平成12年(2000年)9月22日、神奈川県厚木基地で行われた米海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念の祝賀夕食会に、かつての日本海軍航空隊のエース・パイロットの一人として名高い坂井三郎氏は来賓として招かれ、自らの人生について語り、食事を終えた後、体調不良を訴え、帰らぬ人となった(享年84)。
太平洋戦争が終了してから50年以上の歳月が経過していたのに、なぜかそのニュースを耳にした瞬間、〝零戦の時代〟の終わりを感じた。飛行機としての零戦を生み出した三菱の堀越二郎氏は、その18年前の昭和57年に78歳ですでにこの世を去っていた。生みの親と育ての親(?)が共に亡くなったような気がしたのだ。
大戦中の有名な零戦搭乗員は他に何人もいる。しかし、戦後その著書『大空のサムライ』によって、零戦という飛行機の存在と活躍を世界中に伝えた坂井氏こそが、育ての親と呼ぶにふさわしい人物だと私は思う。(『大空のサムライ』は外国でもベストセラーとなり、また映画化もされた。)

坂井三郎氏は日本海軍航空隊のベスト10に入る撃墜王(エース)であり、中国戦線に始まり、台湾の台南航空隊、南太平洋のラバウル航空隊、そして硫黄島での戦いも含め、目を負傷して本土に送還されてからも戦い続けた。撃墜スコア64機と言われ(日本軍は個人撃墜を認定せず、部隊戦績として記録していた)、アメリカのエース協会(撃墜5機以上)の正規メンバーの一人としても認められている。
アメリカという国の面白さは、戦争で戦った相手国の人間であっても、勇者と目される人物にはそれなりの敬意を払うという一種のフェア・プレイ精神のある点である。終戦直後、占領軍・GHQ(総司令部)が戦犯被疑者の逮捕と共におこなったことの一つに、各戦地の戦闘の状況分析のための当事者に対する聴き取り調査があった。
戦後、占領軍から召喚状を受け取った坂井三郎氏は、米軍の迎えのジープに乗せられた時に「銃殺されるかもしれない」と覚悟したそうである。ところが、相手の対応はきわめて紳士的で、各空戦における状況証言を克明に記録されたそうである。それをアメリカ側の記録と照合して、行方不明兵士の戦死確認をするという目的もあった。坂井氏はその後、オミヤゲ付きで自宅まで送り返されている。
戦後の東京裁判における戦犯認定のあり方や、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという裁判のやり方そのものに異論をお持ちの方もあるだろう(あれは一種の〝国際的政治ショー〟であったという指摘もある)。ただ、戦勝国の敗戦国への対応の仕方が、その国の国家的成熟度、民族的体質や文化的特徴、あるいは宗教的影響、時のリーダーの資質等の要素によって異なるということは御理解頂けると思う。そしてまた、アメリカの対日占領政策の最重要事項が日本の武装解除と日本人の精神的価値観の変換にあったことは忘れてはならないことである。

日本の撃墜王・坂井三郎氏を記述したついでに、ドイツの例にも触れてみたい。
第二次大戦中の最高撃墜記録保持者は352機撃墜の独空軍(ルフトヴァッヘ)のエーリッヒ・ハルトマン大尉である。彼は親が飛行機の教官という環境に育ち、若くして操縦桿を握る機会にも恵まれ、超・スーパー・エースの道を歩むことになった。ハルトマンの主戦場はヨーロッパ東部戦線であり、敵機は性能の劣るソ連機であった。また、爆撃機相手のスコアも多く、数字を過小評価する意見もあるが、いずれにせよ一人で352機というのは尋常な数字ではない。後にも先にもこんな記録を残したのは世界で彼ただ一人であり、空前絶後であろう。
日本やアメリカの撃墜王は30~50機、最高でも100機くらいと言われているのに、ドイツではハルトマンは別格としても200機撃墜以上が15名、100機以上は100人以上も数えられる。一度、本当なのか調べたことがあるが、独軍は個人記録を賞賛して認めていただけにその認定基準も厳しく、二人以上の目撃証言に加え、内陸戦であったために敵機の墜落現場の確認まで行われることがあったという。

同じく独空軍のハンス・ヨアヒム・マルセイユ中尉は西部戦線において、高性能の英米戦闘機を相手に短期間で158機を墜としている。何とそのうち60機はひと月の間に撃墜したという。
アフリカ戦線における戦車戦の武勲により「砂漠の狐」の異名をもつロンメル将軍も「アフリカでの勝利は、彼の力なしでは考えられない」と激賞している。華々しい活躍と、若くハンサムな容姿に加え、ハデな言動が国民的人気を呼び、「アフリカの星」というニックネームまである(戦後、西ドイツで同名の映画も作られた)。今で言うロック・スターかサッカーの得点王のようなもので、そうした人気を戦意高揚に政治的利用しようとするアドルフ・ヒトラーのお気に入りとなり、何度も勲章を受けている。メッサーシュミットの機体に描かれた〝黄色の14番〟は彼の代名詞となった。マルセイユは新型機のエンジンの不調と脱出時のアクシデントにより、アフリカの砂漠上空であっけない最期を遂げている(享年22)。ドッグファイトにおける旋回中の「見越し射撃の天才」と呼ばれた彼が長く戦い続けることができたなら、ハルトマンの記録に近づいたことだろう。しかし、これが人の運命というものである。

「見越し射撃」とは、クレー射撃を飛行機に乗りながら行うのに似ている。ちょうど斜め上空に投げたドッジボールが放物線を描いて落ちてくるのを、野球ボールを投げてはじき飛ばすようなものである。現在ドッジボールが位置する所を目がけて投げても当たらない。数秒後の未来位置を予測して、その空間にボールを投げなくては当てることはできないのだ。
しかも空中戦の場合、飛行機は相手の射弾をかわすために数百キロのスピードで高速旋回して移動している。それを追う側も同様に旋回移動しているわけである。旋回する機体から撃ち出される弾丸には外向きのG(加重)がかかるため、弾は外側に流れて飛んでゆく。ちょうど水が勢いよく出るホースを軽く上下に振れば、水もそり上がる原理と同じことである。そうした誤差を瞬時に読み取り、高速旋回する相手の未来位置を予測し、何もない3Dの空間に射弾を送り敵機を撃破するのである。その瞬間、双方のパイロットの体には、顔もゆがむほどの4Gから5Gの遠心力による負荷がかかっている。中には失神(ブラックアウト)する者もいた。またマルセイユの機動は独特なものであり、編隊を組む僚機でさえ、ついて行けなかったという。
まさに人間枝を超えた能力であり、マルセイユは若くしてこの技術の達人であったそうである。しかも無駄弾も少なく、出撃の度に弾丸を残して帰還したという。これも一種の天才と言えるだろう。
一方ハルトマンは撃墜を重ね終戦まで生き残ることができたものの、ソ連軍の捕虜となった。ソ連側はハルトマンを戦犯のように扱い、10年間も抑留されることになった。解放後、彼を待ち続けた愛妻ウルスラのもとに戻れることになるが、相手が英米であればそのような対応はなかったはずである。それはまた、大戦中、愛機の機首に〝黒いチューリップ〟のマークをつけていたハルトマンが、いかにソ連側に怖れられ、重大に考えられていたかの証しと言えるかもしれない。
先程も記したように、なぜドイツ空軍のエース達の撃墜スコアがこんなに突出して多いのか疑問に思ったものであるが、やはりこれには理由がある。ドイツの戦いが主に内陸部の戦いであり、機体が破壊されてもパラシュートさえあれば脱出して生還する確率も高く、リターン・マッチのチャンスがあったからである。失敗を教訓にして経験を積むことができれば、さらに優れた存在となりえることは何事においても同じである。ハルトマン自身、三回の被撃墜を体験しているが、その都度生還している。
そしてもう一つ、基地から遠くない戦場ならばそれだけ良いコンディションで戦いに臨むことができる。本人の腕が確かならば、出撃回数に比例して撃墜数も増えていくことになるのである。
対して、戦場が南太平洋であった日本軍は悲惨である。
うまく海に不時着しても、そこは外洋性の大型ザメの群生地である。さらに日本人パイロットはパラシュートの装着を潔しとしない考え方があり、身に着けずに出撃する者も多かったという。何より日本側はアメリカほど人命救助に熱心ではなかったし、またその余裕もなかった。
米軍は各機に食糧や医療品、救命セット付きの小型ゴムボートを常備させていた。生存者がいれば、すぐに双発のカタリナ水上機や潜水艦で救助に向かった。簡単に自爆して果てようとする日本と比べ、この差は大きい。
また日本の飛行機は、終戦近くまで無線機がほとんど役に立たなかったという。坂井三郎氏などは「役に立たないモノはいらない」と無線機をとりはずして機体を軽くし、アンテナものこぎりで切り落としていたそうである。そのため日本機は手信号を用いたり小型黒板にチョークで字を書いたりして意思の疎通をしていた。真珠湾攻撃の際に信号弾による合図が編隊全体にうまく伝わらず、念のために二発目を撃ったために「奇襲攻撃」の指令が「強襲」となってしまい、雷撃機、爆撃機の攻撃の順番に混乱が生じたことはよく知られている。しかしこのエピソードは、それでも攻撃をそつなくこなした当時の日本海軍航空隊の腕前と練度の高さを裏付ける話でもある。
アメリカは高性能の無線機によって相互連絡をとりながらチームプレーで零戦に立ち向かっていった(サッチ・ウィーブ戦法)。日本側は、零戦の長い航続距離に頼った長距進攻作戦を継続的におこなった。軍令部(参謀本部)で作戦を立てている秀才達の頭からは、前線で戦っているのが生きた人間であるという配慮が欠落していたのである。無理な作戦を継続しために、パイロットの疲労、消耗は激しく、生き残って帰途についても機上で眠ってしまうことがあった。そうした時にも、降下してゆく仲間の機が海面に激突するまでただ見送ることしかできなかったという。良質の無線機があれば助かった命もあったはずだ。
そのような劣悪な条件の中で戦い、生き残り、撃墜数100機以上とも言われた西澤広義中尉や、終戦まで生き延びた岩本徹三中尉(本人の日記には202機の記述がある)の存在は驚異的とさえ言える。

我々戦後世代の人間は、実体験としての戦争経験がないため、戦いの記録について新型自動車の性能の比較やプロ野球選手の記録を分析するように語ってしまう傾向があり、少々反省している。
坂井氏と同様、中国戦線以来の零戦搭乗員であり、数少なくなった生き証人の一人である原田要氏(97歳)が今年の秋、『わが誇りの零戦』という本を著した。原田氏はある日若者の一人から「名機・零戦を駆って大空を飛び回った想い出は、さぞやすがすがしかったでしょうネ」と言われたという。そのとき彼は「重苦しく、嫌な記憶ばかりです」と答えている。また、戦後十年程の間、毎晩空中戦の夢を見てうなされ、叫び声を上げて飛び起きることもあったそうだ。実戦では一度も敵に後ろをつかれたことのない自分が、毎晩夢の中で敵に追われる立場となるのである。(こうしたものを「戦時トラウマ」と呼ぶ。)
彼に限らず、前線で戦った経験者は自らの体験について一様に口が重いが、原田氏は「生ある限り、自らの体験を後世に伝えていきたい」と語っている。(つづく)
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