« 佐久市訪問 その2(バルーンフェスティバル) | トップページ | オカザえもん騒動について その2 »

2013年5月28日 (火)

オカザえもん騒動について その1

岡崎アート広報大臣 オカザえもん

 いずれブログに書くつもりで機会を見ていたが、このところ、あまり各方面から賛否両論の御意見を頂くため、ここで一度「オカザえもん」についてしっかりと触れておこうと思う。
 私が初めてオカザえもんを見たのは、昨年11月、県市合同で開かれたプレ・トリエンナーレ岡崎会場のオープニング・セレモニーのときであった。テープカットが行われる前から周囲をうろうろしているけったいな着ぐるみの物体がオカザえもんという出品作品であることを、そのとき初めて知った。当初は学生がウケねらいでフザけてやっていることだと思っていた。なにせ「岡崎の〝岡〟の字をデフォルメしてそれを顔にし、白い体操服のようなものの胸のあたりにムナ毛と称して〝崎〟の字を配する」というあまりに安易な発想。しかも犬とも猫ともつかぬ変な顔であり、カワイらしさも感じられない。長身(180cm)で、黒ヘルメットのようなオカッパ頭?が妙な威圧感があるせいか、子供達も怖がって近づかなかった。私もまさかこれがプロの作家の手によるモノとは思わなかった(失礼)。
 次に出会ったのは、担当部局から「トリエンナーレがらみで一年限定ということで決まっておりますのでよろしく」と言われ臨んだ、「岡崎アート広報大臣・任命式」の席においてである。
 「思ったことを率直にコメントして頂いて結構です」という話であったので、「発想が安直でまるで高校生の文化祭のよう」と評したら一部から抗議の声が来た。「せっかく岡崎のためにガンバってくれているのに失礼だ!」というのである。
 その一方で、「一体、岡崎市は何を考えているのか? あのようにグロテスクで死神を連想させるモノを広報大臣にするとは! 誰が決定したのか? 審美眼とセンスを疑う! 怖がって泣く幼児の感覚こそ正しい!」という内容のお手紙を何通も頂いている。
 最後に認可のハンコを押したのはほかでもなく私であり、皮肉なことにアート広報大臣の決定者は私ということになるが、オカザえもんが浮上してきたことの経緯は今もってよく分からない。
 オカザえもんはおおむね50代以上の皆さんにはウケが悪いようだ。あのシュールで、生物でありながら無機質な感じの風貌に感覚的についていけないらしい。

 私も県会議員の頃、かつてのデザイン博のミミズのようなシンボル・キャラクター(もはや名前すら思い出せない)や、愛知万博のモリゾーとキッコロ(公表当初はまだ名前が無かった)のデザインにも不満があった。なんだか分からないうちに珍妙なシンボルキャラクターが決まってしまったのである。愛知万博のときはさすがに不評の大きさに気がついたのか途中から笑い顔のモデルもつけ加えるようになったが、私は当初のブキミなイメージのせいでどうしても最後まで好きになれなかった。
 あのようなものを製作して使うくらいなら、万博会場内にトトロの家まで作ったのだからスタジオ・ジブリに使用料を払ってもトトロをイメージ・キャラクターにした方がよかったと思う。またこの愛知県には、世界に誇る「ドラゴンボール」、「Dr.スランプ アラレちゃん」の作者であるマンガ家の鳥山明氏もいる。なぜそうした純国産で国際的認知度も高い才能を用いずに、奇をてらったヘンなモノを使いたがるのか、私には今もって当時の関係者の意図が分からない。
 どちらにしても、こうしたものの決定については、いつも不可思議なことが多く、判然としないケースが目につく。「それが芸術というものだ」と言われてしまえば返す言葉が見つからない。

 このところ巷(ちまた)で「内田市長はオカザえもんが嫌いだそうで云々」というようなことをよく言われることがある。確かに好きではないが、別に毛嫌いしているわけでもない。
 私はダリの絵画や人物像にも興味があり、本やDVDも持っている。であるから、決してシュールレアリスムを否定するものでもないし、あの不思議な世界観、それぞれの画家の個性的な作風も面白いと思っている。しかしそうだからと言って、デザイン博や愛知万博のキャラクターやオカザえもんのようなモノを自分の趣味や美意識を越えて理解する必要もないと思っている。第一私は芸術評論家ではない。ただの一愛好家にすぎないのである。

Pablo Picasso 1

 個人的な話であるが、私は、スペイン内戦の無差別爆撃に抗議の意を込めたピカソの大作「ゲルニカ」でさえ芸術作品と考えることができない。有名人である彼の政治的メッセージとしての価値は認めるし、ピカソが絵画、芸術の世界における新たな領域を切り拓いた巨人であることも理解できる。しかし子供の頃から様々な本や映像でその存在を知り(最初に知ったのは手塚治虫のマンガであった)、長じてから本物を見たこともある「ゲルニカ」などの作品と私の美意識が結ぶことはないのである。
 私はピカソの初期の作品は好きなものがある。例えばたまたま市長室の隣の第一来賓室に複製画が飾ってある「腕を組んで座る軽業師」の絵など、ウチの長男の横顔に似ていることもあり、気に入っている。しかし「ゲルニカ」などについて専門家はともかく一般の人が本当に理解しているとは思えない。ピカソというビッグネームの権威と何十億円という絵の価格に恐れ入っているだけとしか考えられないのである。そしてそういうふうにしか感じられない私の感性を古いという人がいても構わないし、変えようとは更に思わない。(つづく

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)

Pablo Picasso 2

|

« 佐久市訪問 その2(バルーンフェスティバル) | トップページ | オカザえもん騒動について その2 »

オカザえもん」カテゴリの記事