見本

2017年1月20日 (金)

人生は戦いなり

Life is a Struggle

 現在、私の自室の正面にはクリムト作の「黄金の騎士」の複製画が飾ってある。本物の絵は愛知県美術館の所蔵するものであり、〝人生は戦いなり〟という副題がついている。気の弱い私は自らを鼓舞する目的で、この絵を目前に飾り、毎日見ているのである。

 人がこの世に生き続けるということは、それぞれ何かしかの戦いをしているということである。精子と卵子の邂逅を得て人間としてこの世に生まれる権利を手に入れるためには、まず数億の仲間(兄弟?)との競争に勝ち抜かなくてはならない。すなわち一つの生命の誕生のためには、数億の同様の可能性の犠牲があるのである。どのような平和主義者も人生の第一段階でこの戦いを制して生まれてきているわけであり、その事実を否定することはできないだろう。キリスト教の言う「人間の原罪」というのは、案外こんなところから発しているのかもしれないとも思う。
 さらに生まれ落ちた後もまだ戦いは続く。五体満足に生まれることができたか否か。知能や美貌に恵まれた否か。裕福な家に生まれたかどうか。そして愛情あふれる両親のもとに育つことができるかどうか。そうした、本人の意志ではどうしようもない、生まれつき備わった生物的基礎能力と環境的条件が個々の人間に与えられた人生ゲームにおけるアイテムであり、基本設定要件となる。
 その点で我々は初動の段階において、風に飛ばされる種子や鳥によって運ばれる果実の種と同じである。そう、人生とは生まれた瞬間から偶然と不公平から始まるのである。おまけに生まれる前や生後に親に殺されたり、捨てられる不運なケースさえある。
 誰しも偶然の所産として与えられたそれぞれの条件のもとに〝人生の戦い〟を進めて行かなくてはならない。第一段階の幸運不運の違いはあっても、例外は無いのである。

 戦いの種類は多岐にわたり、次々と降り注いでくる。進学、就職、資格の獲得、昇進競争や自ら挑む選挙もそうである。さらに配偶者獲得のための競争もある。こちらは個々の感情的要素がからみ、さらに難物である。そして幸か不幸か結婚に至っても、その配偶者と子供達との葛藤といった問題が加わってくる。
 先日新聞に、世の中には二通りの人間があり、それは「結婚を後悔している人間」と「未だ結婚していない人間」であると記してあった。
 先のことは分からないものであるが、うまくいったと思ったことが後にとんだ貧乏クジの元となることもあるし、その逆のケースもまれなことではない。そのように人知を超えた、思うにまかせないものが人生であり、人生航路の至る所にドンデン返しの落とし穴が散りばめられているからこそ人生は最後まで油断できないのである。

 幼少時から能力と才能を発揮する子供、上級に進学してから頭角を現す者、あるいは実社会に出て本来の実力が開花する人など様々である。一つの道を堅実に歩む者、運命のいたずらか本人の意志かはともかく、二転三転しながら成功する者しない者、幸せな人生を送れたかどうかは、本人の人生観、価値観にもよってくるため一概には言えない。いずれにしてもそれぞれの人生ステージにおいて次々と新たな戦いの場が用意され、それに勝ち残ることが要求される。
 時に神仏を呪いたくなるような過酷な運命を与えられ、しかもその中で戦い続けることを要求されることがある。戦いに倒れることがなくとも、その運命の重荷に耐えきれず、自ら人生ゲームを途中退場してゆく者もいる。
 それも選択の一つではあるが、人生の敗北者の烙印を消すことはできないであろう。チャンスは戦い続ける者にのみ与えられるのであるから。

 この仕事をしていると様々な人生を垣間見る機会があるが、これまで、生涯、幸運に恵まれた人生というのは聞いたことがない。
 また、人からうらやまれる富や社会的地位や名誉を持っている人が必ずしも幸せな人生を送っている訳ではない。家庭内や一族との間に不和を抱えていたり、子供の不出来や健康上の問題などに悩まされていたりもする。
 自らの失策や不運はもとより、他人の巻き添え、あるいは経済や社会の変化、法律の改革により窮地に追い込まれる人生もある。
 それでも生きてゆかなくてはならないのが人生なのである。

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2017年1月14日 (土)

銅像と偶像の違い

 今回家康公像に対して本市が試みている寄附金を主体とした新しいシンボル造りの事業は、キリスト教文化に根ざした欧米社会ではしばしば行われていることである。
 現在もそうしたものが、欧米を旅した時、各地で大切にされていることを目にするものであり、地域の人々の郷土愛のシンボルとして役立っている様子がよく分かるものである。

 かつて20代の頃、アメリカ留学からの帰国途上、単身で東欧からソヴィエト連邦を旅したことがあった。日露戦争の折、旅順港閉塞作戦で戦死した軍神・広瀬武夫少佐はロシア留学後にシベリアを単身犬ぞりで踏破して帰国しているが、そのことを記録した『ロシヤにおける広瀬武夫』という上下2巻の本を学生時代に読み、以来私もいつかユーラシア大陸を横断したいと夢見ていたからである。
 当時これらの国々のどこに行っても目についたのが、あのお決まりの気むずかしい顔をしたマルクスとレーニンの像であった。スターリン批判の後であったせいか、あのアドルフ・ヒトラーと並ぶ、カイゼルひげの虐殺者の像は目にすることは無かった。偶像がプロパガンダ(政治的宣伝)の一環を成すというのが当時のこれらの国々の常態であった。

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 シベリア鉄道を使って移動中、沿線の名も無き小さな町においても、日本の田舎のお地蔵さんのように、このハゲとヒゲのおじさん達の像はあった。お地蔵さんはたいがい町や村の片隅にひそやかにたたずんでみえるものであるが、これら権威主義の象徴のようなハゲとヒゲのおじさんの像は、どこの町でも一等地の真ん中に「これでもか」とばかりにふんぞり返っていたものである。
 中には金色や銀色に塗り上げられたモノもあった。当時それを目にした私は「金、銀とはまさに成り上がり者根性の極みだな」と思ったものであった。
 昨今も同様の趣味の方が近隣の国にいるようであるが、「ムダな建造物」と言う言葉を使うならば、これらの像ほど無駄なシロモノもないだろう。しかもこれらの国々の場合、思想の押しつけがあるだけに余計に悪質で始末に悪いものであると思う。このような像こそ、人民の生活を後回しにして造られたモノなのである。きっと自分達の思想のもとに行われることは何でも正当化できると思っているのであろう。

 その後1990年代を迎え、ソ連邦の崩壊と東欧共産政権の瓦解に伴って、各国においてこうした偽りの偶像が民衆の手によって次々と引き倒され破壊されていったことは今も我々の脳裏にしっかりと残っているし、映像の記録が世界中に保存されている。まさに「圧政者の末路、あわれなり」であった。
 私は、負の遺産というものもそれなりに教訓的価値があり、できのいいモノは残しておいてもよかったのではないかと思っているのであるが、どうやらあらかた破壊されてしまったようである。プーチン大統領の時代になり、復古的風潮が出ているとのことであり(プーチンはKGB(ソ連秘密警察)の元工作員)、機会があれば再びロシアを訪れ、この目で確認したいものである。

 シベリア鉄道の車内食も今は改善されたそうであるが、当時は実にひどかった。そんな旅のさなか、各駅に停車する度に近くのロシア人の太ったおばさん達がバケツに塩ゆでしたジャガイモを山盛りにして売りに来ていた。1ルーブルでビニール袋いっぱいのジャガイモをくれたが、あれはおいしかった。

 それにしても冷戦下に共産圏の一人旅というのは、興味深くはあっても決して快適なものではなかった。各手続きにやたら時間がかかるし、団体旅行ならスンナリ通す所も、私だけやたらと多くの質問を受けた。さらに、いつも誰かに見られているような気がしていたものである。(単に当時のソ連人と風体が変わっていたせいかもしれないが・・・。)
 中央アジアのブハラでは、夜に民俗音楽の音(ね)に惹かれて道を歩いていたところ、民警に不審者と思われ勾留されたこともあった。アメリカを発つときに知人から、「先年、経済企画庁のOBがソ連を一人で旅していてスパイ容疑で逮捕され、1年間帰国できなかった」という話を聞かされていたため、自分もそうなるかと冷や冷やしたものであった。幸い、手ぶらでカメラも持っていなかったため、ホテルに連絡がとれて無事釈放となったのである。
 極東のナホトカ港には、日本人旅行者向けに無料サービスの共産主義に関する本が何種類も置かれていた。私はオミヤゲ代わりにと一通り、20冊ほどもらって帰国の船に乗り込んだ。そのためか、ナホトカから横浜港に到着した時に左翼過激派の一味とでも思われたのか、「どうして一人でソヴィエトに行ったのかネ?」と今度は日本の入国管理局で、私だけ40分近く念入りに取り調べを受けたことを今もなつかしく思い出すものである。

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2017年1月10日 (火)

若き家康公像の制作に思う

 12月末、岐阜にある神戸峰男(かんべ みねお)先生のアトリエを訪れた。若き家康公像の制作が着々と進んでいることが確かめられ満足であった。
 今回の家康公像制作のために神戸先生は新しくアトリエを増築されている。「日本一の騎馬像を造る」という決意が感じられて、感謝の念でいっぱいである。
 完成時には高さ3メートルの台座の上に、等身の1.5倍の騎馬像が屹立することとなり、高さ・大きさ共に日本一の騎馬像が誕生することとなる。試作の10分の1サイズと比べ、今回拝見した3分の1サイズのモデルは格段に写実的な出来栄えであり、春頃には実物の制作に入られるそうである。

神戸峰男先生、内田康宏

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 使用する粘土はイタリアのフィレンツェ産の土をオリーブオイルで練ったもので、3トンほどの粘土を使うという。支柱として使う木は地元、南木曽のヒノキだそうである。造り始めると作業台の高さも5メートル以上になるそうだ。時には夜中まで仕事に集中することがあり、作家の中には作業に没頭しすぎて落下死した方もあるという。神戸先生には、とにかく安全に制作して頂きたいと思っている。

 この事業は、市民の皆さんからの浄財(寄附金)を使って、東岡崎駅の北東街区に徳川家康公の騎馬像を設置するというものである。桶狭間の敗戦により岡崎への帰還を果たした松平元康が徳川家康と改名した25歳当時の若き日の姿を再現し、ピンチをチャンスに転換し、天下統一と平和な世の中を作り上げた郷土の英雄の姿から「困難に立ち向かい、人生を切り開いてゆく」精神を子供達に学んでほしいと願うものである。

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 正式な募金活動はまだ昨年4月に始めたばかりであるが、商工会議所の前会頭はじめ、岡崎信用金庫、その他多くの企業や篤志家の方々の熱い思いを込めた御寄附が続いている。目標額は設置費の半分ということであったが、このペースでゆくと全額寄附金でまかなえるかもしれない。本当に岡崎市民の皆さんは愛郷心の強い方々が多く、今更ながらに感謝申し上げるものである。

古澤武雄さん、徳川恒孝さん、安部龍太郎さん、内田康宏

 おととしの11月、家康公四百年祭のシンポジウム〝徳川創業期を支えた家康公と家臣団〟の折に、徳川18代の德川恒孝(つねなり)様も「このような企画の催しを行えるのは、全国でも岡崎くらいですよ」とおっしゃってみえた。
 岡崎独自の歴史、文化、伝統という切り口で真心をこめて訴えかけてゆくと必ずそれに応えて頂ける岡崎市民の皆さんには、どんなに感謝しても余りある。私達もこうした市民の御厚情に甘えるばかりでなく、善意の心にしっかりと応える仕事をしなくてはならないと思っている。

 しかし世の中には明があれば暗がある如く、物事を素直に受け止め協力して下さる方もあれば、何につけても足を引っ張ろうとする人もいるものである。
 岡崎の歴史を考え、多くの岡崎市民の期待感を見るにつけても、とっくの昔に設置されて然るべき、史実に基づいた〝若き日の家康公像〟の建設を「ムダ使い」であるとか「形を変えた政治献金か」などと揶揄する人もいる。こうした何事もゆがんだ目でしかモノを見られないかわいそうな人達も世の中にはいるのである。
 また、私は先頃小さな子供さんがお母さんの助けを借りて十円玉を募金箱に入れている姿を見たことがあるが、「そうした金額が少ない」とバカにする貧しい心の持ち主もいるのである。
 今回私達が試みている寄附金による事業というのは、決して個々の寄附金の多寡を競うものではなく、一人でも多くの市民の参加を願って行うものなのである。仮に一人でも5千万円寄附すれば5千万円になり、300人でも一人10円なら3000円にしかならない。そんな計算もできないのだろうか? また私は一部の集団のように半強制的な募金のやり方は好まない。
 たとえ一人一人の寄附が少額であっても〝自らも建設に関わったという参加意識〟や〝歴史を振り返る切っ掛けが愛郷心の醸成を促す〟ことに真の意味と価値があるのである。もっとも唯物的思想に凝り固まっている人々にそうしたデリケートな心の動きを期待することは無理なのかもしれない。

東岡崎駅周辺地区整備全体のイメージ図

 いずれにせよ、実際に若き家康公の騎馬像が完成すれば、そんな声も雲散霧消するものと思っている。単に観光のシンボルというだけでなく、入学試験やスポーツの試合に出かける子供達が東岡崎駅に向かう前に必勝の願いを込めてから出かけるような像となることも期待している。そしてこの像が明治維新以来、形成されてきたタヌキオヤジ的イメージを払拭して、新たな家康公の姿を現すものとなることを願っている。
 ギリシア、ローマの例を持ち出すまでもなく、ブロンズ像は戦争さえなければ2000年以上残る。今後末永く、太平の世を現出した郷土の英傑の志を伝えてくれることであろう。


若き徳川家康公の騎馬像、建築へ (2016.02.27)

新たなシンボル「徳川家康公像」 (2015.11.05)

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2016年12月25日 (日)

デマゴーグについて(その2)

Völkischer Beobachter

 繰り返すが、デマゴーグとは、全くのウソ、デタラメを喧伝することとは限らない。一つの社会現象、ある事件の一側面を拡大解釈したり、曲解したり、書き手の考えに都合の良い数字や情報だけをつまみ出してきて誇張して表現することもデマゴーグの技と言える。(それを専門にしている政党もある。)
 自分勝手で反地域的な言動をもっぱらにする、その界隈では有名なクレーマー(文句ばかり言う人)や、特殊な思想集団の活動家として知られている人物の意見を、あたかも無垢な一市民の声のように報道することもよくある手法の一つである。
 また、先のアメリカ大統領選挙において、反トランプ的社会気運を反映して極端に一方に肩入れした報道がなされた。外国の報道機関の場合、時にこうしたことがあるが、彼らの場合は前もって自らの政治的立場、報道姿勢を明らかにした上で行っていることであるのでそれなりに筋が通っている。

 我が国の報道の場合、建前上、中立・公正・公平を謳(うた)いながら偏向報道を行うことがある点が問題なのである。
 そうした議論を始めると、必ず「全文を読めば中立的なバランスを取っていることが分かる」という言葉が返ってくる。しかし一般の人で記事の全文を隅々まで綿密に読むような方はマレである(教科書ですらそんな読み方はしない)。見出しの太文字と前段の数字、刺激的な言葉や作為的な写真を見て、正しく理解した気になっているというのが実態であり、良くも悪くも〝大衆社会〟とはそうしたものである。
 第一、人間は誰しも、自分に直接関わりのある問題以外には細かな点にまで注意を払うことはしない。そうした現実を百も承知の上で、意図的に誤解を招くような記事を書き、最後の数行の中にバランスをとるような文言を散りばめて裁判にならない配慮をしているから悪質なのである。

 もう一度言う。一流のマスコミ人は決してこういう姑息なことをやらない。時に人格的に問題があったり、思想的な偏向性があると思われる人物が公の仮面をかぶって紙面に記事を書くことがあり、そうしたことが問題なのである。
 前回のブログで「思想統制された国家ばかりでなく、自由主義社会においても我々は知らないうちに洗脳されていることがある」という点に言及した。
 一部のマスコミの中には「無知な大衆を我々が教育してやる」といった姿勢が見られることがあるが、それは危険な兆候だと思われる。大衆扇動が冷静な思考の後退を生じることは、我々が歴史上の幾多の経験と現在も世界で進行中の様々な出来事から学んだことである。

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 うっかり洗脳されないようにするためには、普段から自分で注意する必要がある。ニュース・ソースを多元化し、一つの事柄について常に多くの情報に接する習慣を持ち、新聞や雑誌なども複数のものを比較して読み、自分の考えを練らなくてはならないだろう。
 「いちいちそんな面倒なことは御免こうむる」という方は、たまには購読する新聞を変更してみることも一手であろう。新聞は中立・公平・公正と言いつつも紙面にはそれぞれ個性や差違というものがあり、ひょっとするとそんなことで新たな視座を開くことができるかもしれないと思うものである。

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2016年12月21日 (水)

デマゴーグについて(その1)

 デマゴーグとは、全くのウソ、デタラメを喧伝することとは限らない。ある社会現象、事件の一側面を拡大解釈したり、自分の論理に都合の良い数字だけをつまみ出してきてオーバーに表現することもデマゴーグの技と言える。
 通常こうしたものは裏情報として世の中に広まるものであり、表(社会の公器としてのマスコミ)に出てくることはないシロモノである。時にそうしたものが表面に出てくることがない訳ではないが、それは芸能週刊誌であるとか、三流のゴシップ新聞の類(たぐい)の紙面を飾るものであり、ふつう一流紙と呼ばれるものでお目にかかることは滅多にないことである。
 なぜかと言えば、一流と呼ばれる書き手(記者)には、それぞれジャーナリストとしてのプライドというものがあり、デマゴーグ的仕業に対してプロとしての矜持が許さないからである。一つの記事を書くにしても、まず客観的事実というものを報道し、そして次に記者としての考え、あるいは社としての社説を記述するという手順を踏むというのが健全なる報道人、マスコミ人というものである。事実、これまではそのようであったと思う。

 ところが近年、記者個人の自主性を重んじるとして、一部の社ではかつての常識的な報道の自己制御を失ったかに見えることがある。客観的であるべき社会的事象の記述において、記者の個人的思いや情念が先行してしまい、公正性、公平性、客観性というものを感じられない記事が散見されることとなった。
 政治の世界も時代と共にかつての独自のしきたり、道義のようなものが失われつつあるが、マスコミの世界でも客観性と共に記者の誇りが薄れつつあるのかもしれないと思うものである。

 今年の春、こんなことがあった。本市の3月議会の最終日、自民清風会、民政クラブ、公明党、黎明という多数の会派の賛同を得て、30対3(欠席1)という圧倒的多数により予算が成立した。その他多くの議案が可決された(全員賛成もアリ)。

岡崎市議会(平成28年3月定例会)

 ところが、某・地元有力紙は多数派の賛成討論を封殺して、逆に反対討論を行った少数議員だけ太字で実名報道するというあからさまな逆差別報道を行った。そして、あたかも予算案が否決されたかのような印象を与える記事を意図的に掲載している。
 この記事を書いている記者が思想的偏向性のある人物であることはかねがね分かっていたことであるので、特段驚くべきことではないが、このような記事を有力紙が臆面もなく出してしまうことに大変危惧の念を抱いている。これではまるで思想統制された国家の報道と同じであり、とても自由主義社会における公正な報道とは思われない。

 また、先日の岡崎市の選挙においても、総額99億7000万円の乙川リバーフロント地区整備計画について「橋を造るのに100億円!」という誤解を招くような報道、アピールを行う人達がいた。

乙川、殿橋、岡崎城

 実際は乙川の河川空間の整備と中心市街地の再整備、岡崎城周辺の歴史資産の活性と機能整備などで総額64億円がかかり、そのうち人道橋の整備費用は岩盤工事を含めて21億円である。国のコンパクトシティー構想に併せてプランを提出すれば、さらに国の補助が得られることが分かったため、乙川リバーフロント計画は、別個の計画であった東岡崎駅前再開発事業(35億円)を上乗せした事業計画となった。こうしたことから100億近い数字となったのであり、橋を造る費用は21億円である(もちろん決して少ない金額ではなく、必ず「やってよかった」という仕事をするつもりでいる)。しかも橋は道路と同じで、いわゆるハコモノでなく、維持管理費用は手入れ代しかかからない。
 しかるに橋をハコモノと偽り、さも高額の管理費がかかるような、ニセの情報を流した新聞もあった。さらには、半分近く国庫補助で行われるこの事業を取り止めれば、その予算を他の事業に回すことができるかのようなデタラメ宣伝もしている。目的別の国庫補助はその目的にしか使えないことは法律で決まっているのである。
 選挙直前と選挙中はさらにひどく、個別の市の政策を検証する形をとりながら、もうすでに議会で承認されたことに対して、一部の人の言い分を基軸に反対キャンペーンを投票日前まで行う執拗さであった。この記者に対しては選挙後「選挙妨害で告訴したらどうか」という市民の声も頂いたほどである。

 もとより少数意見を尊重することは必要であるが、それはあくまで多数決という民主主義のルールにのっとった上でのことである。こうした基本的なことも守れない人が公器である報道を操るようになっている社会に大きな不安を感じるものである。我々は自由主義社会にいながら、ある種の思想統制、マスコミの世論コントロール下に置かれていることを実感するのである。
 一部マスコミは、口を開けば「先の大戦の時の過ちを繰り返してはならない」と言う。しかし先の大戦を招来する世論の形成のため一番大きな原動力となったのは、ほかでもない、軍部の力以上にマスコミの偏向報道であったということを私達は忘れてはならない。そしてもう一つ、海軍次官を経て連合艦隊司令長官となった山本五十六大将は御前会議で最終決定が下されるまで、右翼に命を狙われながらも体を張って日米開戦に反対していたことも記憶しておこう。

Admiral Isoroku Yamamoto

 日本のマスコミは戦後うって変わっていつの間にか宗旨変えし、軍部批判を行うものの、自らに対する反省・検証を行った形跡はほとんど見られないのである。
 我々政治家や行政にたずさわる者は、他者から批判の対象とされ、マスコミ報道の監視にさらされるというのは自由主義社会における必然的宿命であり、仕事の一部とも言える。そのことを否定するつもりは毛頭無い。
 しかし、それは同時にマスコミが「第4の権力」としての自己の力と役割をわきまえ、客観性と公平さ、公正という視点を踏みはずさない時にのみ正しく機能するものと考える。
 さて賢明なる岡崎市民、読者の皆さんは昨今のこうした出来事をどう思われるであろうか? (つづく

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2016年7月18日 (月)

怪文書の季節来たる!

 選挙が近づいてくると、とかく様々な怪文書が出回るものである。そのほとんどは出所不明で、客観的視点に欠けた一方的情報に基づくモノであり、人の情感に訴えるデマ文書であることが多い。
 通常は選挙の一年くらい前から数回にわたり出されるものだが、今回は4ヶ月前の6月に出て来た。季節外れのユーレイの感がある。
 その内容はと言えば、「岡崎市がこれから推進する事業において、入札を前に、市長と某・特定業者との間ですでに入札決定の話がついている」というものである。
 しかしどうせ怪文書を出すならば、もう少し勉強してストーリー性と信憑性のあるお話を作って、なるほどと思うレベルのものを書いてほしいものである。設定があまりに古めかしく幼稚な手法であり、懐かしくて涙が出そうであった。

 まず私が裏約束をしているという業者であるが、人脈的関係、地理的条件から言っても、私の対抗勢力と目されるグループに近い会社である(だからと言ってその会社が差別待遇されている訳ではない)。
 現在、岡崎市における入札制度は、外部の有識者で組織する「入札監視委員会」という独立した組織のほか、「入札参加者審査委員会」、そして担当部局の三者により、ルールに則って公明正大に執行されている。私も前市長に倣(なら)って、個別入札に口をはさむようなことはしないし、各業者からの入札に関する陳情は一切受け付けないようにしている。業界からの要望については、各業界の総会でまとめた案件を代表の方々が提出にみえた時に、副市長、部長、担当課長らと一緒にお話を伺うというシステムをとっている。
 また、私はあいにく下戸であり、全く酒をたしなまないし、無用の外食も好まないため(家族での外食も好きではない)、業界の総会におけるパーティーに出席するとき以外、個別の業者の酒宴の接待を受けることはない。自宅で晩酌もやらないような人間であるから、個人で夜の巷を歩き回ることも皆無である。どちらかと言えば、おいしいコーヒーとケーキを好む方である。この際、酒造業界並びに飲食店の皆様にはその点をお詫び申し上げたい。

 それから怪文書と言えば、かつて私の県会議員時代、選挙の半年くらい前に一枚の写真が送られて来たことがある。写真に写っていたのは、〝ある候補者が、ユカタのはだけた芸者さんをヒザの上に乗せ、その胸元に手を差し入れている〟ものであった。
 その時も差出人は不明であった。写真一枚あるだけで何の手紙も付してはなかった。意味するところは「これを選挙の裏対策(怪文書)に使え」ということであろうと思う。しかし、こうした類のモノは危険がいっぱいである。
 仮に怪文書を作ったとしても、配布に人を使えばそこから出所は発覚するものである(たとえ写真が本物であっても名誉毀損で訴えられる)。郵送配布にすれば費用がかさむし、いっときに大量発送できないため手間もかかる。第一普通は選挙の準備に忙しくて、そんな人手を使う余裕など無いものである。
 また、そうした手段を使うことは精神衛生上よくないし、何より選挙活動母体の士気そのものが低くなり、そちらのマイナス効果の方が怖いと言える。
 しかし世の中には、裏選対あるいは別働隊として特殊任務(選挙妨害、怪文書、買収、脅迫 etc)を行うチームを用いる候補者もいる。さらにそうしたことを仕事として請け負う人物さえいる。人間の中には、生来こうした手法が好きな人種というのがいるのである。マニアというか病気というか、様々に裏側で暗躍することが選挙という戦いであり、高度な戦術であると勘違いしている人達である。

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 選挙においてこういうレベルの戦いを始めると見苦しい上に、その地域全体の品格が問われることにもなり、私は嫌いである。しかも、もし先の写真を使った怪文書が出回ったとすれば疑われるのは当然対立する側であるし、また、うっかりすれば選挙後に〝怖いお兄さん〟の来訪を受けるようなことになるかもしれない。「あの写真、上手に使ったね」「あの写真はあなたの所にだけ送ったものであり、口止め料は200万円にしておくよ」というような話にもなりかねないのである。しかも一度つながりを持つと、それで終わらないから恐ろしいのである。

 いずれにしても、かつて石川五右衛門が言ったという「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」の言葉の如く、選挙が始まると、こうしたあまり人間として上等ではない人々の活動も活発となってくるようである。


ラブレターの季節 (2013.12.24)

またも来ましたラブレター (2014.10.04)

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2016年3月19日 (土)

選挙制度と政治家の質について

全国遊説中の安倍晋太郎先生とともに

(全国遊説中の安倍晋太郎先生とともに。秘書時代の私)

 かつて中選挙区制の時代、各選挙区は3~6くらいの定数があり、投票結果により上から順番に当選が決まってゆくシステムであった。ある意味、単純ではあるが個別の選挙区においては公正な制度であったと言える(衆院選に比例代表制が導入されたのは、小選挙区になった平成8年以後)。
 しかし当選のためには多くの支持票が必要であるため、大企業の労働組合、農協や地域の有力団体、宗教団体などの支持を受けられる候補者でなくては、立候補はしても当選はおぼつかなかった。
 また保守の候補者においては「地盤」(後援会)、「看板」(知名度)、「カバン」(資金力)の三つを持つことが当選への必須条件と言われていた。そのため、衆議院議員の3分の1程が世襲の議員となる弊害(?)が生まれたとも言われている。それが政治的に悪い結果を招いているかはともかくとして、公平ではないという議論が出ることとなった。
 中選挙区制のシステムが始まってから、戦後の政界はほとんどの期間、自民党の天下であり、自民党を通さなければ大きな事業の予算の獲得は困難という時代が長く続いていた。当時、与党と野党は国会ではハデな論戦を繰り広げていたが、これは言わばセレモニーのようなもので、裏では野党の議員が自民党の有力議員に頭を下げて陳情をしているケースを、私は秘書時代に何度も目撃している。政界の実態は自民党の中の派閥力学によって決せられ、動いていたというのが実情である。

 私が安倍晋太郎代議士(晋三総理の父)の秘書であった昭和50年代というのは五大派閥(田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘)による合従連衡によって大臣をはじめとする役職・人事が配分され、政治権力の秩序体系が形成されていた時代であった。そのため衆議院議員の選挙はおのずから派閥の対抗戦、勢力争い(ナワバリ争い)の色彩となっていた。

首相の顔ぶれ。田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘

 野党と与党は支持基盤が異なっているため、政党間の争いは強力な地元組織の形成の難しい都市部を除けば、地方に於いては浮動票の奪い合いがあるくらいで、いわば「スレ違いの戦い」であると言えた。
 反対に熾烈を極めたのは保守同士の戦いである。「人殺し以外は何でもあり」と言われたほどであり、戦国時代の謀略・かけ引きのようなことが実際に行われていた。よってこの時代のことを「自民党戦国時代」という名で呼ぶ人もいる。
 民主主義の原則として本来政策で争われるべき選挙が、相手への誹謗中傷を含む異質な競争(怪文書をばらまく)などの低レベルの争いとなることも珍しいことではなかった。〝五当・四落〟(5億使えば当選、4億では落選)と言われたように、選挙にもお金がかかり政界の有力者になるには資金力も重要な要素となっていた。当時は政治や選挙にお金がかかるのは当然と考えられる時代でもあった。

福田赳夫元首相の事務所の忘年会にて(1979年12月)

(昭和54年12月。福田赳夫元首相の事務所の忘年会にて)

 その頃は自民党内の派閥が党内党としての役割を果たし、本来の政権交代の代替機能を行うという〝日本型民主主義〟の形態が続いていたものである。しかし単独政党による長期政権が腐敗の温床となりがちであることはどこの国、いつの時代でも同様である。やがて世論は政党の政権交代によるチェック機能が働くことを望むようになり、小選挙区と選挙の公費負担制度が平成8年(1996年)から始まった。
 ところが小選挙区制では一選挙区から1人の政党候補しか立候補できず、現職優先の原則により有力な新人の立候補が困難となった。そのため、立候補のために考え方の違うはずの他党へ移ったり、新たに設立された新党に参加するなどの流れが生まれた。それまで選挙によって新陳代謝が行われてきた保守政党において、この流れは政党の基盤を弱めることにつながった。
 保守政党の分裂・弱体化に伴い、政権交代がなされるようになったものの、経験不足の素人の多い新党の政権担当能力については私達がこの10年の変遷の中で体験してきた通りである。選挙制度の改革と公営化によって、建前上、誰でも立候補しやすくなった点は改善と見えるものの、旧来のように、政党や組織、政治的環境の中でもまれ、候補者としてのわきまえや政治家としての知識を身につける機会のなかった候補者の出現は、新たな混乱を生み出している。
 ことに直接選挙戦の洗礼を受けずに、党の名簿に名前を載せただけで当選してきたような議員の中には、まるで政治家になったことを特権階級にでもなったかのように勘違いをして振る舞う者もいるのである。選挙戦や日常活動での苦労を経て当選してきた従来の政治家とは異なるタイプの議員の出現は、政治そのものに対する新たな不信感を助長させていると言える。

 さらに、こうした傾向というものは国政だけでなく、地方政治においても様々な影響を及ぼしている。
 かつて中選挙区制の頃、中央で熾烈な戦いをしていた国会議員も地方政治と国政の違いをわきまえており、地方政治に国政の対立要件を持ち込んで混乱させようとする人はマレであった。ところが小選挙区制となり、政党と国政における政策の違いが地方政治にまで持ち込まれるようになり、国政は国政、地方は地方と合理的な割り切りができないケースが増えてきた。私は県会議員を26年間務めていたが、その間、市議会の役職人事に口を出したことは一度も無い。通常、国会議員も同じスタンスで対応するものであった。また選挙の公費負担制度の恩典により、立候補のハードルが低くなったせいか、まるで立候補することを新たな就職活動のように考えている候補者も出てきている。そうした人達は地道な活動は行わず、確たる原理原則もなく、まるで選挙を芸能人の人気投票のように思っているようにも見える。
 少なくとも選挙に出るということは、その人なりの愛郷心、正義感、思想や理念、あるいはヒューマニズムなどがその原動力となるものと考えるものであるが、「そんなものは当選してから考える」とでも言わんばかりの姿勢は気になるところである。

 とりあえず時流に乗って、選挙に有利な集団に近づき、現実性がなく実現の可能性の低い政策であっても耳に心地良ければ百花繚乱とばかりに並び立てる。野党である自らは、実現責任を問われないことを百も承知の上での作戦である。
 最近こうした輩が増えてきているように思う。

 人間に名誉欲があるということを否定するものではないが、議員バッジをつけることだけが目的化した、恥も外聞もない、ここまでアカラサマな私欲の露呈を見せられると同じ政治の場にいることが情けなくなってくる。
 立場が悪くなれば政党を次々に渡り歩くこともいとわない。人間としての信義や政治家の主義主張というものがこんなに軽いものであったのかと改めて考えさせられる今日この頃である。

 選挙制度や政治家のあり方が時代とともに変化してゆくものであるとしても、このところのあまりに低次元な政治家にまつわる不祥事のあり様は、これまで述べた最近の傾向と決して無関係ではないと思うものである。
 まもなく7月に参議院の選挙、そして秋には私もその対象となる岡崎の市議・市長選挙を迎えることとなる。
 どうぞこれまでの我が国の政治の変遷を振り返った上で、有権者の皆様にはあるべき国政の姿、あるべき岡崎の未来への選択をして頂くことをお願い申し上げます。

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2016年3月12日 (土)

JR岡崎駅東・交流拠点整備計画決定!

シビックコア地区交流拠点整備事業(イメージ図)

 岡崎市は長年、南部開発の重点事業として様々な区画整理事業に取り組んできたが、その仕上げの一つであるJR岡崎駅東の市有地(1万1,000平方メートル)の整備計画の概要が決まった。
 300人収容のコンベンションホールと、10室ほどの高級仕様ホテル(注・ビジネスホテルは駅周辺に複数ある)、音楽堂、レストラン(オーベルジュ、Auberge)、カフェに加え、噴水とくつろぎの空間を持つ公園を核とした複合施設が建設される。また、自転車の屋内駐輪場も併設される。

 このエリアは前市政において、子ども科学館の計画のあった場所であるが、地元からは「ただでさえ手狭な空間に駐車場も無い新施設を造れば、交通渋滞の悪化を招くことになる」という反対の声が多かった。
 そこで地域の実情を考慮して、岡崎市主導で民間公募を行った。三社の打診があり、コンペによって外部有識者を交えた審査を行った結果、今回のプランが採用されたものである。開発事業及び運営は民間が行い、市に対しては今後30年間定額の借地料収入が入ることとなる。本市としてはコンベンションホール付きのホテルの建設が待たれていたところであり、まさに願ってもないことであった。選定結果の報告を受け、大変センスのいいプランに決まり副市長ともどもニンマリしたところである。
 とはいえ本市にシティホテル級の施設はまだ十分でなく、今後も積極的に対応してゆきたいと思っている。

JR岡崎駅東口。複合施設の建設予定地

(JR岡崎駅東口。建設予定地である南側の空き地)

 先日、今回の民間活力導入のプランについて、事業費用の比較を論じる報道がなされた。単純にJR岡崎駅東の事業と東岡崎駅周辺の整備を同列に並べ、単年度事業費に10倍の格差があることが批判されていた。
 しかしこの比較の仕方はわざわざ批判をするために意図的につくり出したものとしか思えない。そもそも東岡崎駅周辺事業は歴代市政の課題であり、前市政の積み残し事業である。ペデストリアンデッキ計画も本来駅の正面に設置予定であったものが、地元の頑強な反対のため今の計画に変更されたものである。

東岡崎駅周辺地区整備推進業務(平成28年度当初予算)

 そのように完全に別個のプランであったものを、私の市政になってから国の補助事業とするため「乙川リバーフロント計画」に編入したものである。「国の補助金でも税金だ」という追記が報道されたが、「いかに国・県の補助金を多く取ってくるか」が全国の地方自治体の首長に課せられた重要な仕事である。それが首長の評価の一つとなり、腕の見せどころともなる。そんなことも知らないのだろうか? それに、そもそも国の税金の算段は国会議員の仕事である。
 そしてもう一つ、これまで長年にわたり事業の推進のため努力してきた担当部局の職員のためにも、市長として反論をさせて頂く。

 今回の二つの事業は両方とも当初より、岡崎市の主導で行われているものである。片方は民間、もう一方は公共と、単純に区別されるものではない。
 分かり易くたとえるならば、「Aのケースは応接室の増築に500万円かかった。Bのケースは土地を買って基礎工事を行い家を新築したら5000万円かかった。AはBの10分の1だから経済的に正しい選択だ」とでも言うようなトンチンカンな論理である。
 JR岡崎駅東口の「シビックコア地区交流拠点整備事業」は、すでに公共による区画整理事業で用地が確保された土地で行う民間資本の事業である。「東岡崎駅周辺地区整備事業」については、用地交渉から始まり、用地の買収を経て道路や広場などの基盤整備までを本市が行う事業である。すでにでき上がった土台の上に作るものと、土台から作り上げるものの費用が違うことくらい子供ですら分かる理屈である。(なお後者も民間導入が計画されている。)
 そして忘れてはならないことは、東岡崎駅周辺の開発事業は単なる一事業ではなく、岡崎独自の伝統と自然景観を活かした観光事業と関連するものとして考えられている特別な計画であるということである。
 そのように条件の違うものを恣意的に同列に並べて数字の比較だけで論ずるセンスにはアキれるばかりである。そこに唯物主義的思考の存在を感じるのは私ばかりではないと思う。
 よく若手記者が功名心に駆られ、こうした記事を書くことがあると聞いたことがあるが、今回の記事はいかにも悪意に満ちたものであるため、本市の名誉にも関わると思い一文を書した次第である。

シビックコア地区交流拠点整備事業(イメージ図)

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2015年10月 7日 (水)

よそ者と三河者

武者行列(岡崎市)

 時に「三河人(岡崎)は保守的だ」と批判的に言われることがある。そこでなぜかと問うと、「よそから来た人間や、異なった考え方を容易に受け入れようとしない」と言うのである。
 しかし、そんなことは世界中どこに行っても大なり小なりあることで、特にこの地域に限った問題ではないはずである。〝よそ者の寄り集まり〟の場所である大都市と比べるから、そんな意見が出てくるものだと思っている。
 確かに昔から「親子三代以上の付き合いのある人間なら信用してもよい」という言葉を耳にすることがあるが、そんなことは地方に行けばどこにでもある生活の知恵の一つであると思う。
 アメリカ合衆国のような移民国家であっても、お客さんとして訪れた人には親切であるが、競争相手の一人として移り住んで来た人間は、大都市でもなければ、簡単に地域社会に受け入れられるものでもない。(第一、大都市は地域意識が薄い。)

 以前、ペンシルバニア州の郊外の町を訪れた時に、地元で30年以上開業医をしてみえる中国人医師と知り合ったことがある。彼から「地方では仕事がやりにくいので、アジア人の多いカリフォルニア州へ引っ越すつもりでいる」と言われたことを思い出す。
 歴史を振り返るまでもなく、アメリカでは人種や宗教の問題もあり、より複雑であるが、医師のように社会的地位の高い人物であっても、社会適応に困難性がある所もあるのである。
 まして日本のように長い定住農耕社会が続き、各地で独自の文化や伝統、郷党(きょうとう)による人脈が育まれてきた国において、大都市圏でない限り、保守的傾向が強いのは当たり前のことであろう。ことにこの岡崎には、徳川家康という人物のもと、三河武士のたぐいまれなる団結力により天下を取ったという歴史的背景がある。そうした伝統がより大きく残っていたとしても当然のことであると思っている。

 私の市政になってから推進している、国交省の「かわまちづくり」「歴史まちづくり」事業を機軸とした〝乙川リバーフロント構想〟に対し、「岡崎市民の中には岡崎生まれでない者もいる」と言って批判をされる人がみえる。しかし私は一度もそうした人達を敬遠したことはないし、「市民でない」と言った覚えもない。残念ながら、生まれ育った土地の違いによる、価値観の違いと共通の思いの欠如はいかんともしがたいものがある。それでも、岡崎に住むことによって、岡崎独自の価値の存在は理解してもらえるものと思っている。

岡崎城

 私は30年近く、地元で保守政治家の一人として仕事をさせて頂いているが、この仕事ほど地域との密着性の高い仕事はないと思っている。そもそも「保守」とは、文化の一形態であると同時に、政治理念の一つでもある。そうしたものを批判する御仁(ごじん)というのは、そこにその人の思想的立場がうかがえるような気もする。
 現に岡崎では、よそからやって来た人の中でも、うまく適応している方々がいくらでもみえる。事業で成功された方、町内の役員や総代、市議となって活躍しておられる方の例もたくさんある。ただしそうした方達は皆、三河(岡崎)の伝統、習慣というものを尊重し、自ら地域社会になじむための努力をされている。
 「よそ者」と呼ばれると言って文句を言う人達には一つの共通点がある。それは自分達の考え方、自分達のやり方を強引に通そうとする点である。通すためには、地域の理解を得て多数派を形成しなくてはならない。そもそもそうした手順を越えてコトを運ぼうとするワガママに問題があるような気がする。自分達にある問題点を三河の保守性にすりかえているだけなのである。

 誰しも中学校の英語の授業で習うことわざがある。
 “When in Rome, do as the Romans do.”(ローマに行ったら、ローマ人のように振るまえ)
 これは「郷に入れば郷に従え」ということである。
 ところが世の中にはどうしてもこれができない人達がいる。どこに行っても自分のやり方、考え方を通用させたいと思っている。
 私がもしよその土地に行って生活することになれば、当然その地方の伝統、文化、習慣、しきたりを尊重して生きてゆくことになるだろう。(もっとも、政治などという面倒なことに首を突っ込むことはないだろうが。)

 今、日本全国で様々な「地方創生」の試みが行われているが、それぞれ各地方独自の自然や歴史遺産、文化や先人のなした偉業といったものを「まちおこし」の材料、きっかけ、目玉商品として使っている。もし、そうでない所があればぜひ教えて頂きたい。まず一つの例外も無く、それぞれの地域の特性を活性化の道具として使っているはずである。
 そうした試みが保守的で悪いとするならば、そもそも「地方創生」は成り立たないことになるだろう。
 私はこれからも三河の伝統や文化に対する自信と誇りを胸に、ふるさとの自然や先人の偉業・遺産と共に、この岡崎をしっかりとPRしてゆくつもりである。

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2015年8月27日 (木)

秋篠宮家(赤坂御用地)訪問

赤坂御用地Akasakagoyochi2

 お盆休みの始まりでもある8月13日(木)、秋篠宮家を訪問することとなった。宮内庁の方へは、すでに先月、「悠紀斎田100周年記念お田植えまつり」の御礼に伺っているので、今回は直接、秋篠宮殿下、妃殿下に御礼を申し上げる機会を頂いた訳である。
 いかにも天皇のお住まいといった荘重な構(かま)えの皇居とは異なり、赤坂御用地にある秋篠宮邸は、青山通りに隣接した閑静なたたずまいの邸宅であった。
 とは言っても、実質的に元赤坂二丁目の区画のほぼ全域を占める広大な敷地の一角にあるのである。かつて江戸時代には紀州徳川家の上屋敷のあった所であり、明治維新後、新政府に接収され天皇家に献上され今日に至っている。

 大臣邸よりも厳重な入り口のチェックを通り、平屋建ての面会所へ我々の乗った車は通された。
 この場所へ私が足を運ぶのはこれが2回目となる。
 1回目は9年前、皇室待望の男子、悠仁親王(ひさひとしんのう)がお生まれになった時であった。ちょうど県会議長として上京中であった私がお祝いの記帳に参内(さんだい)することとなり、御用地を訪れた。それ以来のことである。
 担当官のお出迎えを受けて案内された玄関の左手にある応接室は、天井の高い20畳ほどの洋間であった。生物学に詳しい殿下の御趣味であるのか、献上の品であるのか分からなかったが、50~60センチ程の大きさのみごとなオーストラリア・大ガニと、これまた全長50センチはある、足を伸ばして跳躍する大ガエルのはく製が展示されていた。
 当日は、悠紀斎田100周年記念事業実行委員会会長の野村弘氏と、副会長のJAあいち三河代表理事組合長の天野吉伸氏と同席であった。三人で展示品に感心して話をしているところへ、殿下と妃殿下は軽やかな足どりで到着された。
 100周年記念お田植えまつりの折の記念写真と共に、地元の八丁味噌、地酒、お菓子等の贈答品を献上させて頂いた。野村会長の挨拶と共に、市長として私も御礼の御挨拶を申し上げた。ことに、当日妃殿下が地元市民や子供達に親しく接して頂いたことを重ねて御礼申し上げた。「おかげでまた百年は継続します」と申し添えておいた。

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 10~15分ほどの歓談の予定であったが、秋篠宮御夫妻があまりに聞き上手であったため、ついつい来年の市制100周年の話から、リバーフロント計画についてまで御説明申し上げてしまった。また、写真をお見せしながら東公園の恐竜モニュメントについてもお話をさせて頂くこととなった。
 山階鳥類研究所総裁であり、日本動物園水族館協会総裁でもある殿下は、ことのほか生物学に造詣が深く、会話ははずんだものとなった。

 ふと殿下の肩越しに、庭の風景がガラスを通して目に入った。よく見ると何か動物が動いている。何と2匹のカピバラが庭をゆるやかに移動していたのである。お尋ねしたところ、まだ他にもマーラやワラビーもいるとのことであった。そんな動物たちを庭で放し飼いにできる環境というものが東京の一等地にあるとは実に驚きであった。

Capybara

 皇室の皆さんが農業にお詳しいことは知られていることであるが、秋篠宮殿下も邸内で様々な植物を自ら育てておみえになっているそうだ。
 アメリカで毎年行われている〝お化けカボチャ・コンテスト〟には、フォークリフトを使って移動させるような数百キロの重さのカボチャが登場する。しかし日本では気候も違うため、同じ種を使ってもなかなか大きなカボチャにはならないそうである。愛知県でも以前試みたことがあるそうだが、専門の農家の方でも数十キロのものが精一杯だったという。
 ところが秋篠宮殿下はお庭の角で60キロのカボチャを作られたとのことであり、天野副会長もびっくりしてみえた。そして話はカボチャから種無しスイカ、岡崎のぶどう狩りにまで及び、最後は幸田町の筆柿の話となった。私はもう少しで、地元の通称〝チ○○ガキ〟を口走ってしまいそうになり、あぶなかった。まさか不敬罪にはならないだろうが、岡崎の品位にかかわることになる。

 30分余りの訪問であったが、実になごやかで楽しいひとときを過ごさせて頂き本当に感謝している。
 秋篠宮殿下は、礼宮(あやのみや)と呼ばれていた御幼少時のやんちゃなイメージと、長髪でヒゲをたくわえていた頃のアヴァンギャルドな印象が強いが、今ではすっかり大人の風格をたたえられ、知的な紳士となられている。
 御夫妻には、ていねいにも玄関先までお見送り頂いてしまった。これまで、秘書時代から県議時代を含め、皇室のお客様をお見送りしたことは幾度となくあるが、将来の天皇陛下になられるかもしれない方に、よもや車上の私が逆にお見送り頂くことになろうとは思わなかった。
 今回の訪問は、秋篠宮殿下、妃殿下のフランクなお人柄を知ると同時に、新時代に向けて皇室が考えている新たな皇室のあり方を知ることのできた大変貴重な機会であったと考えている。

皇室関係の写真使用は制限があって、今回あまり使っておりません。秋篠宮邸の内部も「撮影は御遠慮下さい」ということでしたので御理解下さい。

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