友好都市・フフホト訪問記 5.日露戦争の地をゆく
今回、大連を訪問するにあたり、私がどうしても足を運びたいと希望したのが郊外にある203高地と旅順港であった。ちょうど「友好の翼」で参加された皆さんの訪問コースとなっていたため同行することとした。ただし時間の都合で旅順港は山上からの見学となった。
明治維新後の我が国の歩みの方向性を決めるターニング・ポイントとなったのは、この日露戦争における勝利である。白人の巨大国を破った有色人種の東洋の小国の存在は世界に大きな影響を与え、同時に日本の国際的地位を高めることになった。軍事的に自信を持った我が国の歩みは、この時に決したとも言える。
しかし、戦いに勝利したとは言え、その実態はアメリカの仲介による〝水入り〟の勝利であり、日本の払った犠牲はロシアを上回っており、講和時においてそれ以上の戦いを続けることは不可能であった。対してロシアは欧州に陸軍の精鋭部隊を残していた。日本海海戦における奇跡的な大勝利のイメージが強く、ギリギリの勝利であったことが忘れがちとなっている。しかもその日本海海戦の勝利も、203高地の奪還と、そこからの28センチ榴弾砲による旅順艦隊のせん滅により、バルチック艦隊と五分の勝負ができたことによるものである。
もし203高地の陥落が遅れたり、奪還できなかった場合、生まれて間もない日本海軍はバルチック艦隊と旅順艦隊の合流した倍する敵と海上で相まみえることとなり、制海権を失った日本軍は増援も無く、大陸で孤立し、逆に欧州から送られたロシア軍に叩かれ、日本はロシアに隷属する運命となったはずである。そう考えると203高地の戦いは日本の運命を賭けた戦いであったと言えるのである。
(二十八糎榴弾砲)
富士ファインの大連工場を訪れた私たちは昼食後、水師営(すいしえい)に向かった。ここは日露戦争における両軍の巨頭、乃木大将、ステッセル中将の会見の場であるが、現地はひなびたあばらやが建つのみだった。
玄関の小部屋の左右に、それぞれ10畳ほどの部屋が一つずつあるだけで、ボロボロの土壁の様子を見てもとても歴史的会見の行われた場所とは見えない。中に牛でも飼って農具が置かれていたとしても一向に不思議ではないたたずまいであった。現在は博物館として使われており、右側の部屋には写真と解説のパネルがあり、左側の部屋には戦いの遺品や書などが並べられてあった。そこにあるモノはすべて当時の本物であるということであったが、どうにもウソっぽい様子だった。懐中時計などは現在も動いており、しかもどれでも1個1万円で販売するというのである。それを聞いていかにもこの国らしい商売であると思った次第である。むろん本物ではあるまい。
わざわざこの地を訪れるのは日本人ばかりであり、中国政府に日本帝国の勝利を記念する施設を整備する意志はなく、荒れゆくままである。しかも本物の建物は一度崩され、現存しているモノは似た建物を使って観光用に再建されたモノなのだそうである。「このままでは施設を維持できないので、寄付すると思ってオミヤゲを買ってくれ」と言うが、値段が結構高く、信憑性もあやしいモノが多かったので私は何も買わなかった。たとえ寄付したとしても本当に施設のために使われる保証すらないのである。
次に山上の203公園に出かけた。かつての激戦地203高地は今は緑地公園として使われており、緑の山となっていた。現在山頂に残っているモニュメント、石碑、当時の大砲などは日本統治時代に整備されたモノがほとんどである。バスから降りて山頂まで20分ほど徒歩であるが、かなりの急斜面であり、年輩の方には厳しい行程であった。
映画でおなじみの戦場としての203高地は、度重なる戦いにより砲弾で耕された赤土山のイメージが強いのであるが、現在は緑の木々に覆われた行楽地となっている。砲弾と機関銃の弾を浴びながらこの急な斜面に塹壕を掘り、鉄条網を破りながら屍(しかばね)を越え突撃を繰り返したのである。
ただ登るだけで息の切れる急斜面の上で、今から120年ほど前に血で血を洗う大激戦が行われたことを想像することは難しい。時の経過というのはそうしたものであり、すべてを過去のものとして記憶の彼方へ押しやってしまう。山頂からの眺めはただのどかな緑の広がりを見せるだけである。
日本陸軍の司令官、乃木希典(まれすけ)大将は金州城の攻防戦で長男・勝典を亡くし、203高地の戦いで次男・保典も失っている。登頂の途中、次男の戦死場所に碑があると知り足を運んだが、道が崩れておりたどりつくことができず、その方向に黙とうをして戻ってきた。
乃木大将は明治天皇の崩御に際し、妻と共に殉死しており、明治という一つの時代のために一家を捧げることになった。近代になっても武士の価値観を捨てられなかった、文字通りラスト・サムライの一人であったと言えよう。
(乃木大将の妻と二人の息子)
元来、乃木大将は軍人というより学究的性格の強い人であり、後に学習院の校長となり、幼時の昭和天皇の教育係となっている。漢詩における素養は中国人の学者もうならせるものがあり、その作品は今日もなお詩吟としてうたわれ、書の題材となっている。
またこの戦争は日本が初めて戦った近代戦であり、第一次世界大戦に先立って機関銃の洗礼を受けている。当時の日本軍の軍服は黒地であり、赤土山ではさぞ目立ったことだろうと思う。おまけに白ダスキ隊という決死隊を募って切り込み作戦を行ったのであるが、黒い軍服に白ダスキではまるで「ここを撃って下さい」と言わんばかりである。そんなことも想像できないほど当時の日本人は純朴であったのだろう。
「国のために命を捧げる」精神を双手を挙げて讃える気はないが、現在の日本という国がそうした先人の献身の上に成り立ったものであることを私達はしっかりと記憶しておかなくてはならないと思っている。
この訪問記の終わりに、日露戦争後、東郷平八郎司令長官によって読まれた連合艦隊解散の辞(秋山真之参謀起草)の抜粋でしめくくりたい。
百発百中の一砲、
能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、
我等軍人は主として武力を
形而上に求めざるべからず。
惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、
時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理(ことわり)なし。
事有れば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、
終始一貫その本分を尽(つく)さんのみ。
神明はただ平素の鍛錬に力(つと)め、
戦はづして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、
一勝に満足し治平に安んずる者より直(ただち)に之をうばふ。
古人曰く勝つて兜の緒を締めよと。
近年になり発見され公表された資料を読むにつけ、日露の戦いに日本が勝てたことがまことに不思議に思われる。国力の差に加え、当時の人種間における偏見、今と変わらぬ大国間のパワーゲーム、そうしたものを再検証すればするほど改めて〝天佑神助〟という言葉を想起することになる。
*連合艦隊について
今の自衛隊もそうであるが、通常はそれぞれの決められた管区(ブロック)に分散して任務を担っている艦隊が、非常時(開戦時)に一隊となって行動する時〝連合艦隊〟と呼ばれる。(連合艦隊旗艦「三笠」の絵はウィキメディア・コモンズから拝借しました。)
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