今さらですが、なぜ人道橋だったのか?
そもそもは渋滞解消のため「築後90年になる古い殿橋と明代橋をかけ替えたい」というのが始まりでした。
それぞれ橋上緑地帯のある幅広の新橋にしたいと考えていました。
しかし殿橋が昭和初期に造られ、戦渦に残った全国でも貴重な橋であり、簡単にとり壊せない橋であることが分かり、断念しました。
かわりに、県道にかかる二つの橋は、県がしっかり補強することになりました。しかし「街の活性化のための河川公園の施設として人道橋を!」というアイデアが“岡崎活性化本部”(地元代表、商工会議所、学者、専門家の会議)から提言書の1プランとして出されました。
それを市議会で討議し、市役所内でも検討して決まったものが桜城橋です。
名前は公募し、中学生がつけてくれました。
一部の人から“100億円の橋”と悪口を言われましたが、実際は基礎工事も含めて21億円です。
もともとその場所に橋を造る計画が3代前の市政の頃からありましたが、県河川にかかる橋は県の所管するもので実現しませんでした。しかし、岡崎市が国の「かわまちづくり」「歴史まちづくり」の2つの事業認定を受け、モデル都市となったため大きな国庫補助を受けリバーフロント計画が実現したのです。
また桜城橋は過重量となっていた殿橋の負担を減らすため、その下に殿橋の下を通っていた水道の本管、電線、NTTの配線などがまとめて配置された「ライフ・ラインとして重要なもの」となっています。
橋上の仮設・商業施設も、活性化本部やまちづくり専門家からのアイデアです。
幅広の人道橋は、夏の花火大会には身障者(車イス)や施設の子ども達、高齢者のための特設無料観覧コーナーとしても考えられていました。
また災害時には新しく強度のある桜城橋が二橋の助けにもなります。表装に額田の木を使ったことで、山林の整備にも寄与しています。
ツインブリッジ構想から桜城橋へ
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