六ツ美悠紀斎田

2017年6月 7日 (水)

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり(2017年)

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 6月4日(日)午後、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」が抜けるような青空の下、執り行われた。
 今さらではあるがこの催しは、大正天皇の即位を祝う大嘗祭を挙行するに当たり、新米を皇室に献上する東日本の農地として、大正3年(1914年)にかつての六ツ美村が選定されたことに始まる(西日本は香川県綾川町)。お田植えまつりは翌大正4年(1915年)6月に行われ、悠紀のケースのように毎年継続的に儀式を継承しているのは他に綾川町だけであり、今年で102周年となる。なぜ大正天皇のモノだけがこうしておまつりとなって続いているかは定かでないが、いずれにしても米づくりというのは日本人の生活様式、精神風土、国民性、伝統文化というものに密接な関わりがあり、その象徴的儀式としてこの六ツ美の地において一世紀にわたり続けられていることは大変意義深いものがある。

 当日、中島町の地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里において、古式の伝統にのっとった踊りや田植えの様子が再現された。現代ではほとんどの農作業が機械化されており、農業地域の子どもでも人が行う田植えの様子を直に見るのは貴重な機会であり、日本の農業文化を伝え、日本社会、日本人の成り立ちということを考える意味でも重要な催しであると考えるものである。
 おまつりとしては六ツ美地域のものではあるが、岡崎市としてこれからもできる限り協力は惜しまないつもりである。

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六ツ美悠紀斎田お田植えまつり(2017年6月4日)

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり(2017年6月4日)

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり(2017年6月4日)

 また6月としては大変暑い日となったため、御協力頂いた皆様、ことに踊りや田植えに早乙女役で御参加下さった学区女性部の皆さん、小中学校の児童・生徒諸君には重ねてお礼を申し上げるものである。

 以下は当日の私の挨拶です。

内田康宏

―挨拶―
 本日は、六ツ美悠紀斎田お田植えまつりが、香川県綾川町の副町長様をはじめ多くの来賓の皆様方をお迎えし、このように盛大に開催されますことを心からお祝い申し上げます。また、日頃は市政全般にわたりご理解とご協力を賜り、厚く感謝申し上げる次第であります。
 このお田植えまつりは、大正4年にお田植えが行われ以来長年受け継がれ、昭和37年の六ツ美町の岡崎市への合併後、昭和41年には岡崎市の無形民俗文化財に指定され今日まで伝承されております。
 そして一昨年100周年には、秋篠宮殿下・同妃殿下をお迎えして盛大に開催されましたことは記憶に新しいところです。また、このたびの秋篠宮家の長女眞子さまのご婚約に関するニュースは誠に喜ばしい限りであります。
 さて本市におきましては、昨年度、市制施行100周年を迎え、今年は次の100年に向けて新たな一歩を踏み出す大変重要な年でもあります。六ツ美地域をはじめとする本市の南部地域におきましては、ご存じのとおりこの10月にJR岡崎駅東口の複合施設がオープンするほか、平成32年には藤田学園の新病院の開院を予定しております。これらの事業が順調に進むことで、六ツ美地域も一層発展してまいりますのでぜひご期待下さい。

 このように六ツ美地域においてお田植えまつりが長年継承されておりますのも、日頃から熱心な保存・育成活動を進めておられる保存会の皆さんをはじめ、地域の皆様の熱意と努力の賜(たまもの)であると考えております。
 今後もお田植えまつりが継承され、ますます発展していくことを祈念申し上げ、私からの挨拶とさせていただきます。本日は誠におめでとうございます。ありがとうございました。

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり(2017年6月4日)

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2015年10月19日 (月)

『リバ!』2015年11月号

『リバ!』2015年11月号

内田康宏事務所よりご案内申し上げます。
『リバ!』2015年11月号が明日発行されます。
市長のコラムは「秋篠宮家(赤坂御用地)訪問」です。

『リバ!』2015年11月号

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2015年8月27日 (木)

秋篠宮家(赤坂御用地)訪問

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 お盆休みの始まりでもある8月13日(木)、秋篠宮家を訪問することとなった。宮内庁の方へは、すでに先月、「悠紀斎田100周年記念お田植えまつり」の御礼に伺っているので、今回は直接、秋篠宮殿下、妃殿下に御礼を申し上げる機会を頂いた訳である。
 いかにも天皇のお住まいといった荘重な構(かま)えの皇居とは異なり、赤坂御用地にある秋篠宮邸は、青山通りに隣接した閑静なたたずまいの邸宅であった。
 とは言っても、実質的に元赤坂二丁目の区画のほぼ全域を占める広大な敷地の一角にあるのである。かつて江戸時代には紀州徳川家の上屋敷のあった所であり、明治維新後、新政府に接収され天皇家に献上され今日に至っている。

 大臣邸よりも厳重な入り口のチェックを通り、平屋建ての面会所へ我々の乗った車は通された。
 この場所へ私が足を運ぶのはこれが2回目となる。
 1回目は9年前、皇室待望の男子、悠仁親王(ひさひとしんのう)がお生まれになった時であった。ちょうど県会議長として上京中であった私がお祝いの記帳に参内(さんだい)することとなり、御用地を訪れた。それ以来のことである。
 担当官のお出迎えを受けて案内された玄関の左手にある応接室は、天井の高い20畳ほどの洋間であった。生物学に詳しい殿下の御趣味であるのか、献上の品であるのか分からなかったが、50~60センチ程の大きさのみごとなオーストラリア・大ガニと、これまた全長50センチはある、足を伸ばして跳躍する大ガエルのはく製が展示されていた。
 当日は、悠紀斎田100周年記念事業実行委員会会長の野村弘氏と、副会長のJAあいち三河代表理事組合長の天野吉伸氏と同席であった。三人で展示品に感心して話をしているところへ、殿下と妃殿下は軽やかな足どりで到着された。
 100周年記念お田植えまつりの折の記念写真と共に、地元の八丁味噌、地酒、お菓子等の贈答品を献上させて頂いた。野村会長の挨拶と共に、市長として私も御礼の御挨拶を申し上げた。ことに、当日妃殿下が地元市民や子供達に親しく接して頂いたことを重ねて御礼申し上げた。「おかげでまた百年は継続します」と申し添えておいた。

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 10~15分ほどの歓談の予定であったが、秋篠宮御夫妻があまりに聞き上手であったため、ついつい来年の市制100周年の話から、リバーフロント計画についてまで御説明申し上げてしまった。また、写真をお見せしながら東公園の恐竜モニュメントについてもお話をさせて頂くこととなった。
 山階鳥類研究所総裁であり、日本動物園水族館協会総裁でもある殿下は、ことのほか生物学に造詣が深く、会話ははずんだものとなった。

 ふと殿下の肩越しに、庭の風景がガラスを通して目に入った。よく見ると何か動物が動いている。何と2匹のカピバラが庭をゆるやかに移動していたのである。お尋ねしたところ、まだ他にもマーラやワラビーもいるとのことであった。そんな動物たちを庭で放し飼いにできる環境というものが東京の一等地にあるとは実に驚きであった。

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 皇室の皆さんが農業にお詳しいことは知られていることであるが、秋篠宮殿下も邸内で様々な植物を自ら育てておみえになっているそうだ。
 アメリカで毎年行われている〝お化けカボチャ・コンテスト〟には、フォークリフトを使って移動させるような数百キロの重さのカボチャが登場する。しかし日本では気候も違うため、同じ種を使ってもなかなか大きなカボチャにはならないそうである。愛知県でも以前試みたことがあるそうだが、専門の農家の方でも数十キロのものが精一杯だったという。
 ところが秋篠宮殿下はお庭の角で60キロのカボチャを作られたとのことであり、天野副会長もびっくりしてみえた。そして話はカボチャから種無しスイカ、岡崎のぶどう狩りにまで及び、最後は幸田町の筆柿の話となった。私はもう少しで、地元の通称〝チ○○ガキ〟を口走ってしまいそうになり、あぶなかった。まさか不敬罪にはならないだろうが、岡崎の品位にかかわることになる。

 30分余りの訪問であったが、実になごやかで楽しいひとときを過ごさせて頂き本当に感謝している。
 秋篠宮殿下は、礼宮(あやのみや)と呼ばれていた御幼少時のやんちゃなイメージと、長髪でヒゲをたくわえていた頃のアヴァンギャルドな印象が強いが、今ではすっかり大人の風格をたたえられ、知的な紳士となられている。
 御夫妻には、ていねいにも玄関先までお見送り頂いてしまった。これまで、秘書時代から県議時代を含め、皇室のお客様をお見送りしたことは幾度となくあるが、将来の天皇陛下になられるかもしれない方に、よもや車上の私が逆にお見送り頂くことになろうとは思わなかった。
 今回の訪問は、秋篠宮殿下、妃殿下のフランクなお人柄を知ると同時に、新時代に向けて皇室が考えている新たな皇室のあり方を知ることのできた大変貴重な機会であったと考えている。

皇室関係の写真使用は制限があって、今回あまり使っておりません。秋篠宮邸の内部も「撮影は御遠慮下さい」ということでしたので御理解下さい。

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2015年7月29日 (水)

主基斎田100周年記念お田植まつり・ご報告

主基斎田100周年記念お田植まつり

 6月議会に続いて、市制施行記念式を始めとする大きな事業が続いたため、少し間が空いてしまいましたが、6月21日(日)に香川県綾川町で行われた「主基斎田(すきさいでん)100周年記念お田植まつり」について御報告致します。
 先に6月7日、岡崎の六ツ美地区において、秋篠宮同妃両殿下をお迎えして悠紀斎田100周年事業を行ったところであります。共に大正天皇即位の際の大嘗祭(だいじょうさい)のために行われた行事であり、近年では二つの地域が連携協力しながら毎年行事に取り組んでいます。二つそろって終了して初めて、本当に100周年事業を終えることができたと言えます。

 当日、岡崎を朝8時に出発した頃は雨空であった。同じ頃京都はどしゃ降りであったため心配していたが、現地においては素晴らしい晴天であった。
 どちらも大正天皇にまつわるお田植えまつりではあるが、六ツ美と綾川町におけるその様式はそれぞれのお国柄(地域性)、伝統や文化の特色からか若干の差違が見られた。お田植え歌と踊り、装束が異なっているのは作者が違うから当然としても、斎田の造営の仕方や儀式の進め方にもそれぞれに個性があり見比べてみると面白い。

秋篠宮同妃両殿下(2015年6月21日)

主基斎田100周年記念お田植まつり

 主基斎田の入り口には鳥居が造られているが、悠紀斎田の入り口は両サイドに白木の柱が二本立っているだけである。
 ほかにも、お田植え前の田んぼならしに黒牛を使う主基と、男の神主がスキをふるう悠紀、天ビン棒の男性が稲束を投げる主基と、女の子が手配りする悠紀など、仕様にも個性がある。
 しかしいずれにしても、日本の稲作文化のあり方を一つの儀式として表現している点では同じであり、稲作を通じて形成されてきた日本の社会のあり方、日本人の性格の基盤を表すものとしてこれらは重要な意味があると考える。
 主基の里においても、近く六ツ美の歴史民俗資料室に負けないような資料館を造る計画を進めるそうである。うらやましいことにこちらは県の補助金が出るらしい。

 神事ののち、県立農業経営高校の生徒達による拓心太鼓の披露があり、タイコ演奏のとどろく中、秋篠宮御夫妻の入場を迎えた。ダークスーツの殿下と薄黄色に統一されたお姿の紀子様に場内の視線が移り、歓声が上がった。
 秋篠宮殿下は六ツ美の時と同様に、「古くから受け継がれてきた稲作とそれにまつわる文化が、今後とも幾久しく受け継がれることを祈念します」と御挨拶をされた。
 昨年に続き当日は、岡崎からも観光バスで63名の皆さんが参加されて、主基斎田の100周年を祝うことができた。地域の行事としては異例の2000人程の住民参加による行事となったそうである。しかしながら綾川町の行事であるせいか、坂出駅から乗ったタクシーの運転手は場所どころか、お田植えまつりの存在そのものも知らなかった。その点もう少しPRに励んで頂きたいものだと思った。(昨年のタクシーの運転手も知らなかった。)
 式典終了後、松熊八幡宮へお参りをした。神社の宮司の上里(こうざと)さんは悠紀斎田の100周年にも御出席されており、また私のブログを読んでおみえだそうで恐縮至極であった。

文仁親王妃紀子様(2015年6月21日)

主基斎田100周年記念お田植まつり

 以下は、同夜、宿泊先で行われた交流会での私の挨拶です。

『皆様こんばんは。ただ今御紹介頂きました岡崎市長の内田です。
 本日は「主基斎田100周年記念お田植まつり」が、秋篠宮殿下、同妃殿下をお迎えし、すばらしい天候のもと無事終えられましたことを心からお祝いを申し上げます。
 6月7日に岡崎市で開催いたしました「悠紀斎田お田植えまつり」は、藤井町長、鈴木町議会議長をはじめ、主基斎田保存会の多くの皆様に御参加頂き、本日同様、盛大に開催することができました。心から感謝を申し上げます。
 私共も二つでワンセットと思っているわけですが、これにて両斎田のお田植えが無事終了いたしました。この100周年を一つの契機といたしまして、皆様との交流がより一層深まりますとともに、日本古来の稲作文化と歴史的・民族的祭事をいつまでも継承されることを期待しております。
 さて岡崎市では、本年は「悠紀斎田100周年」と同時に、郷土の英雄・徳川家康公没後400年の節目の年にあたり、岡崎市、静岡市、浜松市の3市合同で「家康公四百年祭」を開催しております。この4月には岡崎の春の風物詩・家康行列において、徳川及び四天王御宗家をはじめとした特別ゲストをお迎えし盛大に開催いたしました。
 また、8月には例年以上に華々しく花火大会を行い、10月下旬から11月初めにかけての5日間は「岡崎城まつり」を開催する予定であります。
 そして12月には家康公四百年祭公のフィナーレを飾る「家康公生誕祭」において、本市の中心部を流れる乙川の水面を利用し、青く光るLEDボール3万個を放つ「泰平の祈りプロジェクト」を実施するなど1年を通してさまざまな記念事業を展開しておりますので、どうぞ皆様、家族、友達を誘って頂き、岡崎へ足をお運び頂きたいと存じます。
 結びに、綾川町および主基斎田保存会の今後ますますの御発展と、両斎田の末永い交流ならびに、本日お集まりの皆様の御健勝と御多幸を祈念申し上げまして、挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。』

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2015年6月13日 (土)

悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 6月7日(日)、長年にわたり、地元六ツ美地区の皆様方とともに岡崎市が準備を続けてきた悠紀斎田(ゆきさいでん)100周年記念式典の本番を迎えた。当日は秋篠宮殿下、妃殿下をお迎えするということもあって、早朝より警察はじめ多くの皆様方に警備、交通整理、式典進行、会場造り、後片付けまで、お世話と御協力を頂き、無事開催できましたことを心より感謝申し上げます。

 今さら御説明の必要もないかと思うが、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」は、大正4年(1915年)に大正天皇即位の際の大嘗祭(だいじょうさい)に新米を献上するための斎田として、旧・六ツ美村(岡崎市中島町)が選ばれたことを記念し、代々受け継がれてきたものである。
 不思議なことに献穀を祝う行事がこうした形で毎年続いているのは、大正天皇の時の京都を中心としての東日本の悠紀(六ツ美村)、西日本の主基(香川県綾川町)だけである。他の天皇のときのものがどうして継続されなかったのか定かではないが、あえて考えてみれば、日本が比較的平和であった時代の式典として当時きちんと準備をして行えたものであったからではないかと思う。いずれにしても全国でも貴重な存在となっている。
 地元では田植え歌、踊り、装束、用具等は当時の記録と共に地域の宝としてきちんと保存されている。そうしたことが昭和41年の本市の無形民俗文化財指定、そして今日の「地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里」における歴史民俗資料室としての展示につながっていると考える。
 岡崎市としては今後もこの歴史的・民俗的祭事の伝承に力を注ぎ、御協力を頂いている皆様方に対し、可能な限りの支援をさせて頂きたいと思っている。
 当日私はお昼頃、神事の始まる前に会場に出向いた。公用車で駐車場に入ったところ、宮様の車と間違えた御婦人達がかけ寄ってみえたが、私だと分かり、ガッカリして(?)戻っていかれた。

六ツ美中学校・六ツ美北中学校合同吹奏楽

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「葵」武将隊、観光大使おかざき、オカザえもん

 六ツ美地区の小学校・中学校の生徒による踊りと演奏、岡崎城西高校の和太鼓、グレート家康公「葵」武将隊の演武に加え、モチ投げも行われ、田畑と道路に隣接した会場には、地元を中心に鈴なりの人出で大にぎわいであった。

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 皇族代表として御出席頂いた秋篠宮さま、紀子さまは午後1時半頃、御臨席を賜った。黒とアイスブルーの対照的色調の服装で到着された両宮さまは、車を下りて歩き始めた途端、待ち受けていた市民からの割れんばかりの大歓声を受けられることとなった。やはり皇族は世代を越えた日本最大のアイドルであることがよく分かる出来事であった。

 秋篠宮御夫妻は、式典ご参加ののち、歴史民俗資料室の展示を興味深くご覧になってみえた。また子供達の作品に対しても一つ一つていねいに視線を送り質問をされてみえた。私達は同席しなかったが、お田植えまつりの儀式に参加した子供達の代表となごやかに会話を楽しんでみえたことが印象的である。
 最後まで会場に集まってみえる市民に対し、ていねいな対応をされ、握手の求めにまで応じておられた。観客のエキサイトぶりに警護の方々のハラハラした様子が見てとれるようであった。

内田康宏

 式典には御来賓として、大村愛知県知事、地元の三代議士はじめ多くの公職者の皆様に御参加頂き、改めて感謝申し上げるものである。また、香川県の綾川町からも藤井賢町長、議長さんはじめ、市民代表の方々も40数名おいで頂いた。当日の夜、岡崎ニューグランドホテルでは、実行委員会主催による主基・悠紀両斎田保存会交流会が行われた。
 両保存会、有志の方々の御尽力により、長年素晴らしい親交を深めてこられ、日本の稲作文化とお田植えの伝統行事を共に後世に伝承してこられた。
 今後とも互いに協力し、さらなる友好と重要な意義をもつこの伝統行事の伝承に向けてお力添えを頂くことをお願い申し上げるものである。


主基斎田100周年記念お田植まつり・ご報告 (2015.07.29)

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2015年5月29日 (金)

「悠紀斎田100周年記念お田植えまつり」のお知らせ

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 大正3年(1914年)、大正天皇が即位される大嘗祭の儀式に使う新米を皇室に献穀する斎田として、西日本からは香川県綾川町の田が、東日本からは岡崎市中島町の田が選ばれました。
 その翌年、大正4年(1915年)6月5日に中島町で行われた「大嘗祭悠紀斎田お田植え」の式典には7万人あまりの人が集まったと言われています。以来、6月のお田植えまつりの行事は、六ツ美地区全域の住民の御理解と御協力のもと、今日まで受け継がれてきました。
 本年の100周年記念のおまつりは、秋篠宮同妃両殿下の御臨席を仰ぎ、6月7日(日)に開催いたします。併せて各種イベントも行います。

10時25分 六ツ美地区の小中学校による演奏等
12時00分 愛知県警警察音楽隊による演奏
12時50分 お田植え神事
14時00分 100周年記念式典
・秋篠宮同妃両殿下御臨席
・殿下からの御言葉
・お田植えおどり及び田植え
15時10分 城西高校和太鼓演奏
15時35分 グレート家康公「葵」武将隊演舞
16時00分 餅投げ(途中、オカザえもんも会場に登場)

 会場の「地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里」斎田広場付近に駐車場がないため、2箇所からシャトルバスを運行いたします。詳細を記したパンフレットを以下に掲載しました。お越しになる方は御覧下さいますよう、よろしくお願い申し上げます(クリックすると拡大します)。なおイベント・行事のタイムスケジュールにつきましては、実行委員会が既に作成、配布したものとは一部変更となっております。

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり


悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました (2015.06.13)

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2014年8月23日 (土)

悠紀・主基斎田100周年事業に向けて

主基斎田お田植えまつり(香川県綾川町)

 7月25日(金)は、大変多忙で中身の濃い一日となった。
 早朝より上京し、午前中は議員会館と国土交通省関係の要望活動を行い、午後からは皇居にある宮内庁に出向いた。来年平成27年に行われる六ツ美悠紀斎田100周年事業に、ぜひとも皇族のお成りを賜りたいという地元の悲願を達成すべくお願いに参内した次第である。
 この件の陳情に関しては、私は今年の2月についで2回目であり、六ツ美地区の実行委員会の皆さんは、平成18年(2006年)9月に訪問されて以来、今回で6回目の要望活動となった。
 言うまでもなく、地元六ツ美住民の方々の悠紀斎田100周年事業にかける情熱は一様のものではない。大正天皇の即位の折に、全国・東西2ヶ所にだけ許された、大嘗祭(だいじょうさい)に用いる新米を作ることのできる名誉と、お田植えまつりを100年間守り伝えてきた伝統に対する誇りに満ちているようでもある。
 当日は皇居前で実行委員会の皆さんと合流し、宮内庁の入口において、同じく100周年を迎える香川県綾川町(あやがわちょう)の主基斎田(すきさいでん)関係者の皆さんと待ち合わせ、皇族の年間行事日程を統括している宮務課へ共に要望活動を行った。

 さて、六ツ美地区の皆さんには説明の必要もないことであるが、岡崎市民でもご存じない方がおられるので、ここで大嘗祭とお田植えまつりについて解説しておくこととする。
 岡崎の六ツ美地区と綾川町(旧・綾歌郡山田村)は、大正天皇が即位される大嘗祭の儀式に使う新米を皇室に献穀する任を得たことが機縁となり、毎年それぞれの地で古式ゆかしい田植え風景を再現し、皇室に伝わる伝統を祭事の形にして継承してきている。また、平成元年から相互交流も始めており、来年共に100周年を迎えることになる。
 大嘗祭は、天皇の即位の度に歴代行われてきている伝統儀式であるが、なぜかお田植えまつりのような形で継承してきているのは、六ツ美と綾川町の2ヶ所のみのようである。ちみなに、大正天皇が即位された時、六ツ美地区は「六ツ美村」という村であった。昭和33年(1958年)に「六ツ美町」となり、昭和37年(1962年)10月15日に岡崎市に編入されている。

主基斎田お田植えまつり(香川県綾川町)

 日本人の生活スタイルも、時代と共に大きく移り変わっているが、旧石器時代以来の狩猟・採集生活を元に生活してきた縄文人達が、渡来人による大陸からの稲作文化を取り入れることによって、農耕を中心とした定住生活へと移り替わったことが最初の一番大きな変化であろう。弥生時代を迎えて、人々の生活がより豊かに安定してゆく中で、日本人の基本的な生活習慣やモノの考え方の大本が形成されてきた。それが大和朝廷以来つちかわれてきた皇室の存在や伝統文化と共に、日本人の思考形態や生活に大きく影響を与えてきたのではないだろうか。そうした大和民族の根元的な事柄に由来するのがこの大嘗祭であり、お田植えまつりではないかと私は考えている。昨今は米づくりも、田植え方式から、種籾(たねもみ)を直接田にまく方式に移りつつあり、今後一層その存在価値は高まってくるものと考えている。
 同じ儀式であるのに、六ツ美と綾川町のそれぞれの呼び名が異なるのは、かつて御所のあった京都を中心として、東にある斎田を「悠紀」(ゆき)と呼び、西に位置する斎田を「主基」(すき)と呼んだことに由来している。斎田は、皇居内で行われる「斎田点定の儀」により浄田として汚れなき土地の田が選ばれるという。具体的にどの田にするかということは、その地方に任されるそうである。

 本市においては、100周年を迎えるにあたって、六ツ美地区に「地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里」を建設し、歴史民俗資料室には当時使用された農耕機具(鍬や鎌や千歯こき)が展示されている。岡崎の方式が刺激となったせいか、綾川町も近く同様の施設を建設すると藤井賢町長さんも張り切ってみえた。

内田康宏

井手瀬絹子市議、山崎泰信市議、内田康宏、山崎憲伸市議、杉浦久直市議

 私はプレ事業でもあった今年の悠紀のお田植えまつりに出席できなかった。
 その埋め合わせという訳でもないが、6月22日(日)に香川県綾川町の主基のお田植えまつりに岡崎からの代表40人の一人として出席させて頂いた。綾川町からはこのところ、毎年町長をはじめとした代表団が岡崎までお越しになっていたが、私自身は県議時代から何度もお誘いの声を頂きながら今日まで出席が実現しなかった。そういういきさつもあったのである。
 本市と同様に立派な式典であり、私も浜田香川県知事はじめ各国会議員の皆様と共に御挨拶の機会を得た。
 田植えを祭事として行っている点は同様であったが、歌われる唄や踊り、衣装などに若干の差違がある点にお国柄がしのばれ、大変興味深く拝見していた。住宅地の一角に包まれつつある六ツ美の悠紀の里とは違い、山と田畑の中にある主基の里ののどかな風景には心安まるものがあった。
 所も時代も違うが、来年の100年祭が悠紀・主基それぞれどのようなものになるか大変興味がある。100年前、六ツ美の地には7万人の人出があったそうであるし、主基の里では式典責任者が心労で倒れたという話もある。来年は共に協力して例年以上に立派な催しにしたいと考えている。

宮内庁

 話は戻って、7月25日、100周年事業実行委員会の野村弘会長、都築末二副会長、野々山克彦副事務局長さん達と宮内庁で合流した私は、主基斎田の実行委員会の皆様共々、宮内庁長官官房宮務課長の小山氏並びに宮務調整専門官の宮浦氏と会談の機会をもつこととなった。
 要望内容はこれまでと同様、2月にもお伝えしてある通り、それぞれの100周年事業に対しぜひ皇室から宮様のお成りをお願い致したいということである。度重なる要望活動でこちらの熱意は十分伝わっていると考える。続いてそれぞれの100周年事業についての概略の説明をさせて頂き、宮内庁を後にした。

 六ツ美村と合併前の占部村長を曾祖父にもつ野々山氏は、この度資料集として『碧海大地の農業の礎 大嘗祭悠紀斎田』を自費出版されている。これは自宅に収められていた膨大な資料を市役所にお勤めの頃から20年かけて調査整理したものであるが、このことも宮内庁では好感をもって認識されているようであった。私もこうした多くの皆さんの熱意と希望を込めた100年祭は必ず成功させなければならないと考えている。

宮内庁


悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました (2015.06.13)

主基斎田100周年記念お田植まつり・ご報告 (2015.07.29)

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2014年2月22日 (土)

宮内庁訪問記

宮内庁訪問

 市長職に就いて一番意外であったことは、これほど出張の多い仕事だとは思わなかったことである。
 事業ごとの国への東京陳情の件は以前ブログで記したとおりであるが、他に全国市長会、東海市長会、県市長会、西三河市長会、中核市市長会などに始まり、ゆかりのまち・親善都市・姉妹都市等との交流、125以上ある「あて職」の役員としての仕事もある。また今回(2月5日)のように特別祭事にかかわる陳情もあるのだ。

 大正天皇即位後の大嘗祭(だいじょうさい)で皇室にお米を献上する「悠紀斎田」(ゆきさいでん)に、中島町の水田が選ばれてから来年で100年目を迎える。
 六ツ美地区では、平成27年6月7日(第一日曜日)に開催される記念すべき〝大嘗祭悠紀斎田100周年祭〟において、宮様のご来訪の実現を切に願っている。そのために5~6年も前から地元役員と代表者による宮内庁への要請陳情活動を度々行ってきた。

岡崎市地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里

 来年平成27年は、岡崎市にとって〝家康公400回忌〟を迎える重要な年であるが、地元の六ツ美地区においては、10年近く前からこの100周年をいかにお祝いするかということが話し合われている。数年前に100周年記念事業実行委員会も結成されたところでもある。100周年には例年にもまして盛大な記念式典、神事、お田植えまつりを執り行うために、現在着々と準備がすすめられている。岡崎市も昨年6月、悠紀斎田の隣接地に「悠紀の里」と命名した岡崎市・地域交流センターを建設し、地域の歴史と文化の伝承を企っている。
 いよいよ来年に本番を控え、「市長にも宮内庁詣でをしてほしい」という声が上がり、今回の私の上京が決まった。皇居へは代議士秘書時代に参内したことがあるし、県会議長として新年祝賀の儀に出席したこともあるが、いつも車で通過してしまうので、中を細かく観察することはできなかった。今回は皇居内でも宮内庁の訪問であったが、ゆっくりと見学することができた。考えてみると皇居前広場を歩くのも中学の修学旅行以来である。

 警備のゲートで身分照会をおこなってから歩いて坂下門をくぐる。坂下門外の変の頃と同じ門構えなのかどうかは分からないが門の大きさには圧倒される。
 白石の坂道をゆるやかに登ってゆくと右手に見える、3階建て(半地下1階)の建物が宮内庁である。以前訪れたのは随分前のことなので、あまりはっきりと覚えていない。最近の東京の官庁は随分モダンな建物になっているものもあるが、さすが宮内庁は入口、階段、手すり、置物まで歴史と伝統、風格を感じさせるシックな造りとなっている。エレベーターはさすがに新しくなっていたが、各階のフロアの移動表示が古風な時計の針様式に保たれている点が面白かった。
 宮内庁長官官房の宮務(きゅうむ)課長さんと調整専門官に面会して、地元の熱心な活動状況と伝統行事になっている悠紀斎田お田植えまつりについて改めてお話をする。100周年祭の皇室からのお成りを熱望する地元民の声などもお伝えした。こちらから、どなたをとリクエストできる筋合いのものでもないが、「大嘗祭は、男のまつりである」という話も聞いている。先方からは次のようなお返事を頂いた。
「一年後のこととなると、国内ばかりでなく外国とのお付き合いで国外に出向かれることもあり、直近にならないと最終的な決定とならない」
 地元としては、なるべく早く来訪が決まり、当日に向けて抜かりのない準備をしたいところであるが、なかなかこちらの都合の良いようにはことは運ばぬようである。とはいえ度重なる要請・陳情・活動のお陰で岡崎の熱意は十分伝わっていることは分かった。あとは祈るばかりである。
 もう一つ感心したことがある。役所ではどこも節電運動が行われているものであるが、宮内庁でも廊下の照明が一つ置きに消されていた。ご時世である。

宮内庁

 その後青山代議士に同行頂き、厚生労働省を訪れた。国民健康保険事業に関する陳情である。
 岡崎市は今年度、保険料の算定方式を「旧ただし書き方式」へ変更すると共に、豊橋市と共同で自治体クラウド・システムを構築し、安定的な国保運営を行ってきている。この制度改正において、保険料の激変を緩和する措置を「国民健康保険の財政調整基金」を財源として行い、被保険者の負担軽減を図っている。・・・等々のことを報告してきた。
 要するに「こんなにガンバってますから今年度も特別調整交付金の御配慮をお願いします」ということであるが、地方自治とは言っても常にこういう要望活動をしていかなくてはならないのが現実である。

厚生労働省

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2013年7月 6日 (土)

悠紀の里・オープン

悠紀の里

 六ツ美地域の長年の願いであった、地域交流センター・六ツ美分館「悠紀の里」(ゆきのさと)が6月9日にオープンを迎えた。この事業は、六ツ美地域の住民の意向を受け、平成21年(2009年)から岡崎市が整備計画をすすめてきたものである。
 今回完成したのは、第一期の歴史民俗資料室としての部分である。ここでは長く農業を生活基盤としてきた六ツ美地域の独自の伝統、文化と歴史についての展示がなされている。来年度には、第二期としてホールや活動室を備えた地域交流ゾーンが隣接地に建設される運びとなっている。
 歴史民俗資料室では、市指定の無形民俗文化財としての「大嘗祭悠紀斎田」(だいじょうさい ゆきさいでん)に関する資料を中心に、これまで地域において収集されていた生活資料と共に六ツ美地域に関する歴史を幅広く展示している。農業がすっかり機械化されてきた今日、主に手作業でなされていた頃の古い農機具等は大変貴重な展示資料となろう。
 展示主会場の床が一面、緑と紺のじゅうたんで美しく飾られ、三河の地理関係が理解できるように図示される配慮も施されている。また隣の研修室コーナーは、地元の歴史や文化を伝承して行くための学習会や地域の方々が世代を超えて交流しながら学習のできる場として活用されることとなっている。

 〝悠紀の里〟の名称は、大正4年(1915年)の新天皇が即位後初めて行う「新嘗祭(にいなめさい)」(大嘗祭)で皇室に献上する米を作るために、東日本から六ツ美の中島町の水田が〝悠紀斎田〟に、西日本から香川県綾川町の水田が〝主基斎田〟(すきさいでん)に選ばれたことに由来している。
 歴代の天皇の即位の折にも、同様の祭事が行われていたはずであるが、なぜか歴史を越えてこの祭事を地元の伝統行事として今日まで伝えてきているのは、この六ツ美(悠紀)と香川県綾川町(主基)の二つと、昭和天皇即位の時の滋賀県野洲市(悠紀)の三ヶ所だけである。それはこの三つの地域が、斎田に選ばれたことを名誉に思うことに加え、その栄誉を後世に伝えたいという気持ちがより一層強かったことの現れであろうと思う。その結果、今日まで六ツ美において伝えられてきたのが、この「大嘗祭悠紀斎田お田植えまつり」である。
 以前は、近くの中島八幡社で早乙女達の「お田植えおどり」をおこなってからお田植え唄にあわせて田植えの儀式が催行されていたこともある。現在では専用の敷地を確保し、すべての行事を一ヶ所で行うことができる。
 今回の第一期の民俗資料室の開館と、来年の第二期工事の終了により、この施設は完成することになる。そして再来年の平成27年(2015年)には第100回目を迎えることとなり、地元では「悠紀斎田100周年記念事業実行委員会」を設立し、六ツ美地域を挙げての記念事業を計画している。100年の時を越えて、この施設がこれから先もこの地の新たな伝統と友和の象徴として発展することを願っている。

地域交流センター・六ツ美分館「悠紀の里」

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり

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