安倍晋太郎先生墓参
11月6日(水)、かつて若かりし日に秘書としてお仕えしていた安倍晋太郎先生(現総理の父)の墓参をした。
晋太郎先生は、私が県議二期目の時、総理の座を目前にして、膵臓がんのため67歳の若さで亡くなられた。平成3年(1991年)5月17日、東京都港区の増上寺で行われた葬儀では、安倍家とかつての同僚秘書の御好意で、棺の先頭を担わせて頂いたことを今も思い出すものである。
その後、県会議長になった折や市長職に就いてからも「一度墓参を」と思っていたが、なかなか個人的に山口県まで足を運ぶことができなかった。
今度の墓参のきっかけは、安倍晋三総理と昭恵さんが山口でお墓参りをしている様子をテレビで見た後援会の方からお電話を頂いたことに始まる。東京の安倍事務所と連絡をとったところ、安倍家のお墓は下関ではなく、同じ山口県でも日本海側の長門市にあるとのことだった。簡単に考えていたが、新幹線で名古屋から3時間、在来線で2時間の旅ということになった。
新幹線の新山口駅から在来線を三度乗り換え、長門市を目指すことになった。在来線と一語で言うも、一車両編成で車掌兼務の運転手が一人きりで、停まる駅は無人駅ばかりであった。乗客はまばらで、地元の高齢者が多く、途中乗車してきた旅行者もまた高齢者のグループであった。学校の下校時に時折学生も乗って来たが、これでは経営の維持は大変なことだろうと思う。車両にはトイレと空調設備だけはあった。
現地に到着して最初に受けた言葉は、「へーっ電車でおみえになったと。こちらは車社会ですけん」であった。車社会にも色々ある。個人主義のため公共交通機関の利用が進まないアメリカのような所と、まともな移動手段が車しかない車社会とである。
思えば、私が安倍晋太郎先生の秘書となったのは、今から34年も前のことである。当時26歳で、アメリカ留学から帰ったばかりであり、父の3回目の市長選の直後であった。
父の友人を通じ、政治評論家の飯島清先生の御紹介で安倍代議士のもとでお世話になることになったのである。
昭和54年(1979年)春、初めて国会の第一議員会館602号室を訪れた日のことは今もはっきりと覚えている。福田赳夫内閣の内閣官房長官の職を終えたばかりの御本人の面接を受けることとなった。
「政治の世界は水商売と同じで浮き沈みの激しい所であり、今この建物にいる代議士も選挙の度に三分の一は入れ替わる」
という話や、
「親のカタキと笑って握手ができるようでなくては、この世界では生き残ることはできない」
というその時の先生の言葉は、まるで将来の私の姿を暗示していたかのような気がしている。
いずれにしても、そんな経緯で始まった安倍家との御縁であるが、私が国政選挙を失敗したあとの最初の県議選の折には、自民党の総務会長であった晋太郎先生の応援を頂いた。また、晋三秘書官(当時)にも決起大会をはじめ、3回も岡崎まで駆けつけて頂いた。ましてや昨年の市長選には、晋三総裁、昭恵夫人のお二人で都合3回応援に来て頂いているわけで、私にとって安倍家は足を向けられない存在である。
初めて訪れる長門市は緑豊かな地方都市という風情であった。かつての連合艦隊旗艦であった戦艦「長門(ながと)」の艦名となった町にしては穏やかな町並みである。長門市の安倍事務所は駅の近くにありすぐ見つかったが、安倍家のお墓はタクシーで30分程の郊外の山の中腹にあった。名家のお墓とはこうしたものかと思わせる程大きく、立派な墓石であった。ゆるやかなカーブの石段を登った奥にあるお墓は小公園程の面積がある。周囲の敷地まで含めると1000平方メートルはありそうであり、観光名所となっても十分対応できそうである。
長年の御無沙汰をお詫びしながら、丁重にお墓参りをし、記帳所で記帳をおこなった(個人の墓でも事務棟と記帳所があるのである)。現地では、秘書の篠原勝己さんと共に後援会の緑風会の会長の小野弘子さん達からお迎えを頂いた。「安倍先生も喜んでおみえだと思いますよ」と言われた時、やっと義務を果たすことができ、ホッとした気持ちがした。
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