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2013年3月 4日 (月)

上様のおな~り Ⅱ

 先々月に書いた文章(「上様のおな~り Ⅰ」)を読み直してみて、ひょっとすると德川恒孝(つねなり)さんが今もまだちょんまげ姿で生活していると勘違いしてしまった人がいるかもれしないと思い、再びペンをとっている。

岡崎公園、徳川家康公像

 現在、德川恒孝氏は昭和15年(1940年)生まれの72歳。
 かつて会津松平家の次男であり、本来は松平姓であった。昭和38年に17代徳川家正氏(外祖父)の死去により、養子であった恒孝氏が第18代の当主になったそうである。恒孝氏は長身でスマートな紳士であり、もちろんちょんまげなど無い。
 平成15年から、財団法人「徳川記念財団」の理事長として現在に至っている。また、静岡商工会議所の最高顧問でもある。国内における徳川家にまつわる行事には積極的に出席されており、岡崎も家康公生誕の地ということで様々にお世話になっている。徳川家の当主としての祭祀の折には、正式に古来の束帯姿で威儀を正して東照宮などへ出かけられるそうである。以前は日本郵船に勤務されており、同社の副社長を経て、顧問に就任されている。

 若かりし頃の話で面白いエピソードがあるので、ひとつ披露させていただく。
 当時日本郵船には、加賀の前田家第18代前田利祐(としやす)氏が、本社の同じ部署に勤務されていたそうである。そのときの上司が、
「徳川と前田両家の当主を部下として使うのは、太閤秀吉以来、俺ぐらいのものだろうな」
 と笑ったという逸話がある。
 また、現在翻訳家として活躍してみえる長男の家広氏がベトナム人の女性と結婚したとき猛反対したという、世間でよくあるような話も聞いている。しかし最終的にはそれを認められ、開明的な判断をされる方でもある。奥様は寺島宗則伯爵の曾孫であり、元首相細川護熙氏のいとこだそうである。ちなみに熊本の細川家も出自は岡崎の細川町であるという。事実、細川首相が退任されたのち平成7年10月28日、細川町の蓮性院常久寺における法要にお見えになっている。そのときの記念碑もある。

 毎年春と秋に大平町で行われる大岡稲荷の祭礼には私も毎回出席しているが、大岡家の現在の当主が必ず東京からおみえになる。大岡越前公(江戸町奉行、大名)の第18代の大岡秀朗さんは私と同年輩である。現在メルセデス・ベンツ日本(株)の常務取締役で毎年一年の3分の1はドイツに出かけてみえる多忙な方であるが、よほどのことがない限り毎回岡崎にみえる。この人も東京風インテリ・イケメンである。大岡稲荷の改修工事の折には、多額の寄付をして頂いている。

 本多平八郎公につながる旧本多忠次邸を本市に寄付して頂いた本多家の皆さんは、今もよく家族で岡崎までおみえになることがある。子供のころ自らが暮らした家が、遠く父祖の地で再建されて活用されていることを大変喜んでみえたのが印象的である。お兄さんは学者のように物静かな方であるが、妹さんの本多葵美子(きみこ)さんは大変気さくで筆まめな方で、今もよくお手紙を下さる。口癖は「私は江戸っ子ですから」であり、さすが闘将本多平八郎の子孫である、全日本女子アマチュア・ボクシング大会において上位に入賞する猛者である。しかも学習院大学資料館の学芸員というインテリでもある。

 このほかにも商工会議所の出している観光ガイドブックにある「大名となった三河武士たち」の記事を見ると、江戸期に三河から60家ほどの大名が誕生しており、全国で活躍していることが分かる。
 こうして再び書いてみて改めて思うことは、徳川家康公が苦難の末に江戸幕府を開かれたことによって岡崎人の血が全国に伝わり、今日の日本人の考え方、行動、気質に三河的な影響を与える一因となってきたのではないかと感じている。私たちはもっとこの故郷と岡崎的なことを誇りに思ってしかるべきであると思う。

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