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2017年5月18日 (木)

政治と政争

――以下の文章は、5年前の最初の市長選後に書きながら、周囲のアドバイスを受けて棚上げになっていたものである。久しぶりに読み直してみて、今日にも通じると思い発表することにした次第である。――

 先日(注・5年前)某新聞に載っていた「政争の町、岡崎」という記事を読んで、まったく「わかっちゃないな」と感じた。その記事は、『過去を反省し「政争の町」から脱却すること』が『新トップの手腕にかかっている』と訴えていた。
 そもそも政治の原点というものは、戦いである。食べ物をめぐるもの、水をめぐるもの、領土をめぐるもの、また様々な利権をめぐるもの、そうしたものを血を見ずにして解決しようとするところから政治というものが生まれてきた。
 しかし、政治というものの本質がそうである以上、政治が争いというものから無縁ではあり得ない。古今東西の国家間の利益をめぐる交渉ごとの例を見ても、軍事力の行使があろうとなかろうと、そこに力の存在というものが無縁であったケースなど聞いたことがない。この世で政治のあるところに政争のないところなどは無いのだ。それが現実というものである。
 個別の名前は控えるが、愛知県の市町の中でもかつて政争の激しかったところはいくつもある。現在、一見平和的にものごとが進んでいるからと言って、決して政争がなくなっているわけではない。そのことはそこで政治に関わっている人々と話せばすぐにわかることである。現状の表面的平穏は単に双方が折り合いをつけているだけのことである。政争というものは、政治現象が争いごとの過程において温度が上がり沸点に達したときに発する現象であるとも言える。表面上、見えないからと言って無くなっているわけではない。それこそが人間の持つ性(さが)であり、業(ごう)であるからである。

 前述のごとく日本のマスコミの中には何かというと平和的話し合いですべて解決するような論を説く人がいる。しかし実際の世の中には、話し合いとは時間かせぎのための方便に過ぎず、その機に自分達の主張を相手にのませ、逆に相手の言うことなどハナから聞く気のないという人達もいるのである。そうした人間の業のような性質を理解していないから、きれいごとのおためごかしの正論が言えるのである。パワー・オブ・ポリティクスで物事が決まる現実において、話し合いも力の裏付けがあってこそ成立するものである。(北朝鮮が核とミサイルに固執する理由もそこにある。)

 以前私は、カリフォルニア大学バークレー校で政治学を専攻していたアメリカ人の友人フィリップ・キース君に、岡崎の政治について次のように説明したことがある。

Phillip E. Keys and Yasuhiro Uchida

「岡崎という町は、他の地域のように保守と革新が競うという政治土壌はなく、戦前から保守が二派に別れて権力闘争をするという伝統がある。革新勢力はそのときどきでそのどちらかに乗ったり、乗らなかったりという存在である」
「現実に戦前は政友会と民政党の系列で争った時代があり、戦後は愛市連盟VS光会(ひかるかい)の時代、そしてその流れを受け継ぐ者たちの戦いの時代、近年は保守の旧勢力と新興勢力の争いという形になっている。いずれにしても理念性は薄いが、形としてアメリカの政治の共和党と民主党の争いの形態に似ている。それが岡崎の政治風土である」

 彼がこの内容をどこまで理解したかはわからない。その後数年岡崎市に在住し、私の最初の選挙も手伝ってくれたが、将来、彼が大学に戻るとき、日本の政治についての論文を書くための日本の地方政治のあり方の一形態としての研究の材料になればと思って話したことを覚えている。(現在、彼はカリフォルニア州の某カレッジの学長をしている。)

愛知県議会議員選挙(1987年)

 現在の岡崎の政治状況もそうした政治風土の一環と考えるか、都市型の政治形態に向かう成長過程ととらえるかは、その人の見方あるいは趣味の問題だと思う。
 私は、そうした岡崎の政治風土の中で生まれた保守の政治家の一人であるが、岡崎の持つ独自の歴史、伝統、文化、それに基づく地域的思考というものはそれなりにその地域の個性であって、決して恥じるべきものではないと思っている。そうした観点からも、政治の場における権力闘争というものは今後も無くなることはないと考えている。また、これはある意味、世界中のどこでも同じである。人類の存する限り、政争もなくならないのである。レベルの低い無益な争いは極力避けるべきであり、ものごとの折り合いはつけて行くべきであるが、自らの主張を曲げる必要はないと考えている。なぜならばそうした各種異なった考え方の集団の代表が、政治家であるからだ。
 一部マスコミの言う一見第三者的常識論は、決して神の御宣託ではない。鉄砲玉の飛んでこないところで、彼らの商売のネタとしての一面的なきれいごとの論理を展開しているに過ぎない。しかも、一部のマスコミ報道は、一見中立的に見えて実際は逆に政争を煽(あお)っているように見えるときがある。また、自らは他を自由に批判しながらも、逆に自分たちに対する批判は許そうとしない独善的体質があるように感じることもある。
 いずれにしても、私たちは自由主義社会にいながら、いつもどこかで彼らにマインドコントロールされている可能性があることも忘れてはならないと思う。

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