国際交流

2017年10月28日 (土)

友好都市・フフホト訪問記 5.日露戦争の地をゆく

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 今回、大連を訪問するにあたり、私がどうしても足を運びたいと希望したのが郊外にある203高地旅順港であった。ちょうど「友好の翼」で参加された皆さんの訪問コースとなっていたため同行することとした。ただし時間の都合で旅順港は山上からの見学となった。
 明治維新後の我が国の歩みの方向性を決めるターニング・ポイントとなったのは、この日露戦争における勝利である。白人の巨大国を破った有色人種の東洋の小国の存在は世界に大きな影響を与え、同時に日本の国際的地位を高めることになった。軍事的に自信を持った我が国の歩みは、この時に決したとも言える。

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 しかし、戦いに勝利したとは言え、その実態はアメリカの仲介による〝水入り〟の勝利であり、日本の払った犠牲はロシアを上回っており、講和時においてそれ以上の戦いを続けることは不可能であった。対してロシアは欧州に陸軍の精鋭部隊を残していた。日本海海戦における奇跡的な大勝利のイメージが強く、ギリギリの勝利であったことが忘れがちとなっている。しかもその日本海海戦の勝利も、203高地の奪還と、そこからの28センチ榴弾砲による旅順艦隊のせん滅により、バルチック艦隊と五分の勝負ができたことによるものである。
 もし203高地の陥落が遅れたり、奪還できなかった場合、生まれて間もない日本海軍はバルチック艦隊と旅順艦隊の合流した倍する敵と海上で相まみえることとなり、制海権を失った日本軍は増援も無く、大陸で孤立し、逆に欧州から送られたロシア軍に叩かれ、日本はロシアに隷属する運命となったはずである。そう考えると203高地の戦いは日本の運命を賭けた戦いであったと言えるのである。

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(二十八糎榴弾砲)

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 富士ファインの大連工場を訪れた私たちは昼食後、水師営(すいしえい)に向かった。ここは日露戦争における両軍の巨頭、乃木大将、ステッセル中将の会見の場であるが、現地はひなびたあばらやが建つのみだった。

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 玄関の小部屋の左右に、それぞれ10畳ほどの部屋が一つずつあるだけで、ボロボロの土壁の様子を見てもとても歴史的会見の行われた場所とは見えない。中に牛でも飼って農具が置かれていたとしても一向に不思議ではないたたずまいであった。現在は博物館として使われており、右側の部屋には写真と解説のパネルがあり、左側の部屋には戦いの遺品や書などが並べられてあった。そこにあるモノはすべて当時の本物であるということであったが、どうにもウソっぽい様子だった。懐中時計などは現在も動いており、しかもどれでも1個1万円で販売するというのである。それを聞いていかにもこの国らしい商売であると思った次第である。むろん本物ではあるまい。
 わざわざこの地を訪れるのは日本人ばかりであり、中国政府に日本帝国の勝利を記念する施設を整備する意志はなく、荒れゆくままである。しかも本物の建物は一度崩され、現存しているモノは似た建物を使って観光用に再建されたモノなのだそうである。「このままでは施設を維持できないので、寄付すると思ってオミヤゲを買ってくれ」と言うが、値段が結構高く、信憑性もあやしいモノが多かったので私は何も買わなかった。たとえ寄付したとしても本当に施設のために使われる保証すらないのである。

 次に山上の203公園に出かけた。かつての激戦地203高地は今は緑地公園として使われており、緑の山となっていた。現在山頂に残っているモニュメント、石碑、当時の大砲などは日本統治時代に整備されたモノがほとんどである。バスから降りて山頂まで20分ほど徒歩であるが、かなりの急斜面であり、年輩の方には厳しい行程であった。

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 映画でおなじみの戦場としての203高地は、度重なる戦いにより砲弾で耕された赤土山のイメージが強いのであるが、現在は緑の木々に覆われた行楽地となっている。砲弾と機関銃の弾を浴びながらこの急な斜面に塹壕を掘り、鉄条網を破りながら屍(しかばね)を越え突撃を繰り返したのである。
 ただ登るだけで息の切れる急斜面の上で、今から120年ほど前に血で血を洗う大激戦が行われたことを想像することは難しい。時の経過というのはそうしたものであり、すべてを過去のものとして記憶の彼方へ押しやってしまう。山頂からの眺めはただのどかな緑の広がりを見せるだけである。

 日本陸軍の司令官、乃木希典(まれすけ)大将は金州城の攻防戦で長男・勝典を亡くし、203高地の戦いで次男・保典も失っている。登頂の途中、次男の戦死場所に碑があると知り足を運んだが、道が崩れておりたどりつくことができず、その方向に黙とうをして戻ってきた。
 乃木大将は明治天皇の崩御に際し、妻と共に殉死しており、明治という一つの時代のために一家を捧げることになった。近代になっても武士の価値観を捨てられなかった、文字通りラスト・サムライの一人であったと言えよう。

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(乃木大将の妻と二人の息子)

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 元来、乃木大将は軍人というより学究的性格の強い人であり、後に学習院の校長となり、幼時の昭和天皇の教育係となっている。漢詩における素養は中国人の学者もうならせるものがあり、その作品は今日もなお詩吟としてうたわれ、書の題材となっている。
 またこの戦争は日本が初めて戦った近代戦であり、第一次世界大戦に先立って機関銃の洗礼を受けている。当時の日本軍の軍服は黒地であり、赤土山ではさぞ目立ったことだろうと思う。おまけに白ダスキ隊という決死隊を募って切り込み作戦を行ったのであるが、黒い軍服に白ダスキではまるで「ここを撃って下さい」と言わんばかりである。そんなことも想像できないほど当時の日本人は純朴であったのだろう。
 「国のために命を捧げる」精神を双手を挙げて讃える気はないが、現在の日本という国がそうした先人の献身の上に成り立ったものであることを私達はしっかりと記憶しておかなくてはならないと思っている。

 この訪問記の終わりに、日露戦争後、東郷平八郎司令長官によって読まれた連合艦隊解散の辞(秋山真之参謀起草)の抜粋でしめくくりたい。

 百発百中の一砲、
 能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、
 我等軍人は主として武力を
 形而上に求めざるべからず。

 惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、
 時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理(ことわり)なし。
 事有れば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、
 終始一貫その本分を尽(つく)さんのみ。

 神明はただ平素の鍛錬に力(つと)め、
 戦はづして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、
 一勝に満足し治平に安んずる者より直(ただち)に之をうばふ。
 古人曰く勝つて兜の緒を締めよと。

 近年になり発見され公表された資料を読むにつけ、日露の戦いに日本が勝てたことがまことに不思議に思われる。国力の差に加え、当時の人種間における偏見、今と変わらぬ大国間のパワーゲーム、そうしたものを再検証すればするほど改めて〝天佑神助〟という言葉を想起することになる。

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*連合艦隊について
 今の自衛隊もそうであるが、通常はそれぞれの決められた管区(ブロック)に分散して任務を担っている艦隊が、非常時(開戦時)に一隊となって行動する時〝連合艦隊〟と呼ばれる。(連合艦隊旗艦「三笠」の絵はウィキメディア・コモンズから拝借しました。)

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2017年10月24日 (火)

友好都市・フフホト訪問記 4.書道交流と富士ファインの挑戦

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書道家交流会
 大草原のパオ型ホテルから帰ってきた我々はフフホト市青少年センターで行われた書道家の交流会に出席した。この10年ほど、岡崎とフフホトの交流は、このところの日中間の国際関係の悪化と鳥インフルエンザ、狂牛病などの影響により滞っていたが、両市の書家の先生方の民間交流はしっかりと継続されていたのである。
 ニューヨークにあるグッゲンハイム美術館のように螺旋(らせん)状の坂道の壁面にしつらえた展示コーナーに、岡崎の子供達の絵や書と共に先生方の書も展示されていた。

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 旧知の間柄である書家の先生方の交流ぶりを端で拝見していて心暖まるものを感じたのは私ばかりではなかったと思う。簡単な式典と記念撮影の後、フロアに用意された墨(すみ)と筆により相互に記念の書を書くことになった。「お前さんも書け」と言われないかと冷や冷やしていたが幸いそれはなく、ホッとしたものである。

 現在この地の書道界の重鎮の一人となっている高延青(コウエンセイ)氏は元フフホト市の副市長で、友好都市提携を締結後、最初の訪問団として岡崎市に来られた方であり、私に対し「一衣帯水」と大書した書を揮毫(きごう)して頂いた。一衣帯水という言葉は、山岡荘八氏の小説『徳川家康』の冒頭に出てくる言葉であるが、現実の東アジア情勢はお世辞にも穏やかな海と言えないことは残念である。
 国家間における関係は時の政治事情によって左右されることもあるが、民間の友情や信頼関係がそうしたものを超えて継続できるということを、今回の書道家の皆さんの交流から教えて頂いた気がしている。

大連へ向けて出発
 フフホト市での公式日程を終えた私達は、予想外の雨とカミナリの中を空港へと向かった。日程を終えたあとの天候の変化は一向に構わないが、今回も概して天候には恵まれた旅となった。
 天候には恵まれたものの、この国の交通機関の正確性は相変わらずアテにならない。フフホトから北京空港へのフライトはまたもや1時間あまり遅れた。おまけに到着した北京空港では、パイロットがゲートを間違えたのか管制塔の誘導ミスなのか、旅客機に乗ったまま空港内を20分あまりドライブすることとなった。
 こんなことは初めての体験であるが飛行機で空港内をぐるっと一周したのである。そのため大連(だいれん)行きの便への乗り継ぎがギリギリとなってしまった。

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 さらに、これまで一度も時間どおりに飛んだことがなかったのに、今回の大連行きは時刻表どおりに飛ぶという皮肉な形となった。時間どおりと言っても、大連到着は午後11時過ぎであり、この国で余裕のある旅をすることはなかなか容易なことではないようである。

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富士ファインの挑戦
 訪中5日目となる翌朝、岡崎から中国に進出している富士ファイン株式会社の工場見学に出かけた。
 かつて岡崎から繊維関係の会社が何社も中国に進出したものの、相次ぐ法律の改正と中国政府の方針変更により、事業の継続を断念して撤退したという話を何度も聞かされたことがある。そのような経済環境の中、天安門事件で大揺れしている中国に進出を決定し、今日まで堅実な事業発展を続けてみえる富士ファイン株式会社の存在には、以前から強い関心を持っていた。

富士ファイン株式会社・大連工場

 富士ファインは旧名「富士電線電器」といい、工業用の銅線を製造してきた会社である。単に銅線を作るだけならば、どこの国でもできそうなことである。国家の都合でルールが変わる不安定な環境の中でこの会社が存続し発展してきているというのは、他の追随を許さない12ミクロンの銅線を作ることができたからである。12ミクロンというのは人の髪の毛の5分の1の細さであり、手に持っても、しかと分からない重さである。
 現在このレベルの銅線を安定した品質で作り出せる技術を持っているのは富士ファインを含めて世界中で2社だけであるという。この銅線を作るための銅も純度の高いモノが要求され、1キロ70万円するそうである。IT時代において小型で高性能のモーターが求められる中、この銅線は不可欠な存在であるという。この製品を作るための専用の工作機械をオリジナルな仕様で作り上げているそうである。

富士ファイン株式会社・大連工場

富士ファイン株式会社・大連工場

 そしてもう一つ、富士ファインが力を入れているのは人材の育成である。
 近年は本国日本においても若年労働者が長続きせず、「3年もたずに離職する者が多い」と言われる中、この会社では創業以来の熟練労働者が多いという。真剣なまなざしで作業に集中している大勢の若い女性労働者の様子を見て、中国人の伝統的生活様式(大家族主義)を理解しながら、働く人ひとりひとりを大切にし、個々の能力を的確に判断し、適材適所の仕事を与えてその能力を伸ばしていることに成功の秘訣があるように感じたものである。 (つづく

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2017年10月20日 (金)

友好都市・フフホト訪問記 3.ランブル草原にみるモンゴルの生活

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歓迎夕食会
 フフホト到着2日目の夜、ホテルの大ホールで歓迎夕食会が開かれた。
 4月に先方が岡崎にみえた時は、相互に提携30周年のお祝いの挨拶を述べ飲食を行うという簡単なものであったが、その夜のフフホト市側の歓待ぶりには恐れ入ってしまった。馬頭琴の名手の演奏に始まり、民族衣装を着たお嬢さん達の集団演舞やプロ歌手の独唱等々盛りだくさんのものであった。答礼として訪問団で日本の歌を合唱したが、こんなことなら誰か〝宴会男(女)〟を連れて来るべきであったと後悔したものであった。

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 中国の宴会での困りもの(?)が「乾杯」である。全員で行うものばかりでなく、個別に何回も杯を上げるのである。左手に杯を持ち、右手の薬指の先を酒に浸して「天の神様」「地の神様」「御先祖様」へと、それぞれ上、中、下へ指先の酒をはじいてから杯の酒を飲み干すのである。これにまともに付き合っていたら、たちまちダウンである。40度を超える中国の地酒の乾杯作法には私のような下戸はとてもついて行けない。幸いこの点は我が訪問団の原田議長はじめ、酒豪の皆さんに助けて頂くことができた。

大草原ツアー
 3日目は早朝にホテルをチェックアウトし「大草原ツアー」に出かけることとなった。フフホトから車で3時間程の地にランブル草原はあった。
 地平線まで緑のじゅうたんが敷きつめられたような景観の一角に、パオを模した観光客用のバンガローが立ち並んでいた。

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 遠目にはパオのように見えるが、近づいてみると1棟ごとに個別に建てられたコンクリート製の小ホテルとなっている。見た目はきれいで窓も大きく近代的な整備も備えているが、電化製品の故障やドアのロックの不具合が特別なことではないというのがいかにも大陸国家中国的であると言える。
 バンガロー型ホテル群には牧場が併設されており、牛、馬、羊に加えてヤギやアルパカなども飼育されていた。

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 10メートル四方に囲われたヤギのゲージに私が近づいたところ、他の動物達とは異なりヤギが逃げ出した。なぜかと思ったが逃げ出す訳である。観光客が来る度に自分達の仲間が1~2匹ずつ消えてゆくのである。正に〝イケニエのヤギ〟である。我々が隣のパオの中でミルクティーを振る舞われ、民族衣装を着てハシャイでいる裏手では逆さ吊りにされたヤギが解体されているのである。
 どうも肉を常食とする民族と、焼き肉やステーキを食すようになったとはいえ、その根(ルーツ)が草食系である我々とは感性において違いがあるようである。

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 その後、草競馬を観戦し乗馬を楽しむことができた。
 そして再び、モンゴルの伝統的な大宴会である。こちらも隣接したホールの中でモンゴルの王族・高官の衣装を着て宴席に臨む、というショーアップされた近年始まったばかりのサービスであるという。
 屋外・屋内ともにモンゴル系の若者達による民族舞踊が続けられた。それにしてもモンゴルの踊りは中国や東アジアの踊りと比べてもハイテンポで軽快な、現代的なものであった。かつてユーラシア大陸を席捲したモンゴルの騎馬軍団のあり様と相通ずるもがあるような気がする。

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 とかく王族の軍装は、その権威を示す意味もあって装飾的で頑強であり、しかも重く、騎馬による戦いに合った軽く動きやすいモンゴルの軍装とは対照的であったと言われている。そのため騎乗して弓を使った速攻を行い、高速移動しながら戦うモンゴルの戦法に太刀打ちできなかったのである。しかも彼らは引くと見せかけて、追う敵に対し馬上、弓の背面撃ちをするといったテクニックを持ち、相手側の被害はより大きくなった。高速性を維持するために戦士達はそれぞれ複数の馬を用意し、戦いに臨んでいたという。
 暇な学者がいるらしく、チンギス・ハンの正式な妻、愛人、征服地においてできた子供やその子孫について調べたところ、彼のDNAを引き継ぐ人間が全世界におよそ1600万人ほどいるという。全モンゴル兵についてまで研究が進めば、人類の何割かはモンゴルの血が入っているであろうことが予想される。

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 ホール内で主席に案内された私と妻はモンゴル王と妃の衣装を着させられることとなったが、これがまた重く暑苦しいシロモノであり、座っているだけでも難行苦行であった。おまけにその格好で場内を一周して、ホールの中央に皿に乗せられて出てきたヤギの首を切るように言われたことには閉口してしまった。
 代表として貴重な体験ができ、大変思い出に残るものであったが、次回は副市長に来てもらうことにしようと思っている。 (つづく

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2017年10月17日 (火)

東海愛知新聞『友好都市 呼和浩特訪問記』のお知らせ

『東海愛知新聞』2017年10月17日

 ブログと平行して、今日から東海愛知新聞にフフホト市、大連市、旅順の訪問記の連載を始めます。全5回の予定です(10月17日~21日)。お読み頂けたら幸いです。

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2017年10月16日 (月)

友好都市・フフホト訪問記 2.フフホトの歴史と新たな歩みへ

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 前日の日程の変転に疲れ果てていた私はシャワーもそこそこにホテルの自室で朝まで熟睡してしまった。翌朝カーテンを開けると心地良い大陸の青空が広がっていた。
 フフホト市の近代的な外観の市街地をバスで移動しながら、古都の風情の残る大召寺(だいしょうじ)へと向かった。近代的な外観と書いたが、建設中の建物を観察するとコンクリート柱の中の鉄筋の本数の少なさに驚かされる。壁面の施工は、レンガ積みの壁に金網を張り、その上にコンクリートを吹きつけた程度の工法であった。地震の心配のない所ではこんな建築方法が許可されるものであることを知った次第である。

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フフホトの歴史
 よく間違えられるが、内モンゴル自治区は中華人民共和国の5つある自治区の一つであり、モンゴル国とは別物である。内モンゴル自治区の省都であるフフホト(呼和浩特)市は北京の北西にある大都市であり、空路1時間半を要する。
 フフホトとはモンゴル語で「青い城」という意味である。16世紀にモンゴルの部族長アルタン・ハーンによって、流入してきた漢人達をまとめて移住させるために建設された中国式の城郭都市・バイシン(大板升)が町としての始まりと言われている。バイシンは中国語で〝百姓〟の意であり、生来、遊牧生活をするモンゴル人が定住生活をする漢人達をバイシンと呼んだことに由来する。その後、明代となり、フフホトは中国のモンゴル高原に流れる物資の集積地となって栄えてきたのである。
 アルタン・ハーンは晩年、ダライ・ラマに帰依してチベット仏教に改宗したため、フフホトには数多くチベット仏教の寺院が建立されることになった。大召寺はその中心的寺院の一つである。チベット仏教は自己の解脱を目指す小乗仏教の流れをくむものであるが、同行された神戸峰男先生(家康公騎馬像の制作者)によると、「大召寺は真言密教の北の終着地であり、東の終着地が空海によって建立された高野山金剛峯寺である」とのことである。

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(神戸峰男先生ご夫妻とともに)

 神戸先生は草原をかける馬の姿を確認するために、今回のツアーに参加されたのであるが、いわゆる〝汗血馬(かんけつば)〟はこの地の馬のことでもある。皮膚が薄いため鞍とこすれて血がにじむことがありその名の由来となったという。

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 私は仏教に詳しい訳ではないが、チベット仏教が中国の北端の地に息づいていることに不思議な感慨にとらわれていた。
 大召寺の前面には、いわゆる寺前商店街が広がっており、昔日の中国の街並みを伝えていた。古物商を兼ねたお土産もの店が建ち並ぶ中、面白いモノを発見した。どう見ても猫のものとしか見えない毛皮が売られており、聞けば「山猫」であるという。

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 どうやらこの辺りでは家の中にいれば〝飼い猫〟であり、外を歩いていれば〝山猫〟として毛皮に化けるようである。あとで家に帰ってから三匹の猫たちに「お前達、日本生まれでよかったな」と言いながら背中をなでてやったが、中国の山猫の毛皮と同じ感触であった。

伊利グループ
 大召寺訪問の前の経路で、地元の代表的企業である「伊利」グループの本社工場を訪れた。日本での知名度はないが、中国では主要な乳製品メーカーの一つである。その前身はフフホト回民食品工場(回民とは中国にあるムスリム・イスラム教団のこと)であり、現在は牛乳、アイスクリーム、ヨーグルト、粉ミルク等の乳製品を全種生産する大企業となっている。「伊利」グループの食品はアテネ五輪(2004年)以来、中国代表団の指定乳製品となっており、2016年の中国最強企業500社に選ばれた内モンゴル企業7社のうちのトップ企業である。

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 乳製品と言えば、来日中国人の爆買いの目玉商品の一つであったが、当時から「伊利」は環境問題、衛生問題を重視した経営を行っており、食品の安全性を第一とした経営姿勢は国際的にも評価を受けている。「中国ブランド」として国際競争力を備えた企業であると言える。
 ちなみに私達が視察した工場の管理システムは日本の最新鋭の機器を導入して運営されていた。常温で3ヶ月持つという長寿命ヨーグルトが意外においしく、私はオミヤゲとして持ち帰り、つい先日も飲んだところである。

友好提携30周年の調印式
 午後からはフフホト市役所を訪れた。
 社会主義国の常として、官公庁の建物の立派さには驚かされる。大理石で囲まれたホールに立つと、まるでどこかの王宮か博物館かと思えるほどの豪華さであった。市役所の会議室で再び友好提携30周年の覚書調印式が行われた。地方都市の友好調印式であるのにTVカメラやマスコミ関係者(?)が多く、またビックリであった。

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 その後場所を移し、友好20周年の時に前市長が送った雪見灯籠を見たが、上部が壊されていることが分かり早々に修理させて頂くことにした。今回は岡崎の新進気鋭の女性石工、上野梓さんの手による「平和の鳩」を寄贈させて頂いたが、今後は壊されることのない両国関係が続くことを祈るばかりである。 (つづく

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2017年10月13日 (金)

友好都市・フフホト訪問記 1.到着まで

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フフホト市友好都市提携30周年
 7月2日(日)早朝、岡崎市と友好都市提携30周年を迎えた中国・内モンゴル自治区の呼和浩特(フフホト)市訪問に出発した。6日間でフフホトのほか、大連と旅順も訪れることとなっている。
 このところ鳥インフルエンザの流行と日中関係悪化の影響もあり、両市の相互訪問交流は途絶えていた。今回の訪問は、友好提携30周年を記念して〝春の家康行列〟にフフホト市副市長はじめ20名ほどの訪問団の参加を受け、その答礼の意味を含めて行われたものである。

家康行列・フフホト市提携30周年記念使節団

(フフホト市提携30周年記念使節団、家康行列、2017年4月9日)

 通常の姉妹都市提携のあり方というのは、同規模で、何らかの共通的産業基盤、地理的あるいは歴史的共通性のある都市間で交わされるものであるが、フフホト市は人口307万を有する、名古屋市よりも大きな都市である。しかも経済的にも安定した美しい街であり、毎年行われる全中国の「住みたい都市」アンケートの上位の常連だそうである。そうした都市と友好都市関係にあることは、岡崎市としては大変名誉なことであると思う。
 今年は内モンゴル自治区成立70周年という年にもあたり、「できれば式典を行う8月にも来てほしい」ということであった。名称は自治区であり、成立時はモンゴル人や満州人が多かったそうであるが、都市の発展とともに国策として漢人の流入が進められ、現在では全人口の90%が漢人で占められている
 なお、これは中国における他の自治区も同じ傾向であり、政策的にいずれチベットやウイグルの自治区も同様の道を歩むものと思われる。多民族国家における統治と国家運営のあり方については歴史的経緯、文化的・宗教的問題もからみ、一つ間違えると内乱の可能性を含むものであり、そうした問題のない我が国をありがたく思うものである。

出発
 出発前日、7月1日は岡崎市制101周年の市制記念日であり、式典行事に忙しく、加えて母の四十九日の法要も重なり、中国行きの荷造りを始めたのは夜になってからのことであった。そうしたあわただしい出発となったこともあり、通常のような訪問前の下調べ、資料整理を行うこともできず、報告記事の掲載が遅くなったことをおわび申し上げるものである。
 今回のフフホト訪問団は、公式訪問団に加え、長年フフホト市との交流のある書道家代表の皆様を含む国際交流協会の「友好の翼」のメンバー総勢39名という規模となった。

 中部国際空港(セントレア)からフフホトへの直行便が無いために北京空港で国際線に乗り換えた。中国では入国・出国審査ともに厳格であり、時間もかかる。ことにこのところの中国の対外拡張路線に起因する各国の対中国政策への不満に加え、習近平主席の強硬政策への反発によるテロを警戒した対策のためか、必要以上に警備が厳しくなっているようであった。ただでさえこの国の飛行機の発着時間は正確さを欠く。先行きに不安を感じさせられる我々であった。
 その心配どおり、北京では乗り換え時間が3時間もあったにもかかわらず、出発はさらに1時間半遅れることになった。しかも都合5時間近く待ち、ようやく国内線に搭乗してから飛び立つまでにさらに1時間近く待たされたのである。その間何の説明もなく、おまけに燃料節減のために空調もストップされ、機内は蒸し風呂状態となっていた。しかも乗客が要求するまで飲み物(水)さえ出されなかった。
 概して中国に限らず、社会主義国のシステムとはこうした傾向が強いものであるが、この国ではそもそも「お客へのサービス」という観念が欠落していると感じたのは私ばかりではないだろう。

 かくして、中国のカオスの世界(?)に入った我々がフフホトに到着したのは夜の10時近くとなり、ホテルのレストランでの予約時間を3時間も過ぎていた。それでも我々がちゃんと夕食にありつくことができたのはフフホト市当局の特別な配慮のおかげと感謝している。 (つづく

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2017年7月12日 (水)

岡崎の海外交流事業 その2(中学生派遣団)

岡崎市中学生三大陸派遣団

 現在本市は、アメリカ・カリフォルニア州のニューポートビーチ市、スウェーデンのウッデバラ市と姉妹都市提携を、中国の内モンゴル自治区のフフホト市と友好都市提携を結び、交流を続けている。
 数年前の鳥インフルエンザの流行と近年の対日関係の悪化の影響でしばらくフフホト市との交流が途絶えていたが、友好都市提携30周年を記念して、今年はフフホト市代表の方々の家康行列参加に続き、この7月に友好の翼訪問団(岡崎市国際交流協会)の皆さんと共に私もフフホト市を訪問してきたところである。

家康行列・フフホト市提携30周年記念使節団

(家康行列・フフホト市提携30周年記念使節団)

 これら三つの都市とはかねてより、毎年中学生の交流事業も行われていたのであるが、現在はニューポートビーチとウッデバラの2市との交流となっている。決して中国を軽視している訳ではないが、「中学生が英語を学んでいることを考慮し、欧米文化圏との交流が効果的」という教育現場の意見を受け、今年度からは「中学生三大陸国際理解教育推進事業」として、新しくオーストラリアの東岸、メルボルン郊外にあるウィトルシー市(Whittlesea)への訪問が開始されることとなった。

 毎年、派遣前と帰国後に中学生派遣団の結団式と帰国報告会が行われ、各中学校の代表となった生徒の抱負の表明と体験談の発表が行われている。
 さすが全市の中学生の代表として選ばれた生徒さん達だけあって、それぞれ論理的でしっかりとした物言い、自信の満ちた顔つきでの意見発表に毎年感心させられている。(私は中学時代、とてもこんな立派な中学生ではなかった。) 中学生の交流はニューポートビーチが35回、ウッデバラは13回目を迎えている。今年度からウィトルシーの中学校との交流を開始する。ニューポートビーチとウッデバラには9月下旬から9日間、ウィトルシーには10月下旬に訪問予定となっている。
 OBの中には中学生時代の経験が元となり、外務省に入省してスウェーデンに派遣されたり、民間企業で海外に活躍している人達も多い。岡崎の中学生のさらなる躍進を期待している。
 以下は5月16日(火)に行われた派遣団結団式での市長挨拶である。


 皆さんこんにちは、市長の内田であります。
 岡崎市全中学生、10,758人の代表として、アメリカ・ニューポートビーチ市、スウェーデン・ウッデバラ市、そしてオーストラリア・ウィトルシー市の派遣団員に選ばれた皆さん、おめでとうございます。また、保護者の皆様にも心からお祝いを申し上げます。ただいま、派遣団員一人一人から力強い抱負を聞くことができました。さすがに各学校のリーダーであり、すばらしい交流をしてきてくれるものと確信いたしました。

 ニューポートビーチ市への訪問は今年で35回目となります。同市は温暖な気候に恵まれ、市の周辺では航空や通信などの先端技術産業が盛んな、洗練された街です。33年前、両市のローターリークラブや中学生の交流をきっかけにして、姉妹都市の提携をしました。皆さんの先輩が岡崎市とニューポートビーチ市を結びつけたのです。私も3年前に30周年を記念して議会・市民代表の方達と訪れましたが、派遣団の皆さんはこの交流を通して、歴史のある友好関係をさらに深めてほしいと思います。

 また、ウッデバラ市への訪問は今回で13回目となります。スウェーデンは世界の中でも福祉国家として知られています。その中でもウッデバラ市は都市環境整備や自然保護に力を入れている大変魅力的な都市であり、姉妹都市提携を結んで49年という長い歴史があります。
 私は今から38年前、アメリカ留学の後、アメリカ人の学生達とヨーロッパを周遊し、その後一人でソ連邦(今のロシア)を鉄道で横断して日本に帰国しました。その折にウッデバラを訪れましたが、港のある美しい町でした。
 派遣団の皆さんも見学や様々な体験を通して、より一層視野を広げてきて下さい。

 さらに本年度より、オーストラリアのウィトルシー市への訪問が始まります。この町は住宅が建ち並ぶ一方で草原も広がる田園都市であり、交流する学校は第一外国語として日本語教育に力を入れていると聞いております。お互いの母国の言葉を教え、学び合える、素晴らしい交流になると思います。
 今回の訪問は先発隊として現地調査に出かけた先生方のおかげで始めることとなりました。第1回目の訪問をされる皆さんが今後のカギを握ることになりますのでよろしくお願いします。

 これからますますグローバル化が進み、皆さんが社会に出る頃には、英語の力、豊かな国際感覚と多様な価値観がより求められる世の中になっていることでしょう。皆さんもこの派遣事業を通してできるだけ多くのことを学んで、それを肌で感じ取ってきて下さい。訪問先の文化を理解すること、私たちの文化を伝えることを通して、国や言葉が違っても協調できることを体験してほしいと思います。将来必ずその体験が生きる時が来ます。
 そして、今後ますます国際化社会で活躍する子供が、ここ岡崎から育っていくことを願っています。
 最後に、岡崎市の中学生を代表する派遣団の皆さん一人一人が国際人として大きく成長できることを期待しております。今回の訪問が将来につながる思い出となることをお祈りします。元気で行ってきて下さい。帰国報告を楽しみにしております。


岡崎の海外交流事業 その1(サウスカロライナ大学2017) (2017.07.08)

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2017年7月 8日 (土)

岡崎の海外交流事業 その1(サウスカロライナ大学2017)

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 アメリカのサウスカロライナ大学から、ビジネス・スクールの学生を中心に20名ほどの訪日研修団が、5月16日(火)に岡崎市を訪問した。サウスカロライナ大学との交流事業も今年で4回目となる。(→以前のブログ「岡崎の国際交流 その1(サウスカロライナ大学2015)」)

 この事業は、私の高校時代の同級生であり、水泳部の仲間であった榊原祥隆(よしたか)氏が同校の教授をしていることから、私が市長となったことを切っ掛けに始まったものである。
 首都・東京、古都・京都、産業首都・名古屋、トヨタ自動車の組立工場の視察(産業観光)を行うと共に、榊原氏から「ぜひ自分の古里を教え子達に紹介したい」という要請を受け、毎年本市で対応している。(なおトヨタ自動車の工場見学については、例年、太田俊昭市議にお世話になっており、感謝申し上げます。)
 特に昨年と今年は同大学の学長から感謝状を頂くまでの交流となっている。

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 毎年、議長と共に議場で学生さん達をお迎えし、歓迎の挨拶、お礼の挨拶の後、日本の地方自治体の一例として岡崎市役所の様子を見てもらい、続いて岡崎城、家康館、八丁味噌蔵などを見学してもらっている。
 一昨年はできたての東公園の恐竜達が大受けであったが、今年は時間の都合で割愛することとなり大変残念であった。もし岡崎市に十分な対応のできるホテルがあれば、岡崎で多くの時間を確保できる訳であり、またしてもシティホテルの新設の必要性を感じさせられることになった。

 毎年「ようこそ大人の子供部屋へ」と言って、市長室への訪問を行っている。私のアメリカ留学時代の写真やクリントン大統領就任式参加の写真を見せながら、飛行機や恐竜の模型をながめて毎年歓談している。彼らにはお土産として英語版の岡崎市のPR・DVDやパンフレットを送り、帰国後の岡崎市の紹介をお願いしている。

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 今はただの一学生かもしれないが、将来彼らの中から重要な仕事に就いて日本と関わりを持つことになる人が出るかもしれない。そんな時、今回の訪日や岡崎のことを思い出してくれたらと思っている。何せ若い頃世界を渡り歩いていたような女性から大統領(オバマ)が生まれる国である。十分その可能性はある。
 学生アンケートの結果、人気訪問先の一つが市長室であるといううれしい話も聞かされており、私が市長である限り続けて行きたいと思っている。


岡崎の海外交流事業 その2(中学生派遣団) (2017.07.12)

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2015年6月11日 (木)

岡崎の国際交流 その2(姉妹都市交流)

姉妹都市中学生使節団・合同結団式(2015年5月25日)

 現在、岡崎市は海外3都市、国内5都市とそれぞれ都市提携をしている。アメリカのニューポートビーチ市(カリフォルニア州)とスウェーデンのウッデバラ市とは姉妹都市提携を、中国・内モンゴル自治区のフフホト市とは友好都市提携を結び、相互友好訪問事業を続けている。
 ニューポートビーチ市は昨年、提携30周年を迎え、春の桜まつりの時に訪日団をお迎えした。

The Newport Beach Sister City Delegation (April 7, 2014)

 そして秋には私、議長、市議有志、商工会議所会頭、国際交流協会会長を含む、30人程の訪米団で友好訪問した。

ニューポートビーチ市訪問(2014年10月)

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 その際には、現地で式典を行い、家康公顕彰400年を記念した家康公の石像を寄贈した。先方からも中央総合公園に記念植樹とベンチのある景観を造って頂けることとなっている。
 なおフフホト市とは、鳥インフルエンザ発生の影響もあってこのところ相互訪問が途絶えているが、米・欧の両市については現在も毎年中学校の生徒の代表20人程が相互に訪問しホームステイを行う関係が続いている。
 つい先日(5月25日)、岡崎市側の結団式が行われ、中学生代表の力のこもった決意表明がなされたところである。まず6月から7月にかけて、ニューポートビーチ市からの使節団を受け入れ、本市からの使節団の派遣はこの秋に行われることとなっている。ウッデバラ市においては、同じくこの秋、両市の使節団がそれぞれ訪れることになっている。

 若い時に異文化に触れるのは貴重な体験であり、感受性の豊かな若者達が自らの文化や生活習慣とは異なった考え方、生き方があることを知り、またそれと同時に人種や宗教が違っても同じ人間であるということを体感してもらうことは、日本の社会にとって重要なことであると考えている。
 さしたる天然資源も無い、孤立した島国である我が国は、外国との友好関係無しには国家の存立維持が難しいという宿命がある。国際的センスと国際関係の本質を読み解き、国のカジとりを誤らない人材を育てることは、将来の国家存亡にも関わる重要課題であると考えている。
 現実に岡崎の試みは様々な成果をもたらしている。かつての中学生訪問団のOBの中には、その時の体験が切っ掛けとなって外交官となり、スウェーデンのストックホルムにある日本大使館に赴任している人もいる。
 また以前、本市にも教員の海外研修制度というものがあったのであるが、長引く景気後退による財政的影響もあり、こちらの方はこのところ途絶えているように聞いている。子供達を教育する先生方には、できるだけ大きな視野を持ち、多様な考え方を理解してほしいと考えている。今後何らかの形で海外研修システム制度を復活させたいものと思っている。

 県会議員時代、私は「教員採用試験において、青年海外協力隊に参加したような人材は、加点ポイントを設けて優先的に採用してほしい」と常々申し上げてきた。
 単なる知識の伝達者ではなく、子供達に夢を語り、希望を与えてくれる教員になってもらいたいと思うものである。昨今頻発している社会的凶悪事件、陰湿なイジメや救い難いほど自己中心的な考え方の人間の増加を見る時、単に教科を教えるだけの教ではなく、人生の師となる教の育成ということも重要である。
 海外研修や海外体験だけがその解決策になると思うほど単純な考え方を持っている訳ではないが、様々な海外交流の機会を設けることによって、世界の多様性を知り、考え方の柔軟性を養い、型にはまった思考にとらわれない人材の育成ということが、子供、教師共に必要であると考えている。

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2015年6月 8日 (月)

岡崎の国際交流 その1(サウスカロライナ大学2015)

The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 昨年に引き続き、今年も米国サウスカロライナ大学の学生訪問団をお迎えすることとなった。これは私の高校時代の友人で、同じ水泳部仲間であった榊原祥隆(さかきばら よしたか)氏が主催するもので、同大学で教鞭を執っている榊原教授が昨年ビジネス・スクールの学生達を中心に訪日学習ツアーを催したことに始まる。
 日本では東京、京都、愛知と訪れ、主に定番の観光コースを巡ることになるが、愛知県においては名古屋、瀬戸、豊田、岡崎が訪問先に組み込まれている。これからは歴史や文化ばかりでなく、産業というものも日本観光の一つの売り物となる訳である。今回も、産業観光に先進的に取り組んでいるトヨタ自動車の組み立て工場とトヨタ博物館を訪れている。仲介の労を取って頂いた太田俊昭市議には大変感謝している。

 榊原教授はじめ17名の訪問団は、5月19日(火)、トヨタ自動車訪問後午後1時に岡崎市役所に到着した。昨年同様、学生さん達には市議会の議員席にお座り頂き、私共は議長と一緒に理事者席(注・議長席の左右の席のこと)でお迎えすることとなった。それぞれ歓迎のあいさつ、御礼のあいさつを済ませてから議場で記念撮影を行い、その後市役所内を見学しながら市長室まで御案内した。

The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 前回もそうであったが、学生達は室内の飾りモノや写真に興味津々の様であり、私が出席したクリントン大統領の就任式の写真や、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ブッシュ大統領夫妻(第41代)、安倍晋三総理との写真を眺めながら様々に質問をしてきた。
 私もアメリカ留学時代の写真を披露しながら忘れていたエピソードを思い出すことができ、大変なつかしい一時を過ごすことができたものである。

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内田康宏

 現在もアメリカ全土を網羅する長距離バス・ネットワークが存在するかどうか定かではないが、私が滞在していた38年程前にはグレイハウンド社の連絡網を中心にアメリカ全土を巡るルートが完備されていた。当時私は〝アメリ・パス〟という乗り放題バス・チケット(2週間・1ヶ月・2ヶ月)を使い、長期休みの間日本に帰らず、全米一人旅を繰り返していた。
 アメリカ人の上層階級は決してバス旅行などやらないが、この国の社会と人種の縮図をかいま見るためには良い経験であった。イナカ回りのコースでは気のいいアメリカ人と知り合いになれた。都市に近づくと急に黒人の割合が増え、南部に行けばメキシコ系の人々がどっと乗ってくるという具合であった。私のいたインディアナ州から西海岸へ向かう3日半の間、車窓の風景はトウモロコシと小麦の畑がどこまでも続いていた。「よくもまあ、こんなデカイ国を相手にケンカをしたものだ」と思ったものである。またその一帯は竜巻(トルネード)の名所でもあり、それも窓から見ることができたものだった。

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 シーズン・オフのイエローストーン国立公園に一人レンタカーで乗り込んだ時の話は学生達にバカ受けであった。時に私は、一般のアメリカ人が行かないようなところへも足を運んでいる。夜まで走ってもホテルが見つからず、滝のそばで野宿をしようとしたら、そこがグリズリー・ベア(灰色熊)のエサ場であったことや、真夜中の月明かりの下でコヨーテの遠吠えを聞いたことも、なつかしい想い出である。公園と言ってもイエローストーンは北九州エリアほどの広さがあり、各所に間欠泉が噴き出しており、野生の動物達とも遭遇する山岳地帯である。景色を眺めながら一人サンドイッチをほおばっていたら、周りにリスや鳥が集まってきて白雪姫状態になったことがある(ホント熊でなくてよかった)。その頃の私は刃渡り12センチくらいのナイフを腰にぶら下げていた。森の中で頼りになるのは自分ひとりであったからだ。今も当時の風景が夢に出てくることがある。

 私のイスの背後にかけてある犬の写真(アル)に気づいた女の子達から質問を受け、うっかり「彼は嫁さんより大事な犬だったんだけれど、去年17歳半で亡くなってしまい、僕は未だに立ち直れないんだ」と答えてしまった。「しまった! 彼らはアメリカ人だった」と思ったが、意外にも「その気持ち、よく分かる」と慰められた。愛犬家の心情は国境を越えるものであると分かった次第である。

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The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 学生の中には美術の知識を有する者もいて、飾ってあるピカソの絵(腕を組んで座る軽業師)を見て、「これは本物ですか?」と訊いてきた。「本物なわけないじゃないか。本物だったらこのビルが買えるよ」と言って大笑いとなった。
 その後彼らは岡崎城、並びに岡崎公園と八帖味噌蔵を見学し、東公園の恐竜達と対面してセントレアより帰途についた。

恐竜モニュメント(岡崎市東公園)

 後ほどアメリカから届いた礼状によると、まもなく映画『ジュラシック・ワールド』が公開されることもあって、東公園の精巧な恐竜モニュメントは大好評であったということである。

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 彼ら一人一人にはオミヤゲとして岡崎のパンフレットと共に観光DVD(英語)をプレゼントし、「帰国後、一人でも多くの知人・友人に見せてPRして下さい」とお願いしておいた。そんな小さな積み重ねが観光岡崎への一助となることと思う。アユの放流のように、彼らの中から日本に興味を持った者が再び来日したり、日本と関わりのある仕事に就く者が現れたりするかもしれない。日本に対して親近感を持ってくれるアメリカ人が一人でも増えてくれれば、我々の努力の価値は十分あると考えている。(つづく

The students at University of South Carolina (May 21, 2014)

(昨年2014年のときのもの)

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