モンゴル訪問記 2.モンゴル国とは
国の概況
改めて、一般の日本人には馴染みの薄いモンゴル国について述べてみよう。
モンゴル国は中国とロシアに挟まれた内陸国であり、全人口324万人に対し面積は日本の約4倍(156万4,100平方キロメートル)もあり、広大な国土に恵まれた国だ。大ざっぱに言って東部は草原地帯が広がり、西部は山岳地帯、南にはゴビ砂漠があり、北には森林地帯(タイガ)がある。
民族としてのモンゴル人はユーラシア大陸に広く分散しており、その合計は本国の人口よりも多い。それぞれ中国やロシアで少数民族として在住し、中国では内モンゴル自治区として自治権を与えられている。独立運動を行わないという法律の下での自治であるが、他の自治区と同様、実権は漢人に握られている。
この内モンゴル自治区の首府のフフホト市と岡崎市は姉妹都市であるが、フフホト市とモンゴル国の首都ウランバートルも姉妹都市であり、不思議な御縁である。
フフホト市は人口300万を超える大都市であるが、ウランバートル市もモンゴル国の全人口の半分近い150万の人口を持つ都市である。都市生活をしながら、週末は郊外にある土地でゲル(天幕)生活をしている人達も多いということである。とはいえ、そうした優雅な生活をしているのは有産階級の人々であり、市外の上下水道の整備が済んでいないエリアで生活している人達は文明の恩恵を十分受けているとは言えないようであった。そうしたエリアでは下水はタレ流しであり、土壌汚染が大きな社会問題となっているそうである。
歴史
次にモンゴル人の歴史を振り返ってみたい。モンゴル人は古来遊牧民族としてユーラシア大陸を移動する生活を続けてきた。広い大地を季節移動し、定住生活を行わない遊牧民族達と、定住農耕生活をする漢人が衝突するのは必然的な宿命であり、紀元前3世紀の匈奴(きょうど)以来数多くの戦いと征服、被征服の歴史を繰り返してきたことは衆知の通りである。
三千年の歴史を誇る中国ではあるが、全王朝の3分の1は漢人以外の民族によって支配されていたのが実態である。最後の王朝となった清朝もモンゴル系の満人によるものであった。とは言え、漢人が征服王朝化されたのではなく、征服者の方を中国化させて取り込んでしまうところが中国という国のすごさである。
それでも19世紀にはロシアの影響を受け、清朝から分離の動きが始まり、1911年に辛亥革命で清朝が倒れたことを契機に、モンゴルは独立宣言をした。その後全モンゴル民族の統一を目指して各地との連合を企てるが、ロシア、中国双方からの圧力により失敗する。結局、現在の外モンゴルに限って中国の宗主権の下に自治が認められた。
その後、1917年のロシア革命に触発され、ソヴィエト連邦の指導の下、社会主義国家としての発展を目指すことになった。しかしその実体はソヴィエトの傀儡(かいらい)政権に等しいものであった。 (つづく)
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