思想と政治

2018年6月13日 (水)

最近はやりの「声なき声」について

 「声なき声を聞く」という言葉が再び、各地の議場や街頭演説の決めゼリフの一つとして流行(はや)っているような気がする。
 しかし私のように政治の世界に長く首を突っ込んでいる人間にとって、最近の「声なき声」の言葉の使い方に大きなとまどいと違和感を覚えるものである。
 そもそも「声なき声」の語源は英語のサイレント・マジョリティ(Silent Majority)である。元々の意味は「静かなる多数派」「物言わぬ大衆」であり、現状に満足しているか、あるいは大きな不満がないため、あえて声にして意見をしない人々のことである。

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 ところが現在この言葉を好んで使う人達の用法は、「自分達の意見が政治に反映されない人達の声」という意味での使われ方であり、明らかに誤用である。しかもその実態は「声の大きな少数者」であり、「自分達の特異な意見に固執するがゆえに多数となりえない異端者の声」を「声なき声」として表現しているケースが多いのである。

 かつてアメリカのニクソン大統領が1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」としてこの言葉を使ったことがある。当時私は高校生であったが、ベトナム戦争に反対して過激な活動を行う一部の学生に対し、ニクソン氏が「そうした運動や声高な発言をしない多くのアメリカ国民は決してベトナム戦争に反対していない」という意味でこの言葉を使っていたことを覚えている。実際、その後1972年の大統領選挙において、ニクソンは50州中49州で勝利し、圧勝している。
 また、日本においても1960年(昭和35年)の第1回目の「安保闘争」(日米安全保障条約反対闘争)の折に、当時の岸信介首相(安倍総理のおじいさん)が「国会周辺のデモ隊は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもどおり人であふれている。私には、そうした〝声なき声〟が聞こえる」と発言して、安保反対運動に参加していない一般の国民のことを「声なき声」として表現している。
 「声なき声」の用法としては、本来はこうしたものが正しい使い方である。

 とかく政治の現場は声の大きな人々の意見の影響を受ける傾向があるが、必ずしも大きな声が正当な意見、多くの人々の意志を体現しているとは限らない。声だけ大きく遠慮知らずのワガママな意見に辟易しながらも、自らの意見はあえて述べない多くの人々がいるということをもっと冷静に考えるべきではないかと思っている。
 そしてさらに気になるのは、これは以前指摘したことでもあるが、TVや新聞で「この件に関して市民は・・・」といった書き出しで登場する人物及びその意見が、とても一般市民の代表的な考えとは思えないものが目につく点である。
 その地域では有名な特殊政治集団の活動家や、何事にも文句を言うことが生きがいのような「地元の困ったちゃん」、はたまたモノゴトの本質を全く理解していないと思われる第三者の声が〝市民の声〟として紹介されることがあるのである。まるで誰かによって意図的に選別され編集された発言を、〝市民の声〟というオブラートに包んで一般的に広めようとする隠された意志の存在が感じられるのである。

 事実を平穏に伝えるのではなく、あえて平地に乱を喚起するかのような報道姿勢がうかがえることがある。世の中には未だに社会主義を最良と考える人々がいるものであるが、あたかも反権力的な発言や意見を取り上げることが報道の使命であるかの如く勘違いしているマスコミ関係者もいるようである。
 より中立性が求められる選挙時における報道においてすら、一方的に偏った報道がなされることがある。時に事実を誤認させるようなキャンペーン記事を意図的に流すマスコミもあるのである。例えば犯罪者と特定地域の関係性を必要以上に強調しようとしたりすることもある。(これを〝イメージ操作〟と称する。)
 最近政府の放送制度改革を一部マスコミが反対している。これまでの規制を緩和して自由な情報発信ができるようになるのであるから結構なことであると思われる。逆にこれまで自分達の首カセとなっていた建前の中立性がとれるのであるから、この際もっと自由にして欧米のように自社の思想的立場、報道姿勢、支持政党まで公表して堂々と論陣を張った方がよほどスッキリして分かりやすい。
 〝言論の自由の守護者〟を任じる人々が自分達の考えと異なる意見が出ることに反対するということもおかしなことである。よほど新たな競争相手の参入を歓迎してないかのようにみえる。
 「報道の中立」を建前上の表看板としながら、実際は御都合主義的に偏向報道を行う現在のあり方の方がよほど不健全な姿である。情報提供を多様化して判断は市民の良識に任せる方がより正しいあり方ではないだろうか?

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2017年5月18日 (木)

政治と政争

――以下の文章は、5年前の最初の市長選後に書きながら、周囲のアドバイスを受けて棚上げになっていたものである。久しぶりに読み直してみて、今日にも通じると思い発表することにした次第である。――

 先日(注・5年前)某新聞に載っていた「政争の町、岡崎」という記事を読んで、まったく「わかっちゃないな」と感じた。その記事は、『過去を反省し「政争の町」から脱却すること』が『新トップの手腕にかかっている』と訴えていた。
 そもそも政治の原点というものは、戦いである。食べ物をめぐるもの、水をめぐるもの、領土をめぐるもの、また様々な利権をめぐるもの、そうしたものを血を見ずにして解決しようとするところから政治というものが生まれてきた。
 しかし、政治というものの本質がそうである以上、政治が争いというものから無縁ではあり得ない。古今東西の国家間の利益をめぐる交渉ごとの例を見ても、軍事力の行使があろうとなかろうと、そこに力の存在というものが無縁であったケースなど聞いたことがない。この世で政治のあるところに政争のないところなどは無いのだ。それが現実というものである。
 個別の名前は控えるが、愛知県の市町の中でもかつて政争の激しかったところはいくつもある。現在、一見平和的にものごとが進んでいるからと言って、決して政争がなくなっているわけではない。そのことはそこで政治に関わっている人々と話せばすぐにわかることである。現状の表面的平穏は単に双方が折り合いをつけているだけのことである。政争というものは、政治現象が争いごとの過程において温度が上がり沸点に達したときに発する現象であるとも言える。表面上、見えないからと言って無くなっているわけではない。それこそが人間の持つ性(さが)であり、業(ごう)であるからである。

 前述のごとく日本のマスコミの中には何かというと平和的話し合いですべて解決するような論を説く人がいる。しかし実際の世の中には、話し合いとは時間かせぎのための方便に過ぎず、その機に自分達の主張を相手にのませ、逆に相手の言うことなどハナから聞く気のないという人達もいるのである。そうした人間の業のような性質を理解していないから、きれいごとのおためごかしの正論が言えるのである。パワー・オブ・ポリティクスで物事が決まる現実において、話し合いも力の裏付けがあってこそ成立するものである。(北朝鮮が核とミサイルに固執する理由もそこにある。)

 以前私は、カリフォルニア大学バークレー校で政治学を専攻していたアメリカ人の友人フィリップ・キース君に、岡崎の政治について次のように説明したことがある。

Phillip E. Keys and Yasuhiro Uchida

「岡崎という町は、他の地域のように保守と革新が競うという政治土壌はなく、戦前から保守が二派に別れて権力闘争をするという伝統がある。革新勢力はそのときどきでそのどちらかに乗ったり、乗らなかったりという存在である」
「現実に戦前は政友会と民政党の系列で争った時代があり、戦後は愛市連盟VS光会の時代、そしてその流れを受け継ぐ者たちの戦いの時代、近年は保守の旧勢力と新興勢力の争いという形になっている。いずれにしても理念性は薄いが、形としてアメリカの政治の共和党と民主党の争いの形態に似ている。それが岡崎の政治風土である」

 彼がこの内容をどこまで理解したかはわからない。その後数年岡崎市に在住し、私の最初の選挙も手伝ってくれたが、将来、彼が大学に戻るとき、日本の政治についての論文を書くための日本の地方政治のあり方の一形態としての研究の材料になればと思って話したことを覚えている。(現在、彼はカリフォルニア州の某カレッジの学長をしている。)

愛知県議会議員選挙(1987年)

 現在の岡崎の政治状況もそうした政治風土の一環と考えるか、都市型の政治形態に向かう成長過程ととらえるかは、その人の見方あるいは趣味の問題だと思う。
 私は、そうした岡崎の政治風土の中で生まれた保守の政治家の一人であるが、岡崎の持つ独自の歴史、伝統、文化、それに基づく地域的思考というものはそれなりにその地域の個性であって、決して恥じるべきものではないと思っている。そうした観点からも、政治の場における権力闘争というものは今後も無くなることはないと考えている。また、これはある意味、世界中のどこでも同じである。人類の存する限り、政争もなくならないのである。レベルの低い無益な争いは極力避けるべきであり、ものごとの折り合いはつけて行くべきであるが、自らの主張を曲げる必要はないと考えている。なぜならばそうした各種異なった考え方の集団の代表が、政治家であるからだ。
 一部マスコミの言う一見第三者的常識論は、決して神の御宣託ではない。鉄砲玉の飛んでこないところで、彼らの商売のネタとしての一面的なきれいごとの論理を展開しているに過ぎない。しかも、一部のマスコミ報道は、一見中立的に見えて実際は逆に政争を煽(あお)っているように見えるときがある。また、自らは他を自由に批判しながらも、逆に自分たちに対する批判は許そうとしない独善的体質があるように感じることもある。
 いずれにしても、私たちは自由主義社会にいながら、いつもどこかで彼らにマインドコントロールされている可能性があることも忘れてはならないと思う。

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2017年1月19日 (木)

『リバ!』2017年2月号

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内田康宏事務所から『リバ!』2017年2月号発行のお知らせです。
市長のコラムは「デマゴーグについて」です。

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2017年1月14日 (土)

銅像と偶像の違い

 今回家康公像に対して本市が試みている寄附金を主体とした新しいシンボル造りの事業は、キリスト教文化に根ざした欧米社会ではしばしば行われていることである。
 現在もそうしたものが、欧米を旅した時、各地で大切にされていることを目にするものであり、地域の人々の郷土愛のシンボルとして役立っている様子がよく分かるものである。

 かつて20代の頃、アメリカ留学からの帰国途上、単身で東欧からソヴィエト連邦を旅したことがあった。日露戦争の折、旅順港閉塞作戦で戦死した軍神・広瀬武夫少佐はロシア留学後にシベリアを単身犬ぞりで踏破して帰国しているが、そのことを記録した『ロシヤにおける広瀬武夫』という上下2巻の本を学生時代に読み、以来私もいつかユーラシア大陸を横断したいと夢見ていたからである。
 当時これらの国々のどこに行っても目についたのが、あのお決まりの気むずかしい顔をしたマルクスとレーニンの像であった。スターリン批判の後であったせいか、あのアドルフ・ヒトラーと並ぶ、カイゼルひげの虐殺者の像は目にすることは無かった。偶像がプロパガンダ(政治的宣伝)の一環を成すというのが当時のこれらの国々の常態であった。

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 シベリア鉄道を使って移動中、沿線の名も無き小さな町においても、日本の田舎のお地蔵さんのように、このハゲとヒゲのおじさん達の像はあった。お地蔵さんはたいがい町や村の片隅にひそやかにたたずんでみえるものであるが、これら権威主義の象徴のようなハゲとヒゲのおじさんの像は、どこの町でも一等地の真ん中に「これでもか」とばかりにふんぞり返っていたものである。
 中には金色や銀色に塗り上げられたモノもあった。当時それを目にした私は「金、銀とは太閤秀吉でもあるまいに、まさに成り上がり者根性の極みだな」と思ったものであった。
 昨今も同様の趣味の方が近隣の国にいるようであるが、「ムダな建造物」と言う言葉を使うならば、これらの像ほど無駄なシロモノもないだろう。しかもこれらの国々の場合、思想の押しつけがあるだけに余計に悪質で始末に悪いものであると思う。このような像こそ、人民の生活を後回しにして造られたモノなのである。きっと自分達の思想のもとに行われることは何でも正当化できると思っているのであろう。

 その後1990年代を迎え、ソ連邦の崩壊と東欧共産政権の瓦解に伴って、各国においてこうした偽りの偶像が民衆の手によって次々と引き倒され破壊されていったことは今も我々の脳裏にしっかりと残っているし、映像の記録が世界中に保存されている。まさに「圧政者の末路、あわれなり」であった。
 私は、負の遺産というものもそれなりに教訓的価値があり、できのいいモノは残しておいてもよかったのではないかと思っているのであるが、どうやらあらかた破壊されてしまったようである。プーチン大統領の時代になり、復古的風潮が出ているとのことであり(プーチンはKGB(ソ連秘密警察)の元工作員)、機会があれば再びロシアを訪れ、この目で確認したいものである。

 シベリア鉄道の車内食も今は改善されたそうであるが、当時は実にひどかった。そんな旅のさなか、各駅に停車する度に近くのロシア人の太ったおばさん達がバケツに塩ゆでしたジャガイモを山盛りにして売りに来ていた。1ルーブルでビニール袋いっぱいのジャガイモをくれたが、あれはおいしかった。

 それにしても冷戦下に共産圏の一人旅というのは、興味深くはあっても決して快適なものではなかった。各手続きにやたら時間がかかるし、団体旅行ならスンナリ通す所も、私だけやたらと多くの質問を受けた。さらに、いつも誰かに見られているような気がしていたものである。(単に当時のソ連人と風体が変わっていたせいかもしれないが・・・。)
 中央アジアのブハラでは、夜に民俗音楽の音(ね)に惹かれて道を歩いていたところ、民警に不審者と思われ勾留されたこともあった。アメリカを発つときに知人から、「先年、経済企画庁のOBがソ連を一人で旅していてスパイ容疑で逮捕され、1年間帰国できなかった」という話を聞かされていたため、自分もそうなるかと冷や冷やしたものであった。幸い、手ぶらでカメラも持っていなかったため、ホテルに連絡がとれて無事釈放となったのである。
 極東のナホトカ港には、日本人旅行者向けに無料サービスの共産主義に関する本が何種類も置かれていた。私はオミヤゲ代わりにと一通り、20冊ほどもらって帰国の船に乗り込んだ。そのためか、ナホトカから横浜港に到着した時に左翼過激派の一味とでも思われたのか、「どうして一人でソヴィエトに行ったのかネ?」と今度は日本の入国管理事務所で、私だけ40分近く念入りに取り調べを受けたことを今もなつかしく思い出すものである。

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2016年12月25日 (日)

デマゴーグについて(その2)

Völkischer Beobachter

 繰り返すが、デマゴーグとは、全くのウソ、デタラメを喧伝することとは限らない。一つの社会現象、ある事件の一側面を拡大解釈したり、曲解したり、書き手の考えに都合の良い数字や情報だけをつまみ出してきて誇張して表現することもデマゴーグの技と言える。(それを専門にしている政党もある。)
 自分勝手で反地域的な言動をもっぱらにする、その界隈では有名なクレーマー(文句ばかり言う人)や、特殊な思想集団の活動家として知られている人物の意見を、あたかも無垢な一市民の声のように報道することもよくある手法の一つである。
 また、先のアメリカ大統領選挙において、反トランプ的社会気運を反映して極端に一方に肩入れした報道がなされた。外国の報道機関の場合、時にこうしたことがあるが、彼らの場合は前もって自らの政治的立場、報道姿勢を明らかにした上で行っていることであるのでそれなりに筋が通っている。

 我が国の報道の場合、建前上、中立・公正・公平を謳(うた)いながら偏向報道を行うことがある点が問題なのである。
 そうした議論を始めると、必ず「全文を読めば中立的なバランスを取っていることが分かる」という言葉が返ってくる。しかし一般の人で記事の全文を隅々まで綿密に読むような方はマレである(教科書ですらそんな読み方はしない)。見出しの太文字と前段の数字、刺激的な言葉や作為的な写真を見て、正しく理解した気になっているというのが実態であり、良くも悪くも〝大衆社会〟とはそうしたものである。
 第一、人間は誰しも、自分に直接関わりのある問題以外には細かな点にまで注意を払うことはしない。そうした現実を百も承知の上で、意図的に誤解を招くような記事を書き、最後の数行の中にバランスをとるような文言を散りばめて裁判にならない配慮をしているから悪質なのである。

 もう一度言う。一流のマスコミ人は決してこういう姑息なことをやらない。時に人格的に問題があったり、思想的な偏向性があると思われる人物が公の仮面をかぶって紙面に記事を書くことがあり、そうしたことが問題なのである。
 前回のブログで「思想統制された国家ばかりでなく、自由主義社会においても我々は知らないうちに洗脳されていることがある」という点に言及した。
 一部のマスコミの中には「無知な大衆を我々が教育してやる」といった姿勢が見られることがあるが、それは危険な兆候だと思われる。大衆扇動が冷静な思考の後退を生じることは、我々が歴史上の幾多の経験と現在も世界で進行中の様々な出来事から学んだことである。

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 うっかり洗脳されないようにするためには、普段から自分で注意する必要がある。ニュース・ソースを多元化し、一つの事柄について常に多くの情報に接する習慣を持ち、新聞や雑誌なども複数のものを比較して読み、自分の考えを練らなくてはならないだろう。
 「いちいちそんな面倒なことは御免こうむる」という方は、たまには購読する新聞を変更してみることも一手であろう。新聞は中立・公平・公正と言いつつも紙面にはそれぞれ個性や差違というものがあり、ひょっとするとそんなことで新たな視座を開くことができるかもしれないと思うものである。

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2016年12月21日 (水)

デマゴーグについて(その1)

 デマゴーグとは、全くのウソ、デタラメを喧伝することとは限らない。ある社会現象、事件の一側面を拡大解釈したり、自分の論理に都合の良い数字だけをつまみ出してきてオーバーに表現することもデマゴーグの技と言える。
 通常こうしたものは裏情報として世の中に広まるものであり、表(社会の公器としてのマスコミ)に出てくることはないシロモノである。時にそうしたものが表面に出てくることがない訳ではないが、それは芸能週刊誌であるとか、三流のゴシップ新聞の類(たぐい)の紙面を飾るものであり、ふつう一流紙と呼ばれるものでお目にかかることは滅多にないことである。
 なぜかと言えば、一流と呼ばれる書き手(記者)には、それぞれジャーナリストとしてのプライドというものがあり、デマゴーグ的仕業に対してプロとしての矜持が許さないからである。一つの記事を書くにしても、まず客観的事実というものを報道し、そして次に記者としての考え、あるいは社としての社説を記述するという手順を踏むというのが健全なる報道人、マスコミ人というものである。事実、これまではそのようであったと思う。

 ところが近年、記者個人の自主性を重んじるとして、一部の社ではかつての常識的な報道の自己制御を失ったかに見えることがある。客観的であるべき社会的事象の記述において、記者の個人的思いや情念が先行してしまい、公正性、公平性、客観性というものを感じられない記事が散見されることとなった。
 政治の世界も時代と共にかつての独自のしきたり、道義のようなものが失われつつあるが、マスコミの世界でも客観性と共に記者の誇りが薄れつつあるのかもしれないと思うものである。

 今年の春、こんなことがあった。本市の3月議会の最終日、自民清風会、民政クラブ、公明党、黎明という多数の会派の賛同を得て、30対3(欠席1)という圧倒的多数により予算が成立した。その他多くの議案が可決された(全員賛成もアリ)。

岡崎市議会(平成28年3月定例会)

 ところが、某・地元有力紙は多数派の賛成討論を封殺して、逆に反対討論を行った少数議員だけ太字で実名報道するというあからさまな逆差別報道を行った。そして、あたかも予算案が否決されたかのような印象を与える記事を意図的に掲載している。
 この記事を書いている記者が思想的偏向性のある人物であることはかねがね分かっていたことであるので、特段驚くべきことではないが、このような記事を有力紙が臆面もなく出してしまうことに大変危惧の念を抱いている。これではまるで思想統制された国家の報道と同じであり、とても自由主義社会における公正な報道とは思われない。

 また、先日の岡崎市の選挙においても、総額99億7000万円の乙川リバーフロント地区整備計画について「橋を造るのに100億円!」という誤解を招くような報道、アピールを行う人達がいた。

乙川、殿橋、岡崎城

 実際は乙川の河川空間の整備と中心市街地の再整備、岡崎城周辺の歴史資産の活性と機能整備などで総額64億円がかかり、そのうち人道橋の整備費用は岩盤工事を含めて21億円である。国のコンパクトシティー構想に併せてプランを提出すれば、さらに国の補助が得られることが分かったため、乙川リバーフロント計画は、別個の計画であった東岡崎駅前再開発事業(35億円)を上乗せした事業計画となった。こうしたことから100億近い数字となったのであり、橋を造る費用は21億円である(もちろん決して少ない金額ではなく、必ず「やってよかった」という仕事をするつもりでいる)。しかも橋は道路と同じで、いわゆるハコモノでなく、維持管理費用は手入れ代しかかからない。
 しかるに橋をハコモノと偽り、さも高額の管理費がかかるような、ニセの情報を流した新聞もあった。さらには、半分近く国庫補助で行われるこの事業を取り止めれば、その予算を他の事業に回すことができるかのようなデタラメ宣伝もしている。目的別の国庫補助はその目的にしか使えないことは法律で決まっているのである。
 選挙直前と選挙中はさらにひどく、個別の市の政策を検証する形をとりながら、もうすでに議会で承認されたことに対して、一部の人の言い分を基軸に反対キャンペーンを投票日前まで行う執拗さであった。この記者に対しては選挙後「選挙妨害で告訴したらどうか」という市民の声も頂いたほどである。

 もとより少数意見を尊重することは必要であるが、それはあくまで多数決という民主主義のルールにのっとった上でのことである。こうした基本的なことも守れない人が公器である報道を操るようになっている社会に大きな不安を感じるものである。我々は自由主義社会にいながら、ある種の思想統制、マスコミの世論コントロール下に置かれていることを実感するのである。
 一部マスコミは、口を開けば「先の大戦の時の過ちを繰り返してはならない」と言う。しかし先の大戦を招来する世論の形成のため一番大きな原動力となったのは、ほかでもない、軍部の力以上にマスコミの偏向報道であったということを私達は忘れてはならない。そしてもう一つ、海軍次官を経て連合艦隊司令長官となった山本五十六大将は御前会議で最終決定が下されるまで、右翼に命を狙われながらも体を張って日米開戦に反対していたことも記憶しておこう。

Admiral Isoroku Yamamoto

 日本のマスコミは戦後うって変わっていつの間にか宗旨変えし、軍部批判を行うものの、自らに対する反省・検証を行った形跡はほとんど見られないのである。
 我々政治家や行政にたずさわる者は、他者から批判の対象とされ、マスコミ報道の監視にさらされるというのは自由主義社会における必然的宿命であり、仕事の一部とも言える。そのことを否定するつもりは毛頭無い。
 しかし、それは同時にマスコミが「第4の権力」としての自己の力と役割をわきまえ、客観性と公平さ、公正という視点を踏みはずさない時にのみ正しく機能するものと考える。
 さて賢明なる岡崎市民、読者の皆さんは昨今のこうした出来事をどう思われるであろうか? (つづく

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2016年4月19日 (火)

『リバ!』2016年5月号

『リバ!』2016年5月号

こんばんは。内田康宏事務所から、リバーシブル2016年5月号発行のお知らせをいたします。
市長の連載コラムは「選挙制度と政治家の質について」です。

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2016年3月19日 (土)

選挙制度と政治家の質について

全国遊説中の安倍晋太郎先生とともに

(全国遊説中の安倍晋太郎先生とともに。秘書時代の私)

 かつて中選挙区制の時代、各選挙区は3~6くらいの定数があり、投票結果により上から順番に当選が決まってゆくシステムであった。ある意味、単純ではあるが個別の選挙区においては公正な制度であったと言える(衆院選に比例代表制が導入されたのは、小選挙区になった平成8年以後)。
 しかし当選のためには多くの支持票が必要であるため、大企業の労働組合、農協や地域の有力団体、宗教団体などの支持を受けられる候補者でなくては、立候補はしても当選はおぼつかなかった。
 また保守の候補者においては「地盤」(後援会)、「看板」(知名度)、「カバン」(資金力)の三つを持つことが当選への必須条件と言われていた。そのため、衆議院議員の3分の1程が世襲の議員となる弊害(?)が生まれたとも言われている。それが政治的に悪い結果を招いているかはともかくとして、公平ではないという議論が出ることとなった。
 中選挙区制のシステムが始まってから、戦後の政界はほとんどの期間、自民党の天下であり、自民党を通さなければ大きな事業の予算の獲得は困難という時代が長く続いていた。当時、与党と野党は国会ではハデな論戦を繰り広げていたが、これは言わばセレモニーのようなもので、裏では野党の議員が自民党の有力議員に頭を下げて陳情をしているケースを、私は秘書時代に何度も目撃している。政界の実態は自民党の中の派閥力学によって決せられ、動いていたというのが実情である。

 私が安倍晋太郎代議士(晋三総理の父)の秘書であった昭和50年代というのは五大派閥(田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘)による合従連衡によって大臣をはじめとする役職・人事が配分され、政治権力の秩序体系が形成されていた時代であった。そのため衆議院議員の選挙はおのずから派閥の対抗戦、勢力争い(ナワバリ争い)の色彩となっていた。

首相の顔ぶれ。田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘

 野党と与党は支持基盤が異なっているため、政党間の争いは強力な地元組織の形成の難しい都市部を除けば、地方に於いては浮動票の奪い合いがあるくらいで、いわば「スレ違いの戦い」であると言えた。
 反対に熾烈を極めたのは保守同士の戦いである。「人殺し以外は何でもあり」と言われたほどであり、戦国時代の謀略・かけ引きのようなことが実際に行われていた。よってこの時代のことを「自民党戦国時代」という名で呼ぶ人もいる。
 民主主義の原則として本来政策で争われるべき選挙が、相手への誹謗中傷を含む異質な競争(怪文書をばらまく)などの低レベルの争いとなることも珍しいことではなかった。〝五当・四落〟(5億使えば当選、4億では落選)と言われたように、選挙にもお金がかかり政界の有力者になるには資金力も重要な要素となっていた。当時は政治や選挙にお金がかかるのは当然と考えられる時代でもあった。

福田赳夫元首相の事務所の忘年会にて(1979年12月)

(昭和54年12月。福田赳夫元首相の事務所の忘年会にて)

 その頃は自民党内の派閥が党内党としての役割を果たし、本来の政権交代の代替機能を行うという〝日本型民主主義〟の形態が続いていたものである。しかし単独政党による長期政権が腐敗の温床となりがちであることはどこの国、いつの時代でも同様である。やがて世論は政党の政権交代によるチェック機能が働くことを望むようになり、小選挙区と選挙の公費負担制度が平成8年(1996年)から始まった。
 ところが小選挙区制では一選挙区から1人の政党候補しか立候補できず、現職優先の原則により有力な新人の立候補が困難となった。そのため、立候補のために考え方の違うはずの他党へ移ったり、新たに設立された新党に参加するなどの流れが生まれた。それまで選挙によって新陳代謝が行われてきた保守政党において、この流れは政党の基盤を弱めることにつながった。
 保守政党の分裂・弱体化に伴い、政権交代がなされるようになったものの、経験不足の素人の多い新党の政権担当能力については私達がこの10年の変遷の中で体験してきた通りである。選挙制度の改革と公営化によって、建前上、誰でも立候補しやすくなった点は改善と見えるものの、旧来のように、政党や組織、政治的環境の中でもまれ、候補者としてのわきまえや政治家としての知識を身につける機会のなかった候補者の出現は、新たな混乱を生み出している。
 ことに直接選挙戦の洗礼を受けずに、党の名簿に名前を載せただけで当選してきたような議員の中には、まるで政治家になったことを特権階級にでもなったかのように勘違いをして振る舞う者もいるのである。選挙戦や日常活動での苦労を経て当選してきた従来の政治家とは異なるタイプの議員の出現は、政治そのものに対する新たな不信感を助長させていると言える。

 さらに、こうした傾向というものは国政だけでなく、地方政治においても様々な影響を及ぼしている。
 かつて中選挙区制の頃、中央で熾烈な戦いをしていた国会議員も地方政治と国政の違いをわきまえており、地方政治に国政の対立要件を持ち込んで混乱させようとする人はマレであった。ところが小選挙区制となり、政党と国政における政策の違いが地方政治にまで持ち込まれるようになり、国政は国政、地方は地方と合理的な割り切りができないケースが増えてきた。私は県会議員を26年間務めていたが、その間、市議会の役職人事に口を出したことは一度も無い。通常、国会議員も同じスタンスで対応するものであった。また選挙の公費負担制度の恩典により、立候補のハードルが低くなったせいか、まるで立候補することを新たな就職活動のように考えている候補者も出てきている。そうした人達は地道な活動は行わず、確たる原理原則もなく、まるで選挙を芸能人の人気投票のように思っているようにも見える。
 少なくとも選挙に出るということは、その人なりの愛郷心、正義感、思想や理念、あるいはヒューマニズムなどがその原動力となるものと考えるものであるが、「そんなものは当選してから考える」とでも言わんばかりの姿勢は気になるところである。

 とりあえず時流に乗って、選挙に有利な集団に近づき、現実性がなく実現の可能性の低い政策であっても耳に心地良ければ百花繚乱とばかりに並び立てる。野党である自らは、実現責任を問われないことを百も承知の上での作戦である。
 最近こうした輩が増えてきているように思う。

 人間に名誉欲があるということを否定するものではないが、議員バッジをつけることだけが目的化した、恥も外聞もない、ここまでアカラサマな私欲の露呈を見せられると同じ政治の場にいることが情けなくなってくる。
 立場が悪くなれば政党を次々に渡り歩くこともいとわない。人間としての信義や政治家の主義主張というものがこんなに軽いものであったのかと改めて考えさせられる今日この頃である。

 選挙制度や政治家のあり方が時代とともに変化してゆくものであるとしても、このところのあまりに低次元な政治家にまつわる不祥事のあり様は、これまで述べた最近の傾向と決して無関係ではないと思うものである。
 まもなく7月に参議院の選挙、そして秋には私もその対象となる岡崎の市議・市長選挙を迎えることとなる。
 どうぞこれまでの我が国の政治の変遷を振り返った上で、有権者の皆様にはあるべき国政の姿、あるべき岡崎の未来への選択をして頂くことをお願い申し上げます。

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2015年10月 7日 (水)

よそ者と三河者

武者行列(岡崎市)

 時に「三河人(岡崎)は保守的だ」と批判的に言われることがある。そこでなぜかと問うと、「よそから来た人間や、異なった考え方を容易に受け入れようとしない」と言うのである。
 しかし、そんなことは世界中どこに行っても大なり小なりあることで、特にこの地域に限った問題ではないはずである。〝よそ者の寄り集まり〟の場所である大都市と比べるから、そんな意見が出てくるものだと思っている。
 確かに昔から「親子三代以上の付き合いのある人間なら信用してもよい」という言葉を耳にすることがあるが、そんなことは地方に行けばどこにでもある生活の知恵の一つであると思う。
 アメリカ合衆国のような移民国家であっても、お客さんとして訪れた人には親切であるが、競争相手の一人として移り住んで来た人間は、大都市でもなければ、簡単に地域社会に受け入れられるものでもない。(第一、大都市は地域意識が薄い。)

 以前、ペンシルバニア州の郊外の町を訪れた時に、地元で30年以上開業医をしてみえる中国人医師と知り合ったことがある。彼から「地方では仕事がやりにくいので、アジア人の多いカリフォルニア州へ引っ越すつもりでいる」と言われたことを思い出す。
 歴史を振り返るまでもなく、アメリカでは人種や宗教の問題もあり、より複雑であるが、医師のように社会的地位の高い人物であっても、社会適応に困難性がある所もあるのである。
 まして日本のように長い定住農耕社会が続き、各地で独自の文化や伝統、郷党(きょうとう)による人脈が育まれてきた国において、大都市圏でない限り、保守的傾向が強いのは当たり前のことであろう。ことにこの岡崎には、徳川家康という人物のもと、三河武士のたぐいまれなる団結力により天下を取ったという歴史的背景がある。そうした伝統がより大きく残っていたとしても当然のことであると思っている。

 私の市政になってから推進している、国交省の「かわまちづくり」「歴史まちづくり」事業を機軸とした〝乙川リバーフロント構想〟に対し、「岡崎市民の中には岡崎生まれでない者もいる」と言って批判をされる人がみえる。しかし私は一度もそうした人達を敬遠したことはないし、「市民でない」と言った覚えもない。残念ながら、生まれ育った土地の違いによる、価値観の違いと共通の思いの欠如はいかんともしがたいものがある。それでも、岡崎に住むことによって、岡崎独自の価値の存在は理解してもらえるものと思っている。

岡崎城

 私は30年近く、地元で保守政治家の一人として仕事をさせて頂いているが、この仕事ほど地域との密着性の高い仕事はないと思っている。そもそも「保守」とは、文化の一形態であると同時に、政治理念の一つでもある。そうしたものを批判する御仁(ごじん)というのは、そこにその人の思想的立場がうかがえるような気もする。
 現に岡崎では、よそからやって来た人の中でも、うまく適応している方々がいくらでもみえる。事業で成功された方、町内の役員や総代、市議となって活躍しておられる方の例もたくさんある。ただしそうした方達は皆、三河(岡崎)の伝統、習慣というものを尊重し、自ら地域社会になじむための努力をされている。
 「よそ者」と呼ばれると言って文句を言う人達には一つの共通点がある。それは自分達の考え方、自分達のやり方を強引に通そうとする点である。通すためには、地域の理解を得て多数派を形成しなくてはならない。そもそもそうした手順を越えてコトを運ぼうとするワガママに問題があるような気がする。自分達にある問題点を三河の保守性にすりかえているだけなのである。

 誰しも中学校の英語の授業で習うことわざがある。
 “When in Rome, do as the Romans do.”(ローマに行ったら、ローマ人のように振るまえ)
 これは「郷に入れば郷に従え」ということである。
 ところが世の中にはどうしてもこれができない人達がいる。どこに行っても自分のやり方、考え方を通用させたいと思っている。
 私がもしよその土地に行って生活することになれば、当然その地方の伝統、文化、習慣、しきたりを尊重して生きてゆくことになるだろう。(もっとも、政治などという面倒なことに首を突っ込むことはないだろうが。)

 今、日本全国で様々な「地方創生」の試みが行われているが、それぞれ各地方独自の自然や歴史遺産、文化や先人のなした偉業といったものを「まちおこし」の材料、きっかけ、目玉商品として使っている。もし、そうでない所があればぜひ教えて頂きたい。まず一つの例外も無く、それぞれの地域の特性を活性化の道具として使っているはずである。
 そうした試みが保守的で悪いとするならば、そもそも「地方創生」は成り立たないことになるだろう。
 私はこれからも三河の伝統や文化に対する自信と誇りを胸に、ふるさとの自然や先人の偉業・遺産と共に、この岡崎をしっかりとPRしてゆくつもりである。

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2015年6月 2日 (火)

21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク

21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク

 江戸時代に行われた朝鮮通信使の足跡をたどり、韓国のソウルから東京までの2000キロを共に歩いて新たな友情を育もうとしている人達がみえる。この試みは「21世紀の朝鮮通信使 ソウル―東京 友情ウォーク」と呼ばれ、今回(4月1日~5月22日)で5回目を数える。これまでに東日本大震災の年を除いて4回完遂されている。
 ことに今年は日韓国交正常化50周年の年であり、また朝鮮通信使の切っ掛けを作った徳川家康公の没後400年という節目の年でもある。そのため今回もメンバーの方達が岡崎を訪問することとなったのである。
 このところ歴史認識の違いの問題を抱え、両国関係がこじれたままであり、そうした状況の中で日韓両国の心ある方々はなんとかしたいと考えている訳である。現在のあり方は両国にとってなんのプラスにもならないのである。

 5月9日(土)午後4時半頃、友情ウォークの皆さんは岡崎市役所前に到着された。
 当日は日本人25人あまり、韓国のかたは十数名参加されていた。ソウルからここまで全行程を徒歩でみえたかたもあり、その健脚ぶりには驚かされるばかりである。ことに韓国側のリーダーである宣相圭(ソン・サンギュ)正使は全5回にすべて歩いて参加しており、誠に頭の下がる思いであった。なお宣会長は理学博士とのことである。
 私も岡崎市長として初めて歓迎の御挨拶をし、友好のペナントと朝鮮通信使「ユネスコ世界記憶遺産」登録キャンペーンののぼり旗を受け取ることとなった。
 この催しは、楽しく、仲良く「日韓友情ウォーク」を通じて歩いて市民交流の実を積み上げてゆくことを目的としているのである。国同士というものは政治や経済的問題で時にしっくりいかない時もあるものだが、そうした時に安全弁として機能するものが、一人一人の人間関係を通して培われた信頼や友情ではないかと考えている。そのために様々なパイプを通じた複層的交流が重要であると思っている。

 かつて、この岡崎にあった〝御馳走屋敷〟という施設は、朝鮮通信使の折にも幕府が正式な迎賓館として使用していたという。そうした由来を知れば、16世紀に秀吉軍の侵攻によって断絶した日本と朝鮮の関係を修復しようと尽力した家康公の意志を継いで我々も何かのお役に立てないものかと考えるものである。
 と言っても、友好や相互理解の旗印のもとに相手の考えを鵜呑みにしようと言うことではなく、事実誤認や誤解、偏見や悪意に基づいた意見に対しては、こちらも遠慮せずに正当に議論を戦わせてゆけばいいと考えている。
 相互理解とは、必ずしも同じ意見、見解に達することではない。相互のものの見方、考え方において、見解の相違があることを認識し、それがいかなる根拠によるものであるかということを知ることでもあるからである。それに、自分達にとって都合の良い資料だけを根拠にしての話では説得力に欠ける。近頃よく大都市で行われている、感情的憎悪のはけ口のような「ヘイト・スピーチ」はいただけないだろう。
 同じモノを見ても、その人の立っている物理的な位置、文化的素養、経験(歴史)、あるいは利害関係や思想的背景によっても、モノの見え方は大きく変わってくるものである。そうした中で、おいそれと意見が一致することなどあり得ないことは、中東とヨーロッパの関係一つ見てもよく分かることである。
 不満があるならば、堂々と理性的に、公の場で論証すればいいのである。こうしたことに日本は今まであまりに消極的であり過ぎたと言える。日本人は概して論戦を好まない気質があるが、それは国際関係では通用しない。黙っていることは自らの非を認めたことになるのである。
 欧米において盛んに行われている中韓の反日キャンペーンに対して、大人ぶって沈黙を通してきたことも今日の情況を招いた一因であると考える。よって我々は今後、様々な形で交流すると共に、不当な言論に対しては論戦を厭わないという硬軟おり混ぜた姿勢が必要であると思っている。

第5次・21世紀の朝鮮通信使

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