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2013年7月18日 (木)

親善都市・福山市へ その2(ばら祭)

広島県福山市訪問

 前夜の晩餐会では各友好都市の代表の皆さんと同様にお上品に挨拶を済ませ、翌日に控える「ばら祭」と「ローズ・パレード」のために夜更かしをせず早く眠ることにした。
 2日目は昼からのパレードの前にもう一つ仕事があった。ばら祭の展示会場において、切りばらコンテストの審査をしなくてはならないのである。そこで岡崎市長賞のばらを選ぶのが私のお役目である。
 その結果を述べる前に、福山市とばらの関係について少し説明をしておこうと思う。

 福山市は、先の大戦の米軍による空襲によって市街地の8割を消失している。戦後、「荒廃した街に潤いを与え、人々の心に和らぎを取り戻そう」と市民の有志の手によって、昭和31年(1956年)にばらの苗1000本が植え付けられた。この結果、昭和43年(1968年)には「全国美しい町づくり賞」の最優秀賞を受賞することとなった。昭和60年(1985年)には市の花にも制定され、ばらを通して培った思いやりの心(ローズマインド)は「100万本のばらのまち福山」づくり運動となって推進され、今日に至っているのだそうである。ばらと言えばお隣の西尾市もばらが市の花である。「市の花がバラなんてロマンチックでいいな」と思う一方、私はばらと聞くともう一つ思い出すことがある。

 大学生の頃、神田の本屋で難しい漢字のシャレた装丁の本を何気なく手にとった。その時の「薔薇族」という名の本の印象が強すぎて、ばらというと今もそちらを連想してしまう。(ただし私はそちらの気はありませんので、念のため。)そう言えば、本の表紙の絵を描いていた内藤ルネさんというイラストレーターは岡崎出身であったと記憶している。筋肉質で痩身の青年が半ズボン姿で一輪のばらを持ち、横顔で立っている絵が今でも思い出される。

第46回福山ばら祭

 話を元に戻すと、当初私は最終選考に残った5つの作品の中から岡崎市長賞を選ぶということで、一番大柄な花をつけていた白バラを選ぶつもりでいたのだが、隣から「こいつは肥料のやり過ぎだ」というつぶやきが耳に入り、近くの赤いバラを選択してしまった。後で同行の太田副議長も、岡崎市議会議長賞に赤バラを推したことを知り、そんなことなら白バラにしておけばよかったと思ったものである。こんなことで審査は決まるのであるから、選に漏れた方はあまりガッカリしないで下さいと言いたい。

葵武将隊 2013年5月19日

 市民まつりの会場に出かけてみると、今日もいました葵武将隊。前回の茅ヶ崎市のお祭りの時と同様、彼らの積極性とガンバリには頭が下がるが、武将隊は二人ではちょいと迫力不足な気がする(この日は水野勝成と稲姫の二人だった)。せっかく演武までさせるならば、三人以上でないと様(さま)にならないだろう。この点もう少し岡崎市としても考えなくてはならないと思う。
 昼食後、ばら公園のバラを横目で見ながら出発地点まで向かう。私は「天気男」でいつも通しているが、調子に乗ってそのことをブログに書いてから雨が続いている。これで二連敗だ。やはり、そういうことを文章にするとジンクスも途切れるのかもしれない。雨空を見上げながら少々責任を感じた。

福山市 ローズ・パレード

第46回福山ばら祭

 パレードはオープン・カーをやめて、バスで行うことになったが、少々の雨ならばオープン・カーの方が良かったと思う。途中から雨が上がっただけにこの点は残念であった。しかし、そんな天候にもかかわらず、ミッキーマウス・パレードや「ブルガリア共和国バラの女王」の登場もあって、沿道は人で埋め尽くされていた。いかにローズ・パレードがこの町の人々に愛されている催しであるかが分かる。
 パレード終了後、ばら公園内にある前岡崎市長が友好の印に送った「なかよしの像」を見に行った。よく目立つ所に配置されていたが、贈呈者名と説明が裏に彫ってあるため何のモニュメントだかよく分からない。そのせいか、隣に福山市の御配慮で白の解説板が立てられていた。これも雰囲気になじめず興醒めの感があった。
 茅ヶ崎市に贈呈された「なかよしの像」の前面下に贈呈市長名と説明が彫ってあった意味がこの時ようやく分かった。モノゴトは何でも現場に行って見ないと分からないものである。

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