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2012年9月27日 (木)

内田やすひろクロニクル 第3回 「安倍晋太郎先生の秘書になる」

 昭和53年(1978年)6月、イリノイ大学主催の第19回ヨーロッパ探求旅行に参加。日本人は自分だけだった。旅行終了後、フィンランドのヘルシンキからモスクワを経て、ソ連を単独横断、出発から3カ月後ナホトカ経由、船で横浜に帰る。実に三年半ぶりの帰国となった。
 帰国後、父の三度目の市長選を手伝ったあと、昭和54年(1979年)5月末より、当時竹下登氏、中川一郎氏、宮澤喜一氏らと共にニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎代議士(晋三・元総理の父)の秘書となる。福田派・清和会付きの秘書として全国遊説の随行役を担った。

安倍晋太郎先生と共に

 仕事を終え、安倍先生と遅い夕食をとっている一コマ。

 テレビや新聞でしか見たことのなかった、田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘といった大物達と毎日の様に顔を合わせ、後に〝三角大福時代〟、〝自民党戦国時代〟と呼ばれる激動の時代にかけがえのない政治体験をすることができた。
 当時、世田谷の安倍邸に来てみえた晋太郎先生の岳父、「昭和の妖怪」こと岸信介先生と何度かいっしょに朝食を頂いたことがあるが、緊張のあまりしびれた。今そんな政治家はいない。

 昭和55年6月。衆議院選挙(衆参同日選挙)に突如自らが出馬することになった。
 本来ならば、父が出馬するのが順当であったが、3回目の市長選挙を終えたばかりで岡崎の経済界から自重を求められていたようだった。現職の県会議員も県会の職を賭けてまで国政選挙にうって出る決断をされる方もなく、お鉢が私にまわってくることになってしまった。
 千賀代議士以来、三十数年間地元の代議士のなかった岡崎に、中央との独自のパイプを作ろうという気運の高まりに乗ってしまった形になった。今思えば、傍から見れば無謀な挑戦としか見えなかっただろう。

 準備不足の中、解散から33日間の総選挙を全力で戦うも、78,480票の御支援を頂きながら当選には至ることができなかった。悔しさと共に徒労感にまみれた選挙戦だった。

 その後選挙違反事件が起き、岡崎市民に多大なる御迷惑をおかけすることとなる。自らが関与していなくとも、こと志に反する不祥事に対するショックで政治への道を断念しかける。しかし、選挙違反事件に連座した市会議員の3分の2以上の方々が各地で私を励ます会を開いて下さった。
「君がここで志を断念するということは、自分たちがやってきたことがすべて過ちであったということになってしまう。くじけることなく、再起を期してほしい」
 と何度も励まされたものだった。
 そうした皆様の変わらぬ決意と熱心さによって、徐々に私の心も変わって来た。さらに多くの支援者の方々からの励ましと期待の言葉とお支えの力のおかげで、今日への歩みを再開することができました。感謝。(つづく

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コメント

小学生の時に、その選挙違反に絡み身内が逮捕されました。尊敬していた人の苦しむ姿、自分自身の辛さ、忘れられません。どれだけの関係者に励ましの言葉をもらったのか知りませんが、私にはできません。事件でご本人全てを否定する気はありませんが、いまだに「内田」と聞くだけで呼吸が苦しくなる人間もいることを忘れないでください。岡崎市長になられるなら(私は希望しませんが)尚更です。

投稿: いち岡崎市民 | 2012年10月10日 (水) 17時33分

ご意見ありがとうございました。
選挙違反に連座された方のお身内にそうしたご迷惑をおかけしていたことは、じゅうぶん承知しているつもりです。改めてお詫び申し上げます。
しかし、そのことが次の選挙までにわたくしが7年間もかかったいちばん大きな理由であります。(なかには「選挙違反は男の勲章」とばかりに平気で続けて選挙に出られる方もあります。)

当時の中選挙区制度の衆議院選挙では、保守の政治家は一般に同様のかたちの選挙運動をおこなっていたはずです。もちろん法的には違法です。
だからといって、許されるべきものとは思っていません。しかし政治の道を選択する人間はこの道を歩む以上、こうした可能性のあることは分かっているものです。わたくしも終生心の中に十字架を負って生きていくつもりでおります。

投稿: 内田康宏 | 2012年10月11日 (木) 21時14分

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