国際交流

2019年9月20日 (金)

モンゴル訪問記 6.肉食文化について

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モンゴルの食生活
 その後、大型ゲルにあるレストランで夕食をとることになった。やはりこちらでは肉料理が多い。
 昨今は北海道の名物となっているが、私が子供の頃から三ヶ根山のふもとではジンギスカン鍋というのが名物であり、三ヶ根山の山麓園のケースでは羊の肉ではなく、牛肉であったように記憶している。モンゴルでも羊ばかりではなく牛やヤギの肉も使われている。
 私達は物事を先入観で判断していることが多いが、モンゴルにおいてもそうであった。遊牧民は肉食で活動的であり、そのエネルギーが世界征服につながったというイメージを私は抱いていたのであるが、伝統的な遊牧民の食事は、夏は馬乳酒やお茶にチーズなどで、冬は夏に作っておいた干し肉を食べるというのが普通であったそうである。遊牧民にとって家畜は大切な存在であり、肉は祝祭日や特別な時にのみ食していたとのことであった。
 近代化が進み、家畜の数が飛躍的に増え生活が豊かになったことで、肉食化が進んだということであった。昔のモンゴル人はあまり太った人はいなかったそうであり、町を歩くと朝青龍や白鵬のような立派な体格の人を見ることがあるが、それは最近の傾向とのことだ。

 テレルジへの道中にも羊やヤギの群れに道をふさがれることがあり、牧畜の国であることを実感したが、実際全国で人口の20倍の6,300万頭ほどの家畜がいるそうである。

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 一番多いのは意外にも、乳がとれ、質の良いカシミアのとれるヤギで、40%を占める。羊は30%、牛は15%、馬が10%、ラクダが5%という内訳だそうである。他にもヤクやラマ(リャマ)も飼育している。モンゴルのカシミアは中国やロシアとの取引が多かったそうであるが、現在はアメリカが高値で買ってくれる上客となっているそうである。

 私は昔極端な偏食であり、大学生になるまでハムとウィンナー、ハンバーグ以外の肉製品をほとんど食べなかった。長じて大分直ってきてはいるが、本格的な肉食主流の外国料理は苦手である。モンゴルの食事も肉系のものが多く、しかも量が多い。肉に付いて出てきた太い骨も叩き割って中の髄までスプーンで食するのである。そのためか、一般にモンゴルの男性は腰に刃渡り10センチほどのナイフをぶら下げていることが珍しくない。

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(ビフォア)

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(アフター)

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(腰のナイフ)

 モンゴルでは固い肉をおいしいと思う文化があり、「最近の若い奴はやわらかい肉しか食わず軟弱になった」という話を聞かされた。どこの国でも年寄りは同じようなことを言うものである。
 以前ドイツを訪れた時に、カゴに山盛りの骨付き肉や、頭も足も付いたトリの丸焼きを出されたことがあるが、私は全くダメである。こんな時はもっぱらパンやご飯を食べることにしている。私のように肉が苦手の人は、モンゴル旅行の際は何か副食を用意しておかれるといいと思う(ウイロ、煎餅、ビスケット等)。 (つづく)

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2019年9月18日 (水)

モンゴル訪問記 5.久しぶりのホースバック・ライディング

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テレルジ国立公園
 巨大チンギス・ハーン像の見学を終えた我々は、ウランバートルの東北東に位置するテレルジという国立公園に向かった。なだらかな山に囲まれ、美しく広がる緑の景観の中にゆるやかに川が流れている。今、新たなリゾート地として、モンゴル人ばかりでなく外国人旅行者も対象に開発を進めている場所である(チン・チャンドマン・キャンプ)。
 ウランバートルから日帰りもできるが、宿泊施設も充実している。伝統的なゲルの形の宿泊施設だけでなく、外資による様々なリゾート・ホテルやマンションの建築が各所で続けられている。これからのモンゴルは、天然資源と畜産製品だけでなく、観光事業に重点を置いていることがよく分かる。

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 2日目はゲル型の施設に泊まることになった。ゲルと言っても、遊牧民の宿泊する小型のものではなく、直径10mほどある。一つで5人は泊まれる大きさがあり、天井も5mほどの高さで、水洗トイレとシャワー・ルームに洗面台まで付いている。
 このレベルのものならば、岡崎の中山間地再開発計画に使えそうな気がする。通常の建物を建てていたら費用がかかりすぎるし、何の目新しさも感じられない。ゲル型の施設はグランピング(ハイクラスのキャンプ)愛好家達のニーズにも合致するように思われた。

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 30~40人収容できる大型のゲルを使用してレストランも営業されており、このシステムは参考にしたいものである。

モンゴルの馬
 レストランで遅い昼食をとった我々は、少し休憩をとってから乗馬に出かけた。
 言葉には気をつけた方がいい。昨年、アーチェリー・チームの歓迎会の席でウッカリ「若い頃に馬に乗っていた」と言ったことを覚えていた人がいて、隣接の牧場に馬が用意されていた。

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 若い頃と言っても40年も前のことであり、当時は今より20キロは軽く、スマートな体型であった時のことである。
「あなたには落馬されては困るので、おとなしい馬を用意しました」
 と言われて出かけることとなった。確かに飛んだり跳ねたりする馬では困るが、草ばかり食べていて一向に歩き出してくれない馬も考えものであり、苦笑させられた。

 モンゴルでは男のたしなみとして、乗馬とモンゴル相撲、そしてかつては弓の三つが必須とされていた。考えてみればこの三つを基にユーラシア大陸を制覇した歴史があるのだ。東は朝鮮半島から中国全土、西は中部ヨーロッパ、北はシベリアからロシアまで、南は北インドまでその支配下に入れていたのである。
 そうしたモンゴル支配の歴史を持つロシアとしては、そのトラウマは大きく、その反動としてその後様々な形でモンゴルに圧力をかけた。長らく弓の使用を禁じられたことがモンゴル国のアーチェリーの技量低下につながったのかもしれない。

タタールのくびき
 歴史上〝タタールのくびき〟と呼ばれるユーラシア大陸におけるモンゴル人の支配は、人種や文化、国の成り立ちにまで様々な影響をもたらしている。私も改めて調べて驚いたのであるが、後世「ボヤール」と呼ばれるロシアの大貴族の中には祖先をモンゴル人やタタール人にさかのぼる家系も多いという。実際、家名にモンゴルやタタールの名前に由来するものも確認される。

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 17世紀のロシア貴族に関する調査ではロシア大貴族の15%以上が東洋系に由来する血筋であったという。その他、ロシア正教会の聖職者の中にもキリスト教に改宗したモンゴル・タタール系の人物が多数あるそうである。北欧のフィンランドは白人国家と思われているが、現在でもフィンランド人の中にはモンゴル系の証しである蒙古斑が出現する人があるという。
 ちなみに蒙古斑は、モンゴル人、日本人にはあるが、中国人や朝鮮人にはないそうである。そのせいか認知度も一般的でないため、アメリカなどで子供を病院に連れて行った際に児童虐待と間違えられて親が逮捕されたこともある。

 昔、私がニューヨーク大学に通っていた頃、アルメニア(西アジア)から来ていた友人がいた。ある時彼から「モンゴル帝国がアルメニア王国を攻めてきた時、我々の先祖の首を集めてピラミッド状の山を作った」という話を聞かされた。その語り口が面白かったため声を上げて笑ったところ、「ヤス、これはジョークではないんだ、本当の話なんだ」とたしなめられた。

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 この手の話は時代を経ることに誇大に表現されて伝わるものである。当時を伝える資料の絶対量が少なく、残されている文献の中にも今日言われるほどの破壊と虐殺の記述は残っていない。確かにモンゴル軍が攻城戦を行う際には降伏勧告の使者を送り、降伏開城をすれば、略奪はされても命までは奪われることはなく、町の自治権も保てたという。
 しかし抵抗し、戦いに敗れた場合、「男は皆殺し、女子供は奴隷」とされたそうである。この点についてはかつてのローマ軍も同様の対応であったはずである。また、支配下に下った場合は、人頭税と共に10%の物品税が課せられたと言われる。各支配地域においては人口調査と徴兵、課税と徴税、駅伝制の確保、司法制度の確立、治安体制の維持などが行われていたという。
 とはいえ、もともとが遊牧の民であり、定住して汗国(キプチャク、チャガタイ、オゴタイ、イル)を統治することには向いていなかったらしく、いつしかシステム崩壊を起こし四散していったものと思われる。これがモンゴル人が大陸に広く分布することになった理由でもあろう。
 その後時代は移り変わるものの、短期間にユーラシア大陸を席捲し膨張したモンゴル騎馬軍団の鮮烈な記憶は、時代を超えて各地に伝えられているようである。

 もう一つ意外だったことはモンゴルの馬が思っていたよりも小ぶりであったことである。観光客用に小ぶりな馬が用意されていたかもしれないが、歴代の中国皇帝が欲しがったという駿足の汗血馬(かんけつば)のイメージと異なっていたので驚いた。

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 確認をすることを忘れてしまったが、世界征服の頃もこの程度の大きさだったのだろうか? 一般に肉食のせいかモンゴル人はアジア人にしては背が高く、体格も立派である。いくら複数の馬を乗り替えて戦いに臨んだとしても、戦場でこんな馬ではもたなかったのではないかと思う。もっとも日本も戦国時代には実際にこの程度の大きさの馬を使用していたらしい。結局どんな馬でも乗り手次第ということなのであろうか? 久しぶりに乗馬をやって、そんなことを考えた。 (つづく

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2019年9月15日 (日)

モンゴル訪問記 4.歓迎会、ウランバートルの郊外

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初日の歓迎会
 7月24日、私達を歓迎して下さった方達は、自由化した社会の経済的成功を背景に政界へ歩を進めている人達であった。若い政治家の多くはかつてのようにソ連邦ではなく、欧米や日本への留学経験者が多く、会話をしていても進歩的で合理的な思考と優秀さが感じられる。
 ことに私を空港まで出迎えてくれたアーチェリー協会の副会長である37歳のエルデネボルド氏は、モンゴル国立大学で学んだ後、国費留学生として私と同じ米国インディアナ大学に留学しており、モンゴル滞在中は「インディアナ・ブラザーズ」とお互いを呼び合っていた。ハーバード大学のケネディスクールにも学んだ彼は、モンゴルの次代を担う若きエリートの一人である。

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(左側がモンゴルアーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏、右側がウランバートル市のスフバートル区議会議長)

 エルデネボルド氏は帰国後、モンゴル大統領府に職を得、その後、モンゴル民主党の政策担当の一人となった。現在は民主党青年協会のリーダーで、来年の国政選挙に立候補することになっており、「来年、再会する頃は私も政治家です」と言っていた。
 また彼は、国際的火星探査計画推進に携わるモンゴルの重要人物の一人でもある。モンゴル南部に広がるゴビ砂漠の自然環境が、重力と大気以外が火星と酷似していることから、現在、国際的火星探査計画であるマーズワン・プロジェクトのキャンプ地として計画が進められている。この計画には世界107ヶ国の人々が関わっているという。この計画の目標は「火星への移住」であり、組織は研究者、技術者、教育者の3部門によって成り立っている。

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 彼の面白いところは、こうした高尚な話をしているときに突然スマホの写真を見せて「この美しい女性が私の奥さんです」とアメリカの芸能人のような言いぐさで話を振ってくることである。

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 事実、写真のとおり、楊貴妃(ようきひ)もかくあらんという美女ではあるが、日本人で自分の嫁さんについてこういう紹介の仕方をする人はあまりいないだろう。この写真はハーバード大学留学中のパーティーでの奥さんの出で立ちであるが、彼曰く「やり過ぎだ」ということである。確かにまるでマリリン・モンローのようなこうしたメイクとスタイルでパーティー会場に現れれば、男達が放ってはおかないだろう。
 奥さんもモンゴル国立大出で、共にハーバードに留学した才媛であるが、この時彼は怒って帰ってきてしまったそうである。実に人間的な話で面白かった。
 いずれにせよ、明治時代の我が国のように外国で高等教育を受けた、こうした若きリーダー達が育っているこの国が間もなく転換の時を迎えることは十分予想されるものである。
 初日の夜はホテルのレストランで歓迎の宴を開いて頂いたのであるが、上記の話を除けば固い話に終始した。

ウランバートルの郊外へ
 翌朝、道路が渋滞することを見越して早めにホテルを出て郊外に向かった。予想どおり市街地から渋滞は始まっていた。郊外に向かう枝道に入ると、デコボコの悪路を縫うように路線区分を無視して車が走っている。センターラインをオーバーしてS字型に対向車線に入り、本線に戻ってくるのだが、初めて見た時は驚いた。まるで日本の暴走運転(あおり運転)のようである。それでもお互いに了解の上での運転であるせいか事故もなくスムーズ(?)に走ってゆく。
 2時間ほど走ってゆく間に、故障のために路肩に駐車してボンネットを上げ修理をしていたり、タイヤ交換をしたりしている車を何台も目にした。郊外に向かうドライブは、まるでダートトライアル・レースに参加しているようなあり様であり、車の天井に頭をぶつけたり舌をかんだりしないように注意する必要があった。横ユレもかなりのものであり、このような中、私達にモンゴルの説明をしながら運転を続ける様は曲芸のようであった。

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 途中、休憩のために何度も道路ワキに車を止めて車外に出た。波のようにうねりながら地平線まで続く一本道。その上に限りなく広がる青空とゆるやかに移動する白い雲。道路の左右には薄緑色のじゅうたんのような草原が曲線を描いている。平原というより緑の海のようである。
 こうした風景を眺めていると、日本の4倍の面積を持つ国土、そこに住む300万人余りの人口、遊牧民としての悠久の歴史を体感できるような気がした。ドライ・アンド・
クールと言えばいいのか、いかにもオゾンをいっぱいに含んだ草いきれと共に、草原を渡る風のさわやかさが際立って心地良く感じられた。

 私達はウランバートルの東、約54キロの地にある「ツェンジンボルドグ」という名のテーマパークに立ち寄った。

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 ここには高さ12m、直径30mの円形の台座の上に、高さ30mの全ステンレス製の巨大なチンギス・ハーンの騎馬像が建っている。エレベーターで像の腹部まで上がり、そこから馬のたてがみ上を通り、馬の頭の上の展望台まで登ることができる。台座の中は博物館とレストラン、オミヤゲ物売り場となっている。
 像は現在の大統領が民間企業のトップを務めていた頃に、私財を投じて建てたものだそうである。中央ホールには像の大きさに合わせた巨大なムチと高さ9m、長さ6m、幅2m半の長靴が置かれている。

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 この長靴は画家である大統領の娘さんのデザインによるものだそうだ。巨大な像ではあるが、世界第8位の大きさとのことである。この秋、東岡崎駅前に完成する若き家康公の騎馬像も大したものと思っていたが、上には上があるものである。 (つづく

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2019年9月 6日 (金)

モンゴル訪問記 3.ノモンハン事件~現在

The Battles of Khalkhyn Gol

ノモンハン事件
 20世紀に入り、ここで13世紀の元寇(げんこう)以来の日本との関わりが出てくる。
 日露戦争の後、ソ連の影響下とは言え、独立国家としての歩みを始めて間もないモンゴルに降りかかってきたのが大日本帝国の侵攻であった。
 1931年の満州事変以降、大陸で勢力を拡大していった日本と、伝統的南下政策をとるソ連は各地で小競り合いを起こしていた。ハルハ河近郊で対峙していた満州国とモンゴル軍の国境守備隊同士の川の使用をめぐるささいな出来事が切っ掛けとなり、1939年5月、日本陸軍(関東軍)とモンゴル・ソ連連合軍の全面戦闘に発展してしまった。日本ではこの戦闘を「ノモンハン事件」と呼び、モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼んでいる。

The Battles of Khalkhyn Gol

 日露戦争における戦勝体験によって培われた白兵戦重視の日本陸軍と、機械化の進んだソ連軍の機甲部隊とでは大人と子供の戦いに等しかった。ソ連の重戦車の前に日本の軽戦車はまさにブリキのおもちゃであった。日本軍の砲弾はソ連戦車の厚い装甲に弾き飛ばされ、ソ連軍の砲弾は日本戦車を貫通してしまうあり様で勝負にならなかったという。私の友人のアメリカ人は「日本の戦車は鉄の棺桶」とバカにしていた(今の自衛隊はそんなことはない)。しかもソビエト軍は10倍近い戦車と野砲を運用していた。対して日本軍は少ない戦力で火炎ビンを使い夜襲で対抗した。弾切れ、食料・水無しで戦っていたのだ。

 日露戦争当時と大して変わらない貧弱な装備(対中国戦はそれで十分だった)でソ連の機甲部隊と戦わざるをえなかった当時の兵士はまさに気の毒を絵に描いたようなものであった。飛行機による空中戦では日本軍の方が優勢であったそうであるが、制空権を確保するまでに至らず、逆に地上戦において完膚無きまでに叩きのめされてしまったのである。
 戦闘は9月まで続き、結果、日本軍第23師団は壊滅、出動兵約6万人のうち、約2万人が戦死・戦傷・行方不明となり、多くの捕虜を出した。実に実働部隊の3分の1の損害を出すという大敗北であった。とはいえ、日本軍の奮戦のため、倍する兵力のソ連側も2万5000人の死傷者を出すこととなる。しかし、作戦目的を達し、国境を守ったのはソ連側であった。
 その後、陸軍は大陸拡大方針を改め、海軍の南方侵攻戦略に同調してゆくことになる。太平洋戦争への一つの切っ掛けとなる戦いとなったのである。
 私はノモンハン事件というのは「日本とソ連の大陸における勢力争いの戦い」と単純に思っていたが、モンゴル軍においては数千人の犠牲者を出す国防の戦いであり、自由化前のモンゴルにおける対日感情は決して良いものではなかったという。

ソ連崩壊に伴う自由化
 1980年代末に始まるソ連邦の崩壊に伴い、1990年に人民革命党が一党独裁を放棄し、自由選挙を経て1992年に新憲法が施行され、モンゴル人民共和国はモンゴル国に改称した。現行の一院制議会(76議席)と直接選挙による大統領制が始まり、自由経済による個人所有も認められるようになったという。
 新興国家成立の段階でよくあることであるが、政権が交代する度に、恣意的な立法が行われ社会の混乱を招いている。国営企業の民営化、銀行改革も行われているが、有力政治家の暗殺、利権を巡る政争や外国からの投資に関わる汚職も横行している。まだ改革を要する課題は多いようである。
 今回モンゴルで、私が岡崎市で行われている公共入札の管理システムについて説明し、市長は入札決定に関与しない旨を伝えたところ、ツァガン会長は「我が国にもそうした制度が必要だ」と言ってみえた。 (つづく

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(ノモンハン事件の写真は「Wikimedia Commons」から借用しました。)

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2019年9月 4日 (水)

モンゴル訪問記 2.モンゴル国とは

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国の概況
 改めて、一般の日本人には馴染みの薄いモンゴル国について述べてみよう。
 モンゴル国は中国とロシアに挟まれた内陸国であり、全人口324万人に対し面積は日本の約4倍(156万4,100平方キロメートル)もあり、広大な国土に恵まれた国だ。大ざっぱに言って東部は草原地帯が広がり、西部は山岳地帯、南にはゴビ砂漠があり、北には森林地帯(タイガ)がある。

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 民族としてのモンゴル人はユーラシア大陸に広く分散しており、その合計は本国の人口よりも多い。それぞれ中国やロシアで少数民族として在住し、中国では内モンゴル自治区として自治権を与えられている。独立運動を行わないという法律の下での自治であるが、他の自治区と同様、実権は漢人に握られている。
 この内モンゴル自治区の首府のフフホト市と岡崎市は姉妹都市であるが、フフホト市とモンゴル国の首都ウランバートルも姉妹都市であり、不思議な御縁である。

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 フフホト市は人口300万を超える大都市であるが、ウランバートル市もモンゴル国の全人口の半分近い150万の人口を持つ都市である。都市生活をしながら、週末は郊外にある土地でゲル(天幕)生活をしている人達も多いということである。とはいえ、そうした優雅な生活をしているのは有産階級の人々であり、市外の上下水道の整備が済んでいないエリアで生活している人達は文明の恩恵を十分受けているとは言えないようであった。そうしたエリアでは下水はタレ流しであり、土壌汚染が大きな社会問題となっているそうである。

歴史
 次にモンゴル人の歴史を振り返ってみたい。モンゴル人は古来遊牧民族としてユーラシア大陸を移動する生活を続けてきた。広い大地を季節移動し、定住生活を行わない遊牧民族達と、定住農耕生活をする漢人が衝突するのは必然的な宿命であり、紀元前3世紀の匈奴(きょうど)以来数多くの戦いと征服、被征服の歴史を繰り返してきたことは衆知の通りである。
 三千年の歴史を誇る中国ではあるが、全王朝の3分の1は漢人以外の民族によって支配されていたのが実態である。最後の王朝となった清朝もモンゴル系の満人によるものであった。とは言え、漢人が征服王朝化されたのではなく、征服者の方を中国化させて取り込んでしまうところが中国という国のすごさである。
 それでも19世紀にはロシアの影響を受け、清朝から分離の動きが始まり、1911年に辛亥革命で清朝が倒れたことを契機に、モンゴルは独立宣言をした。その後全モンゴル民族の統一を目指して各地との連合を企てるが、ロシア、中国双方からの圧力により失敗する。結局、現在の外モンゴルに限って中国の宗主権の下に自治が認められた。
 その後、1917年のロシア革命に触発され、ソヴィエト連邦の指導の下、社会主義国家としての発展を目指すことになった。しかしその実体はソヴィエトの傀儡(かいらい)政権に等しいものであった。 (つづく

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2019年9月 2日 (月)

モンゴル訪問記 1.出発

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はじめに
 岡崎市がモンゴルのアーチェリー・チームのキャンプ地となり、その後2020年東京オリンピック・パラリンピックのホストタウンに選ばれたことで、昨年以来モンゴル国から「一度、岡崎市長に首都のウランバートルまで来てほしい」という要請を何度も受けていた。日程の都合でなかなか叶わなかったが、ようやくこの7月末に訪問が実現した。
 岡崎の夏のメイン行事である「岡崎城下家康公夏まつり」と「花火大会」前の7月24日(水)から3泊4日というあわただしいモンゴル訪問となったが、その中身は大変充実したものとなった。

 VIP(重要人物)と面会する時によくあることであるが、直前になっても日程の詳細が確定しないものもあった。現アーチェリー協会会長のツァガン氏が元国務大臣であり、かつ大統領顧問の一人であることから、モンゴル・オリンピック協会から岡崎市を代表して名誉記章を授与されることとなった。私の訪問に合わせて日程を変えたという「全モンゴル青少年アーチェリー大会」では、来賓としての挨拶に加え、全国ネットのTVインタヴューも受けることになった。

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(左から、モンゴルアーチェリー協会のエルデネボルド副会長、内田、モンゴルナショナルオリンピック協会のバダルウーガン副会長、北川雅弘氏)

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(全国ネットTVによるインタヴュー)

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(ウランバートル市長のアマルサイハーン氏)

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(モンゴル国のバトトルガ大統領)

 さらに予定になかったウランバートルのアマルサイハーン市長との面会も叶い、まさかと思っていたバトトルガ大統領とは1時間近い会見を行うことができた。そして多忙な在モンゴル・高岡正人日本大使からも直接お話を伺うことができた。
 今回のモンゴル訪問における何よりも大きな収穫は、これから飛躍する可能性を秘めたアジアの重要な新興国家・モンゴルの指導者ならびに若く有望な政治家の方々と知己を得ることができたことである。
 当初の目的どおり、こうした関係をスポーツ交流だけでなく、人的交流、経済交流にしっかりとつなげてゆきたいものと考えている。

出発~到着
 7月24日(水)早朝に岡崎を発ち、私と太田国際課長の二人は新幹線を経由し、成田空港を目指した。成田からはウランバートルへの直行便が出ているのだ。成田からは5時間ほどの飛行時間で現地に到着する。ハワイよりも近く、時差も1時間(日本の方が早い)であり、まだ観光ズレしていない、豊かな自然空間を上手に活用することができれば、新たなリゾートとしての可能性は大きいだろう。
 飛行機の中で気が付いたことであるが、機内上映のDVDの翻訳が英語、フランス語、モンゴル語に加えて、中国語と韓国語しかなかった。日本発の飛行機でありながら機内放送も日本語は無かった。欧米の航路でこうしたことはあまりないが、これは日本人が欧米重視で、他の国に対して十分な力が及んでおらず、そうした国に対して中国や韓国が先に手を伸ばしていることの証左である。油断がならないと思うものである。
 モンゴルは、先端産業に不可欠な希少鉱物を含む、鉱物資源の豊かな地である。ボンヤリしていると中国、韓国に窓口を押さえられてしまうかもしれない。しかし、私が心配するまでもなく、1990年代からすでに日本政府としては対応しており、2013年以来、安倍総理はじめ各主要閣僚も度々モンゴルを訪れている。今後、日蒙両国のさらなる交流の進展が予想されている。

 日本海を越え、大陸の山河を眺めながらウトウトしているうちにウランバートル上空に到達した。今回はウィンドウシートでなかったため、風景の推移がよく分からなかった。
 空港へは、静岡県日蒙親善協会理事長の北川雅弘氏とモンゴル・アーチェリー協会副会長のエルデネボルド氏のほか、昨年来岡されているアーチェリー・チーム監督のガンゾリグ氏らが出迎えに来て下さった。

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 市街地までは40~50分程の距離であるが、走っている車がやたらホコリっぽいため、その理由を尋ねたところ、現在ウランバートル郊外で集中的に道路工事が行われているためとのことであった。モンゴルでは幹線道路の舗装はなされていても、そこにつながる道路の多くは草原に線を引いただけのような地道がほとんどだそうだ。そのため、郊外への出入りにそうしたデコボコ道を通らざるをえず、結果、目的地に着く頃にはホコリまるけのあり様となるそうである。「悪路走行が常のため、車体に強度が無く、足回りの悪い車は使えない」ということであり、そのせいか日本車が多くなっている。

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 すれ違う車にプリウスがやたら目についたため聞いてみると、
「プリウスは当初すぐに壊れるハイブリッド車と思われていたが、意外に頑丈で燃費も良いため、モンゴルでは数多く使われている」
 という返事だった。しかし金持ちは、より機能性の高いレクサスやベンツのクルーザー・タイプを使うのだという。いずれにせよ、元来遊牧民族の国家が急速な近代化を迎え、モータリゼーション化したためインフラの整備が間に合わないということらしい。 (つづく

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2019年7月 7日 (日)

中学生国際交流から誕生した外交官

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 6月3日(月)朝、6月議会開会までのわずかな時間であったが、現在、ノルウェーの日本大使館に勤務されている岡崎生まれの山森健成(たけなり)外交官が来訪された。
 山森さんは平成元年(1989年)生まれの30歳で、岩津中学校、岡崎西高校の出身である。中学時代に本市の行っている国際交流事業のスウェーデン・ウッデバラ市訪問団の一員として参加されたことが切っ掛けとなり(平成16年、2004年)、外国、とりわけスウェーデンに大きな関心を抱くことになったそうである。
 ウッデバラ訪問の後、ストックホルムのスウェーデン外務省を訪れた折に外交官から懇切丁寧な説明を受け、さらに北欧諸国への関心とあこがれを深めると共に、外交官という仕事に強い興味を覚えるようになったとのことである。そこまではよくある話であるが、山森さんは北欧への興味をその後も強く持ち続け、大阪大学外国語学部に進学し、スウェーデン語を専攻し、今日に至っているのである。

 岡崎市では毎年、ウッデバラ市、ニューポートビーチ市(米国)、メルボルン郊外のウィトルシー市(オーストラリア)等へ中学生訪問団の派遣事業を行っている。

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(岡崎市中学生派遣団合同結団式、2017年5月16日)

 派遣団の結成壮行会の折には「皆さんの先輩の中には、この訪問が切っ掛けとなり、外交官として活躍している人がいる」とつねづね伝えており、この度山森さんに「あなたは派遣中学生の希望の星ですよ」とお話した次第である。
 若い感受性の豊かな時期に異なった文化、社会、生の外国語に触れることによって、個人の才能の芽が開花することもあり、本市が長年継続しているこうした事業は岡崎の人材育成に大きな力となっていると思うものである。

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2019年3月 9日 (土)

モンゴル・アーチェリーナショナルチーム、岡崎で強化合宿

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 かねてより御要望頂いていたモンゴル国アーチェリーチームの岡崎市における強化合宿が実現し、市長への表敬訪問に続き、歓迎のレセプションを行いました。
 岡崎市とアーチェリー競技とのつながりは平成6年(1994年)に愛知県で開催された国民体育大会「わかしゃち国体」のアーチェリー競技が、本市の中央総合公園の多目的広場で開催されたことに始まります。
 そして、ロンドンオリンピックにおいて、岡崎市出身の蟹江美貴選手が銅メダルを獲得されたこともあり、本市東部地域は中学、高校、大学とアーチェリー競技が盛んな所となっております。
 岡崎市とモンゴルとの御縁は、愛知産業大学アーチェリー部の関係者や静岡県のモンゴル親善協会の北川雅弘さんとの交流の中から生まれてきたものであります。

 今回、整備の整っている愛知産業大学や本市中央総合公園において、2月21日から3月9日までの約3週間、強化キャンプが行われています。
 モンゴルというと、日本ではモンゴル相撲が有名ですが、アーチェリーチームの選手の皆さんも立派な体格の方が多く、同じ黄色人種であっても、肉食が主流で広大なユーラシア大陸で育った民族と、島国育ちで米食、魚食が伝統であった我々との違いを感じさせられるものでありました。

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 今回はアーチェリーを通じての交流のみとなっていますが、モンゴル国としては将来的に愛知県や本市との経済交流の拡大を望まれているとのことであり、今後の進展にも期待が持てるようです。
 以下は、2月25日(月)に開かれたモンゴル・アーチェリーナショナルチーム歓迎レセプションでの挨拶です。


 ターブヘンデ オロイン メンデ フルギー (皆さん、こんばんは)

 岡崎市長の内田康宏であります。
 モンゴル・アーチェリーナショナルチームの皆様、ようこそ岡崎市へお越し下さいました。心より歓迎申し上げます。
 モンゴル国は、本市と30年来の友好都市である、中国フフホト市の属する内蒙古自治区と国境を接しており、首都ウランバートル市とフフホト市は姉妹都市であると伺っております。今回このように交流の機会をもてたことも、何かのご縁があるのではないかと感じており、大変うれしく思っております。
 また、皆様方におかれましては、一昨日は東海中学校におきまして本市の中学生に対し、指導や実演をしていただき誠にありがとうございました。生徒達も大変喜んでいたと伺っており、近い将来、世界を舞台にして皆様と戦える選手となる第一歩にすることができました。

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 本日は2020年のオリンピックに向けて、共に歩んでいく皆様との最初の懇親の席であります。交流を深めていただきますとともに、これまでの疲れを忘れどうぞ楽しい時間をお過ごしください。
 また、今回の合宿の実施にあたりましては、練習場などの提供を快くお引き受けいただきました愛知産業大学様をはじめ、選手の食のサポートや滞在中の日本文化の体験について多大なるご協力をいただきますサガミホールディング様、加えて本日のレセプションに対しご支援をいただいております岡崎信用金庫様に対しまして心より感謝申し上げます。
 さらに合宿全般にわたってお力添えをいただきます静岡・モンゴル親善協会様、愛知県及び愛知県アーチェリー連盟様におかれましても改めてお礼申し上げます。
 最後になりますが、皆様は昨日、本市の英傑、徳川家康公が産まれた岡崎城に行かれたと伺っております。かつて弓と矢で世界を席巻したモンゴルであります。徳川家康公が天下を取って江戸幕府を開いたように、皆様にも是非オリンピックに出場していただき、天下をとっていただきますよう心からご期待申し上げます。

 ターブヘンデ アムジルタ フスィエー (みなさんの幸運を祈ります。)
 バヤルララー (ありがとうございました。)


呼和浩特(フフホト)中学生訪問団とモンゴル国アーチェリー視察団 (2018.03.24)

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2019年2月 6日 (水)

スウェーデン訪問記 7.ストックホルム日本商工会と日本大使公邸

ストックホルム日本商工会、樗木健一会長

(ストックホルム日本商工会にて。樗木健一会長を訪問)

 私達の最終日程は、ストックホルム日本商工会におけるスウェーデンの国内事情の調査と市内の再開発プロジェクトの視察、そして日本大使公邸の訪問であった。

 スウェーデンは北ヨーロッパのスカンジナビア半島に位置し、北東にフィンランド、西にノルウェーの二国に挟まれ、南西のカテガット海峡の向こうにあるデンマークとは歴史的に長く対峙してきた。バルト海の向こうには大国ロシアとドイツが控えるという地政学的条件にある。そのため、スウェーデン王国は昔から近隣の国家との軋轢が絶えず、領土や国境も度々変わることになった。
 近代に入り、立憲民主国家の体制に移行し、ことに1974年の憲法改正以降は国王に官吏任命権が無くなり、日本と同じように象徴君主制の形となってきている。
 政治的には、1932年のスウェーデン社会民主労働党(社民党)政権成立の折に武装中立政策をとり、第一次、第二次の両世界大戦を回避することができた。大きな戦禍に巻き込まれずに社会インフラを維持できたことが、その後の安定した経済発展につながったものと考えられる。(しかし、いったん廃止された徴兵制度が2018年に復活している。)
 言うまでもなく、スウェーデンは世界に冠たる福祉国家であるが、前述した如く男女共働きを前提とした社会づくりを行ってきたことによって、出生率の維持と人口増を達成できている。
 人口1千万人規模のコンパクトな国家であったことにより、国民の意志の統一が図りやすく、国のトップダウンの政策を短期間のうちに実現でき、社会システムの変革がスムーズに行われてきたことが、これまでの経済的成功と社会の安定の基となっているように思われる。女性の労働環境、子育てシステム、教育、税金のあり方については学ぶべき点も多いが、それを日本の社会で実現するためにはそれなりのアレンジが必要であろう。

 また、ストックホルムは、現在大規模な再開発事業にとりかかっており、かつての港湾地区、隣接していた旧工業地帯の跡、そして外国からの流入者によりスラム化した下町地帯などで集中的に都市再開発を行っている。(難民の大量流入は犯罪の増加、治安の悪化をはじめ社会システムにも影響を及ぼしている。)
 跡地に新築された集合住宅地域は、美しい市街地を形成すると共に新しく機能的なシステムが設置されている。これまでゴミ収集車によって一括回収されていた各種生活ゴミを5~6種に分別し、曜日、時間帯によって車を使わない回収を始めている。そのユニークなシステムは、地下埋設されたゴミ専用収集管を使って行われる。ゴミの種類で収集、日時を分けて同じ管を使い、空気圧の差を利用しゴミ袋のまま時速40~50キロのスピードで各終末処理場(再生場)へ風送されるという。

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 燃えるゴミは岡崎市と同様に、そこで生まれる熱が電力源として再利用され、周辺国のゴミも有料で処理し、電気を売電しているという。
 夏季はバルト海の深層水をくみ上げ、そこから得られた冷気をビル等の冷房に活用している。原子力発電所の廃棄物はきちんと鉛で密封処理し、地下1万メートルの岩盤の中に収容している。将来、合理的な処理方法か再利用の方法が発見された時にちゃんと使えるように考えられているのである。
 このようにあらゆることに合理的な資源利用・再活用の試みがなされている。

 ストックホルム中心街にある世界貿易センタービルの5階にある「ストックホルム日本商工会」において、樗木(おうてき)健一会長さん達の説明を受けた我々は、その後現地視察を行った。そして50周年にわたるウッデバラとの友好関係に対する御褒美のような形で、日本大使公邸での昼食会に招かれることとなった。その理由は前述してあるので省かせて頂く。

廣木重之・特命全権大使

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 日本大使公邸はストックホルム郊外の高級住宅街の一角にあり、バルト海につながる入江沿いの道路に面していた。瀟洒(しょうしゃ)な3階建ての洋館は旧貴族の邸宅を改装したものだと言う。防犯カメラのついた鉄格子の門があり、テニスコート付きの奥行き50メートル、幅100メートルほどの芝生の庭が続いていた。
 護衛官の許可を得て、写真を撮りながら邸内へと歩を進めることとなった。廣木重之・特命全権大使のような立場の方は、スウェーデン国内はもちろん、全ヨーロッパ地域における様々なVIPと会談をすることが多く、こうした公邸が必要とされるのである。決してぜいたくをしている訳ではなく、施設のあり様そのものが日本という国家の存在を代弁しているのである。

 玄関から入ってすぐ右手にある応接室でウェルカム・ドリンクのサービスを受けた我々は、ほどなく階下にあるホールに設営された会場に通された。由緒ある建物を改修したとのことであり、まるで映画に出てくる晩餐会のような雰囲気であった。
 一人一人の席には日本政府を表す桐の葉のマークと共に個人名入りのネーム・プレートが配置され、同じく桐の葉のマーク入りの食器と同じマーク付きの箸、袋に入った割り箸が配膳されていた。

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 次々と運ばれてくる料理は我々が日本の料亭で頂くようなまぎれもない正統な日本料理であり、よく見るとお品書きには夕食会との文字が記してあった。昼過ぎの御招待であったため、ランチ・メニューを予想していたのであるが、正式なディナーであった。聞けばコックさんは日本人ではなく、長年日本食を作り続けているタイ人の方であった。
 正式な日本料理の専門学校を卒業し修業をされてきた方で、長年外務省の海外公館のコック長をされてみえたそうであった。日本料理の神髄を極めるために、香辛料を多く使うタイ料理は食べないばかりか料理もしないそうである。外国人であってもこういう料理人もあるのである。さすがにこの日は、前日に日本食モドキに腹を立てていた某氏も笑顔で箸が進んでいた。
 大使館の方にこっそりお聞きしたところ、「地方議会の関係者や一般人をこうして招待する例は珍しく、こちらの大使館では初めてのことである」とのことであった。改めて歴代の市長ならびに関係者の友好親善の努力に対し、頭の下がる思いであった。なお、これまでの50年間で岡崎市からは332人、ウッデバラ市からは271人の市民が相互訪問をしている。

 今回私達が体験することのできた貴重な経験と学んだ知識は、今後しっかりとさらなる両市の親善関係と両国の友好のために反映できるよう努めていきたいと思う公式訪問であった。(完)


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 なお「スウェーデン訪問記」は、『東海愛知新聞』に2019年1月22日から29日までの間、「姉妹都市ウッデバラ訪問記」のタイトルで連載されました。

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2019年2月 5日 (火)

スウェーデン訪問記 6.ノーベル賞の舞台

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 ストックホルム旧市街・ガムラスタン地区は、スターズホルメン島という島に作られた中世の面影を残す町である。第二次世界大戦後、開発のため一部の区画が崩されているが、歴史的にも貴重な存在と言える。ガムラスタンとはそのまま〝古い街〟という意味であり、別に〝橋の間にある都市〟とも呼ばれているという。
 この島の東側には、王宮や教会、大聖堂が建ち並び、中央部にはストールトルゲット広場という100メートル四方ほどの空間がある。広場の右手にある旧証券取引所は、現在ノーベル博物館として再利用されている。

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(ストールトルゲット広場)

 この広場は、1520年11月にデンマーク王によって81人のスウェーデン貴族が処刑された舞台となり、今も向かいの5階建ての建物の壁面には81個の白い石で犠牲者の数が表示されている。

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ガムラスタン地区

(ガムラスタン地区の路地)

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 一般に私達は、ノーベル賞というと、スウェーデン王家の主催する会場で授賞式も晩餐会も一緒に行われているようなイメージを漠然と持っている。
 ところが実際は、授賞式が行われるのはコンサートホールであり、晩餐会は市議会議事堂の大ホールで、それぞれ別の場所で行われている。
 議事堂では、紹介された順番に、二階のフロアから晩餐会の行われる一階の青の広場まで、50段ほどの石段をL字型に降りてこなくてはならない。正装姿の受賞者夫妻は、スマートにこの長い階段を下りていくために、正面にある壁面のマークを見つつ、会場に笑顔をふりまきながら登場しなくてはならず、これが一番難しいとのことであった。

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(市庁舎、青の間とL字の階段)

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 さらに、この晩餐会で使用したイスは、裏側に各受賞者が自らサインをして、その後はノーベル博物館にあるカフェで使用されることとなる。展示されるのではなく、普通のイスのようにノーベル賞受賞者サイン入りのイスが使われているのである。我々が博物館を訪れた時には、授賞式前であるのに、すでに本年度の受賞者、本庶佑(ほんじょ たすく)さん達を紹介するコーナーが作られていた。館内はノーベル本人の紹介や各受賞者の研究成果が数々の写真と資料で展示されている。

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 毎年当たり前のように、世界の知の権威の最高峰の如く報道されるノーベル賞であるが、いつから、どのように始まったのであろうか?
 アルフレッド・ノーベルと言えば、ダイナマイトの発明者として有名である。そもそも彼をダイナマイトの発明へといざなったのは、スウェーデンという国が氷河の通過した跡の岩盤の上に成立した国家であったことに由来する。
 固い岩盤の上にある国では、あらゆる公共事業は難工事となる。道路、トンネル工事、地下鉄やダムを造るにも岩盤との戦いとなる。ストックホルムの地下鉄駅に行ってみると、まるで洞窟か鍾乳洞の中に入ったような気がするものである。駅ごとに壁面の色を塗り分けて、照明されている所があり、現在ではそれが各駅のセールスポイントになっている。
 いずれにせよ、こうした工事の遂行のためには強力な火薬が使用され、事故も多く発生した。そこで安全に使用できるニトログリセリンを固形化したダイナマイトが発明されることになったのである。ノーベルの弟も、開発実験の過程で亡くなっている。本来はこうした実用目的で開発されたダイナマイトであったが、予想以上の破壊力と使い易さから軍事転用されることになり、後の様々な大量殺戮兵器への開発につながることとなる。
 彼は50ヶ国以上で特許を取り、100近い工場を持ち、一躍世界の大富豪の仲間入りをすることとなった。ちょうどコンピューターやIT開発により億万長者となった現代のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズらと同様である。時代の変わり目となるような発明をするとこうしたことがおきるのだろう。

 そもそもアルフレッド・ノーベルは、建築家であり発明家でもあったイマヌエル・ノーベルの四男として生まれている。そうした環境下、幼少期より工学に興味を持ち、父親から基本的な知識や技術を学んでいる。のちに各国で短期に専門技術を学んではいるが、正式な高等教育は受けていない。それでも語学には堪能であったらしく、スウェーデン語に加え、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語も使いこなしていた。
 1888年に彼の兄が亡くなった時、新聞に自分と取り違えた死亡記事が載り、その見出しに「死の商人死す」と書かれたことが生涯こたえたようであり、それがノーベル賞創設の動機ではないかと言われている。
 1895年、自らの心臓病の悪化にともない、ノーベル賞設立に向けて遺言状を作成。遺言状には、人類の進歩と幸福に寄与する研究・発明を行った物理学、化学、生理学ならびに医学、文学などに貢献した個人や団体に賞を授与する内容が記されていたという(平和賞は後に追加)。
 ノーベルはダイナマイトの発明後、様々な権利問題の裁判に巻きこまれ、弁護士不信が強かったらしく、遺言状の内容について生前誰にも相談せずに作成したという。そのため、彼の死後、相続をめぐって様々なトラブルが発生した。現在、彼の遺産はノーベル財団によって管理運営されている。
 生前、ヨーロッパと北米の各地、ロシアにおいても会社を経営しており、世界中を飛び回っていた。1873年から20年近くパリで生活しており、それが一番長い。個人的には孤独な性格で、うつ病になったこともある。生涯独身で子供もいない。3度恋愛したものの女性運も悪く、女性不信感も強かったという。巨万の富があっても幸せな人生とは言えなかったようである。

 これまで世界中で約900人がノーベル賞を授賞しているが、このところの平成のノーベル賞ラッシュのおかげで、日本人ノーベル賞の受賞者は昨年の本庶さんを加えて、外国在住の方も含め、27名となった。以前アメリカ人の友人から、「ウチの大学(UCLA)は日本よりたくさんノーベル賞を取っている」(注)とシャクなことを言われたことがあったが、ようやくそんなことも言われずに済むと、個人的にもよろこんでいる。

(注) UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)出身のノーベル賞受賞者は現在13人。

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