花火教室に思う
5月の連休中に行われた「第45回岡崎こどもまつり」と同じ日に、花火の遊び方を教える教室と「おもちゃ花火コンテスト2018」が開催されていた。その様子を眺めていて改めて昨今は親の世代が花火の扱いに不慣れな人達となっていることに気付かされた。
昭和30年代に少年期を過ごした我々にとって、花火は重要な遊び道具の一つであった。私の場合、お向かいが花火屋さんであったこともあり、小さい頃から花火に親しんで育つことができた。今考えると随分ムチャで危ない遊びをしたものである。
私達が子供の頃、爆竹と共に「2B」という7~8センチの棒状の花火が流行っており、マッチ棒と同様に頭部の火薬部をマッチ箱にこすりつけ着火させ、それを投げて破裂させて遊んでいたものだ。着火後10秒ほど白い煙が出て、その後煙は黄色に変わり、まもなく大きな音と共に破裂するのである。子供達はその時差を使って様々な遊びを考え出したものであった。
1メートルほどの竹の棒を鉄砲替わりにして、着火した2Bを先端に入れて構えると10メートルほど先まで燃えカスが弾のように飛び出してゆく。大きな破裂音に加え、硝煙のニオイもあって戦争ゴッコの必需品であった。
また時に手に持ったまま爆発させたり、〝度胸試し〟と称して、着火した2Bの端を口にくわえて顔の前で破裂させたりもした。もちろん耳を手でふさいで目をしっかりとつぶって行うのであるが、顔中に火薬のニオイや燃えカスが付いてひどいことになった。怖がって途中で口を開けて落とすのは、アゴやノドの近くで破裂してかえって危険なことになる。幸い私は怪我をしたことは無かったが、手作り花火のため火薬の分量に若干のムラもあって、中には着火と同時に爆発したり、唇に裂傷やヤケドを負った者もいた。
2Bは爆竹と同様に、現在国内では製造されていないが、戦後の昭和中期のワンパク坊主達はこんな遊びをしていたものである。中には2Bをカエルのお尻に差し込んで破裂させる奴もいたが、こうした動物虐待は私の趣味ではなかった。
それでも、花火をほぐして集めた火薬を牛乳ビンにつめて導火線に着火して爆発させたりという危険なことをやったことはある。そんな私が指の一本も欠けることなく両目がそろっているのも、近所の花火屋さんの息子である先輩達の適切なアドバイスのおかげであると思っている。当時は爆竹を大型化したダイナマイトとか水爆という名の爆裂花火もあった。
花火と言えば、小学生の頃もう一つ忘れられない出来事がある。
当時、菅生神社の氏子達は籠田公園に集結して町内ごとに長持ち行列のお練りを行っていた。東康生から本町通りを抜けて国道1号を横断して菅生神社まで行き、そこで手筒花火を奉納(打ち上げ)するのであった。
ある時私の友人の一人が、首からかけた布袋に、あろうことか2Bの束と一緒にマッチを入れていたのである。これは当時気をつけるように言われていたことだ。2Bとマッチを一緒にしておけば何かの拍子にこすれて着火してしまうことがあるからである。
ちょうど東康生の東宝劇場(旧コメダ、現在は駐車場)の前あたりを我々が長持ち唄と共歩いていた時であった。友人の首からつり下げていた布袋が突然破裂し始めたのである。
急な出来事に私達は呆然としていたのであるが、その時にまさに電光石火のごとく一人の大人が駆け寄り、友人のハッピと首からかけていた袋をはぎとったと思うや否や道路に投げ捨てたのである。その直後に他の2Bに引火し大爆発が起こり、ハッピは燃え上がったのであった。
この時ほど「大人はスゴイ!」と思ったことはなかった。一瞬の判断と決断、行動である。この人は消防団員であることを後に知ったが、タイミングが遅ければ友人は大ヤケドを負っていたはずだ。今、自分が大人と呼ばれる年になってみて、あの時の町内のおじさんのように頼りになる大人になっているものかどうか自問するものである。
(昨年8月の菅生祭。長持ち行列のお練り)
いずれにせよ花火は正しく使えば決して危険なものではなく、人生の楽しい思い出の1ページを彩るツールの一つとなるのである。大人が安全で正しい花火の遊び方を子供達に伝えていくことが肝心なことだと思っている。そしてできれば子供用の玩具花火が、将来岡崎の名産のおみやげとなることを期待するものである。
(花火の写真は、K. Takeshi様から御提供いただきました。)
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