映画『永遠の0』を観て
1月1日夜、甥や姪たちと共にレイトショーなるものに初めて出かけることとなった。映画館で映画を観るのは実に20年ぶりのことであった。これまではすっかりビデオやDVDで観賞する習慣となっていた。しかし今回だけは、どうしても映画館の大画面で最新鋭のコンピューターグラフィックスの出来映えを味わってみたいという思いが強かったのである。
結論から言うと、『永遠の0』は期待感が大きかっただけに少々ガッカリしてしまった。途中まではストーリー展開の巧みさや、CGの緻密さ、時代考証をしっかりとらえた飛行機や軍艦の様子に感心して観ていた。ところが後半の四分の一ぐらいから物語の運びが少々雑になり、小説かマンガを読んでいない人には話のつながりが分かりにくかったのではないかと思う。
また、真珠湾攻撃の成功の後に一人だけ「空母がいなかった」と沈痛な顔をしていたのもウソっぽい。当時、どこを攻撃するかも知らずに何ヶ月にもわたって猛訓練ばかりやってきた下士官・兵の中にそんな奴がいるはずがない。ただただ喜びにはじけていたはずだ。あの時点で空母の心配などしていたのは、山本五十六大将と一部の幕僚ぐらいのはずである。第一アメリカですら、やられてみて初めて空母中心の航空機動部隊の力を思い知ったのである。それまでは仮に攻撃のあることを知っていたとしても、彼らは日本の力などなめていたのだ。
もう一つ、小説の中で最重要であった、姉の婚約者の新聞記者と大企業の会長となった元・特攻隊員とのやりとりが、友人との合コンの単純な討論にすり替えられていたことは実に残念であった。
日本の戦後歴史教育と戦争中から今に至るマスコミの欺瞞性を、戦争の当事者との対話によってアブリ出すというところにこの物語の一つのポイントがあったのに、あの描き方では映画の価値を下げてしまっている。映画製作への協力と完成後の宣伝活動に対する配慮があったせいか、お茶を濁した切り口になってしまったのは、やはり営業第一なのかと思わされる。
それから最終盤。現代の幸福な家族風景の場面と共に、主人公の孫が歩道橋を渡る場面がある。そこに向かって宮部の乗った零戦が幻想的に飛んで来るという、マンガチックであざとい仕掛けがこの映画を台無しにしてしまっていると思う。またその時の孫役の男の演技がオーバーでクサイ。ここで感動を盛り上げようという製作側の企(たくら)みが見え見えで、シラけてしまった。
あれだけの原作とすぐれたCG技術を駆使しておきながら、どうしてこんなつまらない結びにしたのかと残念でならない。想像による余韻効果を期待して〝突入場面〟で終えたのであろうが、シリ切れトンボの感がある。
最後の特攻場面は「マジック・ヒューズ」(VT信管)の意味も含め、素人には少々説明不足である。米空母艦上での艦長と兵士のやりとりを削除したのも理解できない。唯一反対側の視点を見せる、締めとして重要な場面だったのだが、あの部分を省略したことで、何となく情緒性にのみ流れてしまったように思う。これではとても外国に持って行ける映画とはならないだろう。
長大な物語を2時間強の映画にくまなくまとめることは無理なことはよく分かるが、小説が100点とするならば、マンガは96点、映画は78点といったところだと思う。
配役が良かっただけに本当にもったいないことである。しかしCGの部分を見直すためにDVDは買おうと考えている(再編集のディレクターズ・スペシャルが出ることを期待している)。
映画と小説は別物と割り切って観れば、それなりに楽しめる映画ではあるが、できればぜひ小説を読んでほしいものである。
とはいえ、ふだん辛口のコメントの多い下の息子が「日本の映画で初めて感動した」と言っていた。ひょっとすると、この映画はそうした世代向けに作られているのかもしれない。
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