岡崎ゆかりの英傑たち

2017年1月31日 (火)

藤岡弘、さん、今春本多忠勝役に!

藤岡弘、さん

 昨年、NHKの大河ドラマ『真田丸』で本多平八郎忠勝役を演じ存在感を示していた藤岡弘、さんが、今春の岡崎桜まつりの「家康行列」において本多忠勝役で再び登場することとなった。
 出演交渉は、昨年の夏頃から東宝の事務所を通して行ってきた。そして昨秋行った仮契約により正式に出演して頂けることと相成った。
 昨春の〝里見浩太朗・家康公〟による盛況ぶりを見ても明らかな通り、大物スターの登場は家康行列の魅力と集客力アップにもつながり、沿道の商店街からも「朝から来客が増えた」と好評だったことから、この度の藤岡さんへの出演交渉を行うことになったのである。ただ、今回は10月に選挙があったため、私が直接御挨拶にうかがうのが12月となってしまった。

家康行列(2014年4月6日)

 国交省への来年度予算要望に出かけた12月12日(月)の午後、電車を乗り継いで世田谷区に到着。駅から東宝の担当者の車で藤岡さんの事務所へと向かった。
 さすがにスターの個人事務所らしく、鉄筋コンクリートのがっしりとした建物であった。事務所の前には撮影機材を満載したと思われる大型車両が停められていた。なんとこの細い道路を通ってここに駐車させるのは、藤岡さん御本人だそうである。ちなみに藤岡さんは大型、大型特殊はじめ、ほとんどの車両の免許を持ってみえるそうだ。
 2階にあるガラス張りの応接室に向かった。階段をのぼる途中、テラスに本物かと見まがうような陶器製のトラの置物が我々の方を向いて座っており、ドキリとさせられた。
 応接間のテーブル上には、本多忠勝に関する資料や藤岡さんの雑誌インタヴューに答えたコピーなどがていねいに並べて置かれており、藤岡さんのこの役に対する思い入れと、来客に対する細やかな心配りが感じられるようであった。窓際には初代仮面ライダーの当時のポスターや貴重なフィギュアなどが並べられており、きっとマニアにはたまらないお宝であろう。
 そう言えば今回の話を本多家の御当主・本多大將(ひろゆき)さんに伝えたところ、初代仮面ライダー世代でもある大將さんは「ともかく理屈を超えてうれしい」とコメントされていた。

 ほどなくして入室してみえた藤岡弘、さんは肩書きに武道家とある通り、1メートル80センチを超える体軀(たいく)に筋肉のヨロイをまとっているような方であった。そうした見かけに反して、声はソフトでラジオの朗読番組に合いそうな、やさしい語り口であった。
 今回の本多忠勝役については一番敬愛する戦国武将であり、NHKの大河ドラマに忠勝役の出演依頼があった時は運命的なものを感じたそうである。私達にはこれまでも主役を歴任されてきたイメージが強いのであるが、御本人は「役者人生で初めて本当にやりたい役が回ってきた」と熱く語られた。
 藤岡さんの武士道と日本文化・伝統に対する思い入れは深く、俳優業の傍ら、武士道と日本文化の伝道師として世界中を回って活躍されていることはつとに有名である。私もこれまで70数ヶ国を訪れているが、藤岡さんの100ヶ国近くにはとても及ばない。

 職業軍人であると同時に武道家でもあり、戦後は警察官として指導的立場にあった父君喜一氏から「文武両道に通じる規律ある生活と古武術に始まり、柔道、剣術など各種武道を厳しく指導を受けたこと」が今日のベースになっているということであった。
 父君は戦時中に受けた弾の跡やキズ跡があり、そのせいか長生きはされなかったとのことである。そのため戦友でもあった小野田寛郎少尉が戦後29年経って(昭和49年)フィリピンのルパング島で発見され、帰国した折には、息子である藤岡弘、さんと出会う機会があり、小野田さんとはその後も親交が続き、父君の語られなかった戦時秘話を聞くことができたという。その後小野田さんがブラジルへ移住し、牧場を始められ、ブラジル軍に関わりを持たれていた頃にも藤岡さんは南米まで出かけられたそうである。小野田さんが亡くなられる前にもう一度会うという約束が果たせなかったことが心残りであると語られた。

藤岡弘、さん

 藤岡さんは東宝映画『大空のサムライ』(昭和51年)にも主演されている。原作者であり物語の主人公でもある零戦の撃墜王・坂井三郎氏とも面識があり、多くのお話を直接聞かれているそうである。藤岡さんはこの映画の後に小型飛行機操縦の免許もとっている。小型船舶の免許もあるそうであるから、陸・海・空すべての映画に対応できる。無線の資格もあるそうで、これで爆発物取扱の資格があればアメリカ海軍のネイビー・シールズの隊員も務まりそうである。

 それから時代劇の話でも盛り上がった。友人から「映画オタク」と呼ばれる私であるが、『椿三十郎』における三船敏郎と仲代達矢の終盤の決闘シーンについてつい熱く語ってしまった。
 瞬時に決まる三船さんの居合い抜きの場面をスローモーションで観てもよく分からず、後に何かの本で読んで「右手で抜いた刀の背を左手のヒジで押し切りするように高速回転させる」ということを知ったとお話したところ、さすが刀道教士七段、抜刀四段に加え、居合道も極めてみえる藤岡さんは、すでに御自身も試みておられ、「あれって本当に出来るんですよ。私もやってみました」と軽く答えられ、またもや驚かされた。
 よく手入れされている日本刀の刀身は台所の包丁とは違い、うっかり刀の部分を握りでもすれば手の平が切れるほど鋭利である。私達がマネでもしようとすれば、自分の手足を切るのが関の山である。武芸百般に通じた現代のサムライ・藤岡弘、さんにおいてこそ成し得る技であることを明記しておく。

藤岡弘、さん

 話がはずみ、1階の奥にあるお茶室にも案内して頂いた。室内には藤岡さん自らデザインされた鎧兜をはじめとし、何領もの甲冑(かっちゅう)が並んでいた。囲炉裏の周りに腰を下ろした我々は、藤岡さん手ずから入れられたお茶を頂き、足元に置いてあった仕込みヅエ(レプリカ)も見せてもらうことができた。
 これらの凝り具合に私は同じ傾向の趣味の臭いを感じ、個人的にも藤岡弘、さんを好きになりそうである。
 別れ際に「また、ぜひ遊びに来て下さい」と言われたことを女房に話すと、「バカじゃない、社交辞令に決まってるじゃない!」と一笑に付されてしまった。
 しかし帰りに外まで出て、私達の車が角を曲がるまで見送って下さった藤岡さんの誠実な姿からは真実しか感じられないと、私は勝手に思っている。

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2017年1月10日 (火)

若き家康公像の制作に思う

 12月末、岐阜にある神戸峰男(かんべ みねお)先生のアトリエを訪れた。若き家康公像の制作が着々と進んでいることが確かめられ満足であった。
 今回の家康公像制作のために神戸先生は新しくアトリエを増築されている。「日本一の騎馬像を造る」という決意が感じられて、感謝の念でいっぱいである。
 完成時には高さ3メートルの台座の上に、等身の1.5倍の騎馬像が屹立することとなり、高さ・大きさ共に日本一の騎馬像が誕生することとなる。試作の10分の1サイズと比べ、今回拝見した3分の1サイズのモデルは格段に写実的な出来栄えであり、春頃には実物の制作に入られるそうである。

神戸峰男先生、内田康宏

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 使用する粘土はイタリアのフィレンツェ産の土をオリーブオイルで練ったもので、3トンほどの粘土を使うという。支柱として使う木は地元、南木曽のヒノキだそうである。造り始めると作業台の高さも5メートル以上になるそうだ。時には夜中まで仕事に集中することがあり、作家の中には作業に没頭しすぎて落下死した方もあるという。神戸先生には、とにかく安全に制作して頂きたいと思っている。

 この事業は、市民の皆さんからの浄財(寄附金)を使って、東岡崎駅の北東街区に徳川家康公の騎馬像を設置するというものである。桶狭間の敗戦により岡崎への帰還を果たした松平元康が徳川家康と改名した25歳当時の若き日の姿を再現し、ピンチをチャンスに転換し、天下統一と平和な世の中を作り上げた郷土の英雄の姿から「困難に立ち向かい、人生を切り開いてゆく」精神を子供達に学んでほしいと願うものである。

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 正式な募金活動はまだ昨年4月に始めたばかりであるが、商工会議所の前会頭はじめ、岡崎信用金庫、その他多くの企業や篤志家の方々の熱い思いを込めた御寄附が続いている。目標額は設置費の半分ということであったが、このペースでゆくと全額寄附金でまかなえるかもしれない。本当に岡崎市民の皆さんは愛郷心の強い方々が多く、今更ながらに感謝申し上げるものである。

古澤武雄さん、徳川恒孝さん、安部龍太郎さん、内田康宏

 おととしの11月、家康公四百年祭のシンポジウム〝徳川創業期を支えた家康公と家臣団〟の折に、徳川18代の德川恒孝(つねなり)様も「このような企画の催しを行えるのは、全国でも岡崎くらいですよ」とおっしゃってみえた。
 岡崎独自の歴史、文化、伝統という切り口で真心をこめて訴えかけてゆくと必ずそれに応えて頂ける岡崎市民の皆さんには、どんなに感謝しても余りある。私達もこうした市民の御厚情に甘えるばかりでなく、善意の心にしっかりと応える仕事をしなくてはならないと思っている。

 しかし世の中には明があれば暗がある如く、物事を素直に受け止め協力して下さる方もあれば、何につけても足を引っ張ろうとする人もいるものである。
 岡崎の歴史を考え、多くの岡崎市民の期待感を見るにつけても、とっくの昔に設置されて然るべき、史実に基づいた〝若き日の家康公像〟の建設を「ムダ使い」であるとか「形を変えた政治献金か」などと揶揄する人もいる。こうした何事もゆがんだ目でしかモノを見られないかわいそうな人達も世の中にはいるのである。
 また、私は先頃小さな子供さんがお母さんの助けを借りて十円玉を募金箱に入れている姿を見たことがあるが、「そうした金額が少ない」とバカにする貧しい心の持ち主もいるのである。
 今回私達が試みている寄附金による事業というのは、決して個々の寄附金の多寡を競うものではなく、一人でも多くの市民の参加を願って行うものなのである。仮に一人でも5千万円寄附すれば5千万円になり、300人でも一人10円なら3000円にしかならない。そんな計算もできないのだろうか? また私は一部の集団のように半強制的な募金のやり方は好まない。
 たとえ一人一人の寄附が少額であっても〝自らも建設に関わったという参加意識〟や〝歴史を振り返る切っ掛けが愛郷心の醸成を促す〟ことに真の意味と価値があるのである。もっとも唯物的思想に凝り固まっている人々にそうしたデリケートな心の動きを期待することは無理なのかもしれない。

東岡崎駅周辺地区整備全体のイメージ図

 いずれにせよ、実際に若き家康公の騎馬像が完成すれば、そんな声も雲散霧消するものと思っている。単に観光のシンボルというだけでなく、入学試験やスポーツの試合に出かける子供達が東岡崎駅に向かう前に必勝の願いを込めてから出かけるような像となることも期待している。そしてこの像が明治維新以来、形成されてきたタヌキオヤジ的イメージを払拭して、新たな家康公の姿を現すものとなることを願っている。
 ギリシア、ローマの例を持ち出すまでもなく、ブロンズ像は戦争さえなければ2000年以上残る。今後末永く、太平の世を現出した郷土の英傑の志を伝えてくれることであろう。


若き徳川家康公の騎馬像、建築へ (2016.02.27)

新たなシンボル「徳川家康公像」 (2015.11.05)

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2016年4月12日 (火)

大相撲岡崎場所

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 昨年の11月24日、日本相撲協会副理事で元横綱の大乃国関(現・芝田山親方)が岡崎市を訪れ、私の所に御挨拶にみえた。用向きは平成28年4月に岡崎にて地方巡業を行いたいということであった。
 応接イスに座られた大乃国関は、イスの席幅一杯の大きな体軀(たいく)の方であり、立ち上がったらオシリがイスにはさまったままとなりそうな気がしたものである。通常、現役を引退するとやせられる方が多いようであるが、その気配はこの人にはなく、テレビ番組でシュークリームを作ったりスイーツの本を出されるくらいであるので、「ひょっとしたら甘党が原因か?」と勝手に思っていた。実際にお会いした大乃国関は大変能弁であり、話題も豊富であった。とつ弁の方が多い相撲界ではうってつけの広報担当であろうと思われたものである。軽妙な語り口からニュースキャスターでもできそうな方であった。

芝田山親方、内田康宏

大相撲岡崎場所(2016年4月6日)

 それから早(はや)半年近く経ち、大相撲岡崎場所の当日(4月6日)を迎えた。所々にポスターが貼られてあるくらいでそれほど活発な宣伝を行った形跡もなかったのであるが、日本の国技だけあって相撲ファンというのは全国津々浦々にみえるようであり、中央総合公園の体育館が満員であった。後ほどの話では4700~4800人の入場者だそうであり、改めて大相撲の人気のほどを再認識した。ことにスモウ追っかけの若い女性(スモ女?)の多いことに驚かされた。太っているが強くて、礼儀正しく、お金持ち?の男はモテるのだろう。

 この事業の主催は、名古屋テレビ放送と岡崎パブリックサービスであり、岡崎市並びに教育委員会、体育協会、商工会議所が後援をして開催にこぎつけたものである。岡崎市での巡業開催は実に18年ぶりのことであり、地元の相撲ファンにとっては身近で本物の関取が見られる貴重な機会となった。こうしたことをきっかけとして本市からも、出羽疾風(でわはやて)関に続く未来の関取の出現を期待するものである。

出羽疾風・プロフィール

 相撲はその歴史を遡ると鎌倉時代にはすでに武士の戦闘の訓練や寺社の奉納相撲として行われており、戦国期を経て江戸時代に様式が定型化し、日本の伝統文化として定着したものの一つである。1年6場所15日制になったのは昭和30年代のことである。
 かつて3年のアメリカ生活を終え日本に帰国した私が、日本に帰ってきたということを何よりも強く感じたのは、NHKテレビで大相撲をやっているのを見た時であった。そのことは今も鮮明に記憶にある。

 当日は朝からのちびっこ相撲大会に始まり、幕下力士の取組や相撲甚句(じんく)、初切(しょっきり)など地方巡業ならではの催しが行われた。

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 幕内力士の取組前に巡業部長の貴乃花親方と面会した。大乃国関とは違い貴乃花親方は奥様のダイエット食のせいか陸上競技かバスケットの選手のようなスマートな体形となっていた。
 続いて錬成道場にしつらえた仮の控え室に入った。そこは横綱、大関の専用となっており、段ボール製のヤナギゴウリで仕切られたそれぞれのエリアの中央に横綱が腰掛けて髪を結い直したり、付き人達が縄をなっていた。横綱が腰に締めているあの綱(白いしめ縄)を私はチャンピオンベルトのように巻いて身に着けるものと思っていただけに、毎回このように縄をなって作り上げることを知り大変驚いた。
 それにしても、まわしを付ける前の大関の某氏が黄色の星のマーク付きの真っ赤なデカパンをはいていたのは面白い光景であった。片方に大人が一人入るほどの大きさであり特注品であろう。おまけに体に巻いたピンクのタオルがキティちゃんの図柄であり、きっとファンからのプレゼントであろうと思うが、まさにマンガ的であった。
 付き人が肩にかけて重そうに運んでいたが、まわしの重さは個人差があり平均10~12、3キロだそうである。ひときわ大きな体形であった曙(あけぼの)関は20キロのものをつけていたそうである。さらに化粧まわしが同じくらいの重さがあるそうであるから、幕内の関取は本当に大変である。
 横綱のところには、幕内力士が対戦の前に次々と挨拶にきていたが、その対応を見ているといかにもこの世界は力による階級社会であるということが分かるものであった。

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 その後主催者の方々と共に三横綱(日馬富士、白鵬、鶴竜)と横並びの記念写真を撮らせて頂くことができた。遠巻きに見ていても大きさはよく分かるものであるが、横綱の間に挟まれてみると改めてその迫力と肉感のすごさを体感した。三横綱それぞれの個性的な土俵入りを土俵際で初めて見せて頂いた後、名古屋テレビの横井社長と共に土俵上で御挨拶をさせて頂いた。

大相撲岡崎場所(2016年4月6日)

大相撲岡崎場所(2016年4月6日)

大相撲岡崎場所(2016年4月6日)

 それにしても市長という仕事は本業以外にもやらなくてはならないことが実に多い。市長になっていなければ東京ドームでの都市対抗戦での始球式や大相撲の土俵上での挨拶などの機会もなかったわけである。
 貴重な機会を与えて下さった関係者に改めて感謝致すと共に御来場頂いた多くのお客様に心から御礼申し上げます。

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2016年2月27日 (土)

若き徳川家康公の騎馬像、建築へ

徳川家康公像

 乙川リバーフロント計画の看板事業の一つである、東岡崎駅前に設置予定の若きの日の徳川家康公の像のイメージ・デザインがようやく決定をみた。
「岡崎は徳川家康の生誕の地と言うくせに、駅前に像の一つも無いではないか」
 これまでこうしたセリフをよく言われたものである。私も個人的に何度も悔しい思いをしたことがある。市民の中にも同じ経験をされた方も少なくないことと思っている。
 それゆえ私は、先の市長選以来、ことあるごとに「東岡崎駅前に、仙台の伊達政宗公やロシアのピョートル大帝の騎馬像に負けない、若き日の家康公の像を建てたい」と述べてきた。
 そんな私や、多くの市民の思いを踏まえて、リバーフロント整備計画に市民と岡崎の新時代のシンボルとして、若き家康公の像の建築計画が盛り込まれることとなった。そして200回を超える講演会、説明会、対話集会を通じて議論を重ねる中で、昨年6月に設置したのが「徳川家康公像デザイン検討会議」である。大学教授や歴史研究家、各文化団体の代表といった専門家や市民代表ら10人のメンバーで構成された検討会議によって、具体的なプランの検討が始まった。
 その後、子供達も対象とした市民参加によるデザインコンクールが行われ、改めて家康公像に対する市民個々の思いを確かめ、建設への気運を高めると共に、検討会議においてさらなる歴史的考証を加えて、デザインの基本となる方向性が岡崎市に提言された。

徳川家康公像デザインコンクール神戸峰男先生

 ブログでもすでにお伝えしたとおり、検討会議の協議の結果、日本芸術院の会員であり、我が国の銅像制作の第一人者であり、馬の像の制作において実績のある神戸峰男(かんべ みねお)先生が推薦された。市としてもさらに調査、検討の上でお願いすることを決定した。

 先日(2月22日)発表された家康像のデザインは、顔については生前の家康公に一番似ていると言われる京都・知恩院(ちおんいん)にある木彫の「徳川家康坐像」をモデルにしている。

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 松平元康は松平家康と名を変えたのち、25歳の折に、人生の再出発を期して松平から徳川に姓を改め、朝廷から正式に認められた。その当時はまだ先祖伝来の古めかしい鎧・甲冑に身を固めており、今回の騎馬像はそうしたイメージが十分再現され、時代考証の方もしっかりなされている。
 また若き日の家康公は乗馬が得意で弓の名手(免許皆伝)でもあり、「馬上の将」とも「海道一の弓取り」とも呼ばれていたという。今回、騎乗姿で弓を持つデザインとなったのは、そうした伝承を元に岡崎市内の名跡を歩いた神戸先生の着想によるものである。冒頭の写真はイメージ形成のために神戸先生が10分の1サイズで造られた粘土像であり、神戸先生の友人で仏像写真家として有名な山崎兼慈(やまざきけんじ)氏に撮影をして頂いた。
 応仁の乱以来100数十年続いた戦国時代という暗黒の世を終わらせるべく、一人の若者が立ち上がった姿をイメージしており、まさに家康公の旗印であった「厭離穢土・欣求浄土」(おんりえど・ごんぐじょうど)の言葉を体現したようなできばえである。この粘土像もポスターとして活用することにしている。

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東岡崎駅・ペデストリアンデッキ

 具体的な騎馬像の設置場所としては、東岡崎駅北東に建設予定のペデストリアンデッキの北端が考えられている。背景に乙川の流れと緑を配するロケーションとなる。
 また像の大きさは、設置場所の広さと高さ約2メートルの台座の上に置くことを考え、等身の1.5倍とし、デッキの完成する平成30年度中の完成を目指している。
 制作費については総額約7,000万円となる見込みであるが、このサイズの作品を一流の作家に業者を通して依頼すれば、通常1億円以上が通り相場であるという話も聞いている。今回、神戸先生のような大家の方が我々の想いを形にし、作家人生の集大成としての作品とするべく心血を注いで制作に取り組んで頂いていることを喜びとするものである。

 この像は市民の愛郷心の象徴とするべく、市民からの浄財による募金を主な財源として考えているので、御理解、御協力のほどお願い申し上げる次第である。まだ正式な募金活動は行っていないが、もうすでに私の話を耳にされた企業や個人の方々から200万円ほどの寄附金が集まっており、この事業に対する市民の特別な思いと関心の高さというものを改めて感じている。ぜひとも少額であっても、子供達が「あの像を造るのに僕のお小遣いも使ったんだよ」と自慢できるようなモノにしたいと思っている。
 そしてこの家康像は、単なる観光のスポットとしてだけではなく、これから青雲の志を抱いてふるさと岡崎を旅立って行く若者のつかの間の立志の誓いの場として、あるいは人生の壁にあたった方々が、桶狭間の戦いで敗れた松平元康が再起の心を持って徳川家康に改名し、天下統一と平和国家建設に向けて歩みを始めた故事にならい、再出発への思いを奮い立たせる場となればとも考えている。
 いずれにせよ、この度決定したデザインは、青年期の若々しい家康公の姿と躍動感あふれる騎馬がマッチした素晴らしいものであり、明治維新以降に広められたタヌキオヤジ的イメージを払拭し、市民の愛郷心の証として、岡崎の新たなシンボルとして末永く愛されることを望むものである。


寄附金の概要
 皆様から寄附金を募集すると共に、募金箱も設置します。寄附金全体の概要について御説明いたします。

1.寄附金(個人)
受付時期 平成28年4月下旬から開始予定のふるさと納税制度を活用した「おかざき応援寄附金」に、1万円以上の寄附をされた個人の方には、本市をPRするお礼の品の贈呈を予定しています。
申込方法 所定の寄附申込書により受付をします。
2.寄附金(法人)
受付時期 随時受付をしています。
申込方法 所定の寄附申込書により受付をしています。
50万円以上寄附された方には、「徳川家康公像記念品」の贈呈を予定しています。ご寄附いただいた金額は、確定申告によって全額が損金算入されます。
寄附申込書は下記ページよりダウンロードできます。
徳川家康公像デザイン決定
3.募金箱
設置時期 平成28年4月下旬から募金箱を設置する予定です。
設置場所 市内関係箇所(岡崎支所、大平支所、東部支所、岩津支所、矢作支所、六ツ美支所、額田支所、こども美術博物館、図書館交流プラザ、岡崎城、家康館、観光案内所(東岡崎駅)、観光案内所(岡崎駅)、市役所正面玄関(東庁舎1階)、観光課(西庁舎1階))15箇所に設置を予定しております。
※募金箱への募金は、全て徳川家康公像の制作に活用させていただきます。

新たなシンボル「徳川家康公像」 (2015.11.05)

若き家康公像の制作に思う (2017.01.10)

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2015年12月 5日 (土)

秋の「岡崎城まつり」終わる

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 徳川家康公顕彰四百年祭として、隣県の静岡市(大御所の地)、浜松市(出世の地)、そして我が岡崎市(生誕の地)の三市連携によってこの一年間、様々な記念行事を行ってきましたが、岡崎においては「岡崎城まつり」を終えると後は12月26日の生誕祭と共に行うエンディング・セレモニー(岡崎公園内イルミネーションと、LEDボール3万個を流す光の祭典)だけとなります。
 10月30日(金)から11月3日(火)まで岡崎公園多目的広場において行われた「家康公四百年祭 岡崎城まつり」では、直径13メートル、高さ7メートルのドーム型テント内に家康公の一生を10分程度にまとめた映像が映し出され、大変に好評を博しました。
 今際(いまわ)の時を迎えた家康公が枕元に控える本多正純に向かい、おのれの人生を振り返って語りかけるところから物語は始まります。360度にわたる桜吹雪の情景、満点に広がる宇宙の星々の景観の美しさと共に、歴史を踏まえたストーリー性も優れており、このまま終わらせてしまうのではなく、DVD化して小中学校の子供達にぜひ一度見てもらいたいと考えています。

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家康公夢シアター

家康公夢シアター

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 ドーム・テントの周囲では、江戸時代の町並みが再現された「大江戸にぎわい横丁」が造られ、江戸の食文化や三河の食の伝統に加え、イノシシやシカの肉を使ったジビエ料理(「天下泰平鍋」と名付けられた日替わりの鍋)など様々に工夫を凝らした食べ物が販売されていました。
 観光産業育成のための重要なステップの一つが、この「おいしい名物料理」であると私は考えていますが、今回の多様な試みは大きな意義があったと思っています。
 また特設ステージでは、講談、落語、漫談に加え、多くの市民参加のパフォーマンスが行われ、周囲の出店でも様々な物品販売がなされていました。
 その他に子供向けに木版画体験、紙甲冑(かっちゅう)を身にまとったスポーツ・チャンバラなども行われ、御協力頂いた皆様には改めて感謝申し上げます。

 初日の10月30日(金)には、りぶらホールにおいて「愛知県観光交流サミットinおかざき」が開かれ、〝観光あいち〟を目指す愛知県より、副知事、県内各地自治体代表、観光協会、旅行エージェントの方々達が参集して盛会に行われました。
 「モノづくり」と並んでもう一つの経済の柱となる観光産業の育成を目指す岡崎市としては、現在、その第一歩となる『乙川の豊かな自然景観と岡崎城をはじめとする多くの歴史的資産を活かしたまちづくり』を推進していることを私はお話し申し上げました。

 続く11月1日(日)には、三部構成による記念シンポジウム「徳川創業期を支えた家康公と家臣団」が、徳川宗家第18代・德川恒孝(つねなり)様をはじめ、徳川四天王(酒井、本多、榊原、井伊)、さらにかつて徳川家臣団を形成していた武士達の子孫の方々に御参加を頂くことができました。

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 当日は直木賞作家・安部龍太郎先生の基調講演を皮切りに、徳川創業期において家康公と家臣団がどのようにして260年に及ぶ泰平の世を築き上げたかを、生誕の地・岡崎ならではの逸話をまじえてお話を頂きました。その後の分科会では宗家はじめ家臣団の方々から、さらに興味深いお話が続き、歴史に対する見識をより深めるための一日となったことを喜んでおります。また、夕方からは「平成三河武士たちの宴」と題した懇親会が開かれました。
 会場のスペースに対し応募者が多かったため、参加できなかった皆様には心よりお詫び申し上げます。私は講演やトークショーを直接お聞きすることができませんでしたが、後ほど録画を拝見し、歴史に対する新たな視点、各家臣団の家系ならではの秘話を知り、歴史の深さと面白さを感じたものです。

 さて、シンポジウムの開会冒頭、私は現在制作中の徳川四天王の石像と、東岡崎駅前に計画中である若き日の家康公の騎馬像についてお話しました。
 ことに家康公像は市民の浄財、御寄付を元とした計画であり、文字通り市民の力による新たな岡崎市のシンボルとなるものであります。今後「観光産業都市・岡崎」の表看板として向こう百年以上存在するものとするべく、一人でも多くの皆様の御理解、御協力を重ねてお願い致します。
 さらに言うならば、こうした事業の目的は単なる観光による経済振興にとどまりません。明治以降、新政府の誕生以後、家康公はタヌキオヤジ的イメージばかりが増幅されている傾向があり、正しい功績が実体から離れているように思われます。士農工商など封建的な身分制度のマイナスの印象のみが先行している江戸時代に対する認識を改め、その歴史的価値というものを新たにこの岡崎から発信してゆきたいと考えております。
 明治維新の大改革はなぜあのような短期間で成し遂げられたのか。その原点は、江戸時代の教育(藩校、寺子屋)を基盤とした、当時欧米諸国でも無かった90%を超える識字率と参勤交代などを通じて全国に広まっていた国民全体の文化レベルの高さにあると私は考えております。
 そうした基盤があったからこそ、あのような短期間による近代化と国民国家の形成が成し遂げられたのだと思います。


(シンポジウム「徳川創業期を支えた家康公と家臣団」の写真は、岡崎信用金庫様のPR誌『おかしん』2015年12月号から拝借しました。)

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2015年11月 5日 (木)

新たなシンボル「徳川家康公像」

徳川家康公像デザインコンクール

 この8月、「歴史まちづくり」事業の重要なポイントの一つである徳川四天王像のデザインが決定した。現在、その制作が始まったところである。
 そしていよいよ、新たな岡崎のシンボルとなる徳川家康公像の作製に向けての準備にとりかかることになった。平成30年度末の完成を目標とし、岡崎の玄関口である東岡崎駅地区に設置する計画である。
 その第一段階とも言える「徳川家康公像デザインコンクール」に対しては、昨年の「乙川リバーフロント・アイデアコンクール」にも負けない1,000件近い市民の御応募を頂き、改めてこのテーマに対する市民の皆さんの関心の高さというものを再認識した次第である。

徳川家康公像デザインコンクール

 徳川家康公は今から472年前にこの岡崎の地に生まれ、祖父、父共に若くして非業の死を遂げ、自らも7歳より織田、今川それぞれの大名の人質になるという複雑な少年期を過ごしている。そして19歳の年に桶狭間の戦いにおいて今川義元が倒れたことにより、岡崎に戻り独立を果たすこととなった。信長との同盟ののち松平元康から松平家康と名を変え、25歳になった折に姓を徳川に改め、文字通り徳川家康の誕生となった。言わば岡崎において二度目の生を受けたとも言える。そして29歳で浜松に居城を移し、厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)の旗の下、天下泰平の歩みを始めたのである。
 岡崎はそうした始まりの地でありながら、これまで経済優先の戦後復興政策に邁進してきたため、自らの足下にある大きな宝、歴史、文化、自然というものに対する対策が後回しになってきたような気がする。そのせいか他県では、徳川家康公を静岡県出身の人物と思っている方も少なくない。「岡崎は家康公の生誕の地と言いながら、駅前には銅像一つないではないか!」という残念な言葉をこれまで何度も聞かされたものである。きっと市民の皆さんも御経験があろうと思う。
 今後はそんなことをなくしたい、「生誕の地である」と胸を張って言えるようにしたい――というのがこのプロジェクトを始めたそもそもの切っ掛けであった。

 そうした新たなるシンボルを市民の力で駅前に現出させたいということは以前から考え話してきたことであり、選挙の折にも表明し、市長就任後も市民対話集会も含め各所で語ってきたことである。そしてこの像は単なる観光用のものではなく、市民がこの像を見ることで300年近い泰平の世を築き上げた三河の先人達の偉業と精神を思い起こしてほしいという願いを込めたものである。

徳川家康公像デザインコンクール

 これまで活性化本部や役所の担当者の意見を参考にして基本構想を練り上げてきたものであるが、具体的な家康公像の検討にあたっては本年6月2日、デザインや大きさ、設置場所等について多様かつ専門的な考えを得るために「徳川家康公像デザイン検討会議」を設置した。検討会議のメンバーは「表1」の通り、各分野の専門家、学識経験者、地元代表等である。

「表1」
氏 名 団体・機関名 役職等
大野 幾生 愛知産業大学 招聘教授
市橋 章男 おかざき塾 歴史教室主宰
清水 幹男
(議長)
岡崎美術協会
岡崎文化協会
岡崎美術協会顧問
岡崎文化協会会長
鈴木 雅美 岡崎明大寺商店街振興組合 代表理事
丹羽 章規 名古屋鉄道株式会社 東部支配人室サブリーダー
志賀 爲宏 岡崎市観光協会 会長
宮本 貞夫 岡崎市経済振興部 部長
堀江 登志実 岡崎市美術博物館 副館長
上田 知嗣 グレート家康公「葵」武将隊 徳川家康役
小田 悠紀 小松姫役

 会議の議論の中から「像の制作において、市民からの寄附もその財源とするのであるから、デザインについても広く一般公募すべき」という御意見を頂き、今回のデザインコンクールを行ったところである。

 結果として総数990点の応募を頂き、うち以下の5点の入選作品に「家康公像賞」を授与することとなった。(「審査員特別賞」受賞作品については、岡崎市ホームページ内に掲載しました。)

半田祐樹さん(愛知教育大学付属小学校1年)

■半田祐樹さん (愛知教育大学付属小学校1年)

石川七芭さん (矢作北小学校2年)

■石川七芭さん (矢作北小学校2年)

浅野健太さん (矢作北小学校5年)

■浅野健太さん (矢作北小学校5年)

田代陽大さん (矢作北小学校5年)

■田代陽大さん (矢作北小学校5年)

山下清さん

■山下清さん

 コンクールで得られた像のデザインイメージは制作者に伝えられ、参考にして頂くことになっている。
 併せて「徳川家康公デザイン検討会議」から以下の7つの提言が制作者に伝えられる。これらを参考の上、制作のイメージをふくらませて頂き家康公の像は造られることとなる。

1.騎馬像であること
2.若々しさが感じられる像であること(若き日の家康公)
3.これからの時代を築いていく意気込みを感じられるもの
4.馬は静かに歩いていること(飽きのこないオーソドックスなもの)
5.知恩院(京都)にある木像を25歳にした顔であること
6.等身大以上のものであること
7.銅像であること

 製作者の選定については、検討会議により日本芸術院会員である神戸峰男(かんべ みねお)氏が推薦された。銅像の製作者としては日本屈指の方であり、御本人の内諾も頂いている。プロフィールは「表2」の通りである。

「表2」
氏 名 神戸 峰男(かんべ みねお)
生年月日 1944年(昭和19年)8月10日生
住 所 岐阜県可児市(兼アトリエ)
経 歴 1963年 清水多嘉示、木下繁に師事
1967年 武蔵野美術大学造形学部卒業
1968年 第11回日展入選 以降連続入選
2008年 第64回日本芸術院賞受賞
2012年 日本芸術院会員
現 在 日本芸術院会員、公益社団法人日展常務理事、
公益社団法人日本彫刻会理事、名古屋芸術大学名誉教授

 神戸氏の作品は、近くでは碧南市の大浜熊野大神社に神馬像があり、同じく碧南市の藤井達吉現代美術館には藤井達吉翁像が展示されている。先般、私も現地に出向き実物と対面してきたが、表現力が豊かでリアリティにあふれる見事な作品であると思った。

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 今後のスケジュールとしては、神戸氏に市内の家康公ゆかりの地を取材して頂き、岡崎の歴史やまちの雰囲気をつかんで頂いた上で銅像のイメージ画を作成して頂くこととなっている。イメージ画の正式な公表は来年平成28年2月の予定である。
 そしてその後銅像の制作に入り、平成30年度末までに駅前整備事業の進展を見ながら東岡崎駅前の適地に家康公像を設置したいと考えている。像の大きさ、制作費用等については改めて公表する予定である。
 もうすでにライオンズクラブ、ロータリークラブなど各会からの協力申し入れも頂いているところであり、これまで個別で御寄附をして下さった企業もある。今後イメージ画の完成に併せてポスター・チラシを作り、さらに積極的に一般の皆様に募金のお願いをさせて頂こうと考えている。
 また、この家康公像の設置ばかりでなく、本市の行う重点事業に対して寄附を頂いた際に特産品の返礼を送付する「ふるさと納税制度」の活用も検討中である。その折には来年2月末頃に納入される予定の新型燃料電池自動車「ミライ」の試乗も加えたらどうかと考えている。

 いずれにしましても募金活動の折にはお世話になりますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


若き徳川家康公の騎馬像、建築へ (2016.02.27)

若き家康公像の制作に思う (2017.01.10)

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2015年8月20日 (木)

家康公夏まつり 第67回花火大会

岡崎城下家康公夏まつり 第67回花火大会

 8月1日(土)、いよいよ夏まつりのクライマックスである花火大会を迎えた。
 今年と来年はそれぞれ「家康公四百年祭」と「市制100周年」という大きな冠がのるため、花火師や関係者の皆さんは一層気合いが入っており、見上げる市民や来訪者の期待感も否応なく大きなものとなっている。
 特に今年は顕彰400年という節目の年でもあり、徳川御宗家18代当主の德川恒孝(つねなり)様と奥様の幸子様はじめ、岡崎藩最後の当主であった本多家の皆様、大岡家といった御縁の深い方々にも、春の家康行列に引き続きおいで頂いた。また、恒例の親善都市・ゆかりのまちである石垣市、福山市、茅ヶ崎市、佐久市、関ケ原町からも多くの御来賓のお越しを頂いた。

 そしてこのところ国政運営で多難な状況にある安倍総理御夫妻に「ちょっと息抜きに、岡崎の花火でも御覧にみえませんか?」とダメ元でお便り差し上げたところ、奥様の昭恵さんがおいで頂けるということにあいなった。(本来ならば花火会場で御挨拶頂くところであったが、警備の都合もあって行わなかった。)

安倍昭恵様(2015年8月1日)

徳川恒孝様、徳川幸子様、安倍昭恵様

 歓迎夕食会の席では、期せずして徳川御当主と長州(山口県)の旗頭の間にはさまれて座ることになった私ではあったが、「今宵だけは、徳川と長州の立場を離れてぜひ花火を楽しんで頂きたいと思います」と御挨拶させて頂いた。
 私の心配することもなく、大学教授のような博識の徳川様と、こうした席の場数は数々体験済みの安倍昭恵さんは随分と話がはずんでいた。

 岡崎市の花火の歴史は、戦国期の終わりに伴い、大砲・火薬を扱っていた職人達を三河の地に集めたことに由来するという。その後、三河花火の伝統は、江戸時代を通じて花火師達の工夫と努力によって発展してきたものである。
 本年は家康公顕彰四百年を記念して、例年よりも手の込んだ仕様であり、打ち上げ総数も2万発となった。ことに、よりにもよってエンディングを盛り上げるためのドラマチック・ハナビのテーマは「決戦! 関ヶ原」であった。
 昨今の花火は昔のものとは異なり、コンピューター制御による電気着火システムとなっているため、クラシック音楽に合わせて花火を打ち上げるような芸もできるようになっている。フィナーレは関ヶ原の戦いを実況中継するようなナレーションと共に音響効果も素晴らしく、映像的なアピールにもすぐれた作品となった。今年の花火大会は、きっと多くの人の記憶に残るものとなることだろう。
 私の知る限り、日本全国を見回してもこれほど市街地のど真ん中で花火を打ち上げる花火大会はないと思っている。これまでも市外からお客さんをお迎えした時は、皆一様に驚いてみえた。何せ頭の真上に近いところで花火の大輪の花を見ることになるのである。

岡崎城下家康公夏まつり 第67回花火大会

菅生神社の鉾船(天王丸)

馬場小雪さん、内田康宏、家康公、志賀爲宏会長、須貝美咲さん

 今年の花火は、私の記憶に無いほどドハデであったため、安全管理に御尽力頂いた岡崎警察署・消防関係者の皆様には感謝、御礼申し上げます。ことに山内岡崎警察署長は花火を見ずに最初から最後まで陣頭指揮をとられていたそうであり、誠に頭の下がる思いであります。
 こうした大がかりな地域の伝統行事を継続してゆくためには、多くの事業者の皆様の協賛と、関係者はもとより市民の御協力、さらには安全に行事をすすめるために影の力となって働いて頂く多くの方々の尽力のおかげで成り立っていることを忘れてはなりません。警察官、消防署員の中には徹夜の方もあったと聞いており、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。 (つづく

追伸
 花火大会の終了後、慰労の意味も含めて、有志・関係者のみでささやかな懇親会を行った。その席で、突然、対面席の昭恵さんから「ハイ!」と言って携帯電話を手渡された。何事かと思って耳に当てたところ、「安倍晋三です。本日は家内がお世話になりまして~」という声が耳に飛び込んで来た。
 その時、改めて昭恵さんが総理大臣の奥さんであることを再認識すると共に、30年近い御縁であるにもかかわらず、安倍晋三という人は「総理大臣になられてもなお、こんなことに対しても心遣いをする方であるのだなあ」と思った次第である。

徳川恒孝様、徳川幸子様、安倍昭恵様、松井幸彦先生ほか

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2015年8月17日 (月)

岡崎城下家康公夏まつり2015、終わる

岡崎城下家康公夏まつり2015

 7月29日から8月2日までの5日間、岡崎市の中心地域において多くの皆さんの御協力、協賛、参加を得て行われた、「家康公顕彰四百年」を記念する夏まつりが終宴を迎えた。
 今年の夏まつりは、これまでのあり方を根本的に見直して企画し、実現されたものである。まつりの構成、催しの組み合わせから、会場・日時の設定なども総合的に考えて練り直した。参加して頂ける市民の自主性を大切にし、企画・運営にも主体的な役割を果たしてもらうことができたものと思っている。
 長らく伝馬通りから康生一帯を通して行われていた「五万石おどり」は、大通りから岡崎公園の龍城神社前に場所を移して、岐阜の郡上八幡の郡上おどりを参考にして新たに「泰平おどり」として行われた。当初、会場が狭くなることを心配したのであるが、29日から三夜連続してにぎわいを見せてくれた。
 マンネリ化もあって年々参加者の減少による縮小化が心配されてきた「五万石みこし」であるが、今年は久しぶりに単独で行われることとなった。6月の「岡崎神輿(みこし)連合会」の発足により、市の枠を越えて市外、県外からの外部の神輿連の協力参加を得て久しぶりにかつての活力を取り戻したかのようであった。

 岡崎神輿連合会の発足祝賀会は6月20日、岡崎ニューグランドホテルで開催された。私も祝賀会に参加したが、神輿によるまつりを愛する人々の絆(きずな)の強さというものを改めて気づかされた。

岡崎神輿連合会(2015年6月20日)

 この会は、神輿を通じて日本の伝統文化の継承と岡崎市の活性化を共に図り、会員相互の親睦を深めることを目的とするものであるという。当日は愛知県内の同好の士はもとより、お隣の岐阜、三重、静岡に加え、東京の三社祭の江戸神輿会の皆さんまで総勢200人もの参加による盛大なものとなった。会場内にお神輿を持ち込んだグループもあり、最後は大さわぎとなった。私も久しぶりに神輿をかついで肩が痛くなってしまった。
 いずれにしても、こうした有志の広域連携によって、まつりのあり方も新しい形態に生まれ変わっていくのであろうと思っている。

 7月31日(金)は、神輿列に先駆けて、浜松市からは「遠州大念仏」が、静岡市からは「家康公リアルバルーンねぶた」の披露があった。

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 私も昨年同様、オカザえもん、商工会議所会頭と共に、クラシックカー・パレードに参加することとなった。これは何回やっても恥ずかしい限りである。
 今年は市内でのレーシングカーの走行こそなかったが、今回も岡崎の若きヒーロー、中嶋一貴、大祐兄弟の御協力による「レーシングカー・ピット作業実演」が行われ人気を博していた。

だがやくん、ウルフィくん、オカザえもん

中嶋一貴選手、中嶋大祐選手

レーシングカー・ピット作業実演(籠田公園前)

光ヶ丘女子高等学校 吹奏楽部

 おかげ様で年々参加者も増え、今年も昨年の15万人を越える多くの皆さんに御参加を頂き、名実ともに岡崎の誇る夏のビッグイベントとして成長してきたような気がします。
 このように素晴らしい成果となっておりますのも主催者である実行委員会のスタッフの皆様、参加団体、そしてボランティアの皆様の並々ならぬ御苦労があってのことと思います。改めて感謝申し上げます。
 多くの方の知恵とアイデア、御協力によって、これからの岡崎のまつりのあり方も大きく変化し、〝新時代のまつり〟へと生まれ変わってゆくことと思います。そしてそうしたものを、新たなまちづくりへの力として活かせるような岡崎にしたいと思っています。 (つづく

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2015年6月17日 (水)

徳川家康公顕彰四百年記念座談会

徳川家康公顕彰四百年記念座談会(2015年4月4日)

 本年は徳川家康公顕彰四百年を記念して、静岡市、浜松市と共に、この岡崎市においても様々な事業を展開している。
 この4月、徳川家第18代徳川恒孝(つねなり)様はじめ、四天王の各宗家、ゆかりの各藩当主の皆様が家康行列参加のため勢揃いされた。またとない機会であり、ぜひ何か記録として残したいと考え、4月4日(土)、座談会を持つこととなった。
 いずれにせよ、遠路はるばる、それぞれの皆様が古(いにしえ)の縁(えにし)によって家康公の生誕の地・岡崎市へお越し頂いたことは、誠に感謝に堪えない。心から「おかえりなさい」という言葉と共にお迎えしたいものである。
 会場となった八丁魚光の御主人も、古書をめくり、歴史をしのばせる三河になじみのある料理に工夫を凝らしてくれた。戦国時代の兵糧(ひょうろう)でもあった焼きミソと干飯(ほしい)を湯がいたものが最初に運ばれて来た時には、一種の感動のような気持ちがわいてきた。
 私も「どうぞ食事をしながらざっくばらんにご歓談頂き、皆様の御先祖が四百年以上前にこの地で団結し、世界史上にも類のない260年に及ぶ平和国家を築かれたことに思いを馳せながら、楽しいひとときをお過ごし下さい」などと御挨拶申し上げたものの、考えてみれば世が世なら拝謁すらかなわないお殿様方ばかりである。頂いた名刺を並べてみれば、歴史の重みのようなものを強く感じるのであった。
 どんな口切りで座談会が始められるものかと思っていたが、郷土の歴史家である市橋章男先生がコーディネーターとして手際良くリードして下さりホッとした。

 当日お越し頂いた宗家、当主の方は以下の8名の皆様である。

徳川御宗家第十八代当主 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主
 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主夫人 徳川幸子 様
徳川御宗家第十八代当主
 夫人 徳川幸子 様
四天王 榊原家第十七代 榊原政信 様
四天王 榊原家第十七代
 榊原政信 様
四天王 本多家第二十二代 本多大將 様
四天王 本多家第二十二代
 本多大將 様
四天王 酒井家第十八代 酒井忠久 様
四天王 酒井家第十八代
 酒井忠久 様
四天王 井伊家第十八代 井伊直岳 様
四天王 井伊家第十八代
 井伊直岳 様
旧西大平藩 大岡家第十五代 大岡秀朗 様
旧西大平藩 大岡家第十五代
 大岡秀朗 様
旧奥殿藩 大給家第十四代 大給乘龍 様
旧奥殿藩 大給家第十四代
 大給乘龍 様

 そして地元からは郷土史家でもあるおかざき塾代表の深田正義様、岡崎商工会議所会頭の古澤武雄様、それに私と司会の市橋先生の総勢12名による座談会とあいなったのである。

 まず始めに徳川様より時計回りに自己紹介を兼ねて御先祖と岡崎の関係、徳川家とのエピソードをお話して頂くことになった。
 徳川恒孝さんは、毎年様々な事業で本市がお世話になっており、徳川記念財団の理事長として、あるいは静岡商工会議所最高顧問として高名であられるが、奥様については御存じない方が多いことと思われる。
 徳川家18代当主御令室徳川幸子(さちこ)さんは、今でこそ徳川姓であるが元は細川家(熊本)に縁の深い寺島伯爵家の出自である。いかにもお姫様という風情をお持ちの方であり、元スチュワーデスとのことであった。
 また一つ面白い話を加えると、徳川恒孝さんが学習院初等科に通ってみえた頃、クラスメートに松平姓を名乗る方が2人、徳川姓の同級生が2人いたそうである。ところが一番仲の良かった友人は隣の席の毛利君であったという。かつては関ヶ原の合戦で雌雄を決した間柄の者同士が、席を同じくしてなごやかに語り合っているというのも四百年の月日の経過のなせるワザであろう。

 榊原政信さんは現在東京在住であり、会社を経営しておられ、榊原家17代目の当主である。先祖の領地替えが度重なったため全国各地に御縁のあるお寺が36ヶ寺もあり、そのおつきあいが大変であるということであった。現在は半分ほどのお墓を各県や市の文化財として委託してみえる。初代当主の榊原康政公は、在・岡崎時代は今の康生通東一丁目あたりにお住まいであった。江戸期の古地図によれば、現在のみどりや、さくらや、宝金堂、そして私の家の敷地のあたりまでが榊原家のお屋敷であったことが近年判明している。今回私も、かつての地主さんと記念写真を撮らせて頂いた次第である。

 「家康に過ぎたるモノ二つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と讃えられた本多忠勝の子孫にして、本多家第22代となる本多大將(ひろゆき)さんは、旧岡崎藩の最後の当主の末裔でもある。現在岡崎で行われている家康行列は、かつての藩士達が「徳川の伝統と本多家の恩を忘れないように」と、大正初期に行った武者行列を始まりとしている。本多大將さんは昭和45年のお生まれで、今回の参加者の中では一番お若く(44歳)、最後の岡崎藩主の子孫として今後ともよろしく御協力願いたいものである。

武者行列(岡崎市)

武者行列(岡崎市)

 酒井家第18代の酒井忠久さんは、現在山形県鶴岡市にお住まいであり、代々その地でお住まいとのことであった。任地が度々替わられたり、東京にいて大震災や戦災に見舞われたりした方々は、せっかくの先祖伝来の宝物や書類を消失されているケースが多いという。酒井家の場合、領地を移ることが少なかったため比較的そうした貴重な古文書等が多く残されているそうである。
 「いざ戦さ」となった時のために、御先祖様が自藩の城ばかりでなく、全国各地にある(あった)様々なお城の見取り図や絵図のようなものを多く収集されており、現在も忠久さんが代表理事をされている致道博物館に収蔵されているそうである。(岡崎城のものがあればありがたいのであるが・・・。)

 井伊家第18代の井伊直岳(なおたけ)さんは京都大学大学院を修了された博士であり、『新修彦根市史』編纂のお仕事にも関わっておみえになる。昭和時代には御先祖が9期連続して彦根市長職を務められたそうである。
 井伊家は滅亡した武田家の遺臣を配下に加えて以来、井伊の〝赤備え〟として武勇をうたわれてきた家柄でもある。井伊家は幕末の井伊大老の一件(桜田門外の変)でも有名であるが、私は個人的には50年程前に製作された小林正樹監督の松竹映画『切腹』を思い出してしまう。
 徳川幕府の治世が始まってからしばらく、江戸に流れついた旧西軍方の浪人が大名の邸宅を訪れ「生き恥をさらすことなく、庭先で切腹させてほしい」と頼み込むことがよくあったという話が映画の冒頭で紹介される(ストーリーは創作である)。
 しかしその本心は、自宅を血で汚されることを嫌う大名から追い銭をもらって退散すること、あるいは仕官のチャンスを狙うことにあった。ある時、そうした気風を嫌う井伊家の家老(三國連太郎)が、子供の医者代の工面のために狂言切腹をしようとした若い侍に対し切腹を断行してしまう。竹光(たけみつ)で詰め腹を切らせる仕打ちに怒った、若侍の育ての親(仲代達矢)は同様の仕立てで井伊家の屋敷に臨み、切り死にをする。
 昭和38年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した作品でもあり、私の好きな日本映画でもある。近頃リメークされた海老蔵主演の映画は華麗な仕上げではあるが、どうもウソっぽくて頂けない。そう言えば、時代劇を製作しなくなった晩年の黒澤明監督は、問われて「サムライの顔をした日本人がいなくなったから」と答えていた。

 大岡秀朗(ひであき)さんは、御存じ名奉行大岡越前公の第15代であり、現在メルセデス・ベンツ日本の常務取締役をしてみえる。1年に何度もドイツを訪れる多忙な方であるが、毎年本市の大平町で行われる西大平藩・大岡稲荷大祭には欠かさず御出席を頂いている。ちなみにゆかりのまち茅ヶ崎市で毎春行われる「大岡越前祭」も御先祖のものである。

 旧奥殿藩第14代の大給乘龍(おぎゅう のりたつ)さんは、御先祖の始められた株式会社日赤振興会の社長さんである。なんと私の高校の同級生の一人とかつて仕事仲間であったことが分かり、世の中の意外な狭さを実感したものである。大給家は江戸末期に長野県の臼田(現在の佐久市)に移っている。

 それぞれ十代、二十代と世代を重ねた名家の方々ばかりであるが、江戸幕府が始まってからはおのおの、城持ち大名や旗本として独立しているため徳川直参の家臣とは言えなくなっている。
 また今回私が面白く感じたのは、かつての武門の誉れ高き家系の子孫の方々が学者や文化人の風貌となっている点である。徳川恒孝さんなどはどこかの国立大学の教授のような感すらある。
 長らく岡崎に住み続けている私達も忘れてしまっていることがいくつもある。江戸時代に大名諸侯と呼ばれた人々は279家あったそうであるが、三英傑の出身地であるせいか、その内130家は現在の愛知県の出身者であり、さらにその内60家余りはこの三河岡崎一円の出であったそうである。もっとも、以来何百年もの時の経過があり、今も自らの出自を意識して生きている方がどれほどいるか分からないわけであるが、岡崎の人間としてはそのことをぜひ覚えていてほしいものである。

 私は26年間の県会議員時代、日本全国を訪れる機会に恵まれた。その折に各地において三河と同じ地名や言葉、文化・習慣を見たり聞いたり感じたりしたことが度々あった。考えてみれば決して故無きことではないのかもしれない。このところテレビは維新ものでニギヤカであるが、明治維新とても江戸時代の遺産による産物であると言えないこともないのである。
 日本人の几帳面で集団志向的性格が定まったのも、日本の伝統文化、独自の生活習慣と言われるものが発達・熟成し、定着していったのも、徳川時代の三百年近い平和な時代のことである。諸大名の力をそぐために行われたとされる参勤交代さえ、結果としては江戸の最新文化や風俗を全国に伝播させ、日本の文化水準の向上に寄与したとも言える。
 そして何よりも重要なことは、藩校や寺子屋教育による読み書き、ソロバン等の基礎教育の普及により、当時世界のどこもなし得なかった識字率90数パーセントという質の高い国民が誕生したことである。明治維新があの短期間で大きな改革を成し遂げられたのも、中国や朝鮮と異なり、国民全体で新しい思想や文化技術を学びとる国民国家の形成にいち早く成功したからである。そうした基礎を形づくったのはまぎれもなく、あの江戸時代のパックス・トクガワ(徳川による平和)であったと言える。
 私達はこうした歴史的真実を再認識し、自信と誇りを持ち、もっとそのことを力強くアピールしてゆくべきであると思っている。


上様のおな~り Ⅰ (2013.01.31)

上様のおな~り Ⅱ (2013.03.04)

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2015年6月 5日 (金)

伝統の力(絵ハガキと記念誌)

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 今、手元に百年前の岡崎市制施行時(大正5年)の記念絵ハガキがある。これは、元市議会議員でリバーシブル誌の初代発行者であった鈴木雅美氏がヤフー・オークションで競り落とし、この度岡崎市に寄贈頂いたものである。(鈴木氏からは、別に、同様の経路で入手された岡崎出身の刀鍛冶師の作である日本刀の寄贈も受けている。)
 ハガキに印刷されている写真は白黒ではあるが、往時の岡崎市を様子を伝える貴重な写真である。写真で見る限り、百年前の岡崎市は市となったとはいえ人口は3万8000人ほどのほんのイナカまちの風情であったことが見てとれる。当時、町と言えるのは連尺、康生あたりだけであったという。
 あれから百年、人口は10倍の38万人を越え、西三河の中核市(全国で45市)の一つとしての偉容を誇るまでとなった。先人達の偉業に対し、感謝と敬意を思うものである。

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 もう一つ、この古めかしい冊子は、愛知県行政書士会の岡崎支部長の島津達雄先生が東北地方に行かれた折に古本屋で見つけてきて下さった『家康忠勝両公三百年祭紀要』という、これまた貴重な、当時の記念誌である。こちらも市へ寄贈頂いたものである。
 岡崎の素晴らしさというのは、先達の偉業もさることながら、そうしたものをしっかりと受け止め、後世にきちんと伝えていこうとする精神を具備した多くの有意の市民が存在することでもある。
 両先輩に重ねて感謝申し上げると共に、市民の皆様に御報告申し上げるものです。

『リバーシブル』初代社主・鈴木雅美様

(『リバーシブル』初代発行者・鈴木雅美様)

島津達雄先生と共に(2014年)

(島津達雄先生と共に)

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