« うちの猫 Ⅱ -勇者キック- | トップページ | プロの技 »

2013年2月13日 (水)

「先生」と公用車について

 昨年12月に衆議院選挙が終わり、またたくさんの新人の国会議員が生まれた。
 今回はまだ耳にしていないが、毎回国政選挙が終わるたびにニュースとなる茶番劇がある。ことに新人議員に多く見受けられるのだが、
「私を先生と呼ばないでください」
 とか、
「うちの事務所では先生という言葉を使ったら、罰金1000円です」
 といった類いの流行である。
 流行り病(やまい)のようなもので、番たびこうしたことが言われるので聞いていておかしい。「先生」という言葉が社会階級的上位を表しているように感じられるため、そういうことを避けるほど「私は進歩的です」と言いたいらしい。しかし、毎回半年か一年もすればそんな話は雲散霧消してしまう。呼ばれている方も、いちいち「先生と呼ぶな」と言うことが面倒くさくなってきてしまうのである。
 さらに言えば「先生」という言葉が学校の先生やお茶やお華、踊りの先生の「先生」とは違って、たいして尊敬の念を込めて使われているわけではないことがわかって来る。
 「先生」という言葉は実に便利な言葉である。議員の名前が思い出せないとき、「先生」という呼称を使えば何とかなる。ふつう何百人もいる国会議員や各地方議員の名前をいちいちすべて覚えられるわけがなかろう。そこで「議員」とか「先生」という代名詞が活躍するのである。かつて、台湾観光に行った男の人が夜の街をうろつくと「シャチョーさん、シャチョーさん」と変なアクセントの日本語で呼ばれたアレと本質的には同じことであろう。

岡崎市 公用車

 公用車についても同様のことが言える。
 黒塗りの公用車というのが妙に反感を買いやすいのも、一種の社会階級の象徴と見られやすいからであろう。私のブログにもそんな意見が何度か来たことがある。公用車に対する感情的反発、階級的憎悪の入り混じった思いが込められているようであった。
 私も個人的には公用車など、どんな車であろうと何色でも構わない(赤はイヤだ)。
 以前「プリウスと私」で書いたように、車は靴や下駄のような移動の道具のひとつだと思っているからである。

 しかし、役所で「籠の鳥」状態でいると、実に不便である。ちょっと近所に行くだけで公用車を使用するのは気が引ける。
 そこで「自分用に役所にスクーターか自転車を置いては駄目か?」と訊いてみたところ、秘書課から即座にノーの返事が返ってきた。また、私が個人的に自分の車に乗って出かけることも役所は歓迎していない。私のような立場の人間がもし人身事故でも起こせば、すぐ進退問題になる。そのたびに選挙のやり直しをすることになれば、財政的にたまったものではない。それともう一つ、政治家というものは好むと好まざるとにかかわらず、敵対する勢力ができてしまう立場である。車でわざとぶつけられる可能性だってある。そんな安全確保の理由も含め、現在の公用車の制度ができているのであろう。

 それにしても、自分で車が運転できないというのがこんなに不便なことかと毎日感じさせられている。「空いた時間にちょっとそこまで買い物」ということができないのである。
かつてアメリカ人が燃費の悪い大型車を使う生活態度を世界中から非難されることがあった。だが彼らは一向に自分たちの生活態度を変えようとはしなかった。なぜならば大型車でいつでもどこへでも自分の好きなものを持って出かけることができるのが、彼らの自由の証であったからである。最近は経済的理由で日本車や小型の車を使う者も増えてきたが、車が彼らの自由の象徴であることは変わっていない。(ということは、やはり私には自由がないということだ。)

 ではなぜ公用車の多くに、市長や市議長にはクラウンやレクサスが使われ、県知事、県議長にはセンチュリーやシーマなどの高級車が用いられているのか?
 社会階級的な位置づけの意味合いがまったくないとは言えないが、使用する立場の人間が優越意識を持っているというよりも、世の中のシステムに起因していると言える。

 私が県会議長で、全国議長会に出席したとき、また、市長になって東海市長会に出たときも、まさにきれいに黒塗りのセンチュリーや黒のクラウン、レクサスのオンパレードであった。国庫補助がなければ年度予算の編成もままならぬような県や市の車まで、同一車種であった。この点には私も矛盾を感じないわけではないが、普段顔を合わせることのない多くの人々がいちどきに一箇所に集結するとき、警備上簡単なチェックでスムーズに身元確認が行えるよう、こうした形が定着してきたものと思われる。要するに、車の車種で識別しているのである。
 ときに黒塗りではあるが、低燃費のワゴン車を公用車として使っている自治体もあった。しかしそれらの車は止められてしっかり身元確認をされていた。こうした時間のロスも困りものである。しかもこうしたケースは低燃費車を使っているということを売り物とした、「私は環境問題に理解のある政治家である」という選挙向けのポーズであることが多い。

 繰り返すが、私は個人的には車は靴や下駄と同じで、道具のひとつにすぎないと思っている。
 もっとも公用車はこうした形ではあるが、一定量日本の高級車市場を支えているという経済的側面もある。もし、これを小型車に変更したとして果たしてどれだけの予算削減となるだろうか。逆に日本経済の柱のひとつである自動車産業にどんな影響が出るかも考えてみてもいいだろう。世の中には、一見無駄に見えて決して無駄にはなってないこともあるのである。

 しかし、だからと言って高級公用車を使用することを正当化する気もない。今使っている車が古くなったら、次は燃費のよいプリウスや、岡崎産の三菱自動車の新型プラグインハイブリッド「アウトランダー」のような車にしても構わないと私は思っている。

|

« うちの猫 Ⅱ -勇者キック- | トップページ | プロの技 »

思想と政治」カテゴリの記事