母の死
5月19日(金)、朝6時に目覚め、その日一日の日程と挨拶文のチェックをしていたところ珍しく携帯電話のベルが鳴った。「緊急事態以外に早朝の電話はしないよう」事務局や身内には伝えてあるため、「何事か!」と手に取ってみると妹からの緊急電話であった。
先日、入院中トイレに行こうとして転倒し、大腿部骨折の手術をしていた母が「手術後半日経過した本日(19日)未明になって容態が急変した」との知らせであった。
とりあえず朝一番目の仕事には代理を立て、病院へ急行した。病室にはすでに妹達が到着しており、医師と看護師による心臓マッサージの緊急措置の真っ最中であった。もう本人の意識は無く、体温も低下しており、普段から低体温である母の体はさらに冷たくなっていた。
時の経過と共に、脈拍と心拍数の機械表示の数値が下がってゆく。ゼロ表示になっては、心臓マッサージの圧力で再び数字が戻ってくる。他人の力で血流が保たれているだけの母の姿が哀れでもあった。肺が破れ、血が口から逆流するようになり、何度目かのゼロ表示のあと臨終の時を迎えた。午前10時6分であった。
高齢者の骨折がそのまま死につながることは少なくない。そのため〝転倒骨折〟の報を受けた段階で手術ができるのかどうか危(あや)ぶんでいた。
今回、転倒から8日間の時を経て、体調の安定を確認した上で手術に臨んだと聞いている。生来、過敏体質であり、常に多種の投薬を行っている母であるので、さらなる投薬に加え出血、輸血を伴う手術は過重な負担となったのだろう。手術そのものには成功したものの結果的に死期を早めてしまったのかもしれない。
いずれにせよあまりに突然の母の死であり、なかなか現実を受け入れることができなかった。後に火葬場での遺骨拾いの際に、もろくなってほとんど原形をとどめない母の遺骨とは対照的に、黒く焼けながらもしっかりと形状の残っていた人工関節の金属に対し、妙な無常感を覚えたものであった。
葬儀は身内だけでしめやかに行うことも考えたが、友人知人の多い母であったことを思い、親族、子供としてできる限りの葬式を行うことにした。
盛大なことが価値があると思っている訳ではありませんが、5月22日(月)の通夜式、23日(火)の告別式には1500人程の皆様の御会葬と300通近くの御弔電を頂き、これまで見たこともない多くの生花と共に母を送り出すことができたことに対し、心から感謝申し上げます。
また、葬儀の時間短縮のため個別焼香のお名前呼び出しの省略と、以下5名の方々のみの御弔電披露となったことをお詫び申し上げます。
安倍晋三内閣総理大臣
大村秀章愛知県知事
豊田章男トヨタ自動車株式会社代表取締役社長
益子修三菱自動車工業株式会社代表取締役社長
大林市郎岡崎商工会議所会頭、岡崎信用金庫会長
*個別でお手紙、ブログへのお便りを頂いた皆様へも心から感謝申し上げます。
以下は私の当日の遺族代表の挨拶です。
遺族を代表し御挨拶を申し上げます。
本日は皆様御多用の中、亡き母、内田美惠子(みえこ)の通夜式並びに葬儀に際しまして、4名の愛知県副知事はじめ公職者の方々、多くの皆様の御会葬を賜りましたことを心より感謝申し上げます。
母は昭和6年(1931年)8月29日の未年(ひつじどし)生まれの満85歳であり、この夏を迎えていれば86歳となるところでありました。
このところ年中行事のようになっている、定期的な病気治療の入院中の出来事でありました。去る5月10日、自身でトイレに行こうとして転倒、大腿部骨折という大ケガをしてしまいました。高齢者の骨折が死期を早める事例も多い訳でありますが、比較的事後の経過も安定しており、1週間ほどして人工関節にする手術を行いました。
手術後の結果も良く、リハビリを行う手はずも整い、本人も意気軒昂であったのですが、手術後半日程経過した頃、突然容態が悪化し、急性循環不全のため還らぬ人となりました。
身内の誰もが亡くなることを想定しておらず、いつもの治療入院であり、週末には見舞いの面会ができると考えていた矢先の出来事でした。私達も驚いておりますが、ひょっとすると今一番驚いているのは狭い棺(ひつぎ)の中にいる母・本人ではないかと思っております。
母の旧姓は杉浦美惠子であり、岡崎市立高等学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)を卒業後、父・内田喜久と結婚し、愛知新聞社社長の妻となり、その後政界に転じ、県会議員、岡崎市長となった父と共に多難な人生を生きて参りました。
母は平成7年(1995年)の私の3回目の県会議員選挙の折、しばらく地元を離れていた父の替わりに選挙区内を歩き回り、無理を重ね足を痛めてしまいました。その後、モルトン病、膠原病、シェーグレン症候群を併発して歩行困難となりました。
この20年ほどは外出は病院と美容院に出かけるくらいの生活となっており、長らく多くの皆さんに御無沙汰をしておりました。それでもおかげ様で年老いてからも本人の意識はしっかりしており、私と会う時など、その都度TVなどで仕入れた情報を元によどみなく様々なアドバイスをくれたものです。私も多忙のゆえ3ヶ月に1回くらいしか会えなくなっておりましたが、母の存在は一つの心の支えであったような気がしております。近年は歩行が困難なゆえに自身の行動は思うに任せない状況となっていましたが、多くの方々の励ましと友情のおかげで元気に過ごしておりました。
最近の母の一番の喜びは七人の孫達がそれぞれに自分の道を見つけ、人生の歩みを始めていたことであると思っています。
中でも先頃結婚致しました私の長女がこの秋に出産を控えており、初のひ孫の顔を見ることを楽しみにしておりましたので、ただそのことが心残りであります。
私としましても現在進めております本市の様々な施策の内、市街地活性化事業の一つ、乙川リバーフロント計画の(仮称)乙川人道橋の完成を間近に控え、〝三世代夫婦の渡り初め〟が行われる場合には車イスを使い、その仲間入りが出来るものと思っていたことが残念であります。
母はお嬢さん育ちであったため、モノをはっきりと言い過ぎ時に誤解されたり、少々我がままな所もありましたが、人にはやさしく世話好きで動物達にもやさしい心配りをする人でした。私達兄弟が皆動物好きであるのも母の影響であり、私達が捨て犬やノラ猫を拾ってきた時もいつもやさしく見守ってくれる人でした。
若き日の母はとても活発でおシャレでモダンな人でした。映画や文化芸術にも詳しく、手先が器用で多趣味であり、ものの考え方も柔軟性に富み先進的であり、私のアメリカ留学を後押ししてくれたのも母でありました。
また私達子供に対しては教育熱心のあまり、時に厳しい一面もありましたが、あらゆる意味で話の分かる人であり、人生の良き相談相手でありました。まだまだ報告しなくてはならないこと、見てほしかったモノなどたくさんありますが、今はただこれまでの無限の慈愛と私達に施してくれた教育に対して感謝し、冥福を祈るのみであります。今後は天から孫やひ孫達の成長を見守ってくれることを願うばかりであります。
本日は長きにわたり母と親交のあった皆様をはじめ、父と御縁の深い方々、また公職、官公庁、諸団体関係の多数の皆様方の御会葬を賜り、本当にありがとうございました。すべての御会葬者の皆様方に遺族を代表致しまして重ねて御礼を申し上げます。本日は最後までありがとうございました。
追伸
母は茶目っ気のある人で、私達が子供の頃、よく死んだ振りをして驚かされたものですが、今でもひょっとすると「今度は完全にだまされたね」とか言ってひょっこり現れそうな気がしています。
それほど急な母の逝去でした。
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