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2018年12月 9日 (日)

個人と公人の境界について

 先日、ある方から「今年は地方自治体の首長にとつて受難の年だ」ということを言われた。例年にも増して多かった自然災害に加え、異常気象に対する対応に苦労したということかと思ったら、そうではなかった。
 本年の前半は私の知り合いの首長が何人も突然死された。現職のまま亡くなるというのは、まさに「名誉の戦死」であると言える。中には若くして亡くなった方もいる。

『東海愛知新聞』2018年4月5日

 首長の仕事は多岐にわたり、どこまでやれば終わりということはなく、実に多忙である。副市長や部長もいるのであるが、「ぜひ何とか市長に」と言われると無下に断ることもできず、ついつい無理しても出かけることになる。
 かく言う私の場合も就任一年目は仕事を自分の目でしっかり確かめるため、積極的に動き回り、気がつけば一年間で完全な休日は7日しかなかった。そのせいかちょうど一年を経た頃、体に変調をきたし急遽点滴生活を送ることとなった。
 若き日と異なり、一晩眠ったぐらいでは疲労は癒えず、精神的なストレスも蓄積されるばかりである。しかるに、自身は以前と同じイメージのまま走ってしまい突然倒れることとなるのである。
 また、他にも元気印の代表のようなスポーツマンで体力自慢であった友人の訃報がこのところ続いている。よくある50代、60代の山の遭難も同じ理由と思うが、体に自信があるためついつい無理をしてしまうのである。責任感の強いまじめな人ほど、そうしたサイクルとなりがちである。それだけに周囲の人の心遣いを期待するものである。
 いずれにせよ訃報が相次いだせいで、今年はやたら「お体に気をつけて下さい」と言われたものである。

 続いてこの秋頃からはなぜか女性問題で失脚してゆく首長が目につくこととなった。中には私の知っている方もおり、いずれも仕事熱心であり、知性派の人物と思っていただけに驚いている。仕事が順調で強敵も見当たらないというような時に、人は心にスキが生まれるのかもしれない。(油断大敵である。)
 こうした事件(?)が続くと、必ず同業者は同じような苦言を頂戴することになる。「あんたは酒も飲まないし、夜の街に出歩くこともないが、くれぐれも気をつけるように」などと心配を頂くことになるのである。
 そもそも人の寿命や色恋ざたの発生は、気をつけていてどうにかなるという性質のものではない。誰しもそれを予見はできないだろう。十分気をつけていても病気になる時はなってしまう。体の中の微妙な出来事のすべてに対応できるはずがない。我々にできることは、せいぜい定期検診で人間ドックに通い、飲食に気をつけるぐらいのことである。多忙な毎日の中で運動のための時間を設けることも難しい。
 対人関係において好悪の感情をコントロールすることは我々の仕事の一部のようなものであるが、相手のある関係の中では一人の自制心だけにその責を問うことは無理があることもある。そうしたケースにおいては、公人が責めを負うこととなる。一般人なら「困った人だね」で済む話でも、公人は許されないというのが昨今のモラルの基準となっているようである。

 しかし、私の知る限り、公平に見て、近年の政治家は随分お行儀が良くなっていると思う。昔は国会議員が外遊する時には、海外の民間会社の駐在員が夜の相手をする女性を捜すのに走り回ったとか、秘書を二号にしたのか二号を秘書にしたのか分からないといった話を耳にしたことがあるが、近年はそうした話を聞いていない。
 岡崎でも、40年ほど前には「市会議員になっても、松本町に彼女がいるくらいでなくては一人前とは言えん」などと言う方がいた。そういう方は決して保守系の議員ばかりではなかった。
 かつての有名政治家におけるこの手の逸話は枚挙にいとまがない。とりわけ有名なものとして次の話がある。
 戦後政界の大立て者の一人、三木武吉(ぶきち)翁は、地元の演説会で「メカケが4人もある奴がえらそうなことを言うな!」とヤジられ、「ただいまメカケが4人と声が掛かりましたが4人ではありません。5人であります。もっとも今やいずれも年老いて、ものの役には立ちませんが、不肖、三木武吉、役に立たないからと捨て去るような不人情者ではありません。今も全員の生活の面倒をみております」と答えて聴衆の拍手喝采を浴びたと伝えられている。(当時は女性の職業の選択に限りがあり、戦争未亡人も多かった。)

Mikibukichi_2

(三木武吉、1884年~1956年)

 もちろん半世紀も前の出来事が今の世の中で通用するとは思っていない。モラルのあり方も社会の価値観も時代によって大きく変化してゆくものである。しかし犯罪的な要因があることならばともかく、単なる個人的な人間関係、プライベート上の醜聞によって全人格が否定され、その人間を職務から追放しなくては成らないものかと思うものである。
 今回続いた事件の問題は双方が既婚者の不倫ということであるが、それは当事者間で話し合うなり、裁判で決着をつければよい話であると思う。マスコミや第三者が神や裁判官のごとく断罪しようとする風潮をなんとも情けなく感じるものである。

 かつてフランスのミッテラン大統領は、自身の愛人の死に臨み、堂々とその娘と共に葬儀に出席した。その折、アメリカのマスコミがその是非を問うインタビューを行ったが、ミッテランは「そのとおりです。それがどうかしましたか?」(誰かに迷惑をかけているのですか?)と答えたという。フランスではニュースにもならなかったそうである。
 「個人主義が確立した大人の国と大衆民主主義の国の違い」などとコメントするとまた叱られることになるかもれしないが、人間は人生のすべての局面で完全であることはできないし、完全を目指していても失敗することもある。その対応は個人が行うべきことであり、第三者が果たしてどこまで介入すべき領域であるのかと思うものである。
 ことに私達のいる政界は、意図的にワナを仕掛けられるケース(ハニー・トラップ)もあるだけに、より大きな注意と自制心が要求されるのだろう。
 そう言えば私も少し心配がある。先日行った出版記念パーティーで、魅力的な70代、80代の女性と望まれるまま肩を組んだりして、不適切な(?)写真を数多く撮ってしまった。選挙になるとこれらの写真が問題となるのだろうか?

『夢ある新しい岡崎へ』出版記念パーティー

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