政治的信念と転向、変節について
「オカザえもん騒動について その5」を書く時に、中途半端に固有名詞を入れたために、要らぬ誤解を招いたようである。たとえを分かり易くするために具体的な名前を挙げたことをとらえて、どうやら私を反共主義者と思った方がみえたようである。別に否定する気もないが、その点に関しては残念ながら何々主義というほど立派な思想的信念を持ちあわせている訳でもない。私は保守の政治家ではあるが、左翼主義者の中にも共感する人物はいるのである。
私は単に、選挙のたびに平気で政党から政党へと渡り歩く連中のことを嘆いただけのことである。中にはぐるっと回って、元の政党に戻ってくる奴までいる。それを許すような政党もどうかしていると思っている。
確かに、人間であるから長く生きていれば、何かの体験が元で思想的に転向することもあるだろう。若い頃は左翼の闘士であったが、後には保守政党の政策的ブレーンの一人となっているような人は何人もいる(ただしその逆は一人も知らない)。しかし、そうしたことは普通「一生に一度」くらいの出来事である。
選挙のたびに、その時の世間の風を見て政党を渡り歩くというのは、政治家としては恥知らずの技だと思う。そうした人物のことを不節操とか変節漢と呼ぶのであろう。もちろん、政治そのものは妥協の産物であるが、それは政策的問題のことであって、個人の生き方とは別次元のことである。
先日、たまさかある所で学生時代の友人と出会い、「おい、ところであの時のヘルメットや赤い旗はどうした? ゲバラのポスターはまだあるのか?」と旧友をからかったことがあり、それでつい余分な記述をしてしまったのである。
「オカザえもん5」の時に、上記のようなことをぐだぐだと書くのが嫌で、簡略化して書いたのであるが、結局こうして説明する次第となってしまった。このことは一つの教訓にしたいと思っている。
私が学生であった昭和40年代から50年代前半は、新左翼を中心とした世に言う「学園紛争」・「学生運動」の時代の真っ只中であった。入学試験のため上京したその日は〝神田騒乱〟(?)の当日であり、中央線に乗って神田駅から水道橋駅に入る列車の車窓から、機動隊と学生の激突の場面を眺めていた。つくづく「エライ所にやって来たもんだ」と思ったものである。
大学2年生の途中までは、大学の校舎はまるで動物園の猿舎のように周囲を金網で囲われてロックアウトされていた。入口にはガードマンが立ち、学生証を忘れると授業に出ることもできなかった。それでも時々、ヘルメットに角材を持った連中が授業中乱入してくることがあった。
ある時、学生会館に警察の手入れがあり、何人かの学生が手錠をかけられて連行されて行く所を間近で目撃したことがある。本物かどうかまでは知るよしもなかったが、機動隊の隊員達が手にしていた押収品の中には、段ボール箱につめられた火炎瓶と共に日本刀や猟銃のようなモノまであったことを覚えている。まだベトナム戦争も続いていて、当時は世界中が騒然としていた(ベトナム和平協定が結ばれ、米軍が撤退したのも確か大学2年の時であった)。
あれから40年ほどの年月(としつき)が過ぎ、過激派学生と呼ばれた人達も今や60~70歳を迎え、それぞれ日々の生活に埋没している。かまやつひろしの歌ではないが、「女房、子供に手を焼きながらも生きている」といったところであろうか。
ところが、聞くところによると今でもあの頃のまま反体制活動を続けている連中がいるという。私は彼らを褒め讃える気にはならないが、政治的信念の継続性という点では、「見上げたものだ」と思っている。彼らは既存の左翼勢力すら体制の一部と考え否定しているのである。大体当時から、そんなモノが長続きするはずがないと思っていただけに、人生50年以上に渡って続けていることに対し、主義主張やことの妥当性を超えて、ただただ敬服してしまう。正直言って、「おバカさんやネェ」と思わないでもないが、そうしたある種の思想的狂信を続けることは私にはできそうにない。
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