« 『リバ!』2017年2月号 | トップページ | 『岡崎まちものがたり』刊行。岡崎市民はスゴイ! »

2017年1月20日 (金)

人生は戦いなり

Life is a Struggle

 現在、私の自室の正面にはクリムト作の「黄金の騎士」の複製画が飾ってある。本物の絵は愛知県美術館の所蔵するものであり、〝人生は戦いなり〟という副題がついている。気の弱い私は自らを鼓舞する目的で、この絵を目前に飾り、毎日見ているのである。

 人がこの世に生き続けるということは、それぞれ何かしかの戦いをしているということである。精子と卵子の邂逅を得て人間としてこの世に生まれる権利を手に入れるためには、まず数億の仲間(兄弟?)との競争に勝ち抜かなくてはならない。すなわち一つの生命の誕生のためには、数億の同様の可能性の犠牲があるのである。どのような平和主義者も人生の第一段階でこの戦いを制して生まれてきているわけであり、その事実を否定することはできないだろう。キリスト教の言う「人間の原罪」というのは、案外こんなところから発しているのかもしれないとも思う。
 さらに生まれ落ちた後もまだ戦いは続く。五体満足に生まれることができたか否か。知能や美貌に恵まれた否か。裕福な家に生まれたかどうか。そして愛情あふれる両親のもとに育つことができるかどうか。そうした、本人の意志ではどうしようもない、生まれつき備わった生物的基礎能力と環境的条件が個々の人間に与えられた人生ゲームにおけるアイテムであり、基本設定要件となる。
 その点で我々は初動の段階において、風に飛ばされる種子や鳥によって運ばれる果実の種と同じである。そう、人生とは生まれた瞬間から偶然と不公平から始まるのである。おまけに生まれる前や生後に親に殺されたり、捨てられる不運なケースさえある。
 誰しも偶然の所産として与えられたそれぞれの条件のもとに〝人生の戦い〟を進めて行かなくてはならない。第一段階の幸運不運の違いはあっても、例外は無いのである。

 戦いの種類は多岐にわたり、次々と降り注いでくる。進学、就職、資格の獲得、昇進競争や自ら挑む選挙もそうである。さらに配偶者獲得のための競争もある。こちらは個々の感情的要素がからみ、さらに難物である。そして幸か不幸か結婚に至っても、その配偶者と子供達との葛藤といった問題が加わってくる。
 先日新聞に、世の中には二通りの人間があり、それは「結婚を後悔している人間」と「未だ結婚していない人間」であると記してあった。
 先のことは分からないものであるが、うまくいったと思ったことが後にとんだ貧乏クジの元となることもあるし、その逆のケースもまれなことではない。そのように人知を超えた、思うにまかせないものが人生であり、人生航路の至る所にドンデン返しの落とし穴が散りばめられているからこそ人生は最後まで油断できないのである。

 幼少時から能力と才能を発揮する子供、上級に進学してから頭角を現す者、あるいは実社会に出て本来の実力が開花する人など様々である。一つの道を堅実に歩む者、運命のいたずらか本人の意志かはともかく、二転三転しながら成功する者しない者、幸せな人生を送れたかどうかは、本人の人生観、価値観にもよってくるため一概には言えない。いずれにしてもそれぞれの人生ステージにおいて次々と新たな戦いの場が用意され、それに勝ち残ることが要求される。
 時に神仏を呪いたくなるような過酷な運命を与えられ、しかもその中で戦い続けることを要求されることがある。戦いに倒れることがなくとも、その運命の重荷に耐えきれず、自ら人生ゲームを途中退場してゆく者もいる。
 それも選択の一つではあるが、人生の敗北者の烙印を消すことはできないであろう。チャンスは戦い続ける者にのみ与えられるのであるから。

 この仕事をしていると様々な人生を垣間見る機会があるが、これまで、生涯、幸運に恵まれた人生というのは聞いたことがない。
 また、人からうらやまれる富や社会的地位や名誉を持っている人が必ずしも幸せな人生を送っている訳ではない。家庭内や一族との間に不和を抱えていたり、子供の不出来や健康上の問題などに悩まされていたりもする。
 自らの失策や不運はもとより、他人の巻き添え、あるいは経済や社会の変化、法律の改正により窮地に追い込まれる人生もある。
 それでも生きてゆかなくてはならないのが人生なのである。

|

« 『リバ!』2017年2月号 | トップページ | 『岡崎まちものがたり』刊行。岡崎市民はスゴイ! »

随想録」カテゴリの記事