モンゴル訪問記 3.ノモンハン事件~現在
ノモンハン事件
20世紀に入り、ここで13世紀の元寇(げんこう)以来の日本との関わりが出てくる。
日露戦争の後、ソ連の影響下とは言え、独立国家としての歩みを始めて間もないモンゴルに降りかかってきたのが大日本帝国の侵攻であった。
1931年の満州事変以降、大陸で勢力を拡大していった日本と、伝統的南下政策をとるソ連は各地で小競り合いを起こしていた。ハルハ河近郊で対峙していた満州国とモンゴル軍の国境守備隊同士の川の使用をめぐるささいな出来事が切っ掛けとなり、1939年5月、日本陸軍(関東軍)とモンゴル・ソ連連合軍の全面戦闘に発展してしまった。日本ではこの戦闘を「ノモンハン事件」と呼び、モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼んでいる。
日露戦争における戦勝体験によって培われた白兵戦重視の日本陸軍と、機械化の進んだソ連軍の機甲部隊とでは大人と子供の戦いに等しかった。ソ連の重戦車の前に日本の軽戦車はまさにブリキのおもちゃであった。日本軍の砲弾はソ連戦車の厚い装甲に弾き飛ばされ、ソ連軍の砲弾は日本戦車を貫通してしまうあり様で勝負にならなかったという。私の友人のアメリカ人は「日本の戦車は鉄の棺桶」とバカにしていた(今の自衛隊はそんなことはない)。しかもソビエト軍は10倍近い戦車と野砲を運用していた。対して日本軍は少ない戦力で火炎ビンを使い夜襲で対抗した。弾切れ、食料・水無しで戦っていたのだ。
日露戦争当時と大して変わらない貧弱な装備(対中国戦はそれで十分だった)でソ連の機甲部隊と戦わざるをえなかった当時の兵士はまさに気の毒を絵に描いたようなものであった。飛行機による空中戦では日本軍の方が優勢であったそうであるが、制空権を確保するまでに至らず、逆に地上戦において完膚無きまでに叩きのめされてしまったのである。
戦闘は9月まで続き、結果、日本軍第23師団は壊滅、出動兵約6万人のうち、約2万人が戦死・戦傷・行方不明となり、多くの捕虜を出した。実に実働部隊の3分の1の損害を出すという大敗北であった。とはいえ、日本軍の奮戦のため、倍する兵力のソ連側も2万5000人の死傷者を出すこととなる。しかし、作戦目的を達し、国境を守ったのはソ連側であった。
その後、陸軍は大陸拡大方針を改め、海軍の南方侵攻戦略に同調してゆくことになる。太平洋戦争への一つの切っ掛けとなる戦いとなったのである。
私はノモンハン事件というのは「日本とソ連の大陸における勢力争いの戦い」と単純に思っていたが、モンゴル軍においては数千人の犠牲者を出す国防の戦いであり、自由化前のモンゴルにおける対日感情は決して良いものではなかったという。
ソ連崩壊に伴う自由化
1980年代末に始まるソ連邦の崩壊に伴い、1990年に人民革命党が一党独裁を放棄し、自由選挙を経て1992年に新憲法が施行され、モンゴル人民共和国はモンゴル国に改称した。現行の一院制議会(76議席)と直接選挙による大統領制が始まり、自由経済による個人所有も認められるようになったという。
新興国家成立の段階でよくあることであるが、政権が交代する度に、恣意的な立法が行われ社会の混乱を招いている。国営企業の民営化、銀行改革も行われているが、有力政治家の暗殺、利権を巡る政争や外国からの投資に関わる汚職も横行している。まだ改革を要する課題は多いようである。
今回モンゴルで、私が岡崎市で行われている公共入札の管理システムについて説明し、市長は入札決定に関与しない旨を伝えたところ、ツァガン会長は「我が国にもそうした制度が必要だ」と言ってみえた。 (つづく)
(ノモンハン事件の写真は「Wikimedia Commons」から借用しました。)
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