内田やすひろクロニクル 第6回 「県議会議長に就任」
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一回は当選しないと応援頂いている皆様に申し訳ない、と思って戦った最初の県議戦から5回連続当選。
県議5期目の平成15年(2003年)11月28日、国政選挙出馬のために辞任した副議長のあとを受け、第95代副議長に選任される。
12月、いきなりぶっつけ本番の議会であったが、同僚、先輩、事務局の助力もあり無事任務を果たすことができた。後に先輩から、
「党が危機に陥りかけたあの時の君の決断と行動の結果が、のちの議長への道につながったんだよ」
と言われたが、当時はそんなことを考えている余裕もなかった。
翌年平成16年(2004年)3月に、アメリカの太平洋艦隊である第七艦隊旗艦のブルーリッジが名古屋港に寄港することになった。県庁に届いた艦上レセプションの招待状に対し、事務局から、
「知事、副知事、議長も出席しないので、内田副議長も欠席されてはどうか」
という提案があった。私は、
「日本の有事には必ずお世話になることになるわけだから、ぜひ誰かが出席するべきだ」
と言って出席した。もちろんそのことは先輩の県議にも相談して決定したことである。今は地方自治体であっても国政の問題に無関係ではいられない時代となっていると思う。
ちなみに私がブルーリッジを訪れるのはこのときが二回目であった。秘書時代安倍晋太郎先生の代理として、十人ほどの国会議員といっしょに、横須賀に寄港中のアメリカ太平洋艦隊の原子力航空母艦ミッドウェイとともにブルーリッジを訪問したことがあった。そのときにミッドウェイではなく、巡洋艦なみの大きさの、しかしコンピューターの塊のような艦橋を持つブルーリッジが第七艦隊の旗艦であることを知り、たいへん驚いたものであった。現代の海戦における旗艦は、大きな攻撃力のある船ではなく、宇宙衛星と連携をとりながら艦隊全体に的確に指令を下すことのできる船になっているのだ。
現代社会における人間も同じではないだろうか。(つづく)
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政治浪人中の私は、おじの会社に籍を置き、主に損害保険の部門を担当し、その間上級代理店の資格を得ることができた。また、設備会社であったおじの会社で現場の人手が足りないときには、学生時代にアルバイトをした経験のある私が現場の手伝いに出向いたこともある。おかげで、今もトラックや単車が運転できるし、簡単な家のリフォームは自分でできる。現に今も暇を見つけて家の改築をひとりでやっている。
元来土いじりや工作が好きな性分でもあり、良き同僚にも恵まれ、そうした期間を明るく過ごせたことは幸運であった。同時に貴重な社会体験を積むことができた時期でもあった。また、もの好きな女性と縁があり、結婚したのもこの頃だった。
昭和62年(1987年)4月。
7年間の雌伏の時を経て、県議選に出馬。大激戦の末、保守系候補者四人の内最上位となり、初当選した。
この時ほど人の情けや善意、ご支援の力をありがたく思ったことはない。
大きな挫折、失敗を乗り越えて私が政治への歩みを再開することができたのは、今は亡き多くの先達と岡崎市民の皆様の真心のおかげであります。変わらぬご支援を頂いている後援会の皆様、ご理解を賜っている市民の皆様に改めて感謝を申し上げます。
この当時自民党の総務会長であった安倍晋太郎先生がお忙しい日程をぬって、選挙の応援に来て下さった。中央政界の大物が自分の地元でもない県会議員の選挙の応援に来るのは、異例中の異例のことである。
その恩に報いるためにも、なんとしても勝たなくてはならないという気持ちになった。
また、秘書官をつとめておられた安倍晋三先生も、この選挙のために総決起大会、青年部の総会、そして選挙中と、3回も応援に駆けつけて頂いた。
真ん中の女性は、高校時代の下宿先の材木町の奈倉しゅんさんです。子供時代からずっとお世話になってきた方。年齢的には私の祖母と同じくらいであるが、「おばあさん」と言うと、
「子を産んだことのない女がなんでばあさんじゃ!」
と怒られる。旧制女学校の出身で、ドイツ語でシューベルトの「野ばら」を歌ったりする、文字通り「モダンばあさん」であった。私が東京で生活するようになってからも、ときどき電話がかかってきて、
「今晩9時からNHKの教育でキャサリン・ヘップバーンの『旅情』をやるから、見ておきなさい。あれは名作だから」
などと指示をされる。私の外国映画好きは彼女の影響もあると思う。
県議初当選から26年。
私の郷土愛、ふるさと岡崎のためにガンバロウという気持ちはますます強くなっている。(つづく)
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昭和53年(1978年)6月、イリノイ大学主催の第19回ヨーロッパ探求旅行に参加。日本人は自分だけだった。旅行終了後、フィンランドのヘルシンキからモスクワを経て、ソ連を単独横断、出発から3カ月後ナホトカ経由、船で横浜に帰る。実に三年半ぶりの帰国となった。
帰国後、父の三度目の市長選を手伝ったあと、昭和54年(1979年)5月末より、当時竹下登氏、中川一郎氏、宮澤喜一氏らと共にニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎代議士(晋三・元総理の父)の秘書となる。福田派・清和会付きの秘書として全国遊説の随行役を担った。
仕事を終え、安倍先生と遅い夕食をとっている一コマ。
テレビや新聞でしか見たことのなかった、田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘といった大物達と毎日の様に顔を合わせ、後に〝三角大福時代〟、〝自民党戦国時代〟と呼ばれる激動の時代にかけがえのない政治体験をすることができた。
当時、世田谷の安倍邸に来てみえた晋太郎先生の岳父、「昭和の妖怪」こと岸信介先生と何度かいっしょに朝食を頂いたことがあるが、緊張のあまりしびれた。今そんな政治家はいない。
昭和55年6月。衆議院選挙(衆参同日選挙)に突如自らが出馬することになった。
本来ならば、父が出馬するのが順当であったが、3回目の市長選挙を終えたばかりで岡崎の経済界から自重を求められていたようだった。現職の県会議員も県会の職を賭けてまで国政選挙にうって出る決断をされる方もなく、お鉢が私にまわってくることになってしまった。
千賀代議士以来、三十数年間地元の代議士のなかった岡崎に、中央との独自のパイプを作ろうという気運の高まりに乗ってしまった形になった。今思えば、傍から見れば無謀な挑戦としか見えなかっただろう。
準備不足の中、解散から33日間の総選挙を全力で戦うも、78,480票の御支援を頂きながら当選には至ることができなかった。悔しさと共に徒労感にまみれた選挙戦だった。
その後選挙違反事件が起き、岡崎市民に多大なる御迷惑をおかけすることとなる。自らが関与していなくとも、こと志に反する不祥事に対するショックで政治への道を断念しかける。しかし、選挙違反事件に連座した市会議員の3分の2以上の方々が各地で私を励ます会を開いて下さった。
「君がここで志を断念するということは、自分たちがやってきたことがすべて過ちであったということになってしまう。くじけることなく、再起を期してほしい」
と何度も励まされたものだった。
そうした皆様の変わらぬ決意と熱心さによって、徐々に私の心も変わって来た。さらに多くの支援者の方々からの励ましと期待の言葉とお支えの力のおかげで、今日への歩みを再開することができました。感謝。(つづく)
地元の連尺小学校、城北中学校、県立岡崎北高校を経て、昭和46年(1971年)、日本大学法学部に入学。高校の担任の教師に、
「浪人して大学入試を再挑戦したい」
と言うも、
「浪人すれば必ず学力が上がるとは限らん。それに大学は大学生としての学究の場であり、大学の名前より本人の心がけの方が大切だ。もし、そんな余分な時間と金があるなら、君はアメリカに行け」
と言われ、気がつけばその通りの人生コースを歩んでいた。
大学を卒業した昭和50年(1975年)に渡米、ニュージャージー州立ラトガス大学のサマー・コースを受講する。9月からの学部入学の予定が狂い、ニューヨーク大学に通うことになる。ニュージャージー州リビングストン市の教育長宅に居候しながら(ホームステイではない)半年間を過ごす。
NY、ワシントン・スクエア公園にて撮影。昭和50年11月。22歳。
昭和51年(1976年)6月よりインディアナ大学に入学。政治学を学ぶ。2年間の大学生活のあいだ、友人と剣道部を創立したり、日本人会の幹事をやったり、各種パーティーやスポーツ・イベントにかかわったりした。どうもその頃の経験が今日につながっているような気がしてならない。
日本人会で主催したパーティーにて。
夏休み、冬休みは日本へ帰らず、グレイハウンドのバスを乗り継ぎ、アメリカ大陸をほぼ一周。また友人と二人で中南米探検の旅にも出た。上の写真はペルーの奥地、マチュピチュに行ったときのもの。当時23歳。
このころは朝から晩まで勉強していた。そんなことはこれまで私の人生にはなかった。寮→学部→図書館→寮→学部・・・という魔のトライアングルの毎日。
この写真は大学の構内のレモン湖で撮ったもの。まさか中西部のここでヨットに乗れるとは思わなかった。ひさしぶりの解放感にゴキゲンの私。(つづく)
私の生い立ちから今日に至るまでの歴史をシリーズで書いていきたいと思います。私がどんな人間であるか。いかにして政治家としての道を歩むようになったか。これを機に皆さん、ぜひ知って下さい。
昭和27年(1952年)12月23日、辰年生まれ。愛知新聞社(注・東海愛知新聞社の前身)の社主であった内田喜久の長男として、岡崎市康生町に誕生。
写真はキリスト教系の愛隣幼稚園に通っていたワンパク坊主時代のものである。この頃は日活映画の全盛期であり、石原裕次郎がスターであった。決してそのポーズを真似しているわけではない。こういう生意気なガキであったのである。
当時の子供達の遊びは刃のついていないオモチャの金属刀でのチャンバラや、銀玉鉄砲を使った戦争ゴッコなどであった。私の子供時代であった昭和30年代はテレビが一般的に普及し始めた時代であり、子供達のヒーローは「月光仮面」や「七色仮面」、「快傑ハリマオ」、「赤胴鈴之助」、「白馬童子」などであった。
黒潮おどる南海に 血風すさぶ離れ島
生まれてここに十余年 仇なす敵に剣をとる
ああ 変幻 三日月丸は 快男児
私は今でも「変幻三日月丸」の歌を口ずさむことができるが、覚えている人がほとんどいないのが悲しい。
「鉄腕アトム」や「鉄人28号」のマンガが月刊少年誌の紙面におどり、週刊の「少年サンデー」や「少年マガジン」が刊行されたのもこの頃であった。その後テレビはアメリカの戦争ドラマ「コンバット」や忍者モノの「隠密剣士」、NHKの「ひょっこりひょうたん島」が流行り、映画館は若大将・加山雄三がスターの時代となっていた。
日本の高度経済成長の始まりと共に生活は年々豊かになり、大きく時代が移り変わっていった。安保闘争などで世間は騒然としていたが、古き良き時代であったことは間違いない。(つづく)
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