茅ヶ崎市2015 その2(ゆかりの人々)
今回はまた、これまでまだ訪れていない「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」を訪問することができた。
茅ヶ崎市は地理的に東京から近く、保養地としての歴史も古いことから、政財界の著名人、作家、俳優が多く在住したことでも知られる土地である。
私はかねてより、「名誉市民」とは別の形で市から表彰を行うことができないかと思案していた。〝名誉市民〟というと何かと堅苦しいし、選考基準も面倒くさそうなので、社会の各分野で活躍し、岡崎市の名前を様々な形で広めて下さった方達に対して、もっとフランクにその労をねぎらう表彰はないものかと考えていた。その点、茅ヶ崎市が行っている〝市民栄誉賞〟の設定はなかなか良いアイデアであると思う。岡崎市にもスポーツや芸術、芸能等の分野で様々に御活躍頂いている方は数多くいる。
「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」は国道135号線近くのこんもりとした木立に囲まれた丘陵の上に併設されていた。木造を基調とした人物館とどっしりとした造りの開高館の対比もなかなか面白いと感じながら石段をのぼり、人物館の入口に辿り着いた。現在、市民栄誉賞受賞者8名のうち、次の4名の方の企画展がされている。
初めは日本人として5人目の宇宙飛行士となった野口聡一氏である。彼は生まれは横浜市であるが、12歳からこの地で育っている。子供時代の思い出話と共に学生時代のノートや写真、そして宇宙服のレプリカ等の展示がある。
次に女子ソフトボール選手としてアテネ・オリンピックで銅、北京オリンピックで金メダルを獲得した三科真澄選手。
3番目に日本を代表する女子テニス・プレーヤーの一人、杉山愛さん。写真やラケット、トロフィー等が展示されていた。彼女は横浜市出身で、5歳から茅ヶ崎に在住した。
最後に女子野球選手の出口彩香さん。彼女のユニフォーム等が解説付きで並べられている。
木造平屋建ての簡素な建物の中に、郷土出身のガンバル・マン(ウーマン)達をさりげなく紹介して讃える施設はなかなか良いものであると思う。本人はもちろん子供達の励みにもなるだろう。同館には俳優の加山雄三氏や中日ドラゴンズの山本昌選手の展示もあり、そのうちサザン・オールスターズの桑田佳祐氏も加わることだろう。
中庭にある山荘風・板張りのテラスを通って、森の小径のような通路を抜けると、隣の旧・開高健邸(現・記念館)に出る。開高健は昭和49年に東京から茅ヶ崎市に移り住み、平成元年に亡くなるまでここに暮らしていたという。この記念館は元々開高氏の私邸であり、同氏没後に遺族から茅ヶ崎市に寄贈され、公開されているものである。
玄関からホールに入ると、開高氏の著作と共に数々の資料が展示されている。我々の世代には開高氏はベトナム戦争の取材(『ベトナム戦記』)とプレイボーイ誌の人生相談で知られている。ホール中央には取材に使用した道具と共に米軍の鉄カブトもある。
私は同氏の作品では『オーパ!』シリーズの3冊と他に数冊の随筆集を持っている。残念ながら小説はほとんどまともに読んでいない。しかし、その文体からは私の好きなアーネスト・ヘミングウェイと同質のものを感じている。すなわち、旅(放浪)、戦い、酒、女、釣り(狩り)など、いわゆるマッチョな路線である。
〝オーパ!〟とは、ブラジルで驚いた時に発する叫び声である。この本はアマゾンやアラスカ、カナダを始め、世界の秘境を旅しながら各地の怪魚、幻魚、珍魚を釣り上げようとする写真付きドキュメンタリー随想である。私のように放浪癖がありながら、なかなか自由に歩き回ることのできない男達にウケたのか、今日まで続くベストセラーとなっている(文庫本もある)。記念館の奥には、釣りの成果の大物の剥製と熊の敷物まであった。今回、旧・開高邸を見て、同氏の作家としての成功を納得したものである。
先日久しぶりにテレビを観たら、NHKで上原謙・加山雄三親子の年代記をやっていた。やはり私にとって茅ヶ崎と言えば加山雄三である。人生でこれほど影響を受けた人はいないし、私の年代に同様の人間は少なくないと思っている。
そもそも私は音楽というものにあまり関心が持てなかった。近くの映画館で聴いた洋画のサウンド・トラックは耳に馴染んでいたが、当時の日本で一般的だったのはTV番組で流れるような歌謡曲や演歌、民謡ばかりで、あとはアメリカン・ポップスを和訳してマネて歌っているようものがあるぐらいだった。
小学校に入学した頃、母親にヤマハ音楽教室なる所へ連れて行かれたことがあった。回りは女の子ばかりであったため「絶対に嫌だ!」と言って一度しか行かなかった(今思えば惜しいことをしたと思っている)。そんな私であったが、ゴジラ映画を観に行くと必ず二本立てでやっていたのが加山雄三の若大将シリーズであった。
今もはっきり覚えているが、昭和38年『ハワイの若大将』の中で夕暮れのワイキキの浜辺でウクレレを弾きながら英語で歌ったのが「DEDICATED」(加山氏大学3年時の作品)であった。
それまでの日本の歌と全く違う、スマートで甘いメロディーラインに体に電気が走るような思いがしたものである。この曲は後に「恋は紅いバラ」という名で故岩谷時子氏の作詞でヒットした(60万枚)。映画館を出てすぐにレコード店に出かけてみたものの、その時はまだレコード化もされていなかった。後日、私が初めて買ったレコードとなった。(私は英語の歌の方が好きである。)
以後、海のスポーツにのめり込み、スキーも始め、へたくそなギターやウクレレも弾き始めた記念すべき瞬間であった。おかげで現在様々なジャンルの音楽を楽しめる素地ができる切っ掛けとなった。加山氏はある意味で人生の恩人の一人であるとも言える。
誰しも似たような出来事が人生にはあるものであるが、以上の理由から、かつて茅ヶ崎が岡崎とゆかりのまちとなった時、理屈を越えてうれしく思ったものである。
(茅ヶ崎市役所文化生涯学習課の方々にこのたび御案内頂きました。)
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