親善都市・ゆかりのまち

2016年5月12日 (木)

「桜を見る会」と「家康行列」

桜を見る会(2016年4月9日)

家康行列

内閣総理大臣主催「桜を見る会」
 もうすでに一ヶ月前の出来事となってしまったが、春の大きな行事であるので書かせて頂こうと思う。
 昨夏の花火大会に引き続き、安倍昭恵夫人には今年の家康行列の案内状を送らせて頂くつもりでいた。岡崎の春のメイン行事と乙川リバーフロント計画の進み具合を共に御覧頂き、総理にお伝え頂く考えであった。ところが反対に、総理主催の「桜を見る会」の御案内が先にこちらに届き、せっかくの御招待でもあり夫婦共々上京することとなった。新宿御苑で行われる「桜を見る会」に出席するのは県会議長の時(平成19年)以来であり、そう言えば前回御招待頂いたのも安倍総理の時であった。

 4月8日(金)の臨時議会を終えてから、夕刻に上京した。明朝8時半には会場に出向かなくてはならず、当日は初の新宿のホテル泊となった。久しぶりに見る夜の歌舞伎町は、昨今の外国人観光客増加の影響もあって、まるで同じ国内とは思えない街の様子であった。タクシーから降りた街角には黒人のグループがたむろし、ホテルの受付係は韓国人と中国人、お客も日本人は我々くらいしか目につかなかった。翌日表通りで目にしたのは新宿東宝ビルに最近できたという実物大のゴジラの頭と半身であり、不思議な雰囲気をかもし出していた。

ゴジラ

 9日朝は新宿御苑の西口である新宿門の受付を通っての会場入りとなった。岡崎においてはすでに桜は満開の時期を迎えていたが、こちらも新緑の鮮やかさと共に満開の桜が我々を迎えてくれた。限られたスペースに1万6000人もの人々が集うため、会場はロープで仕切られていた。各国大使などの外国人招待客、国会議員、各業界・団体の代表者に加え、芸能人も招待されており実に多彩な顔ぶれの催しであった。

桜を見る会(2016年4月9日)

桜を見る会(2016年4月9日)

 「桜を見る会を久しぶりに満開の桜の下で開くことができ、うれしく思います」という総理の挨拶は、天候を含め自然現象をコントロールできないはがゆさが感じられ、私も同じ心境であった。それから総理が前日面会したという、インドネシア人留学生達が作った桜の歌の一節が挨拶で紹介された。「桜よ咲け、日本の真ん中に、日本よ咲け、世界の真ん中で」というフレーズが印象的であった。やはり外国人にとって桜は日本のイメージなのであろうか?
 岡崎市の市制100周年の記念バッジは桜の形である。少し大きすぎるとは思ったが、先般ある岡崎の方が文部科学大臣に面会された時に、胸のバッジについて「そのバッジのデザインをオリンピックのシンボルマークにすればよかった」と言われたそうであり、うれしく感じたものである。

 「桜を見る会」は園内各所に軽食を楽しむ場所が設けられていたが、安倍総理と昭恵夫人への挨拶を済ませた我々は早々に御無礼することとなった。この日は、翌日に開催される「市制100周年・家康行列」のために、親善都市(石垣市、福山市)・ゆかりのまち(茅ヶ崎市、佐久市、関ケ原町)・観光交流都市(金沢市)の代表の方々と家康公役の里見浩太朗氏が岡崎にお越し頂いており、その歓迎夕食会でお迎えをしなくてはらなかったからである。

岡崎市制100周年・家康行列
 それにしても、こうした他市との御縁というのは本当にありがたいものである。
 昨年5月、ゆかりのまち・茅ヶ崎市の「大岡越前祭」を訪れた折に、夕食会に同席された前川・茅ヶ崎商工会議所副会頭に「100周年の家康行列に時代劇のスターをお願いしたいと思っている」とお話したところ、偶然にもその方は里見浩太朗氏の親しい友人でゴルフ仲間であることが判明した。「よかったら話してあげましょう」と宴席の最中にお電話して頂き、突然私に携帯電話を手渡されることとなった。「また改めて後日、正式に~」という話かと思っていた私は、いきなりの御本人の里見さんとの会話に驚いてしまったが、思い切ってお願いしてみた。里見浩太朗さんは大変紳士的で気さくなお人柄の方であり、それが切っ掛けとなり今回の出演ということになったのである。

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 そのほか、家康行列で心配していたのは天気であった。このところ開催日は天候不順が続いており、昨年は小雨混じりでさえあった。議長とも「天気が買えるものならぜひ買いたいものだ」などと話していたくらいであったが、なんとか久しぶりのお天気となってホッと一安心であった。

 さすが千両役者の里見浩太朗さんの御登場であり、才色兼備の美人女優・菊川怜さんの出演も加わり、すばらしい盛り上がりの家康行列となり感謝感激である。菊川さんも、東大工学部卒の知性派女優ということもあって、この夏の参院選候補として名前が挙がっており直前のキャンセルを心配していたが、快くお引き受け頂けた。

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 当日4月10日は、一日警察署長としての菊川さんの車を先頭に、おなじみの徳川四天王と武者行列、奴(やっこ)列や姫行列、少年少女隊に加え、昨年に続く民団岡崎支部による朝鮮通信使列、昔なつかしのレトロ市電、オールド・カー、100周年PR隊等、多彩な隊列となった。そして何よりも気品と貫禄十分な里見さんの家康公姿は、先日まで舞台で使用していた衣裳とあいまって錦上花を添えるものとなった。46万人を超える、これまでに最高の人出を記録したことはお二人をはじめ多くの皆様方の善意と御協力の賜(たまもの)であり、今改めて感謝御礼申し上げるものである。

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 行列の通る経路は私にとって、広幡、連尺、梅園、三島学区という、まさにワンパク坊主時代からの地元である。沿道には子供時代からの知り合いも多く、「ヤっちゃん!」との掛け声には思わず立ち上がってしまうものであった。「まさかあのヤっちゃんが市長になるとは思わなかったわネ」というかつてのお母さん方からの声が耳に聞こえてきそうでもあった。
 ともかくこのように大きなイベントを事故なく終えることができたのも、当日警備と安全に御尽力頂いた警察、消防、役所関係者、ボランティアの皆さんのおかげであり、沿道の皆様方に重ねて感謝と御礼を申し上げるものである。本当にありがとうございました。

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2015年5月18日 (月)

茅ヶ崎市2015 その2(ゆかりの人々)

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 今回はまた、これまでまだ訪れていない「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」を訪問することができた。
 茅ヶ崎市は地理的に東京から近く、保養地としての歴史も古いことから、政財界の著名人、作家、俳優が多く在住したことでも知られる土地である。

 私はかねてより、「名誉市民」とは別の形で市から表彰を行うことができないかと思案していた。〝名誉市民〟というと何かと堅苦しいし、選考基準も面倒くさそうなので、社会の各分野で活躍し、岡崎市の名前を様々な形で広めて下さった方達に対して、もっとフランクにその労をねぎらう表彰はないものかと考えていた。その点、茅ヶ崎市が行っている〝市民栄誉賞〟の設定はなかなか良いアイデアであると思う。岡崎市にもスポーツや芸術、芸能等の分野で様々に御活躍頂いている方は数多くいる。

茅ヶ崎ゆかりの人物館

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 「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と「開高健記念館」は国道135号線近くのこんもりとした木立に囲まれた丘陵の上に併設されていた。木造を基調とした人物館とどっしりとした造りの開高館の対比もなかなか面白いと感じながら石段をのぼり、人物館の入口に辿り着いた。現在、市民栄誉賞受賞者8名のうち、次の4名の方の企画展がされている。

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 初めは日本人として5人目の宇宙飛行士となった野口聡一氏である。彼は生まれは横浜市であるが、12歳からこの地で育っている。子供時代の思い出話と共に学生時代のノートや写真、そして宇宙服のレプリカ等の展示がある。
 次に女子ソフトボール選手としてアテネ・オリンピックで銅、北京オリンピックで金メダルを獲得した三科真澄選手。
 3番目に日本を代表する女子テニス・プレーヤーの一人、杉山愛さん。写真やラケット、トロフィー等が展示されていた。彼女は横浜市出身で、5歳から茅ヶ崎に在住した。
 最後に女子野球選手の出口彩香さん。彼女のユニフォーム等が解説付きで並べられている。
 木造平屋建ての簡素な建物の中に、郷土出身のガンバル・マン(ウーマン)達をさりげなく紹介して讃える施設はなかなか良いものであると思う。本人はもちろん子供達の励みにもなるだろう。同館には俳優の加山雄三氏や中日ドラゴンズの山本昌選手の展示もあり、そのうちサザン・オールスターズの桑田佳祐氏も加わることだろう。

開高健記念館

開高健記念館

開高健記念館

 中庭にある山荘風・板張りのテラスを通って、森の小径のような通路を抜けると、隣の旧・開高健邸(現・記念館)に出る。開高健は昭和49年に東京から茅ヶ崎市に移り住み、平成元年に亡くなるまでここに暮らしていたという。この記念館は元々開高氏の私邸であり、同氏没後に遺族から茅ヶ崎市に寄贈され、公開されているものである。
 玄関からホールに入ると、開高氏の著作と共に数々の資料が展示されている。我々の世代には開高氏はベトナム戦争の取材(『ベトナム戦記』)とプレイボーイ誌の人生相談で知られている。ホール中央には取材に使用した道具と共に米軍の鉄カブトもある。

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 私は同氏の作品では『オーパ!』シリーズの3冊と他に数冊の随筆集を持っている。残念ながら小説はほとんどまともに読んでいない。しかし、その文体からは私の好きなアーネスト・ヘミングウェイと同質のものを感じている。すなわち、旅(放浪)、戦い、酒、女、釣り(狩り)など、いわゆるマッチョな路線である。
 〝オーパ!〟とは、ブラジルで驚いた時に発する叫び声である。この本はアマゾンやアラスカ、カナダを始め、世界の秘境を旅しながら各地の怪魚、幻魚、珍魚を釣り上げようとする写真付きドキュメンタリー随想である。私のように放浪癖がありながら、なかなか自由に歩き回ることのできない男達にウケたのか、今日まで続くベストセラーとなっている(文庫本もある)。記念館の奥には、釣りの成果の大物の剥製と熊の敷物まであった。今回、旧・開高邸を見て、同氏の作家としての成功を納得したものである。

 先日久しぶりにテレビを観たら、NHKで上原謙・加山雄三親子の年代記をやっていた。やはり私にとって茅ヶ崎と言えば加山雄三である。人生でこれほど影響を受けた人はいないし、私の年代に同様の人間は少なくないと思っている。
 そもそも私は音楽というものにあまり関心が持てなかった。近くの映画館で聴いた洋画のサウンド・トラックは耳に馴染んでいたが、当時の日本で一般的だったのはTV番組で流れるような歌謡曲や演歌、民謡ばかりで、あとはアメリカン・ポップスを和訳してマネて歌っているようものがあるぐらいだった。
 小学校に入学した頃、母親にヤマハ音楽教室なる所へ連れて行かれたことがあった。回りは女の子ばかりであったため「絶対に嫌だ!」と言って一度しか行かなかった(今思えば惜しいことをしたと思っている)。そんな私であったが、ゴジラ映画を観に行くと必ず二本立てでやっていたのが加山雄三の若大将シリーズであった。
 今もはっきり覚えているが、昭和38年『ハワイの若大将』の中で夕暮れのワイキキの浜辺でウクレレを弾きながら英語で歌ったのが「DEDICATED」(加山氏大学3年時の作品)であった。

加山雄三

 それまでの日本の歌と全く違う、スマートで甘いメロディーラインに体に電気が走るような思いがしたものである。この曲は後に「恋は紅いバラ」という名で故岩谷時子氏の作詞でヒットした(60万枚)。映画館を出てすぐにレコード店に出かけてみたものの、その時はまだレコード化もされていなかった。後日、私が初めて買ったレコードとなった。(私は英語の歌の方が好きである。)
 以後、海のスポーツにのめり込み、スキーも始め、へたくそなギターやウクレレも弾き始めた記念すべき瞬間であった。おかげで現在様々なジャンルの音楽を楽しめる素地ができる切っ掛けとなった。加山氏はある意味で人生の恩人の一人であるとも言える。

 誰しも似たような出来事が人生にはあるものであるが、以上の理由から、かつて茅ヶ崎が岡崎とゆかりのまちとなった時、理屈を越えてうれしく思ったものである。

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茅ヶ崎市役所文化生涯学習課の方々にこのたび御案内頂きました。)

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2015年5月15日 (金)

茅ヶ崎市2015 その1(大岡越前祭)

茅ヶ崎市「第31回 春の市民まつり」

 今月の初旬、「浜降祭」以来、約1年振りにゆかりのまち・神奈川県茅ヶ崎市を訪れた。「大岡越前祭」に参加するのは2年振りのこととなる。

 もとより岡崎市と茅ヶ崎市は大岡越前公の領地がとりもつ御縁というものがある。しかし今回は4月の選挙で服部信明市長がめでたく再選されたことに対する挨拶の意味もある。どちらにせよ、服部市長は2年半前の私の初当選の折、真っ先に岡崎にお祝いに駆けつけて下さった熱血市長さんであり、私の好きなタイプである。
 そうした経緯にも増して、茅ヶ崎という所は心安らぐまちである。表通りの華やかさと飲食店の盛況は東京圏の一角であることを感じさせるが、一本裏手の道に入ると、戦災をまぬがれたせいなのか、昭和30~40年代の面影が今も残っている。そうした景観が醸し出す風情がホッとさせてくれるのかもしれない。
 街角の雑貨屋さんの軒下(のきした)に吊してある竹編みのカゴや、昨今なかなか見かけなくなったブリキ製のジョーゴが売られている様を見ると、心が昔へ引き戻されるような錯覚にとらわれる。

ちがさき産業フェア

 大岡越前祭に併せて行われている市民まつりや産業フェアには、今回も岡崎市から有志の参加があり、大変感謝している。またこの催しには全国各地から様々な出店の参加もあって、それぞれにお国自慢の趣向が凝らされ、祭りを盛り上げていた。
 大ホールの中の一角に木工のコーナーがあり、いかにも大工の親方風の三人のオジさん達が陣取っていた。正面に置いてある木組みの製品に私が興味を示すと「何だか分かるかい?」と声を掛けられた。何か運動のための道具かと思っていたら、ワラジを編むために使うモノだと言う。「もっとも、今じゃワラジを編める人がいなくなって、1年に1個くらいしか売れない」そうである。
 とは言え、まだこうした職人気質の方々が伝統を伝え「モノづくり」に関わって生きている姿は素晴らしいものだとつくづく感じたものである。

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六代目スマイル茅ヶ崎、ミス・ハワイのステファニーさん、2015観光大使おかざき

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 今回、午前中に浄見寺において行われた大岡家の法要へは議長に出席をお願いし、私は午後からのビッグ・パレードから参加させて頂くこととなった。
 パレードは、警察と消防の先導のもと、湘南ハーレー・クラブのバイクを先頭に、バトン・トワリング、マーチング・バンド、カントリー&ウェスタン・バンドとダンス・チーム、アフリカン・ダンス、浅草のサンバ・チームに加えて、昨年、茅ヶ崎市と姉妹都市提携をしたハワイのホノルル市からミス・ハワイのステファニーさんとハワイアンのグループの参加という多彩さであった。

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 その後に私達来賓を乗せた4台のオープンカーが続いた。さらに祭り囃子と稚児行列、木遣り・まといに虚無僧行列、そしてラストには乗馬姿の大岡越前公を中心に100名程の時代絵巻が並び、チャンバラ演武も行われるというテンコ盛りのサービスであった。
 市街地の道路の多くが幅6メートルくらいの狭さのため、左右からの市民・観客との密着度も高く、手を伸ばせば握手もできそうな距離でのパレードであり、気も抜けない。知った人もいないだろうと思っていたら、「私も名古屋から観に来ました。ガンバって下さい」と声を掛けられ驚いてしまった。

大岡秀朗さん御夫妻

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 驚いたと言えば、私達の乗車した緑色のシボレーが、一昔前に流行った油圧式でダンスを踊る仕様の車であった。乗車したのは今回が初めてのことである。
 ビッグ・パレードはちょうど岡崎の家康行列と夏まつりの踊りと御神輿パレードにジャズ・フェスティバルの行進を足したような催しであった。この時期には市内全域で社寺のお祭りも行われているそうであるが、ビッグ・パレードが全体のメイン・イベントのような存在であるという。 (つづく

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2014年7月25日 (金)

ゆかりのまち・茅ヶ崎市 「浜降祭」

浜降祭 2014年7月21日

 市長会のヨーロッパ視察から帰国し、平和祈念式典を催した日(7月19日)の翌日、昨年は公用と重なり訪れることがかなわなかった、ゆかりのまち・神奈川県茅ヶ崎市の「浜降祭」(はまおりさい)に参加すべく岡崎を出発した。
 これで友好提携を結んでいる国内の都市の行事は、沖縄の石垣市の秋の行事を除いて、一通り御挨拶にうかがうことができたことになる。

 日本には、様々に個性的な行事が各地に伝わっているが、この浜降祭も臨海地域の人々の伝統と生活、文化を体現した祭事であることがうかがえる。
 浜降祭の由来については諸説あるようだが、大別すると次の二つが有力となる。
 今から180年ほど前の天保9年(1893年)、寒川(さむかわ)神社の神輿(みこし)が、毎春行われる国府祭(こうのまち)の奉納の儀の帰りに相模川の渡し場で寒川の氏子と地元の氏子が争いを起こした際に川に落ち、行方不明になってしまった。ところがその数日後、南湖(なんご)の綱元である孫七さんが漁の最中に御神体を発見し、寒川神社に届けたことを機縁に、毎年同神社の神輿がお礼のため南湖の浜に赴き、「禊(みそぎ)」をするようになったと言い伝えられている。これが一つの説。
 もう一つの説は、それよりも古い時代から鶴嶺八幡宮において、心身の罪けがれを清める「みそぎ」の神事として毎年浜辺へ渡御(とぎょ)を行っていたという記録がある。
 いずれにしても、そうした、地域の伝承が後年に合体して今日の形となり伝わってきたものと考えられている。正式には明治9年(1876年)に、それまで旧暦の6月29日に行われていた神事を新暦の7月15日と定め、名称も〝浜降祭〟とし、さらに平成16年(2004年)からは7月の「海の日」(第三月曜日)に祭礼を行うことに変更し、今日に至っているという。
 今では茅ヶ崎市・寒川町の各所の神社に集結したそれぞれの氏子達が、宴席をもった後にそれぞれの神輿を担いで、早朝の湘南海岸に集結してくるのである。当初私は2~3基の御神輿を担いで海に入って騒ぐお祭りぐらいのことを想像していたのであるが、各神社から集まってくる40基近くの神輿の隊列を見て大変驚かされたものだった。
 各神輿にいくつも付けられた鈴と、横下に設置された西洋玄関の金属製の鳴子のような機具によって、ダンダンダン、ダンダンダンとリズムがきざまれる。そこに「どっこい、どっこい」と言うこの地方特有のかけ声が混ざり合い、老若男女に子供まで含めた数千人もの人々が浜辺に押し寄せてくる様子は実に壮観である。

浜降祭 2014年7月21日

浜降祭 2014年7月21日

 すべての神輿が勢ぞろいして一線に収まるまでに2~3時間かかる。担ぎ手に“一杯”入っていることもあり、最後まで神輿を担いで廻るという男気もあいまって、なかなか神輿が収まらない。それでも朝7時には、なんとか一列に並んだ神輿の前でおごそかに神事と式典が行われることになる。各地元の代表者、来賓の名士に続き、私と新海議長も玉串奉典の列に着かせて頂いた。荒々しい海の祭典における、一時の静寂の間である。
 その後、再び各神輿は海へ向かって進み、順番に水に入ってみそぎを行ってから、各地元の神社へ戻ってゆくのである。
 一晩中担ぎ続けてきた神輿もあり、遠くの神社の方々はトラックに乗せて帰るということだった。しかしその後、地元の町内を夕方まで練り歩く神輿もあるそうである。
 漁師町に始まった、この勇壮で伝統的な浜降祭は、今では〝暁の祭典〟という呼称と共に神奈川県の無形民俗文化財となっており一見の価値があると思われる。

浜降祭 2014年7月21日

 現在50代の服部信明市長は、「私は今でも本当は担ぐ方が好きです」と言ってみえたけれど、これだけのお祭りを毎年整然と行うことはさぞや大変なことであろうと思う。また、酔っ払いにからまれながらも、丁寧な対応をしていた交通整理の警察官の姿にも本当に頭が下がる思いであった。
 こうした伝統行事の継続には、地元の方々がそれぞれ愛郷心に燃え、地域の伝統文化を後世に守り伝えようとする姿勢がしっかりしているからこそ可能なことであろうと思う。
「さあ、次は岡崎の夏まつりである」
 我々もガンバらねばと思っている。

 浜降祭からの帰り道に海岸線を歩きながら、沖合いに見える「えぼし岩」と波のきらめきを見ていて、この町が海の若大将、加山雄三のふるさとであることを思い出した。
 加山雄三は、小学生の私を海のスポーツと音楽へいざなってくれた恩人であるともいえる。そのことは岡崎と茅ヶ崎が名前が似ていること、大岡越前公をめぐるゆかりの町として両市が特別の関係にあることと同じぐらい、共にうれしいことである。もう少し若い人たちにとっては、えぼし岩と湘南の海と言えば、サザンオールスターズを思い出すことになるのかもしれない。桑田佳祐は茅ヶ崎出身である。
(こんなことを書いているとまた嫁さんに叱られそうである。)

茅ヶ崎市 えぼし岩

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2013年7月18日 (木)

親善都市・福山市へ その2(ばら祭)

広島県福山市訪問

 前夜の晩餐会では各友好都市の代表の皆さんと同様にお上品に挨拶を済ませ、翌日に控える「ばら祭」と「ローズ・パレード」のために夜更かしをせず早く眠ることにした。
 2日目は昼からのパレードの前にもう一つ仕事があった。ばら祭の展示会場において、切りばらコンテストの審査をしなくてはならないのである。そこで岡崎市長賞のばらを選ぶのが私のお役目である。
 その結果を述べる前に、福山市とばらの関係について少し説明をしておこうと思う。

 福山市は、先の大戦の米軍による空襲によって市街地の8割を消失している。戦後、「荒廃した街に潤いを与え、人々の心に和らぎを取り戻そう」と市民の有志の手によって、昭和31年(1956年)にばらの苗1000本が植え付けられた。この結果、昭和43年(1968年)には「全国美しい町づくり賞」の最優秀賞を受賞することとなった。昭和60年(1985年)には市の花にも制定され、ばらを通して培った思いやりの心(ローズマインド)は「100万本のばらのまち福山」づくり運動となって推進され、今日に至っているのだそうである。ばらと言えばお隣の西尾市もばらが市の花である。「市の花がバラなんてロマンチックでいいな」と思う一方、私はばらと聞くともう一つ思い出すことがある。

 大学生の頃、神田の本屋で難しい漢字のシャレた装丁の本を何気なく手にとった。その時の「薔薇族」という名の本の印象が強すぎて、ばらというと今もそちらを連想してしまうのである。(ただし私はそちらの気はありませんので、念のため。)そう言えば、本の表紙の絵を描いていた内藤ルネさんというイラストレーターは岡崎出身であったと記憶している。筋肉質で痩身の青年が半ズボン姿で一輪のばらを持ち、横顔で立っている絵が今でも思い出される。

第46回福山ばら祭

 話を元に戻すと、当初私は最終選考に残った5つの作品の中から岡崎市長賞を選ぶということで、一番大柄な花をつけていた白バラを選ぶつもりでいたのだが、隣から「こいつは肥料のやり過ぎだ」というつぶやきが耳に入り、近くの赤いバラを選択してしまった。後で同行の太田副議長も、岡崎市議会議長賞に赤バラを推したことを知り、そんなことなら白バラにしておけばよかったと思ったものである。こんなことで審査は決まるのであるから、選に漏れた方はあまりガッカリしないで下さいと言いたい。

葵武将隊 2013年5月19日

 市民まつりの会場に出かけてみると、今日もいました葵武将隊。前回の茅ヶ崎市のお祭りの時と同様、彼らの積極性とガンバリには頭が下がるが、武将隊は二人ではちょいと迫力不足な気がする(この日は水野勝成と稲姫の二人だった)。せっかく演武までさせるならば、三人以上でないと様(さま)にならないだろう。この点もう少し岡崎市としても考えなくてはならないと思う。
 昼食後、ばら公園のバラを横目で見ながら出発地点まで向かう。私は「天気男」でいつも通しているが、調子に乗ってそのことをブログに書いてから雨が続いている。これで二連敗だ。やはり、そういうことを文章にするとジンクスも途切れるのかもしれない。雨空を見上げながら少々責任を感じた。

福山市 ローズ・パレード

第46回福山ばら祭

 パレードはオープン・カーをやめて、バスで行うことになったが、少々の雨ならばオープン・カーの方が良かったと思う。途中から雨が上がっただけにこの点は残念であった。しかし、そんな天候にもかかわらず、ミッキーマウス・パレードや「ブルガリア共和国バラの女王」の登場もあって、沿道は人で埋め尽くされていた。いかにローズ・パレードがこの町の人々に愛されている催しであるかが分かる。
 パレード終了後、ばら公園内にある前岡崎市長が友好の印に送った「なかよしの像」を見に行った。よく目立つ所に配置されていたが、贈呈者名と説明が裏に彫ってあるため何のモニュメントだかよく分からない。そのせいか、隣に福山市の御配慮で白の解説板が立てられていた。これも雰囲気になじめず興醒めの感があった。
 茅ヶ崎市に贈呈された「なかよしの像」の前面下に贈呈市長名と説明が彫ってあった意味がこの時ようやく分かった。モノゴトは何でも現場に行って見ないと分からないものである。

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2013年7月15日 (月)

親善都市・福山市へ その1(鞆の浦)

広島県福山市訪問

 「第46回福山ばら祭」が5月18日(土)、19日(日)、広島県福山市で開催された。5月以来の度重なる県外での会議や6月議会への準備のため、記述が2ヶ月も遅れてしまったが、親善都市である福山市を訪問した時のことを報告しておこうと思う。
 今年は茅ヶ崎市、佐久市との「ゆかりのまち30周年」と2月の石垣島新空港の開港に加え、親善都市42周年を迎える福山市への訪問により、関ケ原町をのぞくすべての友好関係にある都市への新市長としてのご挨拶が済むこととなる。岡崎市の代表として各地を訪問させて頂いて、改めて首長としての職責の重さを再認識させられた気がする。

 広島県の福山市と愛知の岡崎市がどの様な縁で結ばれているかと言えば、古く江戸時代の初期に遡ることとなる。徳川家康公のいとこにあたる刈谷の水野勝成公が初代の福山城の城主として福山の地に移封されたことによるのである。そうした古い機縁のもとに、昭和46年(1971年)11月9日、奇しくも私の父親が市長の折に、岡崎市と福山市が親善都市の提携を結ぶこととなった。両市は、城下町として栄えたことだけを共通の歴史に持つものではない。先の大戦において戦禍に見舞われながら、両県の中核市に成長したことも、共通点として挙げられる。更に市制施行日も同じ大正5年(1916年)7月1日であり、3年後には市制100周年の大きな節目を迎えることになる。
 現在、岡崎東公園の動物園にいる象の「ふじ子」は、福山から岡崎への友好の印として岡崎に寄贈されたものである。象を送って頂いたことには大変感謝をしているが、一匹だけで生活しているふじ子の姿は見る度に哀れでならない。ふじ子のおかげで多くの岡崎の子供達が身近に象を見られる機会を得られたことは喜ばしいことであるが、これからの動物飼育の原則としては、「群れで生活する動物は、多頭飼いをする」べきであって、できなければ飼うべきではないと思っている。

 今回福山へは岡崎市だけでなく、親善友好提携5周年を迎える米国ハワイ州マウイ郡の郡長ならびに訪問団一行、韓国・浦項(ぽはん)市の訪問団の皆さんも招かれていた。
 当日は福山到着後、夜の歓迎会まで時間があったため、福山市の御好意に甘えて、瀬戸内海国立公園の景勝地として名高い鞆の浦(とものうら)へ足を運ぶことにした。県議の時にこの地を訪れたことがあったが、今回は観光ボランティアとして有名な宮本和香(かずこ)さんという御婦人の案内によりこの地を訪れることとなった。おまけに役所の随員も宮本さんである。
 市内から14km南にある沼隅半島に向かう経路には、芦田川という大きな川とそこにかかるいくつもの橋があり、そんな風景にも岡崎との共通性を感じさせられる。夏にはこの川沿いで花火大会が催されるそうだ。
 鞆の浦は瀬戸内海国立公園を代表する景勝地であり、穏やかな瀬戸の海には、弁天、仙酔など小粋な名前の島々が浮かんでいる。
 最初に訪れたのは、福禅寺という寺の境内にある「対潮廊」(たいちょうろう)という江戸時代(1690年代)に建てられた客殿だった。前にも来たことがあるが、今回は天気もよく座敷からの眺望は素晴らしかった。以前NHKの番組が、この地を訪れた朝鮮通信使の一行がここから海を臨む景観に心を打たれ、「日東第一形勝」(日本一の景勝の地)の書を残したことを紹介していたが、まさにその通りの美しさであった。
 少し前、このあたりの海に橋を架けるの架けないので、地元と県の間で大モメしたと聞くが、その計画は鞆の浦の景観に直接かかわるものではなかったようだ。「地元生活の利便性の向上のためには橋が必要」という声と「美しい自然景観を守れ」という声がせめぎ合っていたそうだ。いずれにせよ、今は橋の建設計画は取り止めとなっている。こうした問題はいずこも同じである。

広島県福山市訪問

 漁村から発展してきたという町並みを眺めながら散策をしたとき、このあたりの風景をどこかで見たことがあることに気がついた。私はご承知のとおり映画マニアであるが、アニメもけっこう好きである。スタジオ・ジブリの『崖の上のポニョ』というアニメ映画に出てくるポニョという女の子が小さい頃のウチの娘によく似ていたため、ついついDVDを買ってしまった。お店の若いニイちゃんが「このオジさん本当にコレ買うの?」という顔で一瞥(いちべつ)したことを今も覚えている。
 何が言いたいかというと、このアニメに出てくる町や海岸線の風景が鞆の浦の一帯とほんとによく似ているのである。私の気のせいかと思っていたら、ある街角のウィンドウの中に、ポニョの人形と手作りの島の造形が飾られていた。地元の人に話を聞いたところ、宮崎駿氏はあのアニメを製作する前に、構想を固めるためにこの地で3ヶ月程逗留していたことが分かった。案外私の勘も捨てたものではないと思った。
 宮崎氏が毎日コーヒーを飲みに来ていたというひなびた喫茶店に入ったとき、私としては珍しく、目にとまった販売用のコーヒーカップを衝動買いしてしまった。後で箱を見たらメイド・イン・ギフであったが、現在このカップは役所で愛用している。(つづく

福山市とポニョ

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2013年5月26日 (日)

佐久市訪問 その2(バルーンフェスティバル)

佐久バルーンフェスティバル2013

 5月5日(日)、早朝6時にホテルを発つ。熱気球のフライトには風の少ない早朝が良いそうである。先日のグライダーに続き、「煙となんとかは高いところに行きたがる」のたとえ通り、またしても私は大空高く舞い上がる乗り物に試乗することになった。今度は茅ヶ崎市長と新海議長も道連れである。
 我々の乗るバルーンは「佐久の鯉太郎」号であった。バルーン下のカゴに乗って浮き始めると、一斉にカメラのレンズが向けられる。上から「最後の写真になるかもしれないから上手に撮ってネ」と声をかけると、下から「遺影を撮るときは『イエーイ!』と言って指サインをして下さい」と返ってきた。要望に応えその通りにするところが我々の世代の良いところである。

佐久バルーンフェスティバル2013

佐久バルーンフェスティバル2013

 バルーンは上空450mあたりまでゆるやかに上昇し、地上の会場の周囲を一周するような形で30分近く浮遊した。遠くには頂(いただき)に雪を残した山々が見える。会場のまわりにはのどかな田園風景が広がっている。私達は会場の隣の田んぼにゆっくりと着地した。当初1000mくらいまで上昇すると聞いていたが、上空は強い気流があったため、流されてレースの邪魔にならないように高度を調節したということであった。高度によって吹く風の向きが違い、熱気球はハンググライダーのように簡単に向きをコントロールできない。そんな中、自然の風に乗り、どれだけ正確にゴールに近づけるかを競うのがこのレースである。そのため競技は、一般的に風の穏やかな早朝か夕方に行うのだそうだ。強い風ばかりでなく、雨や露でも競技中止になることがあるという。「上空は寒い!」と言われ厚着をしていったが、450mくらいでは大したことはなく、逆にガスバーナーの熱で頭が焦げそうであった。
 佐久では毎年この大会が終わるまで農家の方達が田んぼに水を入れずに待っていてくれるそうである。大会終了と同時に水を引き、田植えが始まるという。

佐久バルーンフェスティバル2013

 早朝の熱気球のフリーフライトを終え、ホテルに戻り朝食をとり、再び会場に向かう。バルーン・レースの出発会場はすっかりお祭り広場に模様替えされていた。養鯉(ようり)業はこの地の伝統産業であり、海から遠い山間地において貴重なたんぱく源であった。そのせいかこの地で鯉は食用専門である。
 大人の体ほどもある木彫りの鯉の載った台車のおみこしを引きながら、はっぴ姿の子供達が場内を一周する。その後壇上で始まった式典で鯉拝領の儀式があった。龍岡藩主に扮した人から各町の代表に、生きた鯉が口上を述べながら手渡された。そして我々の登壇挨拶となった。

 考えてみれば、歴史的つながりとは不思議なものである。一言で縁と言ってしまえばそれまでであるが、百年以上前の出来事がこうして遠く離れた地域の人々に友好関係をもたらしており、そして今、岡崎のゆかりのまちである佐久市と茅ヶ崎市が岡崎を通した縁によりこの度防災協力都市協定の縁組みをすることになった。こうした友好と助け合いの輪が広がってゆくことが、より良い日本を造ることにつながると私は信じたい。

第51回 佐久鯉まつり

第51回 佐久鯉まつり

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2013年5月22日 (水)

佐久市訪問 その1(ゆかりのまち30周年)

佐久バルーンフェスティバル2013

 5月の連休中の二日間、ゆかりのまち30周年の第二弾として長野県佐久(さく)市を訪問することとなった。「岡崎市と佐久市がなぜゆかりのまちなのか?」という嫁さんの質問に明確に答えられなかったので、改めて調べてみた。
 そもそもの始まりは、江戸末期の文久3年(1863年)、第8代奥殿藩主であった松平乗謨(のりかた)公、のちの大給恒(おぎゅう ゆずる)が岡崎市の奥殿にあった陣屋を信州佐久1万2千石の中心地臼田(うすだ)に移し、龍岡(たつおか)藩主となった縁による。その後、昭和58年(1983年)7月1日に岡崎市と臼田町が旧縁をもとにゆかりのまち提携をすることとなったのである。

 今回訪れたのは、ゆかりのまち30周年記念を寿ぐと同時に、当地で21回目となる「佐久バルーンフェスティバル2013」に参加し、フリー・フライトに試乗し、同日行われる第51回目の「佐久鯉まつり」に参加するためである。岡崎市がゆかりのまち提携をしたのは臼田町であったが、2005年4月に佐久市、臼田町、浅彩町、望月町が合併し、新しい佐久市となったため現在は佐久市とゆかりのまち提携を続けている。
 面白い話として日本中で海から一番遠い地点、海から一番遠いスシ屋の所在地でもある。とは言え、佐久という名前は私達にあまりなじみが無い。合併して10万人程の新しい市であり、長野県と言っても東部にあるため経済的には関東圏の影響下にある。四辺を山々に囲まれた、佐久平と呼ばれる盆地に位置する。住民の気質は穏やかであり、近隣の市町との関係も良好な住み易い所だそうである。
 市内を千曲川が貫流し、耕地の広さが目につく農業地帯でもある。古くは中山道と甲州道の結節点の宿場町として始まったという。現在は上信越自動車道が通り、長野新幹線の駅まであることがうらやましい。駅周辺では将来を見越して、機能的に整備されている。周囲の田畑となっている土地が区画整理され市街化されれば、将来の発展性は高い。新幹線で東京まで70分という立地を考えると、一度都市化の流れが始まると、急速に市の外観が変容してゆくことが想像できる。一つ不思議であるのは観光地という訳でもないのにホテルが5~6軒も存在していた点である。軽井沢に近いことがその理由かもしれない。

臼田宇宙空間観測所

 5月4日の午後、佐久市到着早々、新海議長と共に臼田にある宇宙空間観測所の視察に行った。細い山道を抜けてしばらく行くと、白い円形の巨大な建造物が山の中腹に見えてくる。これが日本一大きな直径64mの大パラボラアンテナであることが、到着後に教えられる。堂々と説明する女性はJAXA(宇宙航空研究開発機構)の博士かと思っていたが、佐久市の職員であった。あの宇宙探査機「はやぶさ」の帰還の折、微弱な電波を最初に受信したのはこの施設だそうである。施設の中核をなす64mのパラボラアンテナは総重量が2000トンもあり、部品として運んだとしてもどうやってあの細い道を通ってきたものか疑問が残る。牽引型のトラックで運んだとすれば神業である。

 その夜、バルーン・イリュージョンの見学に出かけた。これは、地上に固定したバルーンに翌日開催のレースに備えガスバーナーの火を当てる催し物である。それから歓迎夕食会に向かった。
 個々のカラフルで個性的なバルーンは闇夜のネオンサインのように輝いていた。(つづく

佐久バルーンフェスティバル2013

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2013年5月 9日 (木)

ゆかりのまち茅ヶ崎 その3(ビッグパレード)

 自慢するほどのことでもないが、どういう訳か私は自分でもあきれるほど異常な晴れ男である。今までも前日まで嵐のような天候であったのに、行事の当日には雨の予報をくつがえし、晴天、日本晴れということが何度もあった。3月に行われた竜城ライオンズクラブ寄贈の岡崎公園案内板の除幕式も午前中の雨空が変わり、式典が終わって私が車に乗った途端に再び雨が降り出した。中止しようかと思っていた「家康行列」も、寒くはあったが昼まで降っていた雨が止み、なんとか開催できてしまった。
 今回の茅ヶ崎はアウェーでもあり、市民まつりは雨の中となったが、やはり昼過ぎのパレード開始前には太陽も顔を見せるようになっていた。一体このツキはどこまで続くのだろうか?(大体こんなことを言っていると途切れるものである。)

茅ヶ崎市 大岡越前祭 ビッグパレード

茅ヶ崎市 大岡越前祭 ビッグパレード

 茅ヶ崎のパレードは中心街の茅ヶ崎小学校を出発し、岡崎市なら裏通りにあたる(失礼)細い道を通り地元商店街を抜けることから始まった。岡崎の家康行列は一応片側2~3車線のメインストリートを行進しているが、茅ヶ崎ではそうした道はほとんど郊外の自動車専用道路となっているようだ。戦災を受けなかったせいで道路幅がせまく、広いところでも連尺通りくらいである。
 そんな道を、我々を乗せたオープンカーを先頭に、楽団やダンス・踊りのグループまた仮装行列など様々な隊列が続いてゆく。全走行距離も岡崎の3.2kmの半分ほどである。しかし、道路がせまい分、市民との親密度は高く、家々の窓から、あるいは家族全員が家の前に立ち並んで声援を送ってくれる。もう少しで手がふれそうな距離感であり、人々の目線は好意的である。選挙の街宣活動もこんなふうだとありがたいのだが・・・。
 前日の「ゆかりのまち30周年の式典」がテレビで放映されたせいか、私も新海議長も、岡崎から来た部外者であるにもかかわらず温かく迎えてくれた。市街地の大通りは(と言っても二車線)さすが東京圏であり、シャレたお店が立ち並んでいる。しかしそうしたところは中心地に集中しており、すぐに住宅街に続くエリアに突き当たってしまう。

サザン・ストリート

 私はこの町を訪れるのは初めてのことであるが、なぜかふるさとに戻ってきたような懐かしさを覚えた。不思議であるが、ひょっとすると中学生の頃熟読していた加山雄三の『若大将半生紀』という本で茅ヶ崎のことを知っていたせいかとも思う。
 名誉市民である加山雄三のほかに、この町は実に多くの芸能人を輩出している。そのため地元出身者の作った楽曲を並べてもパレードができることが大変うらやましかった。そしてサザン・オールスターズを記念したサザン・ストリートもある。かつての銀幕の大スター上原謙氏を記念した〝上原謙通り〟は現在、同じく時代のスーパースターであった息子の名の〝加山雄三通り〟に改称されている。しかし古い人達は今も〝上原謙通り〟と呼んでいるそうだ。
 過去の歴史では岡崎がまさっていると個人的に思うが、現代人の活躍ぶりはどうやら茅ヶ崎の方が目立っているようである。そういえば中日ドラゴンズの最多215勝投手、山本昌広氏も出身はこの町であり、加山雄三同様、茅ヶ崎の名誉市民である。

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2013年5月 5日 (日)

ゆかりのまち茅ヶ崎市 その2(大岡越前公)

大岡忠相公

 折角の機会なので、大岡公と茅ヶ崎市についてもう少し記述したい。
 大岡忠相(ただすけ)公は、延宝5年(1677年)、1700石の旗本・大岡忠高の四男として生まれ、後に同族の家に養子として迎えられる。将軍吉宗が享保の改革として幕政改革に着手した折は、江戸町奉行として多くの都市政策の改編に携わることとなった。
 市政において、町代(町役)の廃止など町政改革を行い、当時火事の多かった江戸の防火体制の強化体制として現在の消防団(自主防災組織)の元とも言える町火消組合を創設し、公の防火負担を軽減した。そのため、大岡家の法要には今も東京の木場あたりから町火消しの流れをくむ人々により木遣り唄の奉納が行われている。また瓦屋根や土蔵など、防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などにも彼の業績は及んでいる。こうした具体的な施策によって、江戸の防火体制は以後、大幅に強化された。

岡崎市役所 目安箱

 庶民対策として、直接訴願のために目安箱を設置し(岡崎市も実施中)、その目安箱からの要望を受け、貧しい病人のために現在の病院と言える小石川養生所を開設している。また、さつまいも先生として有名な青木昆陽を登用し、飢饉対策としてサツマイモの栽培を奨励している。
 米価対策としては米会所を設置して公定価格の安定を企(はか)り、株仲間の公認により組合政策を指導し、貨幣政策として貨幣の流通量の拡大を進言したりしている。さらに江戸近郊の新田開発や河川整備、さらには儒学教育の振興にまで手を尽くしている。そうした多方面への貢献により、寺社奉行時代には5920石取りとなり、間もなく江戸付き旗本としては珍しい1万石の大名格となった。1752年、将軍吉宗が死んだ年と同じ年の12月、75歳で亡くなっている。

 小説やマンガ、映画やテレビドラマなどで人情味あふれる庶民の味方として描かれてきた大岡越前公であるが、数ある物語の中で実際に本人が奉行として裁いたのはわずかのことである。現在「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、当時の様々な奉行がおこなった裁きの中から抽出されたものを講釈師が広めてきたもののようである。
 信頼できる資料として自らが記述した「大岡越前守忠相日記」というものが残っている。そこには公人としての大岡公の職務記録が淡々と記されており、生真面目な官吏の一人であったことがうかがえるという。

柾木太郎市議、新海正春市議、内田康宏

 次は茅ヶ崎市について。
 現在、東京近郊の手近なベッドタウン(東京まで1時間から1時間半)として都市化しつつある茅ヶ崎市であるが、元々は小さな漁村であった。明治期に東洋一と言われたサナトリウム(結核療養施設)の南湖院が開設され、国木田独歩をはじめ多くの著名人が入院し、併せて東京の富裕者による保養地、別荘地として発達したことにより、今のような市街地が形成された。
 海岸沿いの漁村風景と共に瀟洒(しょうしゃ)な別荘が立ち並び、徳川につながる松平家や土井家の別邸、また俳優・加山雄三氏の祖先である明治の元勲・岩倉具視公の別荘もあったという。戦後は外国人も別荘を構えていたそうだ。そういえば加山氏が子供時代にピアノを師事しようとして訪ねたところ、「君はまだ小さいから」と言ってお弟子さんを紹介されたという、高名なピアニストのレオニード・クロイツァー氏もこのあたりに住んでいたそうだ。
 加山氏は現在茅ヶ崎在住ではないが、親族は今も住んでおられる。茅ヶ崎市議会の柾木議長のお話によると、加山氏の甥が柾木氏の近くに住んでいるそうだ。加山氏の甥は自分の先祖が五百円札の肖像となっている岩倉具視であることを知らなかったので、あるとき、「『バカヤロー』と言って頭をコヅイてやった」そうである。こんな話は地元でないと聞けないことである。
 茅ヶ崎の市政施行は昭和22年(1947年)で、現在人口23万6000人とのことである。(つづく

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