内田やすひろクロニクル 第4回 「愛知県会議員に初当選」
政治浪人中の私は、おじの会社に籍を置き、主に損害保険の部門を担当し、その間上級代理店の資格を得ることができた。また、設備会社であったおじの会社で現場の人手が足りないときには、学生時代にアルバイトをした経験のある私が現場の手伝いに出向いたこともある。おかげで、今もトラックや単車が運転できるし、簡単な家のリフォームは自分でできる。現に今も暇を見つけて家の改築をひとりでやっている。
元来土いじりや工作が好きな性分でもあり、良き同僚にも恵まれ、そうした期間を明るく過ごせたことは幸運であった。同時に貴重な社会体験を積むことができた時期でもあった。また、もの好きな女性と縁があり、結婚したのもこの頃だった。
昭和62年(1987年)4月。
7年間の雌伏の時を経て、県議選に出馬。大激戦の末、保守系候補者四人の内最上位となり、初当選した。
この時ほど人の情けや善意、ご支援の力をありがたく思ったことはない。
大きな挫折、失敗を乗り越えて私が政治への歩みを再開することができたのは、今は亡き多くの先達と岡崎市民の皆様の真心のおかげであります。変わらぬご支援を頂いている後援会の皆様、ご理解を賜っている市民の皆様に改めて感謝を申し上げます。
この当時自民党の総務会長であった安倍晋太郎先生がお忙しい日程をぬって、選挙の応援に来て下さった。中央政界の大物が自分の地元でもない県会議員の選挙の応援に来るのは、異例中の異例のことである。
その恩に報いるためにも、なんとしても勝たなくてはならないという気持ちになった。
また、秘書官をつとめておられた安倍晋三先生も、この選挙のために総決起大会、青年部の総会、そして選挙中と、3回も応援に駆けつけて頂いた。
真ん中の女性は、高校時代の下宿先の材木町の奈倉しゅんさんです。子供時代からずっとお世話になってきた方。年齢的には私の祖母と同じくらいであるが、「おばあさん」と言うと、
「子を産んだことのない女がなんでばあさんじゃ!」
と怒られる。旧制女学校の出身で、ドイツ語でシューベルトの「野ばら」を歌ったりする、文字通り「モダンばあさん」であった。私が東京で生活するようになってからも、ときどき電話がかかってきて、
「今晩9時からNHKの教育でキャサリン・ヘップバーンの『旅情』をやるから、見ておきなさい。あれは名作だから」
などと指示をされる。私の外国映画好きは彼女の影響もあると思う。
県議初当選から26年。
私の郷土愛、ふるさと岡崎のためにガンバロウという気持ちはますます強くなっている。(つづく)
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