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2021年10月29日 (金)

選挙は戦い

 このところ、ワクチン接種が進んだせいか、鎮静化の兆しはあるものの、国難とも言えるコロナ禍も2年近く経過したことになる。

 昨年の市議・市長選に続き、今回の総選挙もこれまでの政治活動、選挙対策ができにくい状況が続いている。

そのため選挙活動の形態も大きく様変わりしてきている。

個人演説会は姿を消し街頭宣伝活動が主流となり、新しいコミュニケーション・ツール(SNSなど)を活用した新戦略が導入され、電話作戦も候補者の声を録音した自動電話で行われており、ポスティングなども専任の業者に委託されているという。あまりの目まぐるしい変動ぶりに旧来の方式に慣れてきた者はついていけない。

 選挙は限られた議席を争う戦いである以上、避けられないのが広報合戦である。当事者でない人の目には見苦しく映るやもしれないが、いかに自分たちが正当であり、相手が間違っているかを言い争うことになる。

 そうした中、正面からの政策論争ばかりではなく、根拠の無いデマ宣伝が流布されることもある。

こうしたデマゴーグは、いかにもまことしやかな美辞麗句につつまれていることが多く、ついつい人の良い人は騙されてしまう。ちょうど「オレ、オレ詐欺」の手口に似ている。

 以前、ブログに書いたことがあるが、選挙も戦いであるため、時に様々な謀略をめぐらせた戦国時代のような争いが行われることもある。選挙妨害、怪文書、買収、脅迫、etc。また、そうしたことが高度な戦術だと信じている人達もいる。

政策論争よりも、相手に対する誹謗中傷の方がアピール効果が大きいこともあって、そうしたことが無くならないのだろう。

仕掛けられた争いに防衛上、対抗してゆくこともあるが、そうした争いをどの程度でとどめるかも思案のしどころである。

 また、公約の信憑性の方も不透明性を増している。

人の歓心を誘うものなら、実現性の無い公約も平気で掲げられる(ちょうど昨年の5万円公約のように)。

「選挙に勝ちさえすれば後から何とでも言いくるめられる」

という考え方であろう。

また、大衆はものごとを時と共に忘れる存在でもある。もとより政権側でなければ実証責任は問われることもない。

 

 2016年7月に行われた都知事選挙において、緑の党の小池百合子候補が掲げた公約は“七つのゼロ”であった。

「待機児童ゼロ」「介護離職ゼロ」「格差ゼロ」「満員電車ゼロ」「残業ゼロ」「電柱ゼロ」「ペット殺処分ゼロ」の七つである。

 努力目標としてのゼロだったのかもしれないが、4年以上経って条件付きながら実現したのは最後のペットの件だけだった。その後、マスコミも彼女の責任を問う声はない。

 選挙の熱気が冷めてしまえば、有権者は1つ1つの公約など覚えておらず、時と共に消えてしまう。そうした大衆心理の特性を十分承知の上で、大言壮語のカラ手形・公約がまかり通ってしまうのである。

「選挙は勝つことが最重要であり、公約の実現、非実現は結果論」と強弁する人もいる。

「勝ちさえすれば、後から、なんとでも言い訳でき、ゴマかすことができる」ということであろうか?こちらも、野党となれば、公約の実現責任は問われることはない。

現在進行中の選挙でも、各党の公約の中に同様の傾向が散見される。そうしたことも十分考えて投票したいものである。

先の市長選は、断言•反復•わかりやすさが市民に強く影響を与えた。我々は情報を鵜呑みにしないこと、疑う視点を常に持ち続けること、ひとと違う意見を持つことをこわがらないことが、いま求められている。

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