
7月25日(金)は、大変多忙で中身の濃い一日となった。
早朝より上京し、午前中は議員会館と国土交通省関係の要望活動を行い、午後からは皇居にある宮内庁に出向いた。来年平成27年に行われる六ツ美悠紀斎田100周年事業に、ぜひとも皇族のお成りを賜りたいという地元の悲願を達成すべくお願いに参内した次第である。
この件の陳情に関しては、私は今年の2月についで2回目であり、六ツ美地区の実行委員会の皆さんは、平成18年(2006年)9月に訪問されて以来、今回で6回目の要望活動となった。
言うまでもなく、地元六ツ美住民の方々の悠紀斎田100周年事業にかける情熱は一様のものではない。大正天皇の即位の折に、全国・東西2ヶ所にだけ許された、大嘗祭(だいじょうさい)に用いる新米を作ることのできる名誉と、お田植えまつりを100年間守り伝えてきた伝統に対する誇りに満ちているようでもある。
当日は皇居前で実行委員会の皆さんと合流し、宮内庁の入口において、同じく100周年を迎える香川県綾川町(あやがわちょう)の主基斎田(すきさいでん)関係者の皆さんと待ち合わせ、皇族の年間行事日程を統括している宮務課へ共に要望活動を行った。
さて、六ツ美地区の皆さんには説明の必要もないことであるが、岡崎市民でもご存じない方がおられるので、ここで大嘗祭とお田植えまつりについて解説しておくこととする。
岡崎の六ツ美地区と綾川町(旧・綾歌郡山田村)は、大正天皇が即位される大嘗祭の儀式に使う新米を皇室に献穀する任を得たことが機縁となり、毎年それぞれの地で古式ゆかしい田植え風景を再現し、皇室に伝わる伝統を祭事の形にして継承してきている。また、平成元年から相互交流も始めており、来年共に100周年を迎えることになる。
大嘗祭は、天皇の即位の度に歴代行われてきている伝統儀式であるが、なぜかお田植えまつりのような形で継承してきているのは、六ツ美と綾川町の2ヶ所のみのようである。ちみなに、大正天皇が即位された時、六ツ美地区は「六ツ美村」という村であった。昭和33年(1958年)に「六ツ美町」となり、昭和37年(1962年)10月15日に岡崎市に編入されている。

日本人の生活スタイルも、時代と共に大きく移り変わっているが、旧石器時代以来の狩猟・採集生活を元に生活してきた縄文人達が、渡来人による大陸からの稲作文化を取り入れることによって、農耕を中心とした定住生活へと移り替わったことが最初の一番大きな変化であろう。弥生時代を迎えて、人々の生活がより豊かに安定してゆく中で、日本人の基本的な生活習慣やモノの考え方の大本が形成されてきた。それが大和朝廷以来つちかわれてきた皇室の存在や伝統文化と共に、日本人の思考形態や生活に大きく影響を与えてきたのではないだろうか。そうした大和民族の根元的な事柄に由来するのがこの大嘗祭であり、お田植えまつりではないかと私は考えている。昨今は米づくりも、田植え方式から、種籾(たねもみ)を直接田にまく方式に移りつつあり、今後一層その存在価値は高まってくるものと考えている。
同じ儀式であるのに、六ツ美と綾川町のそれぞれの呼び名が異なるのは、かつて御所のあった京都を中心として、東にある斎田を「悠紀」(ゆき)と呼び、西に位置する斎田を「主基」(すき)と呼んだことに由来している。斎田は、皇居内で行われる「斎田点定の儀」により浄田として汚れなき土地の田が選ばれるという。具体的にどの田にするかということは、その地方に任されるそうである。
本市においては、100周年を迎えるにあたって、六ツ美地区に「地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里」を建設し、歴史民俗資料室には当時使用された農耕機具(鍬や鎌や千歯こき)が展示されている。岡崎の方式が刺激となったせいか、綾川町も近く同様の施設を建設すると藤井賢町長さんも張り切ってみえた。


私はプレ事業でもあった今年の悠紀のお田植えまつりに出席できなかった。
その埋め合わせという訳でもないが、6月22日(日)に香川県綾川町の主基のお田植えまつりに岡崎からの代表40人の一人として出席させて頂いた。綾川町からはこのところ、毎年町長をはじめとした代表団が岡崎までお越しになっていたが、私自身は県議時代から何度もお誘いの声を頂きながら今日まで出席が実現しなかった。そういういきさつもあったのである。
本市と同様に立派な式典であり、私も浜田香川県知事はじめ各国会議員の皆様と共に御挨拶の機会を得た。
田植えを祭事として行っている点は同様であったが、歌われる唄や踊り、衣装などに若干の差違がある点にお国柄がしのばれ、大変興味深く拝見していた。住宅地の一角に包まれつつある六ツ美の悠紀の里とは違い、山と田畑の中にある主基の里ののどかな風景には心安まるものがあった。
所も時代も違うが、来年の100年祭が悠紀・主基それぞれどのようなものになるか大変興味がある。100年前、六ツ美の地には7万人の人出があったそうであるし、主基の里では式典責任者が心労で倒れたという話もある。来年は共に協力して例年以上に立派な催しにしたいと考えている。
話は戻って、7月25日、100周年事業実行委員会の野村弘会長、都築末二副会長、野々山克彦副事務局長さん達と宮内庁で合流した私は、主基斎田の実行委員会の皆様共々、宮内庁長官官房宮務課長の小山氏並びに宮務調整専門官の宮浦氏と会談の機会をもつこととなった。
要望内容はこれまでと同様、2月にもお伝えしてある通り、それぞれの100周年事業に対しぜひ皇室から宮様のお成りをお願い致したいということである。度重なる要望活動でこちらの熱意は十分伝わっていると考える。続いてそれぞれの100周年事業についての概略の説明をさせて頂き、宮内庁を後にした。
六ツ美村と合併前の占部村長を曾祖父にもつ野々山氏は、この度資料集として『碧海大地の農業の礎 大嘗祭悠紀斎田』を自費出版されている。これは自宅に収められていた膨大な資料を市役所にお勤めの頃から20年かけて調査整理したものであるが、このことも宮内庁では好感をもって認識されているようであった。私もこうした多くの皆さんの熱意と希望を込めた100年祭は必ず成功させなければならないと考えている。

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