随想録

2021年4月 4日 (日)

古シャツと景気?

 フロから出て着替えをしていたところ、いきなり肩口からシャツが裂けてしまった。嫁さんは「太ったからだ」と悪口を言うがそうではない。
 私は比較的モノもちが良いため、何につけ長く愛用しているモノが多いからである。女房殿には「お前がそうしていられるのも、そんな俺の習性のおかげだ」などと言い返している。
 直せばまだ着れそうな古シャツだが、縫い付けて今しばらく使おうかどうか迷っている。着古したシャツの膚(はだ)ざわりというのは何とも言えぬ安心感があるからである。

 昔、高校の担任から、破れた靴下を繕ってはいていたところを見られ、ほめられたことがあった。ボーイスカウトあがりでいつも裁縫道具を持っているため、戦時中でもあるまいに、こうした生活習慣がしみついてしまっているのだ。
 友人からは「お前のような奴がいるから、なかなか景気が良くならないんだ。古くなった服など捨てろ」と何度も言われたが、なかなか直らない。
 しかし1年前とくらべ、5kgほどやせたせいか、「やせたら着よう」ととっておいた昔の背広が着られるようになり、とんだ〝ケガの功名〟であった。
 もう背広は一生買わなくて済むかもしれない。(洋服屋さん、ゴメンなさい)

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2021年1月 1日 (金)

再起を期して

内田康宏

 新年あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、皆様の御健勝をお祈り申し上げます。
 昨秋の市長選挙におきましては、皆様方の絶大なる御支援を頂きながら御期待にお応えすることができず、誠に申し訳ありませんでした。いくらコロナウイルスの影響と「1人5万円」の禁じ手の奇策があったからとはいえ、敗北の事実を我ながらふがいなく思っております。
 そうした中、多くの皆様から頂いた温かいお言葉、激励には大変勇気づけられました。

桜城橋にて(2020年12月26日)

 この地域の豊かさと安定の根源は、言うまでもなく「モノづくり」にあります。私はこれまでその振興に努め、そして、もう一つの地域のかけがえのない宝である歴史的文化遺産、川と山の美しい自然を活かした「観光」を今一つの経済の柱とする「夢ある新しい岡崎」づくりに邁進してまいりました。
 国・県の補助と協力、民間との連携により、市内東・西・南・北それぞれに地域の課題を担った事業も展開してまいりました。新しい総合病院もでき、長年の懸案の事業であった県営グラウンドも「岡崎市龍北総合運動場」として再生しました。借金は100億円減り、税収は70億円増え、市内の認知犯罪件数も半減しました。

 しかしようやく準備の整った乙川リバーフロント計画は、いよいよこれから本番というところでコロナ禍のため水をさされてしまいました。加えて総額470億円を超える財政出動を行っているにもかかわらず、選挙戦では、あたかもコロナ対策をやらずに勝手な政策を行っているかのようなデマ宣伝に翻弄されました。選挙には負けましたが、私は多くの皆様方の知恵と協力のもとに進めてきた政策が正しかったことを今も確信しております。

桜城橋にて(2020年12月26日)

 いずれにせよ、これまでにない国や県との良好な関係、長年にわたる民間との協働、ほとんどの政党からの支援。こうした良い流れを続け、実らせ、完成させることができなかったことを心底残念に思っております。
 岡崎から中央省庁への要望、陳情は、これまでどおり順調ではゆかなくなると思います。民間との信頼関係にもヒビが入るおそれがあります。
 三井不動産による2025年の東部のアウトレットモールのオープンもメドがつき、三菱地所の参入する東岡崎駅前再開発計画も俎上に上がっております。日本を代表する三井・三菱という会社が岡崎の将来の可能性にタイコバンを押している中での挫折は本当に悔しい限りです
 中核市における2020年版の住民幸福度ランキングで本市は3位に選ばれました。しかも豊かな財源のもと、この地域の教育、福祉、医療、防災は全国でトップクラスであります。どうかそうした目の前のはっきりした成果、第三者による評価を御理解頂きたいと考えております。今はコロナウイルス感染拡大のさなかにありますが、これまで行ってきた政策を続けることができれば岡崎は必ずもっともっと良くなります。

内田康宏

 父の代より半世紀にわたって継続してきた伝統ある保守の政治集団である後援会も健在であります。その力を今後も郷土の発展の力として活かし、引き続きガンバッてまいります。
 選挙後多くの皆様から頂いた励ましのお言葉を肝に銘じ、これからも捲土重来を期し、全力でガンバル覚悟であります。
 この度は大変面目ない結果となりましたが、何とぞ皆様の変わらぬ御理解、御支援を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。

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2020年6月18日 (木)

人生いろいろ

1991年4月6日、愛知県議会議員選挙

 大学1年生の夏休み、ある土建会社でアルバイトをしたことがある。その頃現場で、昼食をとりながらドイツ語の原書を読んでいる不思議な人を見かけた。あいにく名前も知らない。
 直接、御本人と話をする機会はなかったが、人づてに聞いたところによると、国立大学を出て就職したものの環境になじめず退職し、その後紆余曲折を経て現在の職場に週3~4日、生活費かせぎのため現場仕事をしに来ているとのことであった。
 当時、自分の進むべき確たる道を見つけることができずに悶々たる思いを胸に生きていた私にとって、何か一筋の光明(こうみょう)を見たような気がした。
 将来的な見通しも老後の保障もないが、ともかく制約が少なく、自由である。人の目や体裁にとらわれたり、贅沢な生活を望んだりしなければ、こうした自由気まま(?)な生き方もあるのだと教えられた気がした。

 当時、市長であった父のように、周囲から政治家になることを期待される空気が重荷でならなかった。素朴な善意の期待感ほど重たいものはない。
 「政治が生きがい、選挙は趣味」と言い、朝から晩まで仕事漬けの生活を送っている典型的な昭和の仕事人間である父と同じ道を選べば「しょせん親の七光り」と悪口を言われ、「格落ちのダメ男」と評価されそうで、とても政治の道を選択する自信も勇気もなかった。いい年をして人一倍人見知りが激しく、人付き合いも苦手で、人前に出ることも嫌いであった。
 しかも、この業界は海千山千の曲者ぞろいであり、自分のような単純な人間が激烈な競争を勝ち抜けるはずはないと考えていた。(私の母も同じ見立てであったという。) 人間関係の極致のような仕事である政治家など思っただけでノイローゼになりそうな気がしたものである。時にどこか遠くへ逃げてしまいたいと思ったこともあった。(そのせいでアメリカに留学した訳ではない。)

 そんな青年期を送っていた私がその後政治の道を選択し、27歳での大きな挫折(衆院選出馬、次点落選、大選挙違反)を乗り越え、7年間の雌伏の時を経て、県会議員、市長と歩みを続けることができたことに、時に不思議な感慨を覚えるものである。(もちろん多くの方のお支えのおかげである。)

1987年4月12日、愛知県議会議員選挙

 誰しも人生の歩みはままならぬものであり、個人の思惑や予想のとおりに進むことはマレなことであろう。また仮に希望どおりの道に進んだとしてもそれが必ずしも幸せに結びつくとは限らない。
 望んで選択した道が全く想像とは違う不向きなもののであったり、不本意のうちに進んだ道が人生を開くことにつながったりすることもある。
 いずれにせよ、いかなる道に進んでも、すぐに成果に辿りつけるものでもなく、忍耐の時期は避けられないものである。そこで舵を切り別の道に進むか、あるいは我慢するかもまた選択である。
 人生もスポーツの試合と同じく、終了するまで油断のならないものであることは幾千もの先人の歩みを見て分かることであるが、終盤に入ってからの逆転はつらいものであり、ぜひ避けたいものである。
 しかし成功の人生を全うしたかのように見えても、それが本当に幸せと呼ぶに値するものであったかどうかは、本人の胸の内に入ってみなければ分かるものではなかろう。また、逆に敗北の人生のように見えても、当人は自らの生き方に十分満足していたのではないかと推察される例も歴史上少なくはない。「勝敗は兵家(へいか)の常、なんぞおそるるに足らん」であろうか?

 先の国立大を出て、土方仕事をやっていた方は、当時30代後半か40歳くらいであった。ご存命であれば今頃80年輩になってみえることと思われる。彼がその後どんな人生行路を歩まれたのか、できればお聞きしてみたいものである。
 どのような人生が価値があり価値がないかは、単に他人の思惑に過ぎないことである。
 一番大切なことは自分がその生き方に満足ができたかどうかということではないだろうか。
 最近、昔のことをつらつら思うにつけ、そんなことを考えることがある。

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2020年2月16日 (日)

声が出ない!

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 1月1日の朝、目が覚めた途端、ノドがやたらイガラっぽいことに気付いた。うがいをして、そのまま神社の祭礼に出かけたが、「君が代」が歌えない。声が音程にならないのであった。新年の挨拶もガラガラ声で、しかも大きな声を出すことができない。12月31日の夜までは何の気配すらなかったのに「全く、なんてこった!」である。

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 元旦は10時から新年初の公的行事である「新年交礼会」があるため、とりあえず手持ちのカゼ薬を飲み、何回もしっかりうがいをして再び出かけたのであるが、結果は散々であった。最初の一声からガラガラ声で、後で「何を言っているのかよく分からなかった」と言う人もいた。こんなことなら副市長に代役を頼めばよかったとも思った。
 しかし年の初めからそんなことをすれば「市長は悪い病気らしい」といった噂話が出回ることになっただろう。前市長が検査入院した時も、聞いてもいないのに、その筋の人から〝末期ガン説〟が伝えられたものである。もちろんデマであった。とかく公職者はちょっと体調を崩しても、重病説が流布されるものである。

 1月4日には病院に出かけ、薬をもらってきた。家では水蒸気の吸引を行い、気持ちが悪くなるほどノドあめをなめ続けていたが、さっぱり良くならなかった。医者の見立てでは「カラオケのやり過ぎと同じ症状で、声帯がひどくいたんでおり炎症もある」「1週間か10日、しゃべらずにおとなしくしていれば直ってくるが、ノドを使いながら直そうとすると長くなりますよ」とのことであった。
 そう言われたところで休むわけにもいかず、予定どおりの日程をこなした。1月7日の消防出初式はガラガラ声ながら、マイクのおかげでなんとか式辞を読み上げることができたが、午後の成人式の挨拶ではマイクを通しても声とならなかった。
 そんな無理を続けているうちにとうとう翌週は朝から熱も出てしまい、声が全く出なくなってしまった。急遽代理を立てていくつかの会を欠席させて頂いた。御迷惑をおかけした皆様には改めてお詫び申し上げます。

 しかしカゼではなかったためカゼ薬はほとんど効かなかった。カラオケなどもう1年以上やったことがないが、昨年の秋から年末にかけて日程が過密であり、疲れを感じていても休むことはできなかった。当時は慢性の睡眠不足で眠りが浅く、ストレスがたまっていたのも事実である。
 中日新聞の記者から「過労の疲れがノドにきて声が出なくなることがありますよ」と教えられたが、まさにそんな感じであった。
 さすがに発熱した日は一日寝ていたが、バケツの水をかぶったように汗が出て下着を全部着替えた。風呂に入る度にノドの調子が悪化し、しばらくはシャワーだけの生活となった。いずれにせよこれほどひどい症状は初めてのことであり、私のような職業の者にとって声が出ないというのは正に「商売上がったり」「歌を忘れたカナリア」であった。
 女房は「私にやさしくしないからバチが当たったのよ」と勝手なことを言っているし、孫からは「ジイジ怪獣みたいな声」と言われるあり様であった。

 1月1日は夕刻に、岡崎城を取り上げた『池の水ぜんぶ抜く大作戦』がTVで放映された。「番組に出演した時にお堀の中で転んだせいだろう」と言われたものであるが、収録は12月22日のことであり、それが直接の理由ではないはずである。

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 考えてみれば、秋から年末にかけて市民対話集会を一日複数回やったり、連続して長時間話すことが続いていた。また、予算編成前に上京し、連日各省庁を回って要望活動を続けていたこともストレスの原因になったのかもしれない。私自身がやらなくてはならない重要な仕事ばかりで代役を立てることもできず、仕方がなかったのである。
 だがその結果、多くの方々に御心配をおかけしてしまった。薬やノドあめや手造りの強精剤までお届け頂いた。
 おかげ様で2月に入ってノドの具合もほぼ元に戻り、お世話をおかけした皆様には改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。
 以前は近所に、サンダルばきで出かけると血管注射と抗生物質の注射を打ってもらえる病院があった。そうすれば2~3日で直ったものである。ところが医療保険制度の改編のせいか最近は病院でなかなか注射を打ってもらえず、近所の病院も昨年廃院となってしまい、私としてはいたって具合の悪いことになってしまったのである。

 いずれにせよ、新春早々声の出ない1ヶ月は散々であった。
 今はただこれが厄払いとなることを祈るばかりである。
 特に今年は。
 それにしても新型コロナウイルス肺炎の岡崎市の対策本部長が、本市初のCOVID-19(WHOの正式名称)の患者とならなかったことは幸いであった。

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2019年9月 8日 (日)

デマゴーグの季節の到来?

 3年ほど前、とある新聞記者の書いた記事に触発されて、「デマゴーグについて」と題する文章を2回に分けて書いたことがある。近年のデマゴーグは全くのウソ、デタラメではなく、数字のトリックやオーバーな表現で読者を欺こうとする傾向があるということを書いた覚えがある。
 選挙が近づいてくると、こうしたものが出てくるものであるが、昨今は実にクラシックな全くのウソ、デタラメを並べる単純な方法も目立ってきているようである。

 現在、全国の多くの自治体は水道管の布設替えや浄水場の更新の時期に迫られている。しかしながら、事業を進めるには多大な予算を要するため、自治体によっては民営化して乗り切ろうとしているケースもある。
 幸い岡崎市は複数の水源に恵まれ、財政も健全な状況を維持しており、水道の安全安定供給のため独自で水道事業を継続してゆく方針である。事業は計画的に進められており、今後も経営のあり方は同じである。

男川浄水場

 しかるに近頃、一部外者が何の根拠もなしに「岡崎市は水道の民営化を図っている」いうデマをしきりに流しているそうだが、これは全くの事実無根の話である。市の幹部会はもとより局内でも一度も議論に上がったことすらない。
 また同様に、最近の岡崎市政が「中心部偏重の施策になっている」とか、「政策決定がブラックボックス化している」とか訳の解らないことを言っている輩がいると聞いた。昔から「貧すれば鈍す」という言葉があるが、これは、ためにするデタラメであり、何の具体的根拠もない話である。

 私が上京して各省庁を回った時に必ず言われるのは、「岡崎市はよくやってるネ」という言葉である。ことに国土交通省からは「全国でまちおこしの事業を行っている所は多いが、岡崎のように5つも6つも大きな事業を全市的に展開して、すべて成功しているケースはまれであり、国としても注目している」と言われている。その証しが昨年の「地方再生のモデル都市」への選定であり、さらに「中枢中核都市」の一つとしても選ばれていることで証明されている。
 この秋、岡崎市をモデルケースにした3つの研修会が国土交通省のキモ入りで、全国の関係者を招いてこの岡崎の地で開催されることになっている。

 今さらであるが、市南部では新総合病院の建設、JR駅前の再開発、都市計画道路福岡線や同若松線をはじめとする各種道路の整備、河川改良などが行われている。東部ではアウトレットモール誘致と本宿駅周辺の区画整理事業に着手し、額田地区では「額田センター・こもれびかん」建設のほか、地元密着型の山間地事業にも着手しており、中山間地の活性化計画も具体的に進めている。北部では経済界待望の新しい工業団地計画が進み、活性化のための「(仮称)岡崎阿知和スマートインターチェンジ」事業も間もなく実施の段階に入ってくる。

藤田医科大学岡崎医療センター

岡崎市龍北総合運動場

 県との間で長年の懸案事項であった県営グラウンドは、「岡崎市龍北総合運動場」として再生途上にある(来年7月完成予定)。県立愛知病院の経営移管の話も大きく進展し、「岡崎市立愛知病院」に生まれ変わった。
 区画整理が未整備であり、道路事情が悪く、大きな施設を造りにくい矢作地区でも南北道路延伸を含めた道路計画が進み、西岡崎駅周辺整備が行われている。要望の強かった西部学校給食センターの再建も矢作南で実現することになっている。
 市内東西南北それぞれにその地の発達段階に応じた施策を展開し、それなりの評価を受けているというのが実態である。
 その上でワンランクアップの都市を目指すための施策が、「モノづくり」に続く「観光産業の振興」であり、その第一歩が「乙川リバーフロント計画」なのである。一体どこが「中心部偏重」なのであろうか? きっとこれは事実を認めたくない人か、市民の声や正しい情報が入ってこない立場の人かのいずれかであるかと思う。
 また、「ブラックボックス」という言葉であるが、そもそも用語が間違っている。通常ブラックボックスとは、飛行機の安全航行のための経路と機体の運航状況を記録し、まさかの事故の時のデータを残す機械のことである。仮に言うならば、ブラックホールであるが、これとても正しい認識とは言えない。第一まじめに仕事をしている市の職員をバカにしている言葉である。

 岡崎市は大きな事業を行うために極力、国・県との連携を重視し、なるべく多くの補助金を使って事業展開をしている。さらに民間の力を活用もしている。よく100億円事業と悪口を言われた乙川リバーフロント計画も半分近くは国費であり、全国でも例外的な事業だと言われる。それだけまちおこしとして説得力のある仕事であったからできたことである。

桜城橋

(2020年3月完成予定の桜城橋)

岡崎市東公園

(2019年8月に完成した東公園の木製遊具)

 東岡崎駅前の家康公像、東公園の恐竜と木製遊具においては、これらは市民の浄財によって整備されたものであり、そのことも正しく見て頂きたいものである。
 しかもこうした施策の策定・実施は、役所の部内、議会での審議はもとより、380回(来年までに400回)を超える市民対話集会、政策説明会にくわえ、地元説明会などを経て、岡崎活性化本部はじめ多くの専門家、諮問機関の提言、チェックのもとに進められてきたものである。決して一人の人間の気まぐれや思いつきで行われてきたものではないことを強調したい。
 私が市長になってから一番強く感じたことは「市長だからと言って、ひとりで勝手に決められることはほとんどない」ということである。ひょっとして、根拠なしに批判してみえる方は「市長になれば何でも自分の思いどおりにできる」と思っている人なのではないだろうか?

 これから選挙が近づいてくると、またぞろ、ためにする悪口、根拠のない批判、デマが出てくるものである。またそうしたことが好きな御仁もいるのである。
 賢明なる市民の皆様におかれましては、どうかその点をしっかり見極めて頂き、正しく御理解、御判断をして頂きたいものと思っております。

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2019年8月16日 (金)

岡崎は名古屋ではない!

岡崎城

 先日夕刻、帰宅してたまたま見た地元テレビのニュース番組が、「名古屋人と見られたがる愛知県人」というテーマの特集を放送していた。しかしこれは名古屋人から見た考えであり、とんでもない間違いである。そもそも名古屋郊外にある尾張の市町の人間か、名古屋生まれで現在、よそに住んでいる人以外で名古屋人と言われて喜ぶ人間が多いとはとても思えない。
 たとえば、我々三河人にとって気に入らないことの一つに、東京などで「どちらから?」と聞かれ、「愛知県から」と答えると「あー名古屋からですか」などと言われることである。そこでいつも、ついつい言わずもがなの尾張と三河の違いについてのウンチクを傾けることになってしまうのである。

 現在、尾張と三河は同じ愛知県にくくられていているが、本来は「別の国」である。つい400年ほど前には領地をめぐって謀略をめぐらし、戦っていたのである。
 一部の名古屋の人は東京や大阪と比べて低く扱われると怒るくせに(新幹線の名古屋飛ばしやNHKの天気予報・天気図に名古屋がないこと等)、自分達は県内の他市より優越しており、特別扱いが当然という態度をとることがある。あの番組はまさにそうした感覚を下敷きにして作られており、他者からの異なる視点が欠落していると言える。一般に名古屋人と言われて喜ぶのは尾張圏の人々だけである。
 もちろんこれは、名古屋や尾張を軽視したり、ばかにするつもりで言っていることでは決してない。それどころか名古屋の持つ古く独自性のある伝統や文化には敬意を抱いているし、近年の都市化の変貌ぶりにも目を見張っている。全国の政令指定都市の中で人気がないのは、愛知県と同じく自身のPR不足に原因があるのであって、名古屋の実態が正しく評価されたものではないと思っている。

 石原裕次郎のヒットしなかった歌に「白い街」という曲がある(「白い街 白い街 名古屋の街」と歌われる)。かつて名古屋市は大規模な区画整理により、機能的ではあるが、殺風景の代名詞のように言われた。その名古屋の景観も1989年の世界デザイン博以来、オシャレな街並みが増えてきている(星ヶ丘や白壁などは素敵な町である)。東山動物園、名古屋科学館(プラネタリウム)、名古屋港水族館なども世界レベルのものである。先進的な都市計画による区画と大きくきれいな公園もたくさんあり、建物の高層化も進み、ユニークなビルも多く、食文化も豊かである。
 そうしたことを承知の上で「岡崎は名古屋ではない」と言いたい。これは豊田や豊橋はじめ他の三河の市町村も同様のことと思う。要するにIDENTITY(アイデンティティ、自己意識、誇り、郷土愛)の問題なのである。「東京の人」と言われて喜ぶ、よそから引っ越してきて関東一円に住んでいる東京主義(東京病)の人々と同列にされたくないのである。
 最近は差違が小さくなっていても、尾張と三河では人の気質も考え方も言葉も行動も文化も微妙に大きく違う(?)のである。これは人間の個性と同様に尊重されるべきものであると考えている。

 このことは私だけが思っていることではない。例えば青森県では津軽地方と南部地方では旧藩時代以来の文化や習慣、伝統の違いにより住民の気質にも違いがあり、ひとくくりに青森と言われることに抵抗のある人もいる。静岡県でも、今川家の人脈の残る静岡市エリアと徳川色の強い浜松エリアは何かと張り合うことが多いようである。このように探せばまだ日本全国にこうした例はいくつもあり、世界各国にもあることと思っている。
 早くから商業圏として発展した名古屋・尾張地域は考え方も合理的で計算高く、言動もドライな傾向があると言われる。反対に農業地帯としての時期が長かった三河地域は土着的思考が強く、人間関係も密で、言動もウェットであり、保守的な傾向が強いようである。そうした土地柄が徳川家康という人物を生み出したものと考えている。

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(2019年秋に完成予定の徳川家康公の騎馬像)

 時にそうした保守性、土着的人間関係を批判される方があるが、それは「東京を中心とした関東圏の考え方が日本人のスタンダード(標準)であり、それに準拠したモノこそ正しい」という誤った考えに毒されているからである。何も東京のマネなどする必要はないのである。地方には地方の文化、伝統があり、違法でない限り、そのやり方、考え方で良いのである。
 外から流入した人々によって構成され、人の出入りの多い大都市文化は、そうした所でのみ成立するものであり、地方に強要されるべきものではないと考えている。
 間違っても、岡崎を小さな東京、あるいは名古屋の一部にするつもりはないので御理解頂きたい。地方には地方の、三河には三河の、岡崎には岡崎のアイデンティティがあるのである。またそうしたものを大切にするべきであると思っている。
 もちろん、地域独自のアイデンティティを好まない人がいても構わない。しかし世の中というものはその地域、集団の中でどちらの考え方の人間が多いかで大勢(たいせい)は決まるものであり、それこそが民主主義であると言える。
 そうした考え方からもう一度「岡崎は名古屋ではない!」と言いたい。
 これまでこうしたことを長年言い続けている私ではあるが、外国へ行ったときはナゴヤよりも通りの良い、「トヨタ市の隣から来ました」と言っている。

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2018年12月 9日 (日)

個人と公人の境界について

 先日、ある方から「今年は地方自治体の首長にとつて受難の年だ」ということを言われた。例年にも増して多かった自然災害に加え、異常気象に対する対応に苦労したということかと思ったら、そうではなかった。
 本年の前半は私の知り合いの首長が何人も突然死された。現職のまま亡くなるというのは、まさに「名誉の戦死」であると言える。中には若くして亡くなった方もいる。

『東海愛知新聞』2018年4月5日

 首長の仕事は多岐にわたり、どこまでやれば終わりということはなく、実に多忙である。副市長や部長もいるのであるが、「ぜひ何とか市長に」と言われると無下に断ることもできず、ついつい無理しても出かけることになる。
 かく言う私の場合も就任一年目は仕事を自分の目でしっかり確かめるため、積極的に動き回り、気がつけば一年間で完全な休日は7日しかなかった。そのせいかちょうど一年を経た頃、体に変調をきたし急遽点滴生活を送ることとなった。
 若き日と異なり、一晩眠ったぐらいでは疲労は癒えず、精神的なストレスも蓄積されるばかりである。しかるに、自身は以前と同じイメージのまま走ってしまい突然倒れることとなるのである。
 また、他にも元気印の代表のようなスポーツマンで体力自慢であった友人の訃報がこのところ続いている。よくある50代、60代の山の遭難も同じ理由と思うが、体に自信があるためついつい無理をしてしまうのである。責任感の強いまじめな人ほど、そうしたサイクルとなりがちである。それだけに周囲の人の心遣いを期待するものである。
 いずれにせよ訃報が相次いだせいで、今年はやたら「お体に気をつけて下さい」と言われたものである。

 続いてこの秋頃からはなぜか女性問題で失脚してゆく首長が目につくこととなった。中には私の知っている方もおり、いずれも仕事熱心であり、知性派の人物と思っていただけに驚いている。仕事が順調で強敵も見当たらないというような時に、人は心にスキが生まれるのかもしれない。(油断大敵である。)
 こうした事件(?)が続くと、必ず同業者は同じような苦言を頂戴することになる。「あんたは酒も飲まないし、夜の街に出歩くこともないが、くれぐれも気をつけるように」などと心配を頂くことになるのである。
 そもそも人の寿命や色恋ざたの発生は、気をつけていてどうにかなるという性質のものではない。誰しもそれを予見はできないだろう。十分気をつけていても病気になる時はなってしまう。体の中の微妙な出来事のすべてに対応できるはずがない。我々にできることは、せいぜい定期検診で人間ドックに通い、飲食に気をつけるぐらいのことである。多忙な毎日の中で運動のための時間を設けることも難しい。
 対人関係において好悪の感情をコントロールすることは我々の仕事の一部のようなものであるが、相手のある関係の中では一人の自制心だけにその責を問うことは無理があることもある。そうしたケースにおいては、公人が責めを負うこととなる。一般人なら「困った人だね」で済む話でも、公人は許されないというのが昨今のモラルの基準となっているようである。

 しかし、私の知る限り、公平に見て、近年の政治家は随分お行儀が良くなっていると思う。昔は国会議員が外遊する時には、海外の民間会社の駐在員が夜の相手をする女性を捜すのに走り回ったとか、秘書を二号にしたのか二号を秘書にしたのか分からないといった話を耳にしたことがあるが、近年はそうした話を聞いていない。
 岡崎でも、40年ほど前には「市会議員になっても、松本町に彼女がいるくらいでなくては一人前とは言えん」などと言う方がいた。そういう方は決して保守系の議員ばかりではなかった。
 かつての有名政治家におけるこの手の逸話は枚挙にいとまがない。とりわけ有名なものとして次の話がある。
 戦後政界の大立て者の一人、三木武吉(ぶきち)翁は、地元の演説会で「メカケが4人もある奴がえらそうなことを言うな!」とヤジられ、「ただいまメカケが4人と声が掛かりましたが4人ではありません。5人であります。もっとも今やいずれも年老いて、ものの役には立ちませんが、不肖、三木武吉、役に立たないからと捨て去るような不人情者ではありません。今も全員の生活の面倒をみております」と答えて聴衆の拍手喝采を浴びたと伝えられている。(当時は女性の職業の選択に限りがあり、戦争未亡人も多かった。)

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(三木武吉、1884年~1956年)

 もちろん半世紀も前の出来事が今の世の中で通用するとは思っていない。モラルのあり方も社会の価値観も時代によって大きく変化してゆくものである。しかし犯罪的な要因があることならばともかく、単なる個人的な人間関係、プライベート上の醜聞によって全人格が否定され、その人間を職務から追放しなくては成らないものかと思うものである。
 今回続いた事件の問題は双方が既婚者の不倫ということであるが、それは当事者間で話し合うなり、裁判で決着をつければよい話であると思う。マスコミや第三者が神や裁判官のごとく断罪しようとする風潮をなんとも情けなく感じるものである。

 かつてフランスのミッテラン大統領は、自身の愛人の死に臨み、堂々とその娘と共に葬儀に出席した。その折、アメリカのマスコミがその是非を問うインタビューを行ったが、ミッテランは「そのとおりです。それがどうかしましたか?」(誰かに迷惑をかけているのですか?)と答えたという。フランスではニュースにもならなかったそうである。
 「個人主義が確立した大人の国と大衆民主主義の国の違い」などとコメントするとまた叱られることになるかもれしないが、人間は人生のすべての局面で完全であることはできないし、完全を目指していても失敗することもある。その対応は個人が行うべきことであり、第三者が果たしてどこまで介入すべき領域であるのかと思うものである。
 ことに私達のいる政界は、意図的にワナを仕掛けられるケース(ハニー・トラップ)もあるだけに、より大きな注意と自制心が要求されるのだろう。
 そう言えば私も少し心配がある。先日行った出版記念パーティーで、魅力的な70代、80代の女性と望まれるまま肩を組んだりして、不適切な(?)写真を数多く撮ってしまった。選挙になるとこれらの写真が問題となるのだろうか?

『夢ある新しい岡崎へ』出版記念パーティー

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2018年6月26日 (火)

半年ぶりの運転

 市長職に就いてから、めっきり自分で車の運転をする機会が減ってしまった。最初の1年間で愛車プリウスのバッテリーが3回も上がってしまい、現在、車の管理権は妻のものとなってしまった。
 そのため、たまに時間ができて車を使いたいと思った時に車が無いということが起こる。自分の車が無いことがいかに自由を制限されるものであるか、我が身にしみて思い知らされている。おまけに役所からも「自分で車を運転しないように」と言われている。まさかの時に役所が困るからである。何とも堅苦しいことである。

 5月の連休中になんとしても引っ越し作業を終えたくて、半年ぶりに車のハンドルを握った。すでに何年間も公用車の運転手さんの模範運転を見ているせいか、すっかり自分も安全運転となっていることに気がついた。
 若いつもりでいても60歳を超えると、反射神経や周囲への認知力も若い頃に比べ落ちているはずである。若いのは自分の気分だけである。最近、高齢運転者の事故が多発していることを見るにつけ、そのことを痛感している。免許証を返還して公共交通機関を利用して頂くことが一番良いのであるが、そうもいかないケースも当然あることだろう。
 運転をする場合、一番気をつけることはやはり「スピードを出さない」ことであると思う。高スピードになると、コンマ秒単位で視認し判断することが増えてくる。そうなると、分かっているつもりでも見落としや判断ミスが出てくる。残念ながらそれが老いというものである。高齢者の方はくれぐれも御注意願いたい。

 高齢者の運転と言えば、かつてこんなことがあった。
 アメリカの大学にいた頃の話であるが、アメリカの友人の車で郊外に出かけた時、道路の前方に車が8台ほども数珠(じゅず)つなぎとなり走っている列の後尾に着く流れとなった。

Yasuhiro Uchida

 アメリカ中西部(インディアナ州)の信号も少ないイナカ道で、どうしてこんなに低速走行(20キロくらい)しているのだろうかと思ったところ、カーブにさしかかった所でどうやら先頭の車の運転手が高齢のおじいさんであることが分かった。後続の車もそのことが分かっているらしく、クラクションも鳴らさずにおとなしくユックリ運転をしている。
 おばあさんと二人連れの古ぼけたピックアップ・トラックであったが、信号に差しかかった時、ウィンカーを左に出しながら右折して行ってしまった。私は車の中で友人と大爆笑してしまったが、その時の後続車のイナカのアメリカ人達のやさしさ、辛抱強さに感心したものだった。(40年前のことであり、単に急ぎでなかっただけかも?)

 日本では近年、高速道路における〝あおり運転〟が問題となっている。こういう犯罪者はしっかり取り締まるべきであると思っているが、忙しい現代社会の中で私達も心の余裕を無くしていることに気がつかされることがある。
 一呼吸おいて考えてみれば、なんということのないことに心を奪われて短絡的な考えや行動に走って、要らぬトラブルに巻き込まれたり失敗を招いたりすることがあるものだ。
 久しぶりに車のハンドルを握ってみてそんなことをフト思ったものである。

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2018年6月13日 (水)

最近はやりの「声なき声」について

 「声なき声を聞く」という言葉が再び、各地の議場や街頭演説の決めゼリフの一つとして流行(はや)っているような気がする。
 しかし私のように政治の世界に長く首を突っ込んでいる人間にとって、最近の「声なき声」の言葉の使い方に大きなとまどいと違和感を覚えるものである。
 そもそも「声なき声」の語源は英語のサイレント・マジョリティ(Silent Majority)である。元々の意味は「静かなる多数派」「物言わぬ大衆」であり、現状に満足しているか、あるいは大きな不満がないため、あえて声にして意見をしない人々のことである。

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 ところが現在この言葉を好んで使う人達の用法は、「自分達の意見が政治に反映されない人達の声」という意味での使われ方であり、明らかに誤用である。しかもその実態は「声の大きな少数者」であり、「自分達の特異な意見に固執するがゆえに多数となりえない異端者の声」を「声なき声」として表現しているケースが多いのである。

 かつてアメリカのニクソン大統領が1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」としてこの言葉を使ったことがある。当時私は高校生であったが、ベトナム戦争に反対して過激な活動を行う一部の学生に対し、ニクソン氏が「そうした運動や声高な発言をしない多くのアメリカ国民は決してベトナム戦争に反対していない」という意味でこの言葉を使っていたことを覚えている。実際、その後1972年の大統領選挙において、ニクソンは50州中49州で勝利し、圧勝している。
 また、日本においても1960年(昭和35年)の第1回目の「安保闘争」(日米安全保障条約反対闘争)の折に、当時の岸信介首相(安倍総理のおじいさん)が「国会周辺のデモ隊は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもどおり人であふれている。私には、そうした〝声なき声〟が聞こえる」と発言して、安保反対運動に参加していない一般の国民のことを「声なき声」として表現している。
 「声なき声」の用法としては、本来はこうしたものが正しい使い方である。

 とかく政治の現場は声の大きな人々の意見の影響を受ける傾向があるが、必ずしも大きな声が正当な意見、多くの人々の意志を体現しているとは限らない。声だけ大きく遠慮知らずのワガママな意見に辟易しながらも、自らの意見はあえて述べない多くの人々がいるということをもっと冷静に考えるべきではないかと思っている。
 そしてさらに気になるのは、これは以前指摘したことでもあるが、TVや新聞で「この件に関して市民は・・・」といった書き出しで登場する人物及びその意見が、とても一般市民の代表的な考えとは思えないものが目につく点である。
 その地域では有名な特殊政治集団の活動家や、何事にも文句を言うことが生きがいのような「地元の困ったちゃん」、はたまたモノゴトの本質を全く理解していないと思われる第三者の声が〝市民の声〟として紹介されることがあるのである。まるで誰かによって意図的に選別され編集された発言を、〝市民の声〟というオブラートに包んで一般的に広めようとする隠された意志の存在が感じられるのである。

 事実を平穏に伝えるのではなく、あえて平地に乱を喚起するかのような報道姿勢がうかがえることがある。世の中には未だに社会主義を最良と考える人々がいるものであるが、あたかも反権力的な発言や意見を取り上げることが報道の使命であるかの如く勘違いしているマスコミ関係者もいるようである。
 より中立性が求められる選挙時における報道においてすら、一方的に偏った報道がなされることがある。時に事実を誤認させるようなキャンペーン記事を意図的に流すマスコミもあるのである。例えば犯罪者と特定地域の関係性を必要以上に強調しようとしたりすることもある。(これを〝イメージ操作〟と称する。)
 最近政府の放送制度改革を一部マスコミが反対している。これまでの規制を緩和して自由な情報発信ができるようになるのであるから結構なことであると思われる。逆にこれまで自分達の首カセとなっていた建前の中立性がとれるのであるから、この際もっと自由にして欧米のように自社の思想的立場、報道姿勢、支持政党まで公表して堂々と論陣を張った方がよほどスッキリして分かりやすい。
 〝言論の自由の守護者〟を任じる人々が自分達の考えと異なる意見が出ることに反対するということもおかしなことである。よほど新たな競争相手の参入を歓迎してないかのようにみえる。
 「報道の中立」を建前上の表看板としながら、実際は御都合主義的に偏向報道を行う現在のあり方の方がよほど不健全な姿である。情報提供を多様化して判断は市民の良識に任せる方がより正しいあり方ではないだろうか?

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2018年4月 1日 (日)

ビフォア・アフター

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(2017年8月撮影)

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(2018年3月撮影)

 犬と三匹の猫との生活もこれで7ヶ月となった。どういう訳か私にだけなつかなかった犬も、毎朝毎晩「散歩に行くよ」と言うだけで犬小屋から飛び出して来るようになり、三匹の猫とは毎夜一緒に寝る生活がすっかり定着している。犬猫共に借家生活にすっかり馴染んでおり、それぞれ借家生活中に一回り大きくなったような気がする。
 建設中の新居も3月にようやく完成した。これで引っ越しが終われば〝ハッピーシングルライフ〟も終わりを告げることになり、少々残念ではある。もっとも、まとまった時間をとれそうにないため引っ越しが完了するのはまだ1ヶ月先のことになりそうである。
 これで防災の専門家である名古屋大学の福和教授から「災害対策本部長が余震で崩れそうな家に住んでいては困りますネ」と言われずに済むことになる。いずれにせよ今後、「町の景観を説いている本人の家が景観を損なっている」と言われないことを願っている。

 新たに土地を手に入れる必要が無いため現住所にて家を建て替えることにしたが、今回、中心市街地の防災地域に家を建てることの特殊性を思い知ることとなった。
 家の前の道路が十分な広さが無いことから、新築する場合は道路から2メートル後退(セットバック)しなくてはならない。しかも火事になった場合の類焼の危険性を避けるため、片側75センチ、あわせて1メートル半のスペースを空けなくてはならない。そのためこれまでより一回り小さい家しか建たないことになる。かと言って、3階建て以上にすれば防火壁を設けなくてはならなくなるし、窓や駐車場も防火シャッターを付けなくてはならなくなるという。
 当初私も鉄筋3階建てを考えていたが、小型エレベーター付きの建物の見積もりが1億近くになりギブアップすることとなった。そこで知恵者から「耐火構造、耐震構造となっていれば木造であっても建築許可が下りる」とのアドバイスを受け、ツーバイフォーで建築することにした次第である。

 これまでちまちま貯めた貯金と半分税金にとられた退職金を使い、10年で残金をローンで支払う契約をした。仮に私が明日死んでも生命保険で残金を完済できることが分かったため、この歳で思い切って新築の決心をしたのである。
 家を建てるのは30~40代の人が多いと思い込んでいたが、意外と60代で退職を機に建て替えをする人が多いことを知った。定年後、退職金を使って老人向きの住宅を建てることにすれば退職離婚の危険を避けられるからかもしれないと思うものである。本格的な高齢化の時代を迎え、この傾向はしばらく続くことになるかもしれない。
 いずれにせよ、私の場合これで再び女房殿の声を毎日耳にすることとなり、ストレスの多い生活が再開することになる。とりあえず嫁さんの部屋を1階にして、2階の私の部屋から離したことは正解であったと思っている。
 そして今回猫のためにキャットウォークを造ったことで猫のイタズラを少しは減らせるものと期待している。人の生活領域と猫の占有領域を区別することで、共に快適に生活できることを意図したものである。犬は2階のテラスで飼うことになるが、これまでより広いスペースがあるため犬にも良好な環境になるものと思っている。
 その話を人にしたところ、早速「あにも」から「もう2匹ほど猫を引き取ってもらえないか」と声がかかってしまった。私は別に恵まれない猫のための施設を作ったわけではないのでその点勘違いしないでほしい。

 引っ越しの効用の利点の一つは、とかく無駄なものを抱えがちな現代の生活において、そうしたものを見直し整理する一つの切っ掛けとなる点である。昨年の8月と今回の2回の引っ越しで無駄なものを整理してスッキリした生活にしたいものである。
 先日ある人から「5年見なくて済んだモノ、3年使わなかったモノは捨ててもいい」と言われたが、それならウチの嫁さんを捨てる訳にはいかないだろうかとフト思った。(きっと向こうも同じことを言うだろうが!) 世界的に有名な片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんも整理整頓の本の中で「ときめきを感じないものは思い切って捨てる」と書いているではないか。
 そこで試しに「家が新しくなったので、あとは車と女房を取り替えるのが人生の次の目標になる」と言ったところ、早速「やれるものならやってゴラン」という冷めた声が返ってきた。当分悩み多き人生から逃げることはできそうもないようである。


引っ越し大作戦完了す (その1) (2017.09.04)

引っ越し大作戦完了す (その2) (2017.09.08)

三猫と一犬との共同生活始まる (2017.09.30)

一人暮らしと犬猫について (2018.01.15)

新居と新入家族 (2018.09.24)

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