エターナル・ゼロ

2014年1月27日 (月)

映画『永遠の0』を観て

永遠の0

 1月1日夜、甥や姪たちと共にレイトショーなるものに初めて出かけることとなった。映画館で映画を観るのは実に20年ぶりのことであった。これまではすっかりビデオやDVDで観賞する習慣となっていた。しかし今回だけは、どうしても映画館の大画面で最新鋭のコンピューターグラフィックスの出来映えを味わってみたいという思いが強かったのである。

 結論から言うと、『永遠の0』は期待感が大きかっただけに少々ガッカリしてしまった。途中まではストーリー展開の巧みさや、CGの緻密さ、時代考証をしっかりとらえた飛行機や軍艦の様子に感心して観ていた。ところが後半の四分の一ぐらいから物語の運びが少々雑になり、小説かマンガを読んでいない人には話のつながりが分かりにくかったのではないかと思う。
 また、真珠湾攻撃の成功の後に一人だけ「空母がいなかった」と沈痛な顔をしていたのもウソっぽい。当時、どこを攻撃するかも知らずに何ヶ月にもわたって猛訓練ばかりやってきた下士官・兵の中にそんな奴がいるはずがない。ただただ喜びにはじけていたはずだ。あの時点で空母の心配などしていたのは、山本五十六大将と一部の幕僚ぐらいのはずである。第一アメリカですら、やられてみて初めて空母中心の航空機動部隊の力を思い知ったのである。それまでは仮に攻撃のあることを知っていたとしても、彼らは日本の力などなめていたのだ。
 もう一つ、小説の中で最重要であった、姉の婚約者の新聞記者と大企業の会長となった元・特攻隊員とのやりとりが、友人との合コンの単純な討論にすり替えられていたことは実に残念であった。
 日本の戦後歴史教育と戦争中から今に至るマスコミの欺瞞性を、戦争の当事者との対話によってアブリ出すというところにこの物語の一つのポイントがあったのに、あの描き方では映画の価値を下げてしまっている。映画製作への協力と完成後の宣伝活動に対する配慮があったせいか、お茶を濁した切り口になってしまったのは、やはり営業第一なのかと思わされる。
 それから最終盤。現代の幸福な家族風景の場面と共に、主人公の孫が歩道橋を渡る場面がある。そこに向かって宮部の乗った零戦が幻想的に飛んで来るという、マンガチックであざとい仕掛けがこの映画を台無しにしてしまっていると思う。またその時の孫役の男の演技がオーバーでクサイ。ここで感動を盛り上げようという製作側の企(たくら)みが見え見えで、シラけてしまった。
 あれだけの原作とすぐれたCG技術を駆使しておきながら、どうしてこんなつまらない結びにしたのかと残念でならない。想像による余韻効果を期待して〝突入場面〟で終えたのであろうが、シリ切れトンボの感がある。
 最後の特攻場面は「マジック・ヒューズ」(VT信管)の意味も含め、素人には少々説明不足である。米空母艦上での艦長と兵士のやりとりを削除したのも理解できない。唯一反対側の視点を見せる、締めとして重要な場面だったのだが、あの部分を省略したことで、何となく情緒性にのみ流れてしまったように思う。これではとても外国に持って行ける映画とはならないだろう。

 長大な物語を2時間強の映画にくまなくまとめることは無理なことはよく分かるが、小説が100点とするならば、マンガは96点、映画は78点といったところだと思う。
 配役が良かっただけに本当にもったいないことである。しかしCGの部分を見直すためにDVDは買おうと考えている(再編集のディレクターズ・スペシャルが出ることを期待している)。
 映画と小説は別物と割り切って観れば、それなりに楽しめる映画ではあるが、できればぜひ小説を読んでほしいものである。
 とはいえ、ふだん辛口のコメントの多い下の息子が「日本の映画で初めて感動した」と言っていた。ひょっとすると、この映画はそうした世代向けに作られているのかもしれない。

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2013年12月 8日 (日)

エターナル・ゼロ その3(日独の撃墜王たち)

 平成12年(2000年)9月22日、神奈川県厚木基地で行われた米海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念の祝賀夕食会に、かつての日本海軍航空隊のエース・パイロットの一人として名高い坂井三郎氏は来賓として招かれ、自らの人生について語り、食事を終えた後、体調不良を訴え、帰らぬ人となった(享年84)。
 太平洋戦争が終了してから50年以上の歳月が経過していたのに、なぜかそのニュースを耳にした瞬間、〝零戦の時代〟の終わりを感じた。飛行機としての零戦を生み出した三菱の堀越二郎氏は、その18年前の昭和57年に78歳ですでにこの世を去っていた。生みの親と育ての親(?)が共に亡くなったような気がしたのだ。
 大戦中の有名な零戦搭乗員は他に何人もいる。しかし、戦後その著書『大空のサムライ』によって、零戦という飛行機の存在と活躍を世界中に伝えた坂井氏こそが、育ての親と呼ぶにふさわしい人物だと私は思う。(『大空のサムライ』は外国でもベストセラーとなり、また映画化もされた。)

坂井三郎

 坂井三郎氏は日本海軍航空隊のベスト10に入る撃墜王(エース)であり、中国戦線に始まり、台湾の台南航空隊、南太平洋のラバウル航空隊、そして硫黄島での戦いも含め、目を負傷して本土に送還されてからも戦い続けた。撃墜スコア64機と言われ(日本軍は個人撃墜を認定せず、部隊戦績として記録していた)、アメリカのエース協会(撃墜5機以上)の正規メンバーの一人としても認められている。
 アメリカという国の面白さは、戦争で戦った相手国の人間であっても、勇者と目される人物にはそれなりの敬意を払うという一種のフェア・プレイ精神のある点である。終戦直後、占領軍・GHQ(総司令部)が戦犯被疑者の逮捕と共におこなったことの一つに、各戦地の戦闘の状況分析のための当事者に対する聴き取り調査があった。
 戦後、占領軍から召喚状を受け取った坂井三郎氏は、米軍の迎えのジープに乗せられた時に「銃殺されるかもしれない」と覚悟したそうである。ところが、相手の対応はきわめて紳士的で、各空戦における状況証言を克明に記録されたそうである。それをアメリカ側の記録と照合して、行方不明兵士の戦死確認をするという目的もあった。坂井氏はその後、オミヤゲ付きで自宅まで送り返されている。

 戦後の東京裁判における戦犯認定のあり方や、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという裁判のやり方そのものに異論をお持ちの方もあるだろう(あれは一種の〝国際的政治ショー〟であったという指摘もある)。ただ、戦勝国の敗戦国への対応の仕方が、その国の国家的成熟度、民族的体質や文化的特徴、あるいは宗教的影響、時のリーダーの資質等の要素によって異なるということは御理解頂けると思う。そしてまた、アメリカの対日占領政策の最重要事項が日本の武装解除と日本人の精神的価値観の変換にあったことは忘れてはならないことである。

エーリッヒ・ハルトマン

 日本の撃墜王・坂井三郎氏を記述したついでに、ドイツの例にも触れてみたい。
 第二次大戦中の最高撃墜記録保持者は352機撃墜の独空軍(ルフトヴァッヘ)のエーリッヒ・ハルトマン大尉である。彼は親が飛行機の教官という環境に育ち、若くして操縦桿を握る機会にも恵まれ、超・スーパー・エースの道を歩むことになった。ハルトマンの主戦場はヨーロッパ東部戦線であり、敵機は性能の劣るソ連機であった。また、爆撃機相手のスコアも多く、数字を過小評価する意見もあるが、いずれにせよ一人で352機というのは尋常な数字ではない。後にも先にもこんな記録を残したのは世界で彼ただ一人であり、空前絶後であろう。
 日本やアメリカの撃墜王は30~50機、最高でも100機くらいと言われているのに、ドイツではハルトマンは別格としても200機撃墜以上が15名、100機以上は100人以上も数えられる。一度、本当なのか調べたことがあるが、独軍は個人記録を賞賛して認めていただけにその認定基準も厳しく、二人以上の目撃証言に加え、内陸戦であったために敵機の墜落現場の確認まで行われることがあったという。

ハンス・ヨアヒム・マルセイユ

 同じく独空軍のハンス・ヨアヒム・マルセイユ中尉は西部戦線において、高性能の英米戦闘機を相手に短期間で158機を墜としている。何とそのうち60機はひと月の間に撃墜したという。
 アフリカ戦線における戦車戦の武勲により「砂漠の狐」の異名をもつロンメル将軍も「アフリカでの勝利は、彼の力なしでは考えられない」と激賞している。華々しい活躍と、若くハンサムな容姿に加え、ハデな言動が国民的人気を呼び、「アフリカの星」というニックネームまである(戦後、西ドイツで同名の映画も作られた)。今で言うロック・スターかサッカーの得点王のようなもので、そうした人気を戦意高揚に政治的利用しようとするアドルフ・ヒトラーのお気に入りとなり、何度も勲章を受けている。メッサーシュミットの機体に描かれた〝黄色の14番〟は彼の代名詞となった。マルセイユは新型機のエンジンの不調と脱出時のアクシデントにより、アフリカの砂漠上空であっけない最期を遂げている(享年22)。ドッグファイトにおける旋回中の「見越し射撃の天才」と呼ばれた彼が長く戦い続けることができたなら、ハルトマンの記録に近づいたことだろう。しかし、これが人の運命というものである。

Messerschmitt Bf109

 「見越し射撃」とは、クレー射撃を飛行機に乗りながら行うのに似ている。ちょうど斜め上空に投げたドッジボールが放物線を描いて落ちてくるのを、野球ボールを投げてはじき飛ばすようなものである。現在ドッジボールが位置する所を目がけて投げても当たらない。数秒後の未来位置を予測して、その空間にボールを投げなくては当てることはできないのだ。
 しかも空中戦の場合、飛行機は相手の射弾をかわすために数百キロのスピードで高速旋回して移動している。それを追う側も同様に旋回移動しているわけである。旋回する機体から撃ち出される弾丸には外向きのG(加重)がかかるため、弾は外側に流れて飛んでゆく。ちょうど水が勢いよく出るホースを軽く上下に振れば、水もそり上がる原理と同じことである。そうした誤差を瞬時に読み取り、高速旋回する相手の未来位置を予測し、何もない3Dの空間に射弾を送り敵機を撃破するのである。その瞬間、双方のパイロットの体には、顔もゆがむほどの4Gから5Gの遠心力による負荷がかかっている。中には失神(ブラックアウト)する者もいた。またマルセイユの機動は独特なものであり、編隊を組む僚機でさえ、ついて行けなかったという。
 まさに人間枝を超えた能力であり、マルセイユは若くしてこの技術の達人であったそうである。しかも無駄弾も少なく、出撃の度に弾丸を残して帰還したという。これも一種の天才と言えるだろう。
 一方ハルトマンは撃墜を重ね終戦まで生き残ることができたものの、ソ連軍の捕虜となった。ソ連側はハルトマンを戦犯のように扱い、10年間も抑留されることになった。解放後、彼を待ち続けた愛妻ウルスラのもとに戻れることになるが、相手が英米であればそのような対応はなかったはずである。それはまた、大戦中、愛機の機首に〝黒いチューリップ〟のマークをつけていたハルトマンが、いかにソ連側に怖れられ、重大に考えられていたかの証しと言えるかもしれない。
 先程も記したように、なぜドイツ空軍のエース達の撃墜スコアがこんなに突出して多いのか疑問に思ったものであるが、やはりこれには理由がある。ドイツの戦いが主に内陸部の戦いであり、機体が破壊されてもパラシュートさえあれば脱出して生還する確率も高く、リターン・マッチのチャンスがあったからである。失敗を教訓にして経験を積むことができれば、さらに優れた存在となりえることは何事においても同じである。ハルトマン自身、三回の被撃墜を体験しているが、その都度生還している。
 そしてもう一つ、基地から遠くない戦場ならばそれだけ良いコンディションで戦いに臨むことができる。本人の腕が確かならば、出撃回数に比例して撃墜数も増えていくことになるのである。

 対して、戦場が南太平洋であった日本軍は悲惨である。
 うまく海に不時着しても、そこは外洋性の大型ザメの群生地である。さらに日本人パイロットはパラシュートの装着を潔しとしない考え方があり、身に着けずに出撃する者も多かったという。何より日本側はアメリカほど人命救助に熱心ではなかったし、またその余裕もなかった。
 米軍は各機に食糧や医療品、救命セット付きの小型ゴムボートを常備させていた。生存者がいれば、すぐに双発のカタリナ水上機や潜水艦で救助に向かった。簡単に自爆して果てようとする日本と比べ、この差は大きい。
 また日本の飛行機は、終戦近くまで無線機がほとんど役に立たなかったという。坂井三郎氏などは「役に立たないモノはいらない」と無線機をとりはずして機体を軽くし、アンテナものこぎりで切り落としていたそうである。そのため日本機は手信号を用いたり小型黒板にチョークで字を書いたりして意思の疎通をしていた。真珠湾攻撃の際に信号弾による合図が編隊全体にうまく伝わらず、念のために二発目を撃ったために「奇襲攻撃」の指令が「強襲」となってしまい、雷撃機、爆撃機の攻撃の順番に混乱が生じたことはよく知られている。しかしこのエピソードは、それでも攻撃をそつなくこなした当時の日本海軍航空隊の腕前と練度の高さを裏付ける話でもある。
 アメリカは高性能の無線機によって相互連絡をとりながらチームプレーで零戦に立ち向かっていった(サッチ・ウィーブ戦法)。日本側は、零戦の長い航続距離に頼った長距進攻作戦を継続的におこなった。軍令部(参謀本部)で作戦を立てている秀才達の頭からは、前線で戦っているのが生きた人間であるという配慮が欠落していたのである。無理な作戦を継続しために、パイロットの疲労、消耗は激しく、生き残って帰途についても機上で眠ってしまうことがあった。そうした時にも、降下してゆく仲間の機が海面に激突するまでただ見送ることしかできなかったという。良質の無線機があれば助かった命もあったはずだ。
 そのような劣悪な条件の中で戦い、生き残り、撃墜数100機以上とも言われた西澤広義中尉や、終戦まで生き延びた岩本徹三中尉(本人の日記には202機の記述がある)の存在は驚異的とさえ言える。

  西澤広義 岩本徹三

 我々戦後世代の人間は、実体験としての戦争経験がないため、戦いの記録について新型自動車の性能の比較やプロ野球選手の記録を分析するように語ってしまう傾向があり、少々反省している。

 坂井氏と同様、中国戦線以来の零戦搭乗員であり、数少なくなった生き証人の一人である原田要氏(97歳)が今年の秋、『わが誇りの零戦』という本を著した。原田氏はある日若者の一人から「名機・零戦を駆って大空を飛び回った想い出は、さぞやすがすがしかったでしょうネ」と言われたという。そのとき彼は「重苦しく、嫌な記憶ばかりです」と答えている。また、戦後十年程の間、毎晩空中戦の夢を見てうなされ、叫び声を上げて飛び起きることもあったそうだ。実戦では一度も敵に後ろをつかれたことのない自分が、毎晩夢の中で敵に追われる立場となるのである。(こうしたものを「戦時トラウマ」と呼ぶ。)
 彼に限らず、前線で戦った経験者は自らの体験について一様に口が重いが、原田氏は「生ある限り、自らの体験を後世に伝えていきたい」と語っている。(つづく

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2013年11月 9日 (土)

エターナル・ゼロ その2(零戦と堀越二郎)

 皇紀2600年(昭和15年)の末尾のゼロをとって「零式艦上戦闘機」と名付けられたことは有名な話であるが、零戦は初期の1・1型に始まり最終の63型まで合計10,425機生産されている。(ちなみに型番の最初の数字は発動機の型、2番目の数字は機体の形状を表している。)
 その一見きゃしゃな飛行機は、スピード、旋回性能、航続距離、戦闘能力、どれをとっても当時世界第一級の万能戦闘機であった。今では当たり前となっているが、時代に先駆けた水滴型(ティアドロップ型)風防と低翼単葉(胴体の下に一枚の翼)で引き込み脚を持つ全金属製のスマートな機体は、当代の他の飛行機と比べるとズバ抜けて美しかった。空を舞う姿はとても戦う飛行機とは思えない。
 当時自動車と言えばT型フォードぐらいしか日本にはなかったが、そんな自動車すら滅多に見たことのない田舎育ちの軍国少年達の心をさぞや釘付けにしたことだろうと思う。まだ塗装が施されていない段階の銀色の姿と、曲線の多い機体のフォルムは、むしろ女性的とすら言える。受ける印象は「レディ・ゼロ」と呼んでもおかしくないほど美しく繊細だ。大工場の流れ作業による大量生産を前提とした、欧米の無骨で精悍な戦闘機の外見とは一線を画している。ちょうど切れ味と美しさのどちらも追求した日本刀と、破壊力と強度を重視した外国の刀剣との違いのようだ。そこには共に日本人独自の美意識とこだわりの集大成のようなものを感じてならない。

スミソニアン航空宇宙博物館にて

 一般に欧米の軍事研究者は、こんな手のかかる飛行機を当時の日本が1万機以上生産したことにとても驚く。もともと設計主任技師であった堀越二郎氏は、初めからこうした飛行機を造ろうとした訳ではない。海軍からの無理難題になんとか応えようと懸命の努力をし、工夫を繰り返した結果、この傑作機が生まれたのである。
 しかし、無理をすれば様々な所にヒズミが出るのは何事も同じことである。軽量化のためあらゆるムダ(余裕)を削り落としたボクサーの体のような機体は、急降下時の機体強度に限界があり、無理をすると空中分解するおそれがあった。また、戦闘能力と航続距離にこだわったために、操縦者を守るべき防弾鋼板や燃料タンクの防御が軽視されることとなり、あたら多くの優秀なパイロットの命を失うこととなった。グラマンのパイロットシートの後方は、厚さ25mmの人型(ひとがた)の鋼鉄板で守られている。零戦にはそんなものはなかった(52型以降はある)。
 機体の造りだけ比べてみても強度の差は否めない。零戦の外板は超々ジュラルミンを使ってはいるが、0.5mmでしかない。その厚さならハサミで切れてしまうだろう。かつてワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に行った時、グラマンの機体をゲンコツで叩いたところカンカンと音がした。近くにあった零戦は手のひらで触れるとペコンペコンとへこんだことを思い出す。ちょうどドラム缶とコカコーラの空き缶の感触の違いである。
 資源の少ない日本にとって致し方ないことであったとはいえ、こうした人命軽視の対応が戦いの最終的収支決算として、大戦末期の熟練パイロットの不足を招き、若く経験不足なパイロット達による神風特別攻撃隊としての体当たり作戦へとつながって行くのであった。彼ら若いパイロットの力ではもはや、高性能で数の多い敵機相手の空中戦などできない有り様となっていたのだ。
 そうした状況下にあって、本土決戦用に雷電や紫電改などの新型機がようやく開発されてきた。そんな新型機ではなく、使い慣れて性能もよく分かっているせいもあると思うが、「俺が死ぬ時はコイツと一緒だ」と言って零戦に乗って飛び発って行ったというベテラン搭乗員達の意地と心意気は、なんとなく分かるような気がする。

 零戦を美しい飛行機と感じるのは決して私一人の思い込みではなく、真珠湾攻撃に遭遇したアメリカ軍人ですら「その日、ライトグレーのスマートな飛行機が真珠湾上空を乱舞していた」と表現しているくらいである。現在でも世界の航空ショーにおいてデモ飛行が行われると、「ビューティフル!」という言葉が必ず聞けるという。プラモデル飛行機としても、日本はもちろん海外でも売れ筋の一つである。
 アメリカ西海岸にある「プレインズ・オブ・フェイム航空博物館」には、エドワード・マロニー氏が生涯をかけて収集した第二次大戦中の飛行可能な機体が多数保管されている。この博物館の現館長であり、レシプロ機(プロペラ機)によるリノ・エアレースで名を馳せたスティーブ・ヒントン氏は、「ゼロ・ファイターは今でも優れた機体であり、大戦初期においては間違いなく世界一の戦闘機であった」と述べている。事実大戦初期にあって、アメリカ軍は零戦との一対一の空中戦を禁じていたくらいであった。

 この、強く、美しく、遠くまで飛べる飛行機があったからこそ、日本は対米開戦の決断ができたと言える。零戦なしには、真珠湾攻撃も、開戦後の半年間の破竹の勝利もあり得なかったであろう。ましてやラバウルから片道3時間の飛行の末、戦って帰って来るなどというガダルカナル航空戦の作戦計画など、立案すらできなかっただろう。それゆえに『永遠のゼロ』の著者は主人公宮部久蔵の口を通して「私はこの飛行機を作った人を恨みます」と言わせているのである。
 誰よりも生き残ることを望み、部下達に自爆することを戒めていた宮部自身が特攻を志願して終わるという皮肉な結末を迎えるのであるが、その理由は映画か小説あるいはマンガで御確認頂きたいと思う。
 「美しい飛行機を造りたい」という素朴な思いで航空業界に飛び込んだ若き堀越二郎技師の思いとは裏腹に、零戦は数々の栄光と共に、カミカゼの手段に使われるという悲運をまとうことになった。日本海軍の象徴でありながら〝沖縄水上特攻〟に向かわざるを得なかった戦艦大和と同様、今も日本人の心の琴線に触れる存在となっているようである。(つづく

零戦

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2013年10月16日 (水)

エターナル・ゼロ その1(永遠の0)

永遠の0

 三、四ヶ月ほど前、娘からすすめられて、『永遠の0(ゼロ)』という小説を読んだ。以前にも、飛行機マニアの友人から面白い本であると聞いてはいたが、実戦体験者でもない、私より年下の人間の書いた戦記物の小説、ことに航空戦のモノは読む気になれなかった。
 今まで何度も類似の本を手にしたことがあったが、著者の時代考証不足と経験不足(当たり前であるが)から来るリアリティーの無さが目について、本屋の棚の前で流し読み程度のことが多かったのである。ただの冒険活劇物語を読むならば、SFの作り話、「スター・ウォーズ」のようなモノの方が楽しんで読める。史実の戦いは、事実に基づいたリアリティーこそが魂である。
 ところが、今回の百田尚樹氏の『永遠の0』は登場人物も物語もフィクションであることを知りながら、一気に読ませる面白さがあった。著者は自ら著作の動機をこう書いている。
「戦後、焦土と化した祖国を復興させた偉大な世代が消えていく前に、鎮魂と感謝の意味をこめて彼らのことを書いてみようと思った」
 確かに、著者と同世代に属する我々1950年代生まれは、戦争の実体験こそ無かったが、幼少期の生活環境にはまだ戦争の香りが残っていた。駅前にいた傷病帰還兵や浮浪者、クリスマスや季節の変わり目の救済募金活動(救済ナベ)等である。小・中学校時代、町内の集まりの席などの時に耳にした父親世代の戦争体験談や打ち明け話には耳をそば立てて聴き入っていたものであり、〝間接的な戦争体験者〟という著者の言葉には同感できる点がある。
 明治以来の軍国的風潮の中、あの太平洋戦争の時代に、自ら志願し、更に厳しい選抜試験をくぐり抜け、5000人中25人くらいしかなれなかった初期のパイロット試験に合格した中国戦線以来のベテラン搭乗員の中に「私は妻のために、どうしても生きて帰りたい」などと口に出して言う兵士がいたとは、とても考えられない。しかもその「臆病者」と呼ばれる男は「ズバ抜けた空戦技量を持つ天才パイロット」である。著者は、あえてそうした人物を設定することにより、彼を通じてあの戦争における数々の不条理な出来事や日本の軍隊組織の矛盾点を一つ一つ浮き彫りにしてゆくことに成功している。そして、その内容を補い、説明する形で何人もの性格の異なる生き残り搭乗員の証言を織り交ぜて物語をつむぎ出してゆく。

 また、百田氏は、主人公を戦無派の完全戦後世代の人物に設定し、彼らに祖父の実像を調べさせることによって、読者が自然に過去の戦時中の出来事に入り込んでゆくという巧みな手法をとっている。戦争を知らない世代や、興味を持たない世代に戦争の問題を語りかけるためには、主人公に自分を同化させやすいこのやり方は効果的であると思う。現に本書はベストセラーとなり、同名のマンガ本(全5冊、画・須本壮一)も売れている。映画化も決定し、この12月には封切られるとのことだ。
 そして、もう一つ感心させられたことは著者の時代考証の正確さである。この物語がよくある「日本的お涙ちょうだいドラマ」になっていないのは、史実に沿ったリアリズム的手法のせいであると思う。軍隊の制度や運用、使用用語まで正確に再現されている。
 自分の本当の祖父が、終戦直前に神風特別攻撃隊の一員として散華(さんげ)した人物であることが、祖母の死によって初めて明かされるという設定も、実際に身近にありそうである。この物語に登場するパイロットとしての本当の祖父は、実在する特定の人物を再現したものではなく、何人ものパイロットの実話を合成して生み出されたもののようである。
 戦時中に現代人の視点を持った人間がまぎれ込んだら、どのように考え、どのように行動するだろうか?と自然に考えさせられてしまう。この物語の不思議さはここにある。

 お時間があればぜひ一読をすすめます。ことに若い戦無派の皆さん、マンガの方でもよいので読んで下さい。(つづく

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