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2014年6月22日 (日)

岡崎城は宝の山 その1

岡崎城

 このところ、時節に合わせての報告事項が多く、少々間が空いてしまった感もあるが、「乙川リバーフロント構想」のメインテーマのひとつである岡崎城岡崎公園について、一度きちんと触れておきたいと思う。
 本年3月27日、かねてよりお願いしてあった日本の城郭研究の第一人者である広島大学大学院教授の三浦正幸先生(祖父の代までは岡崎在住)と、歴史学者として高名な滋賀県立大学教授の中井均先生に御同行賜り、副市長と関係部局の職員そして私の総勢15名あまりで、岡崎公園の歴史探訪を行った。
 外に向かってPR活動をしていくためには、私達自らが正確な事実を認識しておかねばならない。
 「岡崎の人間は何かというと『家康公・生誕の地』と言うくせに、実際はモノづくりの金儲けばかりに走っており、意外と地元の歴史遺産について無知であるし、大切にしていない」といった手厳しい御指摘を外部の方から頂くことがある。
 現に来年の徳川家康公の顕彰400年祭についても、静岡市と浜松市から久能山東照宮400年祭と兼ねてのお誘いを受けるまでは、誰も思い出す人がいなかったくらいである。(仮に知っていたとしても何のアクションも起こさなければ、知らないのと同じことである。)

東海愛知新聞 2014年4月15日

 大正4年(1915年)の300年祭の折りには、「葵の誉」という歌まで作り、市民をあげて大提灯行列を行ったにもかかわらず(翌年が市政施行年)、100年ですっかり忘れてしまったのである。500年祭の時にはこんなことのないように市役所内に〝100年カレンダー〟を設けておきたいと考えている。

 かく言う私も先祖代々岡崎に居住し、自身、お城のある連尺学区に生まれ育ちながら、今回の探訪で先生方のお話をうかがって、岡崎城の真実についてあまりに疎(うと)いことを認識し、まさに赤面の思いであった。

岡崎市観光協会 総会

 岡崎市史に詳しい方には、当たり前の話かもしれないが、ここで岡崎の歴史と岡崎城について振り返ってみる。
 現在岡崎市のある辺りに人が住み始めたのは、文献によると約1万5千年前の旧石器時代であったそうだ。大きな川が交差する地点に城や砦が築かれて、その周りに集落ができ、発展していったというのは、世界中どこでも共通の現象らしい。
 岡崎の地も大化の改新(645年)の頃にはそれなりの集落が成立していたという。その後、大和朝廷との結びつきが強まる中で仏教も盛んになっていった。
 保安年間(1120年~)に開山したという滝山寺の入口にある大きな三門が、藤原光延により建立されたのは文永4年(1267年)であった。鎌倉時代には足利義氏が三河守護職として館を構え、その後室町幕府を開いた足利尊氏は三河を幕府直轄地とした。(南北朝の乱の折りに、初めて陣をひいて対峙したのが矢作川だったという。)
 応仁の乱(1467年)を切っかけに始まった戦国時代に、家康の祖父である松平清康(松平七代)が大永4年(1524年)に岡崎に居城を定め、それから5年ばかりで三河一円を平定した。
 その孫である家康公が岡崎に在住していたのは、天文11年(1542年)の生誕から6歳までの幼少期と、桶狭間で破れて戻ってきた19歳から29歳までの青年期の16年間であった。その青年期の10年の間に元康から家康に改名し、松平から徳川へと復姓を勅許(ちょっきょ)され、まさにこの時期は次の時代にはばたくための胎動期であったと言える。
 城に特化して述べるならば、家康公生誕の城と言われる岡崎城は康正元年(1455年)に地元の豪族西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城され、その後、家康の祖父、松平清康によって奪取されたものである。当時の岡崎城は、堀こそあったものの、城というよりも館(やかた)と呼ぶ方がふさわしいものであったらしい。
 その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により関東移封(いほう)となった徳川家康の後を受けた田中吉政の手によって、中世的な城から近世的な城郭に生まれ変わった。この時に、石垣や天守閣を持つ、今日に伝わる岡崎城の外観が形造られたと言われている。また田中吉政の業績は城造りにとどまらず、町造りにも活かされており、外敵の来襲に備えて東海道を城下に引き入れた。この欠町から矢作橋までつながれた街路が、いわゆる「岡崎二十七曲り」である。
 秀吉の家臣であった吉政であるが、関ヶ原では東軍に属し、西軍の旗頭石田三成の捕縛の功により、家康に認められ、北九州の柳川へ加増・栄転(三十二万石)となった。
 それからの岡崎城は江戸期を通して、譜代大名となった、本多氏、松平氏、水野氏ら近臣の家系によって治められることとなる。

 しかし慶長9年(1604年)、本多康重の治世の折りの地震で倒壊し、元和3年(1617年)にその子康紀によって新城が再建された。この二代目の城は、明治維新後の明治6年(1873年)、徳川の象徴の一つでもあるため取り壊されることになった。現存する3枚ほどの城の写真は当時の様子を今日に伝えている。

岡崎城

 太平洋戦争後、市の有志の声掛けの元、昭和34年(1959年)、鉄筋コンクリート製の岡崎城が復元された。以来、本市のシンボルとして55年経過したところである。
 当時小学一年生であった私も、同時に建設されていた旧・連尺小学校の体育館の工事の様子と共に、岡崎城ができ上がってゆくあり様をはっきりと記憶している。(当時の連尺小学校は今のりぶらの場所にあった。)
 現在の三代目の城は、三重の天守と付櫓(つけやぐら)造りであり、内部は五階建ての造りとなっており、ヨロイ、カブトや刀剣、各種資料の展示資料館として活用されている。最上階にはオリジナルの城にはなかった廻縁(まわりえん)と高欄(こうらん)が設けられており、来訪者の展望と安全のために供されている。
 「本来の岡崎城(二代目)には、そうした付属物はなく、最上階はもう少し高くすっきりとして、見映えは美しいものであったはず」というのが専門家の見解である。

岡崎公園視察 2014年3月27日


岡崎城は宝の山 その2 (2014.07.04)

岡崎城の将来について (2016.11.24)

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