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2013年9月 6日 (金)

それぞれの正義

 とかく人は自分が見ている風景、自分が考えていることが唯一絶対と思いたがる傾向がある。一度このパラダイムにはまると、なかなか抜け出すことは困難のようである。(最近の我が国の周辺国の事情も同様の気がする。)
 世の中、人それぞれ生まれや育ちも異なり、顔つきや性格も違う。加えて考え方も千差万別、人様々である。そしてこの国では、個人はそれぞれの思いや信条、各自の趣味に合った思想や宗教を持つことが許されているはずである。それがどのような趣向のものであろうと、他人への迷惑にならない限り、個人の自由の範疇に属するものであり、誰にとがめられる筋合いのものでもない。時に、考え方の異なる人間が同席してトラブルを招くこともあるが、そんな時、お互いに適当に折り合いをつけるのが大人の対応というものだ。

 ところが世の中には、そのように考えない人達がいる。
「いつも正しいのは自分であり、誤っているのは常に他者である」
 と言わんばかりの言動をする人達である。
 まことに困ったことではあるが、こうした人達はいつの時代にもどこにでも存在する。仮に彼らが「自分達の正義が唯一無二のモノである」と考えていたとしても、それはその人間の勝手であるが、それを他者にも認めさせようとするところに問題が起きてくるのである。
 私達のように行政・公の仕事に関わる者にとって、こうした人達との接触を避けて通ることはできない宿命がある。行政の政策決定には様々な選択肢がある。しかし、限られた予算と限られた人員、国や県の定めた大枠の中で、かつて三割自治とも揶揄された政策決定をとにもかくにもおこなっていかなくてはならないのである。そうした制約の中で、すべての人が満足する行政対応をとることは極めて困難なことである。
 そこで、人間は長い歴史の試行錯誤の中から、「多数決」というルールを考え出して来たのである。
 かと言って、多数決が常に正しい判断をして来たとも言えない。それでも、独善的な少数者の決定に従うよりは安全であることは歴史が証明しており、ゆえに多くの国は民主主義というシステムを採用し、今日のような政治体制が築かれたのである。

市民対話集会 2013年7月25日

 私は今年の1月から、各種団体や様々な業界、地域や学校など、要請のあった所へはこちらから出向き、すでに30回以上「次の新しい岡崎」と題した講演活動を続けて来た。昨年の選挙以来私が各地で訴えて来た〝未来の岡崎づくり〟をふくらませたものである。その折、個々の皆様から様々な御意見を頂き、大変参考になっており、感謝申し上げるところである。
 そしてこの7月25日からは地域社会に密着した試みとして、これも選挙公約であった「市民対話集会」を始めた。こちらも先月までに3回開催している。
 不特定多数の人々を対象にこうした催しを行えば、当然のことながらこちらに好意を持った方ばかりが集まって来る訳ではない。中には「文句を言って困らせてやろう」という人がいても、それはそれでしょうがないと考えている。文句を直接行政の担当者に言って、それで気が済むのならばそれでもいいだろう。無理難題は困るが、個人的な話であっても、部内で検討して対応できるものには応じたいと思っている。

 しかし、時にこうした発言の中に「自分の正義」のみに支えられたものを見かけることがある。自己の言い分を一方的にまくしたてて、相手の言うことはまともに聞こうともしない。法律的な手順を話しても、財政的な情況を説明しても、その人の正義の前には無力な存在となってしまうのである。「やる気が無いから、そういう言い訳をする」とか「過去のことは聞きたくない。これからのことを言え」というのであるが、物事には手順というものがあるし、過去、現在、未来のそれぞれの段階に対する理解なくしては先に進めないことは自明の理である。
 通常私達は、こうした政策決定の手順を議会において、選良としての議員の皆さんを通じておこなっている。もちろん今後も、政策の是非を決定する機関が議会であることは変わりはない。
 だから、今回私達がおこなっている「市民対話集会」のように、各地域ごとに何回も開催し、準備に手間がかかり、実施にあたってトラブルの予想される形のものは、他都市ではあまり積極的に試みられてはいないようである。私達もこうした試みの難しさは初めから承知の上で、今回チャレンジしている。できる限り一般市民と密着した対話の機会を設け、行政側として市民の生の声に耳を傾け、併せてこれからの岡崎市の進む方向とそのための政策についてじかに説明する場を持ちたいというのが、我々の真意である。

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