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2020年6月18日 (木)

人生いろいろ

1991年4月6日、愛知県議会議員選挙

 大学1年生の夏休み、ある土建会社でアルバイトをしたことがある。その頃現場で、昼食をとりながらドイツ語の原書を読んでいる不思議な人を見かけた。あいにく名前も知らない。
 直接、御本人と話をする機会はなかったが、人づてに聞いたところによると、国立大学を出て就職したものの環境になじめず退職し、その後紆余曲折を経て現在の職場に週3~4日、生活費かせぎのため現場仕事をしに来ているとのことであった。
 当時、自分の進むべき確たる道を見つけることができずに悶々たる思いを胸に生きていた私にとって、何か一筋の光明(こうみょう)を見たような気がした。
 将来的な見通しも老後の保障もないが、ともかく制約が少なく、自由である。人の目や体裁にとらわれたり、贅沢な生活を望んだりしなければ、こうした自由気まま(?)な生き方もあるのだと教えられた気がした。

 当時、市長であった父のように、周囲から政治家になることを期待される空気が重荷でならなかった。素朴な善意の期待感ほど重たいものはない。
 「政治が生きがい、選挙は趣味」と言い、朝から晩まで仕事漬けの生活を送っている典型的な昭和の仕事人間である父と同じ道を選べば「しょせん親の七光り」と悪口を言われ、「格落ちのダメ男」と評価されそうで、とても政治の道を選択する自信も勇気もなかった。いい年をして人一倍人見知りが激しく、人付き合いも苦手で、人前に出ることも嫌いであった。
 しかも、この業界は海千山千の曲者ぞろいであり、自分のような単純な人間が激烈な競争を勝ち抜けるはずはないと考えていた。(私の母も同じ見立てであったという。) 人間関係の極致のような仕事である政治家など思っただけでノイローゼになりそうな気がしたものである。時にどこか遠くへ逃げてしまいたいと思ったこともあった。(そのせいでアメリカに留学した訳ではない。)

 そんな青年期を送っていた私がその後政治の道を選択し、27歳での大きな挫折(衆院選出馬、次点落選、大選挙違反)を乗り越え、7年間の雌伏の時を経て、県会議員、市長と歩みを続けることができたことに、時に不思議な感慨を覚えるものである。(もちろん多くの方のお支えのおかげである。)

1987年4月12日、愛知県議会議員選挙

 誰しも人生の歩みはままならぬものであり、個人の思惑や予想のとおりに進むことはマレなことであろう。また仮に希望どおりの道に進んだとしてもそれが必ずしも幸せに結びつくとは限らない。
 望んで選択した道が全く想像とは違う不向きなもののであったり、不本意のうちに進んだ道が人生を開くことにつながったりすることもある。
 いずれにせよ、いかなる道に進んでも、すぐに成果に辿りつけるものでもなく、忍耐の時期は避けられないものである。そこで舵を切り別の道に進むか、あるいは我慢するかもまた選択である。
 人生もスポーツの試合と同じく、終了するまで油断のならないものであることは幾千もの先人の歩みを見て分かることであるが、終盤に入ってからの逆転はつらいものであり、ぜひ避けたいものである。
 しかし成功の人生を全うしたかのように見えても、それが本当に幸せと呼ぶに値するものであったかどうかは、本人の胸の内に入ってみなければ分かるものではなかろう。また、逆に敗北の人生のように見えても、当人は自らの生き方に十分満足していたのではないかと推察される例も歴史上少なくはない。「勝敗は兵家(へいか)の常、なんぞおそるるに足らん」であろうか?

 先の国立大を出て、土方仕事をやっていた方は、当時30代後半か40歳くらいであった。ご存命であれば今頃80年輩になってみえることと思われる。彼がその後どんな人生行路を歩まれたのか、できればお聞きしてみたいものである。
 どのような人生が価値があり価値がないかは、単に他人の思惑に過ぎないことである。
 一番大切なことは自分がその生き方に満足ができたかどうかということではないだろうか。
 最近、昔のことをつらつら思うにつけ、そんなことを考えることがある。

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