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2019年9月

2019年9月28日 (土)

モンゴル訪問記 8.バトトルガ大統領

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 その後、モンゴル国第5代大統領、ハルトマーギーン・バトトルガ氏(56歳)との面会のため、国会議事堂へ向かった。大統領の執務室は国会の中にある。
 議事堂への入場検査は実に厳格であり、我々外国人はパスポートの提示が求められる。入口では飛行機搭乗チェックと同様の身体検査がある。そして3階にある大統領執務室前でも、再び同様のチェックを受ける。さらに手荷物もすべてロッカーに預けることになった。カメラもレコーダーも一切持ち込み禁止である。後ほど専属のカメラマンが撮った写真の中から許可の下りた写真を数枚受け取ることができる。SNSでの発信は不可との但し書き付きであった。なぜかと言えば、動画ですら本人の過去の映像や音声を加工してニセのニュースが作られ、流されることがあるからである。現代はここまで注意をしなくてはならないのである。

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 執務室に通された我々は、少し遅れて入室されたバトトルガ大統領のぶ厚く大きな手でしっかりと握手を受けることになった。
 大統領はモンゴル相撲の元選手であり、サンボ(ロシアの格闘技)ワールドカップのチャンピオンでもある。そう言えば最初のモンゴル出身の関取となった旭鷲山(きょくしゅうざん)は帰国後、国会議員となり国務大臣になっている。かつての横綱・朝青龍は将来大統領選に出るというウワサもあり、この国では武道に秀でた人物が出世することが多いようである。

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 今回、大統領と面会できたことは幸運であった。せいぜい挨拶をしてくるだけと思っていたところ、いきなり「あなたのことはよく分かっています」と言われ、椅子をすすめられ、お茶まで出されることになった。しかも席に着いてから40分以上様々な問題についてお話をさせて頂き、大変驚かされた。
 大統領はまず、執務机の左角に置いてあるタテヨコ40~50センチの青銅の馬の像を指さし「これは安倍総理からのプレゼントで、いつもここに飾ってあります」と言われた。
 私は改めて今回の訪問のいきさつを述べ、スポーツ交流を切っ掛けに、人の交流を重ね、経済交流をさらに発展させたい旨の話をした。
 都市間交流について大統領は、「ウランバートル市は首都であり、すでに日本を含め10ヶ国ほどの市と友好提携をしているため、9つあるウランバートルの行政管区のうちのハンオール区を考えてはどうか」と提案された。
 ローカルな問題について直々に提案を受け恐縮してしまった。ハンオール区は東京で言うなら世田谷のような高級住宅地で、しかも大統領の出身地区であり、ウランバートル市の新市庁舎の建設予定地でもあり、近く新空港計画を含めた大規模な開発計画のあるエリアであることを後ほど知ることとなった。こちらとしても特段、具体的な条件を持っていたわけではないので、今後ウランバートル市とも御相談の上、話を進めさせて頂きたいと考えている。

 バトトルガ大統領との会談はそこで終わらず、さらに広範な話題へと広がっていった。日本とモンゴルは共にロシアと中国という個性の強い大国に挟まれた立地条件にあり、相互に協力関係を高めてゆくことは両国の今後の発展にとって有効である。ことにモンゴルは石炭、銅、ウラン、モリブデンはじめ、多くのレアメタル、レアアース等の豊富な地下資源に恵まれた国であり、これから資源の入手先の多元化を図る我が国にとって重要な存在となっている。
 大統領は型どおりの儀礼的挨拶をはぶいて、私達の前にコンピューターのパネル板のようなモノを差し出し、「ICチップを含め、こうしたものが我が国ですでに作られ、日本に輸出されている」と言われ、高次元の経済交流の希望を述べられた。ことに現在モンゴルで多く使用されている日本の電気自動車の燃料電池の再生事業において、現況、中国が間に入っているものを日本と直接取引ができるようにしたいと語られた。さらに国際的なゴミ処理システムの必要性を取り上げ、海のない国でありながらビニール袋やペットボトルの処理等海洋ゴミの処理対応にまで話が及んだ。
 私のことを国務大臣と勘違いしているのではないかと思えるほど、具体的な問題について情熱的に語られる大統領の姿にこちらも心打たれるものがあった。

 大統領がその週に面会される外国人は私が最後ということでもあり、そのせいで大サービスとなったのかもしれない。週明けにはアメリカのワシントンまで飛んで、あのトランプ大統領と会談する予定とのことであった。
 ロシアと中国にはさまれながら、欧米とも上手に付き合っているバトトルガ大統領の政治的手腕に学ぶべき点は多いと思われる。 (つづく

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2019年9月25日 (水)

モンゴル訪問記 7.オリンピックとアーチェリー

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モンゴル・ナショナルオリンピック協会
 3日目の7月26日は、今回の訪問の目的が凝縮されたような一日となった。
 前日と同様、早朝に出発した我々は昨日と同じ悪路と渋滞を抜けて、ウランバートルにあるモンゴル・ナショナルオリンピック協会に到着した。
 ソ連邦の時代に建築されたことを物語るように、いかめしい造りの古い建物であった。玄関から中に入り、登る階段の一段、一段の側面にこれまでモンゴルが参加したオリンピック大会の名前と年号が書かれてあった。さしずめ日本ならば交通安全の標語でも書いてあるところである。

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 3階にある広い部屋に通された我々は、カメラ撮影用に用意された五輪のマークを背景にした応接イスに座らされた。間もなくモンゴル・ナショナルオリンピック協会のバダルウーガン副会長が入室され、今回の訪問のいきさつと目的を説明すると、先方からも歓迎の挨拶を受けた。副会長はかつてボクシングのオリンピック選手であったそうである。

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 この時、事前に知らされていなかったのであるが、「オリンピック競技の広報及び地位向上に貢献した」功績に対し、協会より名誉記章が贈られるととなり、私の胸に副会長自ら記章を付けて頂いた。いかにもかつての冷戦時代に東側陣営の軍人が好んだ金ピカでものものしいバッジ(タテヨコ7~8センチはある)であったが、せっかくのご好意でもあり、この日一日私はこのバッジを着用して行動することとなった。

アーチェリー青少年全国大会
 その後、開会時間が迫っていたこともあり、あわただしくアーチェリー青少年全国大会の行われている会場に向かった。都市公園の一角に造られたアーチェリー360会場は全国からの寄附金とボランティア奉仕によって造られた施設である。会場にいる選手からも「私も建設作業に来ました」という声を度々聞かされる。

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 会場に来てからうれしかったことの一つは、昨年、岡崎を訪問したアーチェリー・チームのメンバーが勢揃いして出迎えてくれたことである。これも昨年の岡崎市民のホスピタリティーのおかげであると思っている。
 会場は小学校のグラウンドほどの広さがあり、クラスごとに区分けされ、標的が設置され、20レーンほどの位置からそれぞれの選手が準備の練習を行っていた。

 ほどなく開会式となり、ツァガン会長から順次挨拶が始まった。ツァガン会長はこの席で「アーチェリー大会の優勝者に『岡崎杯』(オカザキカップ)を授与して、さらに岡崎市へ派遣して友好を深めたい」とも言われた。
 私は紹介されたら頭を下げればいいと思っていたところ、マイクが回ってきて挨拶をすることとなった。急な指名であったため、話すことをしっかり考えていたわけではないが、開会のお祝い、訪問のいきさつ、偉大な歴史を持つモンゴルの弓道の復活のためアーチェリー協会の進展に向けて岡崎市として協力してゆくことを伝えた。
 式典後すぐに、取材に来ていたモンゴルのテレビ局のインタヴューを受け、現地での注目振りに改めて驚かされた。

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 さらに1980年代のオリンピック代表であった現役員のお姉様方を紹介され、一緒に写真も撮ったのであるが、モンゴル人の名前は長く耳慣れしていないため顔と名前と役職がしっかりと結び着かなかった。主賓として訪問するといちいちメモがとれない点が辛いところであった。

恐竜博物館
 午後3時からのバトトルガ大統領との面会時間までの間に昼食を済ませ、恐竜博物館を訪れた。

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 近年の恐竜研究は飛躍的に進んでいる。恐竜と怪獣の区別もつかない方もみえるが、20年ほど前の映画『ジュラシック・パーク』の世界的大ヒット以来、全世界的に考古学や古生物学を志す優秀な研究者が増えているせいかもしれない。「たかが映画」と侮ることはできない。
 もう一つの要因は、研究者が増えたことにより、世界的に新たな発掘、発見が増えたことにもよると考えている。ことにモンゴルのゴビ砂漠からは大量に新たな化石が発見されているのである。
 鳥のように抱卵をし、子育てをしたと言われるマイアサウラの巣と卵の化石をはじめ、鳥と恐竜の関係性が推測される切っ掛けとなった羽毛恐竜の化石などが発掘された。近年では小型恐竜だけでなく、大型肉食恐竜の中にも羽毛があったと考えられる化石が発見されている。そうしたものによってこれまでの定説がいくつも覆(くつがえ)されている。

 そのため、モンゴルに行く機会があれば、ぜひ恐竜博物館を訪れたいと考えていたのである。かつてはウランバートルの自然科学博物館に恐竜コーナーが設けられていたのであるが、このたび旧レーニン記念館が改築され、恐竜博物館として独立した施設となったのである。(やはりレーニンより「恐竜」の方が今風ということであろうか?)
 そうした話を聞いていたため、食事時間を短縮して日程に組み込んだのであるが、結果は少々期待はずれであった。

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 メイン展示品のタルボサウルス(ティラノ系)の全身骨格の復元化石がホールの中心に置いてあったものの、これはアメリカから返還されたものである。その他の化石も体の一部分のものが多く、併設展示されているプラスチック樹脂製の再現恐竜の模型もデキは今イチのものであった。
 先月、上野の国立科学博物館の「恐竜博」に足を運んでみたが、こちらの方がよほど展示品の中身が濃く、資料やグッズ、サービスもゆき届いていた。展示化石の多くが近年モンゴルで発見されたものであったことも皮肉であった。
 しかし、これには理由がある。この分野の研究は外国の方が進んでおり、ことに化石のクリーニング技術や設備も整っている。その結果、発掘調査に来た外国人研究者が一度化石を本国へ持ち出してきれいにしたものを展示してから返却することになるため、こうしたことが起きているのである。
 モンゴル人自身で発掘、整備ができるようになれば、こうしたことも減ることになるだろう。 (つづく

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2019年9月24日 (火)

学区敬老会(2019年)

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 本年も恒例の学区敬老会が全市各地で行われました。準備に骨を折られた方々に感謝申し上げますと共に、皆様の御長寿と健康を心よりお祈り申し上げます。

―学区敬老会での挨拶―
 皆さん、おはようございます。市長の内田康宏であります。4年間で全47学区を回る計画でありまして、毎年来られないことをお詫び申し上げます。
 本日は、学区敬老会が地域の方々のご尽力と多くの皆様のご参加により、このように盛大に開催されますことを心からお祝い申し上げます。
 国の発表では、日本人の平均寿命は女性がおよそ87歳、男性がおよそ81歳で、男女ともに過去最高を更新したとのことであります。岡崎市も全市で100歳以上の方が150人を超えており、ご長寿の方が増えるということは大変喜ばしいことでありますが、それも元気で健康的に長生きでできることがさらに大切であると感じております。

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 更なる高齢化が進む中、本市といたしましても先輩の皆様がそれぞれに生きがいを持ち、住み慣れた地域で安心して暮らせる、高齢者福祉の一層努めてまいりますので、よろしくお願いいたします。

 さて、本市では2016年に市制100周年を迎えて以来、これまで様々な事業を進めてまいりました。ことに今年は、現在、着々と整備が進む乙川リバーフロント地区において、7月には籠田公園がリニューアルオープンし、さらには人道橋の「桜城橋」の全容も見えてまいります。完成は来年3月末です。
 加えて、東岡崎駅の北東街区でも、「オト リバーサイドテラス」と名付けられた、9階建てのホテルを含む新たな商業施設が11月2日にグランドオープンいたします。また同じ日に、東岡崎駅と直接つながる中央デッキがいよいよ完成します。

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 そこには、市民の皆様のご協力により、1億円を超える浄財を得て、高さ9.5メートルという、日本一の高さと偉容を誇る若き日の徳川家康公の騎馬像もいよいよお披露目となります。駅のホームや名鉄電車の窓からも見えるとのことで、間違いなく本市の新たなシンボルとなります。私共、岡崎生まれの者は子供の頃から何度も「岡崎は家康公のふるさとといいながら、駅前にまともな像一つ無い」と言われ、悔しい思いをしてきましたが、もうこれで岡崎の子供達がそんな思いをすることはないでしょう。
 そして、JR岡崎駅周辺では市民待望の新総合病院の工事も来春の開院に向けて順調に進むほか、こちらの東部地域では2000人規模の雇用が期待されるアウトレットモールの進出が進み、併せて区画整理も始まります。また額田地域をはじめ、市域の6割を超える中山間地域の活用が岡崎の大きな都市課題の一つとなってきます。自然豊かな中山間地域を上手に使うことができれば、大きな宝の山に変わります。そのために豊田市、新城市とも話し合っております。
 北部の県営グラウンド、龍北総合運動場の整備も本格化しており、来年夏に再始動します。また産業界から要望の多い新工業団地も阿知和のスマートインターチェンジとともに実現に向かっております。
 これから数年のうちに、これまで多くの市民のご協力により全市的に手がけた事業が続々と実現を迎え、間違いなく岡崎の景観や人の流れも大きく変わってまいりますので、ぜひご期待ください。
 そして、本市では昨年度から、西三河各市にさきがけて、小中学校のエアコンの設置を行ってまいりましたが、7月より全校で本格的に運転が始まりましたことを併せてご報告申し上げます。

 このように様々な事業を展開していく究極の目的は、岡崎の子ども達が自らのふるさとに対し、これまで以上に大きな愛情と誇りを持てる、そんな「夢ある新しい岡崎」を築くためであり、その目的のため、市職員や各議員の皆様と共にただ今全力で取り組んでいるところであります。
 人生の先輩であります皆様方におかれましては、今後とも変わらぬご指導とご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
 終わりに本日ご参会の皆様におかれましては、いつまでもお元気で、ご家族や地域の皆様と楽しい人生をお送りいただきますよう心から祈念申し上げ、お祝いの挨拶とさせていただきます。本日は誠におめでとうございます。


全市学区敬老会と敬老祝い戸別訪問(2017年) (2017.09.27)

全市学区敬老会(2016年) (2016.10.01)

敬老の日を迎えて(2015年) (2015.09.23)

学区敬老会訪問(2014年) (2014.09.21)

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2019年9月23日 (月)

『リバ!』2019年10月号

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内田康宏事務所からお知らせです。リバ2019年10月号の市長のコラムは「デマゴーグの季節の到来?」です。

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2019年9月20日 (金)

モンゴル訪問記 6.肉食文化について

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モンゴルの食生活
 その後、大型ゲルにあるレストランで夕食をとることになった。やはりこちらでは肉料理が多い。
 昨今は北海道の名物となっているが、私が子供の頃から三ヶ根山のふもとではジンギスカン鍋というのが名物であり、三ヶ根山の山麓園のケースでは羊の肉ではなく、牛肉であったように記憶している。モンゴルでも羊ばかりではなく牛やヤギの肉も使われている。
 私達は物事を先入観で判断していることが多いが、モンゴルにおいてもそうであった。遊牧民は肉食で活動的であり、そのエネルギーが世界征服につながったというイメージを私は抱いていたのであるが、伝統的な遊牧民の食事は、夏は馬乳酒やお茶にチーズなどで、冬は夏に作っておいた干し肉を食べるというのが普通であったそうである。遊牧民にとって家畜は大切な存在であり、肉は祝祭日や特別な時にのみ食していたとのことであった。
 近代化が進み、家畜の数が飛躍的に増え生活が豊かになったことで、肉食化が進んだということであった。昔のモンゴル人はあまり太った人はいなかったそうであり、町を歩くと朝青龍や白鵬のような立派な体格の人を見ることがあるが、それは最近の傾向とのことだ。

 テレルジへの道中にも羊やヤギの群れに道をふさがれることがあり、牧畜の国であることを実感したが、実際全国で人口の20倍の6,300万頭ほどの家畜がいるそうである。

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 一番多いのは意外にも、乳がとれ、質の良いカシミアのとれるヤギで、40%を占める。羊は30%、牛は15%、馬が10%、ラクダが5%という内訳だそうである。他にもヤクやラマ(リャマ)も飼育している。モンゴルのカシミアは中国やロシアとの取引が多かったそうであるが、現在はアメリカが高値で買ってくれる上客となっているそうである。

 私は昔極端な偏食であり、大学生になるまでハムとウィンナー、ハンバーグ以外の肉製品をほとんど食べなかった。長じて大分直ってきてはいるが、本格的な肉食主流の外国料理は苦手である。モンゴルの食事も肉系のものが多く、しかも量が多い。肉に付いて出てきた太い骨も叩き割って中の髄までスプーンで食するのである。そのためか、一般にモンゴルの男性は腰に刃渡り10センチほどのナイフをぶら下げていることが珍しくない。

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(ビフォア)

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(アフター)

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(腰のナイフ)

 モンゴルでは固い肉をおいしいと思う文化があり、「最近の若い奴はやわらかい肉しか食わず軟弱になった」という話を聞かされた。どこの国でも年寄りは同じようなことを言うものである。
 以前ドイツを訪れた時に、カゴに山盛りの骨付き肉や、頭も足も付いたトリの丸焼きを出されたことがあるが、私は全くダメである。こんな時はもっぱらパンやご飯を食べることにしている。私のように肉が苦手の人は、モンゴル旅行の際は何か副食を用意しておかれるといいと思う(ウイロ、煎餅、ビスケット等)。 (つづく

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2019年9月18日 (水)

モンゴル訪問記 5.久しぶりのホースバック・ライディング

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テレルジ国立公園
 巨大チンギス・ハーン像の見学を終えた我々は、ウランバートルの東北東に位置するテレルジという国立公園に向かった。なだらかな山に囲まれ、美しく広がる緑の景観の中にゆるやかに川が流れている。今、新たなリゾート地として、モンゴル人ばかりでなく外国人旅行者も対象に開発を進めている場所である(チン・チャンドマン・キャンプ)。
 ウランバートルから日帰りもできるが、宿泊施設も充実している。伝統的なゲルの形の宿泊施設だけでなく、外資による様々なリゾート・ホテルやマンションの建築が各所で続けられている。これからのモンゴルは、天然資源と畜産製品だけでなく、観光事業に重点を置いていることがよく分かる。

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 2日目はゲル型の施設に泊まることになった。ゲルと言っても、遊牧民の宿泊する小型のものではなく、直径10mほどある。一つで5人は泊まれる大きさがあり、天井も5mほどの高さで、水洗トイレとシャワー・ルームに洗面台まで付いている。
 このレベルのものならば、岡崎の中山間地再開発計画に使えそうな気がする。通常の建物を建てていたら費用がかかりすぎるし、何の目新しさも感じられない。ゲル型の施設はグランピング(ハイクラスのキャンプ)愛好家達のニーズにも合致するように思われた。

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 30~40人収容できる大型のゲルを使用してレストランも営業されており、このシステムは参考にしたいものである。

モンゴルの馬
 レストランで遅い昼食をとった我々は、少し休憩をとってから乗馬に出かけた。
 言葉には気をつけた方がいい。昨年、アーチェリー・チームの歓迎会の席でウッカリ「若い頃に馬に乗っていた」と言ったことを覚えていた人がいて、隣接の牧場に馬が用意されていた。

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 若い頃と言っても40年も前のことであり、当時は今より20キロは軽く、スマートな体型であった時のことである。
「あなたには落馬されては困るので、おとなしい馬を用意しました」
 と言われて出かけることとなった。確かに飛んだり跳ねたりする馬では困るが、草ばかり食べていて一向に歩き出してくれない馬も考えものであり、苦笑させられた。

 モンゴルでは男のたしなみとして、乗馬とモンゴル相撲、そしてかつては弓の三つが必須とされていた。考えてみればこの三つを基にユーラシア大陸を制覇した歴史があるのだ。東は朝鮮半島から中国全土、西は中部ヨーロッパ、北はシベリアからロシアまで、南は北インドまでその支配下に入れていたのである。
 そうしたモンゴル支配の歴史を持つロシアとしては、そのトラウマは大きく、その反動としてその後様々な形でモンゴルに圧力をかけた。長らく弓の使用を禁じられたことがモンゴル国のアーチェリーの技量低下につながったのかもしれない。

タタールのくびき
 歴史上〝タタールのくびき〟と呼ばれるユーラシア大陸におけるモンゴル人の支配は、人種や文化、国の成り立ちにまで様々な影響をもたらしている。私も改めて調べて驚いたのであるが、後世「ボヤール」と呼ばれるロシアの大貴族の中には祖先をモンゴル人やタタール人にさかのぼる家系も多いという。実際、家名にモンゴルやタタールの名前に由来するものも確認される。

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 17世紀のロシア貴族に関する調査ではロシア大貴族の15%以上が東洋系に由来する血筋であったという。その他、ロシア正教会の聖職者の中にもキリスト教に改宗したモンゴル・タタール系の人物が多数あるそうである。北欧のフィンランドは白人国家と思われているが、現在でもフィンランド人の中にはモンゴル系の証しである蒙古斑が出現する人があるという。
 ちなみに蒙古斑は、モンゴル人、日本人にはあるが、中国人や朝鮮人にはないそうである。そのせいか認知度も一般的でないため、アメリカなどで子供を病院に連れて行った際に児童虐待と間違えられて親が逮捕されたこともある。

 昔、私がニューヨーク大学に通っていた頃、アルメニア(西アジア)から来ていた友人がいた。ある時彼から「モンゴル帝国がアルメニア王国を攻めてきた時、我々の先祖の首を集めてピラミッド状の山を作った」という話を聞かされた。その語り口が面白かったため声を上げて笑ったところ、「ヤス、これはジョークではないんだ、本当の話なんだ」とたしなめられた。

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 この手の話は時代を経ることに誇大に表現されて伝わるものである。当時を伝える資料の絶対量が少なく、残されている文献の中にも今日言われるほどの破壊と虐殺の記述は残っていない。確かにモンゴル軍が攻城戦を行う際には降伏勧告の使者を送り、降伏開城をすれば、略奪はされても命までは奪われることはなく、町の自治権も保てたという。
 しかし抵抗し、戦いに敗れた場合、「男は皆殺し、女子供は奴隷」とされたそうである。この点についてはかつてのローマ軍も同様の対応であったはずである。また、支配下に下った場合は、人頭税と共に10%の物品税が課せられたと言われる。各支配地域においては人口調査と徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、司法制度の確立、治安体制の維持などが行われていたという。
 とはいえ、もともとが遊牧の民であり、定住して汗国(キプチャク、チャガタイ、オゴタイ、イル)を統治することには向いていなかったらしく、いつしかシステム崩壊を起こし四散していったものと思われる。これがモンゴル人が大陸に広く分布することになった理由でもあろう。
 その後時代は移り変わるものの、短期間にユーラシア大陸を席捲し膨張したモンゴル騎馬軍団の鮮烈な記憶は、時代を超えて各地に伝えられているようである。

 もう一つ意外だったことはモンゴルの馬が思っていたよりも小ぶりであったことである。観光客用に小ぶりな馬が用意されていたかもしれないが、歴代の中国皇帝が欲しがったという駿足の汗血馬(かんけつば)のイメージと異なっていたので驚いた。

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 確認をすることを忘れてしまったが、世界征服の頃もこの程度の大きさだったのだろうか? 一般に肉食のせいかモンゴル人はアジア人にしては背が高く、体格も立派である。いくら複数の馬を乗り替えて戦いに臨んだとしても、戦場でこんな馬ではもたなかったのではないかと思う。もっとも日本も戦国時代には実際にこの程度の大きさの馬を使用していたらしい。結局どんな馬でも乗り手次第ということなのであろうか? 久しぶりに乗馬をやって、そんなことを考えた。 (つづく

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2019年9月15日 (日)

モンゴル訪問記 4.歓迎会、ウランバートルの郊外

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初日の歓迎会
 7月24日、私達を歓迎して下さった方達は、自由化した社会の経済的成功を背景に政界へ歩を進めている人達であった。若い政治家の多くはかつてのようにソ連邦ではなく、欧米や日本への留学経験者が多く、会話をしていても進歩的で合理的な思考と優秀さが感じられる。
 ことに私を空港まで出迎えてくれたアーチェリー協会の副会長である37歳のエルデネボルド氏は、モンゴル国立大学で学んだ後、国費留学生として私と同じ米国インディアナ大学に留学しており、モンゴル滞在中は「インディアナ・ブラザーズ」とお互いを呼び合っていた。ハーバード大学のケネディスクールにも学んだ彼は、モンゴルの次代を担う若きエリートの一人である。

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(左側がモンゴルアーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏、右側がウランバートル市のスフバートル区議会議長)

 エルデネボルド氏は帰国後、モンゴル大統領府に職を得、その後、モンゴル民主党の政策担当の一人となった。現在は民主党青年協会のリーダーで、来年の国政選挙に立候補することになっており、「来年、再会する頃は私も政治家です」と言っていた。
 また彼は、国際的火星探査計画推進に携わるモンゴルの重要人物の一人でもある。モンゴル南部に広がるゴビ砂漠の自然環境が、重力と大気以外が火星と酷似していることから、現在、国際的火星探査計画であるマーズワン・プロジェクトのキャンプ地として計画が進められている。この計画には世界107ヶ国の人々が関わっているという。この計画の目標は「火星への移住」であり、組織は研究者、技術者、教育者の3部門によって成り立っている。

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 彼の面白いところは、こうした高尚な話をしているときに突然スマホの写真を見せて「この美しい女性が私の奥さんです」とアメリカの芸能人のような言いぐさで話を振ってくることである。

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 事実、写真のとおり、楊貴妃(ようきひ)もかくあらんという美女ではあるが、日本人で自分の嫁さんについてこういう紹介の仕方をする人はあまりいないだろう。この写真はハーバード大学留学中のパーティーでの奥さんの出で立ちであるが、彼曰く「やり過ぎだ」ということである。確かにまるでマリリン・モンローのようなこうしたメイクとスタイルでパーティー会場に現れれば、男達が放ってはおかないだろう。
 奥さんもモンゴル国立大出で、共にハーバードに留学した才媛であるが、この時彼は怒って帰ってきてしまったそうである。実に人間的な話で面白かった。
 いずれにせよ、明治時代の我が国のように外国で高等教育を受けた、こうした若きリーダー達が育っているこの国が間もなく転換の時を迎えることは十分予想されるものである。
 初日の夜はホテルのレストランで歓迎の宴を開いて頂いたのであるが、上記の話を除けば固い話に終始した。

ウランバートルの郊外へ
 翌朝、道路が渋滞することを見越して早めにホテルを出て郊外に向かった。予想どおり市街地から渋滞は始まっていた。郊外に向かう枝道に入ると、デコボコの悪路を縫うように路線区分を無視して車が走っている。センターラインをオーバーしてS字型に対向車線に入り、本線に戻ってくるのだが、初めて見た時は驚いた。まるで日本の暴走運転(あおり運転)のようである。それでもお互いに了解の上での運転であるせいか事故もなくスムーズ(?)に走ってゆく。
 2時間ほど走ってゆく間に、故障のために路肩に駐車してボンネットを上げ修理をしていたり、タイヤ交換をしたりしている車を何台も目にした。郊外に向かうドライブは、まるでダートトライアル・レースに参加しているようなあり様であり、車の天井に頭をぶつけたり舌をかんだりしないように注意する必要があった。横ユレもかなりのものであり、このような中、私達にモンゴルの説明をしながら運転を続ける様は曲芸のようであった。

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 途中、休憩のために何度も道路ワキに車を止めて車外に出た。波のようにうねりながら地平線まで続く一本道。その上に限りなく広がる青空とゆるやかに移動する白い雲。道路の左右には薄緑色のじゅうたんのような草原が曲線を描いている。平原というより緑の海のようである。
 こうした風景を眺めていると、日本の4倍の面積を持つ国土、そこに住む300万人余りの人口、遊牧民としての悠久の歴史を体感できるような気がした。ドライ・アンド・
クールと言えばいいのか、いかにもオゾンをいっぱいに含んだ草いきれと共に、草原を渡る風のさわやかさが際立って心地良く感じられた。

 私達はウランバートルの東、約54キロの地にある「ツェンジンボルドグ」という名のテーマパークに立ち寄った。

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 ここには高さ12m、直径30mの円形の台座の上に、高さ30mの全ステンレス製の巨大なチンギス・ハーンの騎馬像が建っている。エレベーターで像の腹部まで上がり、そこから馬のたてがみ上を通り、馬の頭の上の展望台まで登ることができる。台座の中は博物館とレストラン、オミヤゲ物売り場となっている。
 像は現在の大統領が民間企業のトップを務めていた頃に、私財を投じて建てたものだそうである。中央ホールには像の大きさに合わせた巨大なムチと高さ9m、長さ6m、幅2m半の長靴が置かれている。

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 この長靴は画家である大統領の娘さんのデザインによるものだそうだ。巨大な像ではあるが、世界第8位の大きさとのことである。この秋、東岡崎駅前に完成する若き家康公の騎馬像も大したものと思っていたが、上には上があるものである。 (つづく

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2019年9月12日 (木)

菅生川草刈一斉清掃(2019年)

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 9月8日(日)、今年も「菅生川を美しくする会」主催による草刈一斉清掃が行われました。
 三島学区の住民が中心となって昭和41年(1966年)から菅生川の河川美化活動が行われてきましたが、「菅生川を美しくする会」はその活動を引き継ぐ形で昭和48年(1973年)に発足しました。梅園、根石、連尺、六名、三島及び竜美丘の流域6学区の住民で構成され、草刈清掃や河川パトロールなどの活動を展開しています。
 当日明代橋下で述べた挨拶を掲載します。


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 皆様、おはようございます。市長の内田であります。
 本日は台風の接近する中、日曜日の早朝から本当にご苦労様です。
 本日の一斉清掃は、菅生川の流域である三島、梅園、根石、連尺、六名、竜美丘の6学区の皆様をはじめ、各種団体・事業所の皆様、岡崎土木災害安全協力会の皆様、市役所職員、合わせて34団体、約2,000名の皆様にご参加いただいております。このように多くの皆様が菅生川の美化に関心を持ち、ご参加いただいておりますことに心から感謝申し上げます。

 さて、ここ菅生川流域を始めとした乙川リバーフロント地区におきましては、ご覧のとおり現在着々と整備が進んでおり、7月には籠田公園がリニューアルオープンしました。
 加えて、東岡崎駅の北東街区でも9階建てのホテルを含む新たな商業施設が11月2日にグランドオープンするほか、東岡崎駅と直接つながる中央デッキもいよいよ完成します。

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(現在建設中の東岡崎駅北東街区の中央デッキ)

 さらに中央デッキには、市民の皆様のご協力により1億円を超える浄財を得て、高さ9.5メートルという、日本一の高さと偉容を誇る若き日の徳川家康公の騎馬像がいよいよお披露目となります。私達の岡崎市が市民の皆様のお力により、ますますきれいに素晴らしくなっていくことを何よりの喜びと思います。
 駅のホームや名鉄電車の窓からも見えるとのことで、間違いなく本市の新たなシンボルとなりますのでご期待ください。
 このように菅生川の周辺環境は大きく変化してまいりますので、菅生川を美しくする会の皆様をはじめ、本日お集まりの皆様におかれましては引き続きお力添えを賜りますよう、心からお願い申し上げます。

 それでは間もなく清掃活動が開始されますが、どうかくれぐれも熱中症や怪我には十分に気を付けていただきたいと思います。
 本日は皆様、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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東海愛知新聞『モンゴル訪問記』のお知らせ

東海愛知新聞、2019年9月10日

 東海愛知新聞でも「モンゴル訪問記」の連載が始まりました(9月10日~)。お知らせします。

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2019年9月 8日 (日)

デマゴーグの季節の到来?

 3年ほど前、とある新聞記者の書いた記事に触発されて、「デマゴーグについて」と題する文章を2回に分けて書いたことがある。近年のデマゴーグは全くのウソ、デタラメではなく、数字のトリックやオーバーな表現で読者を欺こうとする傾向があるということを書いた覚えがある。
 選挙が近づいてくると、こうしたものが出てくるものであるが、昨今は実にクラシックな全くのウソ、デタラメを並べる単純な方法も目立ってきているようである。

 現在、全国の多くの自治体は水道管の布設替えや浄水場の更新の時期に迫られている。しかしながら、事業を進めるには多大な予算を要するため、自治体によっては民営化して乗り切ろうとしているケースもある。
 幸い岡崎市は複数の水源に恵まれ、財政も健全な状況を維持しており、水道の安全安定供給のため独自で水道事業を継続してゆく方針である。事業は計画的に進められており、今後も経営のあり方は同じである。

男川浄水場

 しかるに近頃、一部外者が何の根拠もなしに「岡崎市は水道の民営化を図っている」いうデマをしきりに流しているそうだが、これは全くの事実無根の話である。市の幹部会はもとより局内でも一度も議論に上がったことすらない。
 また同様に、最近の岡崎市政が「中心部偏重の施策になっている」とか、「政策決定がブラックボックス化している」とか訳の解らないことを言っている輩がいると聞いた。昔から「貧すれば鈍す」という言葉があるが、これは、ためにするデタラメであり、何の具体的根拠もない話である。

 私が上京して各省庁を回った時に必ず言われるのは、「岡崎市はよくやってるネ」という言葉である。ことに国土交通省からは「全国でまちおこしの事業を行っている所は多いが、岡崎のように5つも6つも大きな事業を全市的に展開して、すべて成功しているケースはまれであり、国としても注目している」と言われている。その証しが昨年の「地方再生のモデル都市」への選定であり、さらに「中枢中核都市」の一つとしても選ばれていることで証明されている。
 この秋、岡崎市をモデルケースにした3つの研修会が国土交通省のキモ入りで、全国の関係者を招いてこの岡崎の地で開催されることになっている。

 今さらであるが、市南部では新総合病院の建設、JR駅前の再開発、都市計画道路福岡線や同若松線をはじめとする各種道路の整備、河川改良などが行われている。東部ではアウトレットモール誘致と本宿駅周辺の区画整理事業に着手し、額田地区では「額田センター・こもれびかん」建設のほか、地元密着型の山間地事業にも着手しており、中山間地の活性化計画も具体的に進めている。北部では経済界待望の新しい工業団地計画が進み、活性化のための「(仮称)岡崎阿知和スマートインターチェンジ」事業も間もなく実施の段階に入ってくる。

藤田医科大学岡崎医療センター

岡崎市龍北総合運動場

 県との間で長年の懸案事項であった県営グラウンドは、「岡崎市龍北総合運動場」として再生途上にある(来年7月完成予定)。県立愛知病院の経営移管の話も大きく進展し、「岡崎市立愛知病院」に生まれ変わった。
 区画整理が未整備であり、道路事情が悪く、大きな施設を造りにくい矢作地区でも南北道路延伸を含めた道路計画が進み、西岡崎駅周辺整備が行われている。要望の強かった西部学校給食センターの再建も矢作南で実現することになっている。
 市内東西南北それぞれにその地の発達段階に応じた施策を展開し、それなりの評価を受けているというのが実態である。
 その上でワンランクアップの都市を目指すための施策が、「モノづくり」に続く「観光産業の振興」であり、その第一歩が「乙川リバーフロント計画」なのである。一体どこが「中心部偏重」なのであろうか? きっとこれは事実を認めたくない人か、市民の声や正しい情報が入ってこない立場の人かのいずれかであるかと思う。
 また、「ブラックボックス」という言葉であるが、そもそも用語が間違っている。通常ブラックボックスとは、飛行機の安全航行のための経路と機体の運航状況を記録し、まさかの事故の時のデータを残す機械のことである。仮に言うならば、ブラックホールであるが、これとても正しい認識とは言えない。第一まじめに仕事をしている市の職員をバカにしている言葉である。

 岡崎市は大きな事業を行うために極力、国・県との連携を重視し、なるべく多くの補助金を使って事業展開をしている。さらに民間の力を活用もしている。よく100億円事業と悪口を言われた乙川リバーフロント計画も半分近くは国費であり、全国でも例外的な事業だと言われる。それだけまちおこしとして説得力のある仕事であったからできたことである。

桜城橋

(2020年3月完成予定の桜城橋)

岡崎市東公園

(2019年8月に完成した東公園の木製遊具)

 東岡崎駅前の家康公像、東公園の恐竜と木製遊具においては、これらは市民の浄財によって整備されたものであり、そのことも正しく見て頂きたいものである。
 しかもこうした施策の策定・実施は、役所の部内、議会での審議はもとより、380回(来年までに400回)を超える市民対話集会、政策説明会にくわえ、地元説明会などを経て、岡崎活性化本部はじめ多くの専門家、諮問機関の提言、チェックのもとに進められてきたものである。決して一人の人間の気まぐれや思いつきで行われてきたものではないことを強調したい。
 私が市長になってから一番強く感じたことは「市長だからと言って、ひとりで勝手に決められることはほとんどない」ということである。ひょっとして、根拠なしに批判してみえる方は「市長になれば何でも自分の思いどおりにできる」と思っている人なのではないだろうか?

 これから選挙が近づいてくると、またぞろ、ためにする悪口、根拠のない批判、デマが出てくるものである。またそうしたことが好きな御仁もいるのである。
 賢明なる市民の皆様におかれましては、どうかその点をしっかり見極めて頂き、正しく御理解、御判断をして頂きたいものと思っております。

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2019年9月 6日 (金)

モンゴル訪問記 3.ノモンハン事件~現在

The Battles of Khalkhyn Gol

ノモンハン事件
 20世紀に入り、ここで13世紀の元寇(げんこう)以来の日本との関わりが出てくる。
 日露戦争の後、ソ連の影響下とは言え、独立国家としての歩みを始めて間もないモンゴルに降りかかってきたのが大日本帝国の侵攻であった。
 1931年の満州事変以降、大陸で勢力を拡大していった日本と、伝統的南下政策をとるソ連は各地で小競り合いを起こしていた。ハルハ河近郊で対峙していた満州国とモンゴル軍の国境守備隊同士の川の使用をめぐるささいな出来事が切っ掛けとなり、1939年5月、日本陸軍(関東軍)とモンゴル・ソ連連合軍の全面戦闘に発展してしまった。日本ではこの戦闘を「ノモンハン事件」と呼び、モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼んでいる。

The Battles of Khalkhyn Gol

 日露戦争における戦勝体験によって培われた白兵戦重視の日本陸軍と、機械化の進んだソ連軍の機甲部隊とでは大人と子供の戦いに等しかった。ソ連の重戦車の前に日本の軽戦車はまさにブリキのおもちゃであった。日本軍の砲弾はソ連戦車の厚い装甲に弾き飛ばされ、ソ連軍の砲弾は日本戦車を貫通してしまうあり様で勝負にならなかったという。私の友人のアメリカ人は「日本の戦車は鉄の棺桶」とバカにしていた(今の自衛隊はそんなことはない)。しかもソビエト軍は10倍近い戦車と野砲を運用していた。対して日本軍は少ない戦力で火炎ビンを使い夜襲で対抗した。弾切れ、食料・水無しで戦っていたのだ。

 日露戦争当時と大して変わらない貧弱な装備(対中国戦はそれで十分だった)でソ連の機甲部隊と戦わざるをえなかった当時の兵士はまさに気の毒を絵に描いたようなものであった。飛行機による空中戦では日本軍の方が優勢であったそうであるが、制空権を確保するまでに至らず、逆に地上戦において完膚無きまでに叩きのめされてしまったのである。
 戦闘は9月まで続き、結果、日本軍第23師団は壊滅、出動兵約6万人のうち、約2万人が戦死・戦傷・行方不明となり、多くの捕虜を出した。実に実働部隊の3分の1の損害を出すという大敗北であった。とはいえ、日本軍の奮戦のため、倍する兵力のソ連側も2万5000人の死傷者を出すこととなる。しかし、作戦目的を達し、国境を守ったのはソ連側であった。
 その後、陸軍は大陸拡大方針を改め、海軍の南方侵攻戦略に同調してゆくことになる。太平洋戦争への一つの切っ掛けとなる戦いとなったのである。
 私はノモンハン事件というのは「日本とソ連の大陸における勢力争いの戦い」と単純に思っていたが、モンゴル軍においては数千人の犠牲者を出す国防の戦いであり、自由化前のモンゴルにおける対日感情は決して良いものではなかったという。

ソ連崩壊に伴う自由化
 1980年代末に始まるソ連邦の崩壊に伴い、1990年に人民革命党が一党独裁を放棄し、自由選挙を経て1992年に新憲法が施行され、モンゴル人民共和国はモンゴル国に改称した。現行の一院制議会(76議席)と直接選挙による大統領制が始まり、自由経済による個人所有も認められるようになったという。
 新興国家成立の段階でよくあることであるが、政権が交代する度に、恣意的な立法が行われ社会の混乱を招いている。国営企業の民営化、銀行改革も行われているが、有力政治家の暗殺、利権を巡る政争や外国からの投資に関わる汚職も横行している。まだ改革を要する課題は多いようである。
 今回モンゴルで、私が岡崎市で行われている公共入札の管理システムについて説明し、市長は入札決定に関与しない旨を伝えたところ、ツァガン会長は「我が国にもそうした制度が必要だ」と言ってみえた。 (つづく

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(ノモンハン事件の写真は「Wikimedia Commons」から借用しました。)

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2019年9月 4日 (水)

モンゴル訪問記 2.モンゴル国とは

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国の概況
 改めて、一般の日本人には馴染みの薄いモンゴル国について述べてみよう。
 モンゴル国は中国とロシアに挟まれた内陸国であり、全人口324万人に対し面積は日本の約4倍(156万4,100平方キロメートル)もあり、広大な国土に恵まれた国だ。大ざっぱに言って東部は草原地帯が広がり、西部は山岳地帯、南にはゴビ砂漠があり、北には森林地帯(タイガ)がある。

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 民族としてのモンゴル人はユーラシア大陸に広く分散しており、その合計は本国の人口よりも多い。それぞれ中国やロシアで少数民族として在住し、中国では内モンゴル自治区として自治権を与えられている。独立運動を行わないという法律の下での自治であるが、他の自治区と同様、実権は漢人に握られている。
 この内モンゴル自治区の首府のフフホト市と岡崎市は姉妹都市であるが、フフホト市とモンゴル国の首都ウランバートルも姉妹都市であり、不思議な御縁である。

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 フフホト市は人口300万を超える大都市であるが、ウランバートル市もモンゴル国の全人口の半分近い150万の人口を持つ都市である。都市生活をしながら、週末は郊外にある土地でゲル(天幕)生活をしている人達も多いということである。とはいえ、そうした優雅な生活をしているのは有産階級の人々であり、市外の上下水道の整備が済んでいないエリアで生活している人達は文明の恩恵を十分受けているとは言えないようであった。そうしたエリアでは下水はタレ流しであり、土壌汚染が大きな社会問題となっているそうである。

歴史
 次にモンゴル人の歴史を振り返ってみたい。モンゴル人は古来遊牧民族としてユーラシア大陸を移動する生活を続けてきた。広い大地を季節移動し、定住生活を行わない遊牧民族達と、定住農耕生活をする漢人が衝突するのは必然的な宿命であり、紀元前3世紀の匈奴(きょうど)以来数多くの戦いと征服、被征服の歴史を繰り返してきたことは衆知の通りである。
 三千年の歴史を誇る中国ではあるが、全王朝の3分の1は漢人以外の民族によって支配されていたのが実態である。最後の王朝となった清朝もモンゴル系の満人によるものであった。とは言え、漢人が征服王朝化されたのではなく、征服者の方を中国化させて取り込んでしまうところが中国という国のすごさである。
 それでも19世紀にはロシアの影響を受け、清朝から分離の動きが始まり、1911年に辛亥革命で清朝が倒れたことを契機に、モンゴルは独立宣言をした。その後全モンゴル民族の統一を目指して各地との連合を企てるが、ロシア、中国双方からの圧力により失敗する。結局、現在の外モンゴルに限って中国の宗主権の下に自治が認められた。
 その後、1917年のロシア革命に触発され、ソヴィエト連邦の指導の下、社会主義国家としての発展を目指すことになった。しかしその実体はソヴィエトの傀儡(かいらい)政権に等しいものであった。 (つづく

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2019年9月 2日 (月)

モンゴル訪問記 1.出発

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はじめに
 岡崎市がモンゴルのアーチェリー・チームのキャンプ地となり、その後2020年東京オリンピック・パラリンピックのホストタウンに選ばれたことで、昨年以来モンゴル国から「一度、岡崎市長に首都のウランバートルまで来てほしい」という要請を何度も受けていた。日程の都合でなかなか叶わなかったが、ようやくこの7月末に訪問が実現した。
 岡崎の夏のメイン行事である「岡崎城下家康公夏まつり」と「花火大会」前の7月24日(水)から3泊4日というあわただしいモンゴル訪問となったが、その中身は大変充実したものとなった。

 VIP(重要人物)と面会する時によくあることであるが、直前になっても日程の詳細が確定しないものもあった。現アーチェリー協会会長のツァガン氏が元国務大臣であり、かつ大統領顧問の一人であることから、モンゴル・オリンピック協会から岡崎市を代表して名誉記章を授与されることとなった。私の訪問に合わせて日程を変えたという「全モンゴル青少年アーチェリー大会」では、来賓としての挨拶に加え、全国ネットのTVインタヴューも受けることになった。

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(左から、モンゴルアーチェリー協会のエルデネボルド副会長、内田、モンゴルナショナルオリンピック協会のバダルウーガン副会長、北川雅弘氏)

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(全国ネットTVによるインタヴュー)

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(ウランバートル市長のアマルサイハーン氏)

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(モンゴル国のバトトルガ大統領)

 さらに予定になかったウランバートルのアマルサイハーン市長との面会も叶い、まさかと思っていたバトトルガ大統領とは1時間近い会見を行うことができた。そして多忙な在モンゴル・高岡正人日本大使からも直接お話を伺うことができた。
 今回のモンゴル訪問における何よりも大きな収穫は、これから飛躍する可能性を秘めたアジアの重要な新興国家・モンゴルの指導者ならびに若く有望な政治家の方々と知己を得ることができたことである。
 当初の目的どおり、こうした関係をスポーツ交流だけでなく、人的交流、経済交流にしっかりとつなげてゆきたいものと考えている。

出発~到着
 7月24日(水)早朝に岡崎を発ち、私と太田国際課長の二人は新幹線を経由し、成田空港を目指した。成田からはウランバートルへの直行便が出ているのだ。成田からは5時間ほどの飛行時間で現地に到着する。ハワイよりも近く、時差も1時間(日本の方が早い)であり、まだ観光ズレしていない、豊かな自然空間を上手に活用することができれば、新たなリゾートとしての可能性は大きいだろう。
 飛行機の中で気が付いたことであるが、機内上映のDVDの翻訳が英語、フランス語、モンゴル語に加えて、中国語と韓国語しかなかった。日本発の飛行機でありながら機内放送も日本語は無かった。欧米の航路でこうしたことはあまりないが、これは日本人が欧米重視で、他の国に対して十分な力が及んでおらず、そうした国に対して中国や韓国が先に手を伸ばしていることの証左である。油断がならないと思うものである。
 モンゴルは、先端産業に不可欠な希少鉱物を含む、鉱物資源の豊かな地である。ボンヤリしていると中国、韓国に窓口を押さえられてしまうかもしれない。しかし、私が心配するまでもなく、1990年代からすでに日本政府としては対応しており、2013年以来、安倍総理はじめ各主要閣僚も度々モンゴルを訪れている。今後、日蒙両国のさらなる交流の進展が予想されている。

 日本海を越え、大陸の山河を眺めながらウトウトしているうちにウランバートル上空に到達した。今回はウィンドウシートでなかったため、風景の推移がよく分からなかった。
 空港へは、静岡県日蒙親善協会理事長の北川雅弘氏とモンゴル・アーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏のほか、昨年来岡されているアーチェリー・チーム監督のガンゾリグ氏らが出迎えに来て下さった。

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 市街地までは40~50分程の距離であるが、走っている車がやたらホコリっぽいため、その理由を尋ねたところ、現在ウランバートル郊外で集中的に道路工事が行われているためとのことであった。モンゴルでは幹線道路の舗装はなされていても、そこにつながる道路の多くは草原に線を引いただけのような地道がほとんどだそうだ。そのため、郊外への出入りにそうしたデコボコ道を通らざるをえず、結果、目的地に着く頃にはホコリまるけのあり様となるそうである。「悪路走行が常のため、車体に強度が無く、足回りの悪い車は使えない」ということであり、そのせいか日本車が多くなっている。

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 すれ違う車にプリウスがやたら目についたため聞いてみると、
「プリウスは当初すぐに壊れるハイブリッド車と思われていたが、意外に頑丈で燃費も良いため、モンゴルでは数多く使われている」
 という返事だった。しかし金持ちは、より機能性の高いレクサスやベンツのクルーザー・タイプを使うのだという。いずれにせよ、元来遊牧民族の国家が急速な近代化を迎え、モータリゼーション化したためインフラの整備が間に合わないということらしい。 (つづく

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