせて頂いていることが不思議に思える時がある。ポンと手を叩いたら、夢が解けて目が覚めてしまうのではないかとふと思うことがある。それ程困難な戦いであった。

 県会議員となる前、有志の若者の会を開いていたことがあった。当時は私も若く、今ほど多忙でなかったので、自ら計画に参画し、春は花見会やピクニック、夏は海水浴、秋は森林公園で野球やバーベキュー大会、冬はスキーに新年会と、多彩な活動をおこなっていたものである。もちろんどれも実費頭割りの会費制の会であった。

よいこの会(1981年3月14日)

よいこの会(1981年8月9日)

よいこの会(1983年10月23日)

よいこの会(1982年4月24日)

 当時のメンバーは学生を含む、多様な職業の仲間達であり、政治がらみの話を持ち込まなかったこともあって、実になごやかで楽しい時間を共有することができた。確か仲間内で結婚したケースもいくつかあったように思う。
 会名は「よいこの会」であり、毎回その日の会を一番盛り上げてくれた人や目立った人に「よいこ大賞」として持ち回りの小トロフィーで表彰もしていた。
 後に私が政治の道を歩むようになり、公務員のメンバーは足が遠のいて行ったが、個人差はあるものの、共に長い年月と友情を育んできたものである。最近は世代交代も進み、現在の青年部の中心は彼らの子供達の代に移っている。毛糸のパンツで走り回っていた少女やオムツが離せなかった男の子が親となり、子供を連れてブドウ狩りに来てくれる。本当にうれしいことである。

 私は保守の政治家の一人であると思っているが、本来保守主義というものはこうした人間関係を基軸とした信頼と友情によって支えられているものであると考えている。さらに付け加えるならば、郷土の伝統と文化、地域の個性を生かした町づくりをしてゆくことが、保守の政治のあり方として大切であると考えている。
 生まれ育った故郷(ふるさと)に愛着を持ち、誇りと共にその気持ちを他者に語ることができるようになって初めて地域の発展は継続してゆくものと思う。そんな「次の新しい岡崎」づくりに向けて、若い仲間達と力を合わせさらにガンバって行こうと思っている。

内田康宏

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2013年8月21日 (水)

『リバ!』2013年9月号

『リバ!』2013年9月号

内田康宏事務所から月一回のご案内です。

今月はじめに市長がブログに綴った「安倍夫人・岡崎訪問の記」が、『リバ!』9月号に掲載されました。転載にあたって今回は加筆がされています(もちろん市長が書いています)。
9月号の特集のひとつは、東海中学校の先生が特派員として取材をした「康生に行コウセーイ! オカザえもんマップ」です。お知らせまで。

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2013年8月18日 (日)

ミャンマーへ贈る消防車の寄贈式

消防車両引渡しおよび出発式 2013年8月2日

 以前から、何度もブログに取り上げていたミャンマーへ贈る消防車両の話であるが、その寄贈式並びに出発式が、8月2日、岡崎市消防本部にて取り行われた。
 寄贈することはもう昨年のうちに決まっていたし、議会の承認も得ていたため、私としてはすでに送られたものと思っていた。そのため、今回式が開かれたことは意外であった。しかし実際にこの手のことを行うためには、隣の家に饅頭のおすそ分けをするような訳にはいかず、手続きの手順が結構ややこしいことが分かった。まず日本国内における消防自動車としての任務を解除する書類上の手続きがある。以下はそれに伴う手続きの手順である。

①登録を抹消して、ナンバープレートを返納する。併せて仕様の変更も行う。

②譲受者(この場合「ミャンマーへ消防車をおくる会」)から「消防車両譲与申出書」の受理をする。

③市議会で議決・承認を得る。(「議決証明書」作成)

④市役所の内部決裁として、物品譲与決裁をする。

⑤「譲渡証明書」を作成。

⑥「物品譲与決定通知書」の送付。(正式決定)

⑦譲受者から「受領書」の受理。

⑧輸送のための「仮ナンバー」の取得と自賠責保険加入。(譲受者が行う)

 全くお決まりの手続きとはいえ、ウンザリしてしまう。内実は、「隣の子にお古の自転車をあげる」のと同じことなのにこれだけ面倒な手順が必要とされるのである。なんとかもっと簡略化できないものかと思い、現在対応策を考えている。
 今回、岡崎市消防本部の皆さんの特別なお心遣いで、外国に寄贈する車両が岡崎から送られるものとして恥ずかしくないようにと入念に再整備・点検がなされた。
 後から聞いた話によると、ミャンマー駐日大使が寄贈車両を見て「今まで寄贈を受けたすべての車両の中で一番きれいな車両である。まるで新車のようだ」と大喜びであったそうだ。まさに岡崎の面目躍如である。

消防車両引渡しおよび出発式 2013年8月2日

 当日は好天に恵まれ、寄贈・消防車両の晴れ姿が披露された。松井幸彦先生はじめ10名ほどのグループの皆さんと共に、田口市会議員も大型車の運転手として東京まで車を送り届ける役の一人を買って出ていた。4台の車は、ポンプ車や消防積載車であり、製造から20年前後経過している。岡崎市消防本部として更新の時期を迎え、従来は廃車されて来たものである。とはいえ、一般に日本の公用自動車は常日頃きちんと点検・整備されているため、日本の法律によらなければまだ十分に使える車両ばかりである。そうであるなら、廃車にしてスクラップにしてしまうよりも、喜んで使ってもらえる海外でもう一働きしてもらった方が良いだろうというのが私達の考えであった。廃車になるはずであった車が岡崎の名を付けたまま、再度ミャンマーの地で活躍している姿を見ることがあれば岡崎出身者でなくとも日本人として誇りに思えるだろう。
 日本は海外支援にお金は使うが、その割に感謝されていないと言われるのはPR不足のせいである。こんなことでも、その一助となればと思っている。
 現実に社会のインフラ整備の遅れているミャンマーでは、火事ばかりでなく、毎年の自然災害による被害も多い。消防車両の活躍の場は大きいと言える。ことに乾期(11月~4月)には山火事により村中が燃えてしまうこともあるという。そんな不幸な人々が一人でも救われることを願ってやまない。

 松井先生達の「ミャンマーへ消防車をおくる会」の皆さんは、これまで19台をミャンマーへ送るお手伝いをされているが、50台を一つの目標としているそうなので、岡崎市としてもできる限りの協力をしていきたいと考えている。近隣の市町の皆さんからも御協力頂けますよう、私からもお願い申し上げます。

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2013年8月 5日 (月)

安倍夫人・岡崎訪問の記

橘凛保さん、安倍昭恵さん

 7月10日(水)、総理夫人である安倍昭恵さんが、昨年の市長選挙以来約9ヶ月振りに岡崎を訪問された。このことはブログの記事にしてはいけないかと思っていたが、翌々日の新聞に載っていたので、こちらでも書かせて頂くことにした。
 原爆の投下により焦土と化した広島の被爆地のガレキの中からカンナの花が咲いた。そのカンナの花にちなんだ「平和カンナ・プロジェクト」を推進してみえるご友人の橘凛保(たちばなりほ)さんと共に、今回の岡崎訪問はなされた。昨年の修学旅行の際に安倍夫人にインタビューするために議員会館を訪れた附属中学の卒業生らとの再会も目的の一つであった。

 夕刻より、松井幸彦先生をはじめとする友人の皆様と共に「安倍様、橘様を囲む会」をもつことになった。私自身、昨年の選挙でお世話になりながら当選直後幾度も上京したものの、日程の都合もあって直接お会いしての御挨拶ができていなかったこともあり、家内共々、出席させて頂くことになった。松井先生はかねてより「ミャンマーに小学校を作る運動」や「ミャンマーに消防自動車を送る運動」などを通じて安倍昭恵さんとはとても親交が厚い。
 昭恵さんは、卒業論文のテーマが東南アジアの民生、ことにミャンマー(旧ビルマ)の教育にかかわるものであった。学生時代にかの地を訪れたことが一つの切っ掛けとなり、ミャンマーの子供達のために小学校を作る運動に参画された。その運動は今日に至るまで続いている。すでにミャンマーには、昭恵さんの名を冠した小学校がいくつも誕生している。
 松井先生については以前も私のブログに記した通り、ビルマ時代のミャンマーに教師として海外赴任の経験があり、当時から戦後日本兵の遺骨収集、本国への送還活動や小学校建設運動、そして消防車両の寄贈運動でも御活躍をされてみえる。(私は、時として松井先生が宗教家に思えることがある。)
 橘さん、昭恵さん、松井先生に共通するのは、限りないヒューマニズムである。昨今の利害関係のみで行動する人々が目に付く世相において、こうした方々とお会いしお話を伺う機会を得ることは心洗われる思いがするものである。
 また前にもブログ上で触れたことがあるが、昭恵さんは森永製菓の社長令嬢である。しかしそんなことをけぶりも感じさせないさわやかさと天真爛漫さが彼女の魅力であると思う。(ウチの嫁さんは帰り際に「これからもガンバってネ!」と言われてハグをされて、感激していた。)

 もう30年近く前のこと。父上の安倍晋太郎先生の秘書官であった晋三さんが「この業界(政界)にいると、嫁さんを見つけるのが大変なんだ」という話をされていたことがある。大物政治家の息子は親の名前の重さで、それなりに苦労があるものだと当時理解していたものだ。同じように国会や議員会館界隈には、やんごとなき家系の才色兼備のお嬢様方がたくさん秘書として働いてみえるが、彼女達も同様の悩みがあるようであった。毎日テレビに出ている大物政治家達と同席しているために、若い男の秘書達は怖れをなして彼女達に近づこうとしないのである。(もちろん私もその一人であった。)
 しかし昭恵さんと親しくお話をさせて頂いて、そんな中で晋三さんが彼女を選ばれたことが十分納得できるような気がした。私の悪いくせで、晋三さんの若い頃の話をしながら、ついまた余計なことを言ってしまった。
「晋三さんのような方と結婚することになれば、将来政界の荒波をくぐる運命が待っていることは明らかです。御両親は反対されませんでしたか?」
 彼女は「親は嫁に行ってくれるならどこでもよかったようです」と明るく笑われた。私もそこで笑って止めておけばよかったのであるが、
「一般に親は口ではそう言いますが、私のような者でもウチの家内と婚約した頃、嫁さんは色んな人から『苦労するから止めた方がいいわよ』と言われていたそうですよ。もっとも私の場合、衆院選の大選挙違反もあったので、結婚などできそうもないし、もう人生終わったなと思っていましたけどね」
 と話したところ、反対に昭恵さんから「それじゃー奥さんに感謝しなければ」と言われてしまった。そのあとで「御主人が感謝してるってよ」とウチの嫁さんに向かって言っていた。これではインタヴュアーとしては失格で、全く〝やぶ蛇〟である。
 おまけに私はまた、次のような失礼なことを言ってしまった。
「あなたを個人としていい人だと思っても、〝森永の娘〟と分かった時点で普通の男は腰が引けてしまうもんですよ。そうでないとしたら、よっぽど自分に本当に自信のある男か、自信過剰のおバカさんか、逆玉を狙う野心家か、何も考えていない奴のどれかだと思いますよ」
 もしかしたら晋三氏は、同じ様な立場にある昭恵さんにシンパシーを感じたのかもしれない。(今度、会ったら聞いてみよう。)どちらにしても、ハタから見れば、何不自由なさそうな立場というものも、当人の立場となってみれば、それなりに嫌なこと、不自由なことがあるものである。天皇陛下は夜中に腹が減ったとしても、ちょっと車でラーメンを食べに行くというようなことはできないだろう。

安倍昭恵さん、私、ウチの嫁さん

 ウチの嫁さんと昭恵さんが笑いながら何か話をしていたので、あとで確かめたところ、お互いの亭主の共通点を酒の肴にしていたとのことだった。男のくせに酒が苦手で、アイスクリームやお好み焼きが好物で、好みのアイスクリームが「白くま」という所まで一緒であったため、声を出して笑っていたようである。

 私と安倍総理はもう一つ共通点がある。お互いに忙しくて映画を観に行けないため、夜遅く一人でDVD(変なヤツではない)を観ている点である。二人ともかなりの映画マニアであるが、観賞のスタイルだけは随分対照的であるようだ。
 私はDVDを観る場合、まず本編を筋を追いながら観る。その次に本編から削除されたカット・スペシャル、NG特集、予告編CMと続けて、監督や主演俳優や脚本家の解説版があればそれも観て、さらにハリウッド・ノートのような資料まで時間があれば目を通すことにしている。おまけに、時にはそれからまた本編を見直すことさえある。ウチの嫁さんに言わせれば「あなたはビョーキ」だそうである。
 安倍総理の場合は、時間も無いのであろうが、同じ映画は一度しか観ないそうである。よほど気に入った作品以外は定期的に箱詰めにして御自分で処分してみえるそうである。確かにそういう対応にすれば、私のように2000本を超えるDVDとまだ数百本はあるビデオテープ、自分で編集したTVのDVD500~600本に埋まって生活するようなことにはならないだろう。私の部屋の壁面はほとんどDVDと本でふさがっている。
 私の場合、以前観た映画でもしばらくするともう一度観たくなったり、場面やセリフを確認したくなることがよくあるのだが、安倍総理はそういうことはないのだろうか? ひょっとすると「男は身辺に余分なモノを多く持たない。そうしたものは柔弱未練の心の元となる」という長州武士の質実剛健の気風による生活習慣のせいなのかもしれない。

昭恵さん、橘さん、松井幸彦先生ほか

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