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2015年4月

2015年4月29日 (水)

「内田やすひろ後援会」Facebookページを開設しました

「内田やすひろ後援会」Facebookページ

 本日、「内田やすひろ後援会」Facebookページを開設しました。
 このページはFacebookの会員でなくても、どなたでも見られるページです。

 ブログとは違って単なる日々の御報告になるかもしれませんが、「市長の仕事とはこんなことである」ということが、よりよく分かって頂けるのではないかと期待しております。またそのほかにも、私の後援会にまつわるお知らせや、岡崎市のいろいろな情報を折に触れて御紹介できたらと思っています。
 執筆と管理は「内田やすひろ後援会」事務局が行います。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。

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2015年4月26日 (日)

中島雨水ポンプ場が完成しました

中島雨水ポンプ場完工式(2015年4月16日)

 4月16日(木)、完成を待たれていた「中島雨水ポンプ場」(岡崎市中島町字川田43番地1)が完工式を迎えた。中島雨水ポンプ場は、岡崎市南部の雨水を地下のトンネルから取水し、一級河川・広田川(こうたがわ)に排水するための下水道施設である。

 岡崎平野はもともと矢作川及びその支川の氾濫原であり、川の流れは自然の地形勾配に沿って矢作古川の位置を流れ下り、三河湾へと注がれていた。乙川を始め、伊賀川、青木川などの矢作川支川もかつては久後崎付近を南下し、矢作古川に流れ込んでいたため、市南部一帯の平野部は何度も洪水・浸水に襲われたのである。
 岡崎市南部の中島地区では、平成12年の東海豪雨や平成20年8月末豪雨などのゲリラ豪雨により、甚大な浸水被害が発生してきたという経緯がある。中島雨水ポンプ場の排水区域のうち、主に浸水するのは、字「紅蓮」(こうれん)と字「流」(ながれ)の区域である。地形の特徴を字名がよく表していると言える。
 岡崎市南部は長い間、農業地域として発展してきたところであり、これまでは田んぼが雨水の保水機能を果たしてきたという側面があった。しかし、元々の地形が平坦な農地であるため、増水によって河川の水位が上がると、雨水の排水ができなくなるという難点もあった。しかも、近年の急激な宅地化による農地の減少と異常気象による局地的豪雨の頻発によって、中島地区においても度重なる浸水被害が発生し、地域の重要課題となってきたのである。

Nakajimarainwaterpumpingstation2015

 こうした浸水被害を解消するために一級河川・広田川の河川改修が行われ、これにより下水道事業による雨水排水整備も可能となった。そこで新たなポンプ場建設計画が策定され、平成23年より建設工事が始まったのである。

中島雨水ポンプ場

中島雨水ポンプ場

Nakajimarainwaterpumpingstation20_4

 中島ポンプ場は、3台のゲート・ポンプ設備により毎秒3.4立方メートルの排水能力がある。鉄筋コンクリート構造の建物の中には非常用の自家発電装置を備えており、停電した折にも20時間は排水を継続できる仕組みとなっている。
 今回中島ポンプ場が完成したことによって、当地域の長年の懸案事項であった浸水被害が解消・軽減されることが期待されている。この新しいポンプ場が役立つような機会が来ないことがベストであるが、今後まさかの時の地域の安全と住民の暮らしを守る新たな礎となることを祈るばかりである。

 浸水被害というのは因果関係が複雑であるため、一つの対策を講じればそれで解消できるというものではない。岡崎市では、頻発する局地的な集中豪雨や都市型水害に対し、市民・事業者・行政が一体となって効率的で効果的な浸水対策に取り組むために必要となる「総合雨水対策」の計画策定に取り組んでいるところである。
 河川改修、雨水管きょや調整池の整備、ポンプ場の建設など効果的なハード対策を推進する一方、浸水危険区域の指定や建築制限により新たな浸水被害を防ぐ対策を講じることを想定している。具体的には、中島雨水ポンプ場と同様にこれまで実現できなかった「福岡雨水ポンプ場」(建設中)や「針崎雨水ポンプ場」(平成26年10月完成)などの浸水対策を進めているほか、六名地区の浸水対策(「六名雨水ポンプ場」ほか)や北部地域においても早川地区や伊賀地区などの浸水対策を進めているところである。

 最後になりますが、この度の事業推進にあたって、一方ならぬ御協力を賜ったお地元の皆様並びに関係者の方々に心から感謝を申し上げます。

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2015年4月21日 (火)

日本の国防と安全を支える人々

自衛隊入校・入隊予定者激励会(2015年3月12日)

 3月12日(木)、毎年恒例となっている、岡崎出身の自衛隊入隊予定者の激励会が市役所2階の会議室にて行われた。今回の入隊者は防衛医科大・防衛大への進学者を含めた16名であった。
 まだ初々しい新卒の新自衛官候補達の顔が並んでいた。これから日本の安全と守りは若い彼らの世代の双肩にかかってゆくことになる訳であるが、私の子供よりも若い世代が入隊する時代を迎え、本当に時の経過の早さというものを痛感している。
 3月11日にはあの東日本大震災から四年目を迎え、また昨年は広島の豪雨災害や御嶽山の噴火災害があったばかりであり、自衛隊の力を借りずには救援活動が成り立たない大きな自然災害が、このところ頻発している。本来は、こうした活動の機会がないことが理想であるが、現実に幅広い活動に従事し、国家、国民の平和と安全を守っている自衛隊には心から敬意を表するものである。

自衛隊入校・入隊予定者激励会(2015年3月12日)

 この日、来賓としておみえになった自衛隊愛知地方協力本部長の市川文一氏は陸上自衛隊の所属であるが、偶然にも葵中学校出身の現・海上自衛隊教育航空集団司令官の池太郎氏と、防衛大の同期ということであった。以前ブログで述べたように、昨年1月、池さんはタニザワフーズ社長の谷澤憲良さんの紹介で市役所に御挨拶にみえたことがある。
 池さんは昨年12月、海上自衛隊幹部候補生学校長の任を終え、海将(昔の中将)に昇進され、前述の教育航空集団の司令官となられた。そして、2月9日、再び市役所まで御挨拶にみえたところである。

海上自衛隊 教育航空集団

教育航空集団司令官・池太郎さんと共に

 最近はこうしたことに関心のある人は少なくなり、マスコミも取り上げない時代となっているが、昔ならば海軍中将が地元から誕生すれば、提灯行列を行って大祝賀会を開催するところである。時代と社会のあり方も異なっているため同一に論じることはできないが、いずれにせよ、我が岡崎からこうした人物を輩出したことを誇りに思うものである。

 池さんは相変わらずおだやかな物腰であったが、的確に日本の置かれている国際情勢を分析された。
 その中で、この20年ほどの間に、隣国・中国の経済的、軍事的発展は目覚ましく、それに伴って政治的発言力も増大してきていることを指摘された。
 私は20年ほど前、地元新聞紙上に中国視察のレポートを書いたことがあった。当時の中国の指導者が軍関係者に対して、孫子の兵法を引用して「我が国はしばらく忍耐の時であり、まず外国の力を利用して経済的な力をつけ、軍事的な準備が整った段階で対外交渉に向かう」と言ったことを記した米誌の記事について、書いたことをお話すると、にこやかに笑ってうなずいてみえた。
 私は直接防衛に関わる必要のないところで勝手なことを言っている立場であるが、池さんはじめ現職自衛官の皆さんは一旦ことが起こった時には「まった無し」で具体的な対応に出なくてはらない立場にある。そしてその結果は直接我々国民の安全・安心に関わってくる。本当に重責の職務である。

 我が国特有の「お気楽平和主義」に染まっている一部の人達は、「そうならないように外交努力をすべきである」という建前論を述べるばかりであるが、危機的状況というものは相対立する利害関係が話し合いで解決できなかった時に発生するものである。現代のように複雑な国際環境において、すべて話し合いで解決することができると思っているとすれば、恐れ入るばかりである。そうしてもう一つ忘れてはいけないことは、こうした人達を生み出した根本はアメリカの戦後対日占領政策にあるということである(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
 政治的決着の中には、一見、話し合いで解決したかに見えるケースであっても、その裏には武力や経済力を背景とした圧力や恫喝というものが存在するというのが現実の国際政治の実相である。であるからこそ、中国が経済力と軍事力の強化に懸命となっている理由ははっきりしているのである。
 日本も同じ土俵に上がって勝負ができる軍事力を持てと言う気はないが、うかつに手出しができないと相手に思わせるだけの軍事的な備えと心構えだけはしっかりと持つ必要があると考えている。先の二つの大戦の教訓からも、戦争が起こる時というのは軍備が拡張された時ではなく、軍事バランスが崩れた時であるということを忘れてはならない。
 昨今の中国の政府の言動を見ている限り、力によって自国の国際的地位を高め、国境を拡張しようと図っていることは明らかであり、楽観主義は禁物であると考える。あえて中国の立場になって考えるならば、中華帝国(王朝)の華やかなりし頃は、中国の馬の征(ゆ)くところ、中国の船の赴くところ、すべて中国の領土領海であったと考えていたのであるから、西欧的基準でいくら日本が国際条約を盾(たて)にものを言ったところで、それをかの国が認めようとしないのは当然のことであろう。
 そうしたことを念頭において中国に対応していかないと、将来、禍根を残すことになると心配している。
 さらに言うならばアメリカですら「いつまで日本の味方であるか」ということを考えておかなくてはらない。すなわち国際関係において「みんなお友達」はありえないのである。いみじくも、かつて第二次世界大戦前にイギリス首相ウィンストン・チャーチルが新聞記者を前に語った「仮想敵国とは、我が英連邦以外の国のことである」という言葉を、今改めてかみしめる必要があると思っている。

盧歩東さんと共に(2015年4月4日)

乙川河川敷

 とはいえ、日本と中国は一衣帯水、日本海を隔ててお隣同士の関係にあり、嫌だからと言って引っ越すわけにもいかない。国家的見地からは、厳しく油断の無い姿勢が必要とされるけれども、私共、地方自治体としては、そうした国家間のギクシャクした関係を補う意味でもこれからも様々な民間交流、文化交流を深めてゆくべきであると考えている。

 先日の桜まつりの折(4月4日)、中国浙江省の高名な書家・盧歩東氏の書道展が岡崎信用金庫の主催で行われた。また、同日、駐名古屋中華人民共和国総領事館の華僑華人花見ツアーが本市で行われ、私も挨拶に出かけた。
 そういった点から岡崎は個別の国際親善活動をよくやっている自治体であると言える。三つの海外の姉妹都市(ウッデバラ市、ニューポートビーチ市、フフホト市)との交流も毎年継続している。
 いずれにしても外交関係というものは、様々なチャンネルを通して複層的に形成していくことが、両国にとって一番の安全弁となるものと考えている。これからもそうした努力を続けたいと思う。


江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 1 (2014.03.07)

江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 2 (2014.03.10)

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2015年4月19日 (日)

『リバ!』2015年5月号

『リバ!』2015年5月号

こんばんは。内田康宏事務所からリバーシブル2015年5月号発行のお知らせです(発行日は4月20日)。
市長の連載日記は、先月ブログにUPされた「アメリカからの一枚の写真」です。

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2015年4月15日 (水)

人事異動の季節(平成27年)

 毎年のことであるが、年度末を迎えるとあわただしく人が移り替わってゆく。高齢化時代を迎え、まだ元気で経験豊富なベテラン職員を送り出すのは、ある種の資源のムダ使いではないかとさえ思うことがある。
 しかし上がいつまでもつかえていれば、若い力が伸びなくなるため、年次による顔ぶれの変更も致し方のないことかもしれない。
 今回、平成27年(2015年)3月末の退職者は、部長級7人、次長級9人、課長等9人をはじめとして133人であった。定年退職ばかりでなく、派遣解除により国や県へ戻られる方、個人や家庭の事情で退職される方など様々である。
 いずれにしても、それぞれ長年にわたって本市の維持発展のため御尽力頂いた皆様ばかりであり、心から敬意と感謝を申し上げるものである。中には再任用という形で引き続き岡崎市のためにお力添え頂く方もあるが、皆様の第二の人生の幸多からんことをお祈りします。

東海愛知新聞(2015年4月2日)

 開けて4月1日(水)、今度は一般行政、消防、保育・教育、医療職、あわせて225人の新規採用辞令の交付と、総勢1,540人の異動発令を行った。フレッシュな力と新しい発想を採り入れ、人事異動により人心一新し、組織を活性化すると共に市政の効率化を図るためである。今回は特に、新時代の多様化する諸課題に迅速かつ的確に対応できるよう、組織の機動性や有効性にも配慮した人員配置となっている。
 また最近では、事務作業が年々増加傾向にあり、管理職にあっては逸早(いちはや)く的確な意志決定を行うための配置に努めている。若手職員には様々な分野に柔軟に対応できる人材育成を考慮した配置が考えられている。
 3年前の市長就任以来、能力とやる気のある女性職員の積極的登用に努めてきたつもりであるが、まだ役付きの女性職員の絶対数が足らないため、男女の管理職比率が欧米並みになるためにはもう少し時間を要することとなる。一方、若手職員の中にも才覚を感じさせる有望な人材が多く、岡崎市の将来は期待が持てるだろう。私としては、そうした個々の職員が持っている能力が最大限に発揮できるよう、本人の希望はもちろんであるが、多くの意見に耳を傾け、適材適所の配置を実現する努力をしている。

 本市における平成27年度は、今後6ヶ年において市の施策の基本となる「第6次総合計画の後期基本計画」が開始する年度である。将来の岡崎のための重点プロジェクトを実施していく上で大変重要な年度となる。職員一人一人がその能力を十二分に発揮し、市政の更なる飛躍に努めて頂くことを強く希望するものである。
 本年度の新人についても、選考担当者から多彩な人材が採用されたということを聞いている。ことに今回から自己アピールを重視した採用枠を設けたため、新規職員にはユニークな発想力を備えた才能の開花を期待するものである。
 岡崎市は現在、独自の歴史的文化遺産と乙川の河川空間を活かしたまちづくりを推進しており、ブログでお知らせしたとおり先日、愛知県で初となる、国による「かわまちづくり」の登録認定を受けることができたところである。岡崎の先人達の長年の夢であり、課題であったこの事業を、今回「リバーフロント計画」として成功させることにより必ず岡崎の未来は明るいものとなってゆくだろう。

 これから、「夢ある次の新しい岡崎」を築いて行くと共に、誰もが訪れたい、住んでみたいと思う魅力あるまちづくりの一翼を担って頂くことを願うものである。
 未来はあなた方の双肩にかかっております。健闘を期待しています。頑張って下さい。

乙川・葵桜

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2015年4月12日 (日)

「乙川リバーフロント地区かわまちづくり」登録決定!

「乙川リバーフロント地区かわまちづくり」の登録伝達式

 年度の最終ギリギリとなった3月30日(月)、「乙川リバーフロント地区かわまちづくり」の登録伝達式が愛知県知事の公邸において行われました。午後2時45分より、大村知事立ち会いのもと、八鍬(やくわ)中部地方整備局長より認定書を授与されました。
 先の市長選挙以来、岡崎市の歴史的文化遺産と乙川の流れと水辺空間を活かしたまちづくりを提唱してきましたが、ようやくこの度、国土交通省から登録認定を受けたことによって事業計画の本格的始動に向けてのオスミ付きを頂いたような気がしております。
 ことに今回は全国的に厳しい競争の中、東海地方からは唯一の新規認定であり、愛知県でも初の登録となります。これまで何度も上京して、各所に説明・陳情の行脚を重ねたことが結果的に実った訳であり、毎回同行して要望活動に御協力頂いた青山代議士、詳細な資料作りと本省巡りの手配をして頂いた中安副市長(注)はじめ担当職員の皆さんには本当に頭の下がる思いです。
 また、今回の登録手続きに際して積極的なバックアップと御理解を頂いた中部地方整備局の方々、そして一緒に上京陳情に足を運んで頂いた県の担当者の方々にも心から感謝申し上げます。

 乙川かわまちづくり計画に国の認定証を頂くことができたことによって、今後具体化してゆくリバーフロント計画の個別の施策の推進において格段のスピードアップと事業手続きのスムーズな進展が期待できることとなりました。

乙川リバーフロント地区整備計画

 これからの乙川リバーフロント地区整備は、市街地の真ん中を流れる一級河川乙川の、名鉄名古屋本線乙川鉄橋から吹矢橋までの約1.5キロの河川空間を重点的に整備してゆくことになります。具体的には殿橋と明代橋をライトアップすると共に、その間に幅16メートルの人道橋を構築し、さらに新橋から籠田公園までの約600メートルの区画を「岡崎セントラル・アベニュー」(仮称)として整備を行います。またこの空間は災害時の避難場所としても活用できます。

 そして、かつての賑わいのある川べりの風景をとり戻すべく、遊覧船や手こぎボートを走らせ、船着き場や船揚場の整備も行い、河川敷の遊歩道と共に人々の回遊性の向上を企てます。
 さらに、かわまちづくり支援制度を活かした観光船の運航や堤防道路のプロムナードには、オープンカフェやレストラン、様々なお店など、ソフト事業の振興も考えています。

乙川リバーフロント推進部会(2015年2月12日)

 今後はまもなく発足する「乙川リバーフロント協議会」等を中心に各種事業の展開を企てることになると思いますが、今回の国による「乙川リバーフロント地区かわまちづくり」計画の事業認定を契機として、さらに本年の家康公四百年祭、来年の市制100周年を推進力として、今後ますますの岡崎市の活性化と「モノづくり・岡崎」に並ぶ「観光・岡崎」の建設に向けて邁進して参りたいと考えます。市民の皆様の一層の御理解と御協力をお願い申し上げます。
 共に面白く、豊かな岡崎を造っていきましょう。

「乙川リバーフロント地区かわまちづくり」の登録伝達式

(注) 建設省(現・国土交通省)で主に河川関係の部署を担当していた中安正晃さんは、平成23年(2011年)4月1日付で本市の副市長に就任したのち、今年の3月31日、4年の任期を終え退任されました。私の市長就任以来この度のリバーフロント計画の基本計画策定並びに東京の本省陳情にあたり、水先案内的役割をこなして頂いた大功労者であります。その御尽力に対し心より感謝申し上げます。

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2015年4月 9日 (木)

家康公産湯の井戸・再生

豊田市長・太田稔彦さんと共に(2015年3月22日)

 去る3月22日(日)、岡崎公園・東照公産湯の井戸において、取水お披露目式が行われた。これは家康公生誕の折に、岡崎城内にある井戸水により産湯をつかったことに由来している。
 また、松平の発祥の地である松平郷と地元六所神社の両所の井戸水が併せて使用されたという伝承もある。そのため今回の催しには、お隣の豊田市から太田稔彦(としひこ)市長さんも御参加頂き、竹筒により運ばれた松平東照宮の井戸水を岡崎城の井戸に注ぎ込むセレモニーを行った。

岡崎城・東照公産湯の井戸

 東照公の井戸は名前こそ大層であったが、これまで使われていなかったため朽ち果てた古井戸の観を呈していた。ついてはこの度の四百年祭を契機に、「家康公生誕の地」の象徴として活用するべく整備をすることとなった。
 調査の結果、現在も毎分5リットルの水が湧いていることが判明したため、岡崎市民や来訪者に是非この水に直接触れて、家康公のルーツを体感してもらおうと整備を進めてきたのである。
 現在井戸はコケむしてはいるが、石造りの立派なものである。深さは5メートル程で内側も石で組み上げられており、一番底には陰陽師の祈願の印のような五角形の木枠で下支えされていることが分かった。古いたまり水を抜き、湧き水をポンプで汲み出し、パイプを通して隣地に設けた石製の手水鉢に竹筒から水が流れ出るように整備を行った。今は直接水に触れることができる。

竹っちょ(岡崎公園・東照公産湯の井戸)

岡崎城・産湯の井戸 「断面図」

岡崎城・産湯の井戸 「底部木組寸法」

 今後は天下統一の偉業を成し遂げた家康公にあやかり、出世のパワー・スポットとして広く全国に発信していきたいと考えている。
 なお以前も記したことであるが、井戸水はちゃんと浄化されており、飲めないことはないが鉄分とマンガンの含有量が多くおいしい水ではないと言われていた。
 役所というところは何か起きた時のことをすぐ考えるため、「飲用ではありませんのでご注意ください」と表示をしているが、当日私も飲んでみたところ、別にどうということはなかった。うまかろうとまずかろうと、家康公はじめ三河武士達は城中ではこの水によって生活していたのである。この水に触れてぜひ皆さんに往時をしのんで頂きたいと思う。

岡崎城・東照公産湯の井戸

龍城神社の稚児行列(2015年3月22日)

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2015年4月 5日 (日)

藤田学園と「大学病院の整備及び運営に関する協定」調印

大学病院の整備及び運営に関する協定(2015年3月27日)

 昨年5月、岡崎市南部に、私の公約の大きな柱の一つでもあった待望の大学病院の建設が決まり、藤田学園、岡崎駅南土地区画整理組合と岡崎市の三者間で、「大学病院の建設に関する協定」の締結・調印が交わされました。なにぶん他者の妨害を避けるため、交渉は決定するまで秘密裏に行われました。(協定締結にいたるまでの経緯は、岡崎市の下記のページから御覧頂けます。)

 岡崎市ホームページ – 大学病院の建設に関する支援方針

 以来、今日まで細部の条件ついて、つめの交渉が継続されてきました。この度、3月27日(金)、藤田学園と岡崎市の間で「大学病院の整備及び運営に関する協定」が交わされ、次に岡崎駅南土地区画整理組合と岡崎市の間で「土地の売買等に関する協定」が交わされました。5年後の平成32年(2020年)の開院に向けて大きく前進できたことを喜んでおります。

クリックすると拡大します

 今回の主な協定内容は、

① 一般病床数400床の確保
② 24時間・365日運用の第2次救急医療の実施
③ 救急医療体制整備への財政的支援
④ 病院用地の10年間無償貸与

 などから成っています。
 大学病院建設については、昨年の基本協定発表以来、市民の皆さんからの期待や関心も高く、市議会あるいは市民対話集会など、様々な場面で「必ず実現してほしい」との力強いエールを頂いているところであります。
 本市においては、大学病院の建設支援を市の総合計画や実施計画にしっかりと位置付けをして、市の重点プロジェクトの一つとして推進することをすでに決定しています。またこの3月の市議会においては、大学病院支援に向けた新たな基金の設置が可決されたところであり、本市としての準備も着々と進めているところであります。
 今回の協定調印は、昨年5月29日の基本合意以降、約1年にわたり協議を重ね、合意を得た事項に関して確認をするものであり、これまで協議内容の取りまとめのため様々な立場で御協力頂いた皆様方に対し、改めて感謝とお礼を申し上げるものであります。
 今後も個別具体的な課題について、様々な協議を行っていくわけでありますが、今回の協定を一つの柱として、岡崎市南部のみならず西三河の医療を支える新たな軸となる大学病院建設に向けて努力して参りますので、よろしく御支援のほどお願い申し上げます。

 ところで、すでに県議会議員選挙も始まっておりますが、選挙は本物とニセ物を見分ける機会でもあります。目的は議員バッヂを胸に付けることだけで、愛郷心のかけらもなく、当選のためならできもしない政策や口から出まかせの実績を恥ずかしげもなく並べ立てるような人物を選ばないで頂きたいと思います。
 確固たる政治理念と支持基盤を持ち、自己の立ち位置をわきまえ、なすべき政策をきちんと推進していく。そうした方をぜひ選んで頂きたいと思います。
 間違っても兵庫県の誰かさんのような人に投票しないでほしいものです。


岡崎市南部に総合病院建設決定! (2014.06.12)

「藤田保健衛生大学 岡崎医療センター」プラン決定 (2017.03.06)

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2015年4月 3日 (金)

家康公四百年祭・観光PRキャラバン

岡崎市・観光PRキャラバン(2015年3月20日)

 4月の声と共に、岡崎の春の祭典「岡崎の桜まつり」が開催された。3月20日(金)、私達は本年1月よりすでに始まっている「家康公四百年祭」と4月の桜まつりと家康行列のPRのため、「2015観光大使おかざき」と葵武将隊の代表者共々、名古屋にある各新聞社並びにテレビ局の計10社を訪問することとなった。
 当日、私達は9時55分の読売新聞社訪問を皮切りに、朝日新聞社、中日新聞社、毎日新聞社と続き、昼食をはさんで、中京テレビ、名古屋テレビ、テレビ愛知、中部日本放送、東海テレビ、NHK名古屋放送局を訪れ、午後4時半まで移動時間を除いて一日中しゃべりっぱなしであった。
 私は県会議長の就任と退任の折に同様の挨拶回りを行った経験があるが、まだ大学生であり、初の社会的体験(?)となる観光大使の馬場さんと須貝さんのお二人にはさぞかしストレスが大きかったことと思う。しかしながらお二人とも上手に岡崎をPRしてくれた。

岡崎市・観光PRキャラバン(2015年3月20日)

岡崎市・観光PRキャラバン(2015年3月20日)

 徳川家康公400回忌にあたる今年は、〝出生の地〟岡崎市と〝出世の地〟浜松市、そして〝大御所の地〟静岡市の三市が連携して各種イベント・行事を行うこととなっている。
 すでにこの1月17日に静岡市の浅間神社において、徳川御三家の代表をお招きしてオープニングセレモニーを行ったところである。4月25日には浜松市で中間セレモニーを行い、年末の12月26日(土)の生誕祭には、ここ岡崎で「泰平の祈り」としてLEDボール・3万個を流すエンディングセレモニーを行い、幕を閉じる予定となっている(下の写真は今年の1月14日、乙川で試験放流を行ったときのもの)。

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家康公四百年祭・オープニングセレモニー

泰平の祈り・乙川試験放流(2015年1月14日)

 ぜひこの機会に、徳川家康公が「厭離穢土・欣求浄土」(おんりえど・ごんぐじょうど)の旗印の下、戦国の世を戦い抜き、平和な世を現出させた志に思いをはせてみたい。そしてまた、封建制度と士農工商の身分制度のイメージから、暗い時代であったかのように思われがちな江戸時代というものの本当の姿、日本の文化や日本人の性格形成との関係についても考えたいと思う。
 今私達が日本の文化であると思っているものの多くは、江戸時代に熟成し完成されたものが多い。さらに日本人の性格や言動、社会的傾向というものも江戸時代に形作られてきたものであるということをよく耳にする。また、明治維新という大きな社会変革と急速な近代化が成し遂げられたのは、江戸期に全国的に共通した文化体系を持てたことと、あの時代において世界に類のない90%以上の識字率を達成していたことが基盤としてあったからであるとも言える。これまで明治政府を正当化するために過剰に流布されてきた〝徳川幕府悪王論〟や策略のみで天下を取ったとする〝家康タヌキオヤジ説〟というものを再度検証して、本来の志と正当な認識というものを三市でアピールしてゆきたいと考えている。

 この4月から静岡市では15日から19日にかけて、久能山東照宮において「御鎮座四百年大祭」が行われる。岡崎市においては桜まつり(4月1日~15日)の間、5日に家康行列があり、12日に徳川家の菩提寺(注・先祖の位牌を納めている寺)である大樹寺にて「徳川家康公四百回忌法要」が行われる。そして浜松市では25、26日の両日、「家康楽市・春の陣」が行われる予定となっている。

岡崎の桜まつり(2015年)

 本市では今年の四百年祭イベントと来年の市制施行100周年を契機として、リバーフロント計画を推進して、全市に13もある国指定の文化財建造物をはじめとする多様な歴史遺産、加えて矢作川・乙川等の河川空間や額田の自然景観を活かした観光産業都市としての岡崎の側面を伸ばしたいと考えている。もちろん目指しているのは観光による経済的活性化ばかりではない。岡崎に生まれ育った子供達が、大化の改新の頃にはすでに集落があったというこの岡崎の歴史と伝統に目覚め、徳川家康公にとどまらない多様な先人達の偉業を振り返り、自分達のふるさとに対するより大きな愛情と認識、誇りというものを育んでもらいたいと考えている。

 時に、「私は岡崎生まれではないのでそんなことに関心が無い」とヘソ曲がりなことを言う方がみえるが、これから始まる「夢ある新しい岡崎」が実現すれば、岡崎に対する興味もわき、訪れたい、住んでみたいという人も増えてくることと思う。(岡崎の人口はそんなに簡単には減りませんので御安心を。) 仮に岡崎生まれでなくても現在お住まいであるならば、その子供さん達にとっては、ふるさとはまぎれもなく岡崎なのであります。

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