即位後、初の天皇皇后両陛下の地方行幸啓
(「市政だより おかざき」令和元年7月1号より)
6月1日(土)、天皇皇后両陛下が令和時代初の地方行幸啓(ぎょうこうけい)として、愛知県におみえになった。これは翌2日に行われる「第70回全国植樹祭」の式典へ出席されるためで、初日にはあま市七宝焼アートヴィレッジを、2日目には岡崎市にある愛知県三河青い鳥医療療育センターを訪問された。
これまで、天皇陛下が岡崎市におみえになったことは、明治天皇が4回、大正天皇が皇太子時代に1回、昭和天皇が2回と記録に残っている。 (下記参照)
昭和54年の「第30回全国植樹祭」の際に「お召し列車」が岡崎駅に停車した折に、奉送迎が行われたそうだが、本市を目的地とした来訪は、昭和21年の戦災地・御巡幸以来72年振りのこととなる。
第70回全国植樹祭
初日の夜、名古屋市内のホテルで全国植樹祭のレセプションが行われ、県下の各自治体の長はじめ、国・県会の議員、経済界及び各界の代表者が招かれ500名ほどの参加者によりにぎやかな祝宴が開催された。
県会議長、知事の挨拶に続き、天皇陛下からもお言葉を頂いた。数日前に即位後初の国賓として米国トランプ大統領夫妻のおもてなしを行われたばかりで、両陛下におかれては大変お疲れである中、会場では笑顔を絶やさず一人一人にていねいに対応をされていた。その姿を間近に拝見し、皇族の方々の公務というものが尋常でないことがよく分かった。
帰り際、夜間にもかかわらず、ホテルの周辺には天皇御来訪を歓迎する数百人の皆さんがちょうちんを片手に整然と並んでいた。改めて、この国における天皇陛下の存在感の大きさを認識した次第である。
翌2日、早朝に岡崎を発った私達は尾張旭市の愛知県森林公園に向かった。10時から始まる植樹祭のため、前日同様の厳重なチェックを受けて森林公園内の会場に入り、それぞれ決められた行程を行うこととなった。
私達地方自治体の長は、陛下の主賓席のステージの左側の木造の建屋に案内された。あいにく、つくりが平坦で、しかもスシづめ状態のため会場の様子は前の人の頭に隠れてさっぱり見えなかった。おまけに用意されていたテレビも逆光で役に立たず、アナウンスの音声に耳をそば立てて推移を察するのみであった。それでも陛下の「健全な森を次世代のためにつくっていくことは、私達に課せられた大切な使命であります」というお言葉は私達の耳にもしっかりと届いた。
記念植樹は両陛下はじめ、関係者の手により、会場の前面においてスギやシデコブシなど6種類の苗木が植えられた。
「広場の真ん中に、近接した間隔で木を植えて後で困らないのだろうか?」と思い、尋ねてみたところ、「式典として植えられた苗木はポットに入ったまま埋設されており、後に掘り返され、適地に移し替えられる」とのことであった。本来「記念植樹」というものは本人が手ずから植えたものであるから意味があるのであって、移植したら記念植樹とは言えないのではないかと思ったが、最近は儀式として行うだけで、他でもこうした仕様になっているということである。
愛知県三河青い鳥医療療育センター
その後、両陛下は近くの会場で昼食をとられ、岡崎へと向かわれた。私達は高隆寺町の三河青い鳥医療療育センターで両陛下をお出迎えするべく一足早く岡崎に戻った。
当初岡崎へはおしのびでおみえになるという話であったが、両陛下がみえるということで、警察や担当部局の職員が経路や会場の事前調査に動いたこともあって、いつしか地元の人達の知る所となり、正式に公表される前から市役所や後援会事務所へ両陛下のおみえになる時間や経路についての問い合わせ電話が相次いだようである。
さすが警備については半端ではなく、東京から随行の皇宮警察(こうぐうけいさつ)はじめ、警視庁のSP、県警、岡崎署の警察官あげての水も漏らさぬ警戒態勢であった。そこまで気がつかなかったが、当日は県警のヘリコプターも出動したそうである。
先導者、先行の白バイ隊、両陛下の乗車に加え数台の護衛車両が警護のため随従してきた。両陛下の到着前に着いた先行車両からは私服護衛官達が周辺と施設内に分散し、再度、それぞれの持ち場を確認していた。建物内の経路も、通路の交差点には必ず誰かが立つ念の入れようであった。
ほどなく到着された両陛下は、玄関先に立つ私達一人一人に声を掛けて入場され、エレベーターに乗られた。20分の休憩の後に、再び1階に降りておみえになったのであるが、部屋に入る度ごと、出る度ごと、エレベーターに乗られるごとに無線で連絡が入る。まるで決められたレールの上を走る列車の運行のような行程であった。
そのようながんじがらめの状況下(?)にありながら、両陛下の行動は実に細やかな配慮に満ちたものであり、一人一人の入所者の手を握りながら、同じ高さの目線に立ち、相手に合った話題を選ばれてお話をされてみえた。途中、随従の方達が帰りの時間の心配をされてみえたが、お二人は全く手抜きのない応対を続けてみえた。これでは私達の選挙運動よりも余程ていねいで、心のこもった応対ぶりであり、反省させられること大であった。
玄関でのお見送りの際、「余計なことを話さないように」と注意を受けていたため、〝岡崎の令和・桜バッジ〟も用意はしていたが、お渡しできなかった。帰りに献上する資料も各市パンフレット1冊と決められていたそうである。
ところが、帰りがけに天皇陛下の方から、現在岡崎市に在住の共通の知人についてのお話があった。そのため、私のみしばらく会話をする機会を得たため、それを見ていた人達から「何を話していたのか?」と何度も質問されたのであるが、特段たいしたことはお話していない。
できればその際に、当日六ツ美で行われていた、大正天皇の大嘗祭における悠紀斎田の104周年のお田植えまつりについてお話すればよかったのであるが、あまりに不意の出来事であり、つい話しそびれてしまい残念であった。
その後、特別仕立ての御料車(トヨタ・センチュリー)に乗車され、お帰りになられた。自動車に詳しい太田市議会議長は「あの車はすべて手造りの特別車で、防弾ガラスなど様々な安全対策が施されており、1台1億円くらいする」と言っていたが、当然のことであろう。
車体の前後左右には直径10センチほどの菊の御紋が取り付けられており、ナンバープレートは無く、代わりに白地に青い字で「皇」の字と、下に「8」の数字が記されたエンブレムが付けられていた。
それにしても毎度、このように神経をすり減らす訪問を繰り返される皇族の方々には改めて深い敬意を抱いた次第であった。
当日は特別な動員などしていないにもかかわらず、沿道には当初見込みの
3,000人を大幅に上回る23,000人ほどが歓迎の列を成し、市民の有志から無償で15,000本あまりの国旗が提供された。市民の皆さんが自発的に、盛大かつ温かく両陛下をお迎え頂いたことに私からも御礼申し上げます。
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