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2015年3月 5日 (木)

徳川家康公と「朝鮮通信使」

 1月12日(月)、久しぶりに「岡崎地区・日韓親善協会」の新年会に参加することができた。県議時代にはほとんど欠かさずに出席させて頂いたのだが、このところ公用と日程が重なることが多く、御無沙汰続きであったため、今回出席することができて本当に良かったと思っている。
 この会は1978年に韓国と日本の親善友好のために創立された団体で、民間による相互の訪問を含めた交流活動を長らく続けてきている。個人的にお世話になっている方々が歴代の役員をしていたため、私は30年近い御縁を頂いている。
 今年は日韓両国が、国交正常化してから50周年の節目の年にも当たり、各地で「朝鮮通信使」の意義が見直されている。

岡崎地区日韓親善協会

(これは2013年の新年会の写真です)

「家康公と朝鮮通信使」(市橋章男先生)

 当日、会に先立って、歴史研究家の市橋章男先生による「家康公と朝鮮通信使」の講演が行われた。私は所用のため終わりの部分しかお話を聴くことができなかったが、それでも朝鮮通信使と岡崎の歴史的関わりについて確認をすることができたのは大きな収穫であった。
 私達は日頃、目の前の事象に追われて生きているが、改めて自分達の生活しているふる里の歴史を学ぶことによって、新たな発見に心動かされることがある。

 かつてNHKの教育テレビで『日本と朝鮮半島2千年』という全10回のシリーズ番組があった。その放映を見ながら認識を新たにすることがいくつもあった。中でも強く印象に残っているのは、古代における日本列島の先住民達は、それぞれ様々な形で韓半島及び大陸と相互交流を重ねてきたという事実である。日本海は必ずしも両者を隔てる海ではなく、〝つなぐ〟海であったということである。考えてみれば「浦島太郎」や「天女の羽衣(はごろも)」の昔話なども大陸や半島との関わりの中から生まれてきた民話の一つであるのかもしれないのだ。
 ことに「目からウロコ」の思いがしたのは、「古代において、両国の沿岸住民達は、近代のような強い国家意識も無く、帰属意識にも縛られていなかった」という事実である。まだ強力なる中央集権国家というものは成立しておらず、人々は個別の利害関係の中で交易をしたり、国境を越えた人同士のつながりにおいて、共通の敵と戦ったりしていたということである。
 さらに、中国大陸の王朝の変動期や、6世紀の韓半島における三国時代(高句麗、新羅、百済)の時代においては、当時倭国(小人の国)と呼ばれていた我々の祖先達は、百済を通じて大陸の文化や文物を吸収していった。仏教や漢字、製鉄技術などを学び取りながら半島の動乱にも関わってゆくこととなった。
 大陸や半島における国家の興亡の度に、多くの渡来人(帰化人)を受け入れることとなり、また先進的文化の流入によって倭国の文化も洗練されていった。そればかりか、百済に肩入れして唐と新羅の連合軍に海戦を挑んで大敗した〝白村江の戦い〟を契機に、律令体制へとカジを切り、統一国家としての歩みを始めることとなったのである。
 遣隋使、遣唐使による交流を経て、モンゴル(元)の来襲ののち、戦国時代の末期に行ったのが、〝壬辰倭乱〟(イムジン・ウェラン)と今も呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)である。「人は他人を殴ったことは忘れるが、自分が殴られたことは忘れない」のたとえの如く、これは、先の大戦における出来事と共に日朝間で今日においても受け止め方に大きな開きのある出来事である。(今回はそれが主題ではないのでここまで。)

 申し上げたいことは、そうした最悪の国際関係の中で、秀吉没後の日朝関係の建て直しを計ったのが、徳川家康公であったということである。 (つづく

家康公四百年祭(家康公と岡崎市)

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