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2013年10月29日 (火)

市長就任、満一年に思う

 ようやく、昨年の10月21日の初当選以来、「市長就任、満一年」となった。まさしく「ようやく」である。「早や一年」などと慣用句としても言う気にはなれない。毎夕渡される翌日の日程表には、20前後の予定事項が記載されており、連日それを確実にこなしてゆくことに忙殺されている。当然、事前の日程打ち合わせは私の同意の上で決定されている。早く仕事を理解するために、私が直接出席できるものはすべて私が行う方針で自ら進めているのであるから、過労死したところで誰に文句を言える筋合いでもない。笑い話であるが、家で嫁さんと会って「お久しぶり」と挨拶することもある。嫁さんが外国人だったら離婚騒動になっているかもしれない。意外と知られていないが、政治家は労働基準法で保護される存在ではないのだ。
 この一年で、一日中フリーの休みは7日しかとれていない。休みのほとんどは自宅で休養していたが、実に密度の濃い充実した一年を送ることができたことに対し感謝をしている。
 昔、父が市長であった頃、「1年365日仕事漬けの、あんな非人間的な生活の職業はゴメンだ」と思っていたが、気がついてみると、今自分も同じような生活をしている。そして最近ようやく、その原動力が「責任感」と「やりがい」というものであることが分かってきたような気がしている。

 私達は、子供の頃一年をとても長く感じたものであるが、大人になるにしたがって時間の経過が早くなるように思っている。これは単に幼くて、体も小さいためにあらゆるものが大きく長く感じられたせいであると考えていたが、どうもそれだけではないような気がする。
 子供の頃、保育園や幼稚園に行けば何から何まで初めての経験ばかりである。言ってみれば幼児にとって初の社会体験である。肉親以外の大人(先生)との対面・対応があり、兄弟以外の異なった考え方を持つ子供達との共同生活を強いられることにもなる。必ずしも自分に対して好意的であるとは言えない、得体の知れない多くの子供達と共有する異空間に、ある日突然放り込まれる不安とストレスは想像に難くない。そうした状況下に置かれれば、当然ながら時間の推移は長く感じるはずである。何もアインシュタインの相対性理論に頼らなくともこの辺りの理屈は御理解頂けるものと思う。
 またしても回りくどい余計なことを書いてしまったが、私がこれまでの一年間の時の経緯を、大人でありながら長く感じたことも同じ理屈であると思っている。
 それから私はこれまで国会議員の秘書や県会議員、また県会の議長の経験もあるが、首長として市政を担当するということは全く別の役割であるということを改めて実感している。

岡崎市役所 市長室

 この一年間は日々新しい体験であり、必ずしもすべてを理解しているとは言えない事柄についてもコメントを求められたり、判断を迫られたりすることがあった。優秀なる幹部職員のバックアップもあり、そうしたケースにも何とか対応することができ、この点について今は感謝している。組織は一人で回ってゆくものではないということを改めて実感したものである。

 今ここで、一年前のことを思い出してみると、当時、選挙で対立候補の応援をしていた前市長の本拠地に一人で乗り込んだ訳であり、不必要に緊張していたような気がする。
 当初は、誰の言うことをどこまで信じてよいのかも分からなかった。就任早々はコピーも人まかせにせず自分でとり、机の上に無警戒に書類を放置したりしないように注意もしていた。今となっては、意識過剰の疑心暗鬼であったことが分かるが、政治の世界とはそれくらい油断のならないところでもある。
 かつては選挙戦を経てトップが交替した場合、前任者の側近達は潔く旧ボスに準じて辞表届を出して辞めてゆくこともあったそうであるが、昨今はそんなナニワ節的なことは無くなり、人間関係もビジネスライクになってきており、そのようなことは昔話となっている。とはいえ、そうしたことが分かってきたのも就任半年ほど経ってからのことである。ひょっとすると、もう少し時間が過ぎればまた違った側面が分かることになるかもしれないと思っている。

 以上のことは、あくまで私が自分を基準に置いた立場から見た感想であって、逆の立場から考えてみれば、そこには当然異なった視点が存在するだろう。一般の市職員にとって、市長が交替するというのは、言わば新任の支店長が来たようなものである。同社・他店から来た支店長ならば、まだ同質の人間として認知することもできるが、現実の市長は、公選の結果決まった「市民の声」という錦の御旗をまとっているとはいえ、役所の体制からすれば異分子なのである。ちょうど部外者がいきなりトップの椅子に座るようなものであり、組織の論理としては決して歓迎すべき事態とは言えないだろう。
 新しいトップが役所の仕事を熟知している訳はなく、組織体系の流れを十分理解しているとも言えない。何よりも役所の伝統、体質、しきたりを尊重する人物であるかどうかも分からないのである。組織の上位にいる人間にとっては、今まで自分が長年かけて積み上げてきたキャリアが正当に評価されるかどうかが一番気がかりなことと思われる。
 もし組織の論理を尊重しないとすれば、これほどの危険人物もいないことになる。新しいトップが独善的で、人の意見に耳を傾けず、見当違いの変革を求めるとすれば、それは組織ばかりではなく、地域にとっても好ましい結果を招くことにはならないだろう。そうした場合、組織にとってはまさに「エイリアンの来襲」に等しいものとなる。私もそれくらいのことは承知しているつもりであり、なるべく多くの人々の意見に耳を傾ける努力をしている。ことに法的正当性、合理性に関しては十二分に配慮しているつもりである。
 当然ながら、新任者は前任者とは違う人物であり、性格も、考え方も、モノゴトの進め方も違うだろう。異なった政治理念を持つ新任者が新たな政策を行おうとすることは、政権交代が起きた時の決まりごとである。役所にとっての心配ごとは、これまで長期計画のもとに推進してきた市の行政との整合性に齟齬(そご)をきたすかどうか、ということであろう。場合によっては、政策変更によって正反対の政策を行ってゆくことさえある。そのようなケースとなっても、新政策に対する予算的な対応、技術的裏付け、さらには国や県との再調整、基本計画の見直しに対する書類的手続き等を進めていかなければならない。実行してゆく立場となれば実に大変なことである。
 しかし政権交代というのは、いずこも大なり小なりこうしたことがなされてきているのである。アメリカでは、大統領が政党ごと交代した場合、すべてではないがワシントンにおける2万人ほどの人間が、国務長官をはじめ上級職員はもちろんのこと運転手、秘書、事務方の人達まで入れ替わるという。それに比べれば平穏な政権交代であると思う。

 私は決して自説に固執するガンコ者ではないつもりである。異なった意見を持つ者を排斥したり、冷遇したりはしない。しかし、私の考え方に賛同しないならば、私が納得できる代案を出してもらいたいと思う。そしてぜひ私を説得してほしいものである。筋の通った合理的な話に対しては十分に耳を傾けるつもりでいる。また、役所仕事のあり方としてよく言われることであるが、物事を進めていく時に、何でも形式的に運べばコト足れりとする態度はくれぐれも改めて頂きたいものである。時には臨機応変な対応も必要なことを理解してほしいと思っている。とは言え、最近市役所の個々の職員の有能さに舌を巻くことも少なくない。組織というものは、そうした個々の持ち味を生かし、補い合って総体として大きな仕事が完遂できれば良いと思っている。
 私も就任以来一年間、自分なりに一生懸命やってきたつもりであるが、就任前に考えていた以上に法律的ワク組みの厳しさというものを、現在実感させられている。そしてこれまで仕事を進めてこられたのは、役所の内外を問わず多くの方々の御理解と御協力によるものと認識している。そうした皆さんに心からの謝意を表すると共に、今後とも〝チャレンジする気持ち〟を忘れずにがんばる覚悟である。どうぞ更なるお力添えをお願い申し上げます。

 いずれにせよ、市政運営において、議会の審議を受け、最終決断を行うのは私の役目である。よって、すべての責任も私にある。これからもそうした決意で、岡崎に生まれた子供達が、自らの故郷を誇りをもって語ることができる、夢のある「次の新しい岡崎」づくりに邁進したいと考えている。

内田康宏

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