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2013年9月17日 (火)

オカザえもん騒動について その5

オカザえもん

 オカザえもんについて私が「個人的には趣味ではない」とコメントしたことが未だに新聞のコラムに載ったり、議会質問の中でヤユされたりすることがある。友人からも「あんたも、いつまでもしぶといネ」などと言われる始末だ。今までに何度も書き、言ってきていることであるが、「趣味ではないが、別に毛嫌いしているわけでもない」。それどころか、岡崎のPRのために一種の使命感を持ってガンバってくれている作者の斉と公平太氏には本当に感謝しているし、尊敬の念すら抱いているくらいである。
 ただ好悪の感情とか、芸術に対する感性とか、主義主張というものは、多数決で決めるようなものではないと思っている。それはあくまで個人の領域に属するものである。
「古い奴だとお思いでしょうが、私はあくまでこだわる人間である」
(どこかで聞いたセリフですが)

 もっとわかりやすく言えば、仮に某左翼政党が日本で政権をとったとしても、私は間違ってもマルクス・レーニン主義を唱えてシッポを振って権力にすり寄ったりはしない。
 ところが近年の若い政治家の中には(年寄りでもいるが)、この辺の思想的貞操観念の希薄な、あるいはそんなものは初めから持ち合わせていない人間が増えてきているように見える。私にはそれが気になってしょうがない。またそういう人間は極めて功利主義的であり、人としての信義を軽くみる輩が多い。そういう人物が政界に増えるほどに、政治は混乱し、国民からの信を失う結果を招くものと思っている。
 政治家が選挙を意識して行動するのは当然のことであるが、当選のためなら傍目(はため)もはばからず次から次へと政党を移り替わってゆくという姿勢が私にはどうしても理解できない。そういった人間よりも、生き方としては、拷問の末、獄中死しても主義主張を変えなかった近代の左翼主義者達の方に親近感を覚えるくらいである。学生時代、革命を唱え、ヘルメットをかぶり角材や鉄パイプを振り回していた友人も今は田舎の一市民として平和に暮らしている。普通人ならばこれも許されるだろう。
 しかし政治家とは主義主張に生きる存在であるべきではなかったのかと自らに問うことがある。自作の言葉として「我が志によって立ち、我が旗のもとに倒れる、もって悔いなし」というものがある。私はそんな人生を送りたいと思っている。

愛知県議会 1987年

 オカザえもんに話を戻すと、先日新聞の県内版に、市役所幹部の弁として「美人は三日で飽きると言うが、初めて見た時は『何じゃこれ』と思ったオカザえもんにも慣れてきた」というコメントが載っていた。よく言われる「美人は三日で飽きるが、そうでないのは三日で慣れる」という言葉はウソであると思う。真実は「美人には三日で慣れ、美人であることを当然と思うようになるが、そうでない場合は三日間アキラめる努力をする」ぐらいであり、実際多くは、「アバタもエクボ」といったところが本当だろう。
 いずれにせよ当の女性達本人でも、美人の方が良いと思っているに決まっている。そうでなくては、化粧品が時代を超えてあんなに売れるはずがないし、韓国にまで美容整形に出かける人達がいるはずがない。あのクレオパトラですら、ハチミツを体に塗り、ミルク風呂に入っていたという。
 美の追究、利権や名誉、地位に執着するのは、人間の持つ性(さが)であり業(ごう)であると考える。それを直視せずに発せられたいかなる言葉にも、ウソがある。

 しかしそうは言いながら、最近もう一つ感じていることがある。人は年齢と経験によって考え方にも変化が起きてくるのではないかということである。人は美を追い求めるものであるが、年齢と経験によって、世の中には美を超越した価値があるということに目覚めることがある。思想的にも、自らと異なる考え方に対してより寛容の心が働くようになって来るのである。
 そうしたところに、人間としての成長、長く生きることの意味があるのかもしれないと思う今日この頃である。

追伸
 せっかく騒ぎが収まってきたのだから、もうオカザえもんについては触れまいと思っていたのに、また書いてしまった。これこそ私の業であると思っている。

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)

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