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2016年12月25日 (日)

デマゴーグについて(その2)

Völkischer Beobachter

 繰り返すが、デマゴーグとは、全くのウソ、デタラメを喧伝することとは限らない。一つの社会現象、ある事件の一側面を拡大解釈したり、曲解したり、書き手の考えに都合の良い数字や情報だけをつまみ出してきて誇張して表現することもデマゴーグの技と言える。(それを専門にしている政党もある。)
 自分勝手で反地域的な言動をもっぱらにする、その界隈では有名なクレーマー(文句ばかり言う人)や、特殊な思想集団の活動家として知られている人物の意見を、あたかも無垢な一市民の声のように報道することもよくある手法の一つである。
 また、先のアメリカ大統領選挙において、反トランプ的社会気運を反映して極端に一方に肩入れした報道がなされた。外国の報道機関の場合、時にこうしたことがあるが、彼らの場合は前もって自らの政治的立場、報道姿勢を明らかにした上で行っていることであるのでそれなりに筋が通っている。

 我が国の報道の場合、建前上、中立・公正・公平を謳(うた)いながら偏向報道を行うことがある点が問題なのである。
 そうした議論を始めると、必ず「全文を読めば中立的なバランスを取っていることが分かる」という言葉が返ってくる。しかし一般の人で記事の全文を隅々まで綿密に読むような方はマレである(教科書ですらそんな読み方はしない)。見出しの太文字と前段の数字、刺激的な言葉や作為的な写真を見て、正しく理解した気になっているというのが実態であり、良くも悪くも〝大衆社会〟とはそうしたものである。
 第一、人間は誰しも、自分に直接関わりのある問題以外には細かな点にまで注意を払うことはしない。そうした現実を百も承知の上で、意図的に誤解を招くような記事を書き、最後の数行の中にバランスをとるような文言を散りばめて裁判にならない配慮をしているから悪質なのである。

 もう一度言う。一流のマスコミ人は決してこういう姑息なことをやらない。時に人格的に問題があったり、思想的な偏向性があると思われる人物が公の仮面をかぶって紙面に記事を書くことがあり、そうしたことが問題なのである。
 前回のブログで「思想統制された国家ばかりでなく、自由主義社会においても我々は知らないうちに洗脳されていることがある」という点に言及した。
 一部のマスコミの中には「無知な大衆を我々が教育してやる」といった姿勢が見られることがあるが、それは危険な兆候だと思われる。大衆扇動が冷静な思考の後退を生じることは、我々が歴史上の幾多の経験と現在も世界で進行中の様々な出来事から学んだことである。

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 うっかり洗脳されないようにするためには、普段から自分で注意する必要がある。ニュース・ソースを多元化し、一つの事柄について常に多くの情報に接する習慣を持ち、新聞や雑誌なども複数のものを比較して読み、自分の考えを練らなくてはならないだろう。
 「いちいちそんな面倒なことは御免こうむる」という方は、たまには購読する新聞を変更してみることも一手であろう。新聞は中立・公平・公正と言いつつも紙面にはそれぞれ個性や差違というものがあり、ひょっとするとそんなことで新たな視座を開くことができるかもしれないと思うものである。

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