« 悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました | トップページ | 『リバ!』2015年7月号 »

2015年6月17日 (水)

徳川家康公顕彰四百年記念座談会

徳川家康公顕彰四百年記念座談会(2015年4月4日)

 本年は徳川家康公顕彰四百年を記念して、静岡市、浜松市と共に、この岡崎市においても様々な事業を展開している。
 この4月、徳川家第18代徳川恒孝(つねなり)様はじめ、四天王の各宗家、ゆかりの各藩当主の皆様が家康行列参加のため勢揃いされた。またとない機会であり、ぜひ何か記録として残したいと考え、4月4日(土)、座談会を持つこととなった。
 いずれにせよ、遠路はるばる、それぞれの皆様が古(いにしえ)の縁(えにし)によって家康公の生誕の地・岡崎市へお越し頂いたことは、誠に感謝に堪えない。心から「おかえりなさい」という言葉と共にお迎えしたいものである。
 会場となった八丁魚光の御主人も、古書をめくり、歴史をしのばせる三河になじみのある料理に工夫を凝らしてくれた。戦国時代の兵糧(ひょうろう)でもあった焼きミソと干飯(ほしい)を湯がいたものが最初に運ばれて来た時には、一種の感動のような気持ちがわいてきた。
 私も「どうぞ食事をしながらざっくばらんにご歓談頂き、皆様の御先祖が四百年以上前にこの地で団結し、世界史上にも類のない260年に及ぶ平和国家を築かれたことに思いを馳せながら、楽しいひとときをお過ごし下さい」などと御挨拶申し上げたものの、考えてみれば世が世なら拝謁すらかなわないお殿様方ばかりである。頂いた名刺を並べてみれば、歴史の重みのようなものを強く感じるのであった。
 どんな口切りで座談会が始められるものかと思っていたが、郷土の歴史家である市橋章男先生がコーディネーターとして手際良くリードして下さりホッとした。

 当日お越し頂いた宗家、当主の方は以下の8名の皆様である。

徳川御宗家第十八代当主 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主
 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主夫人 徳川幸子 様
徳川御宗家第十八代当主
 夫人 徳川幸子 様
四天王 榊原家第十七代 榊原政信 様
四天王 榊原家第十七代
 榊原政信 様
四天王 本多家第二十二代 本多大將 様
四天王 本多家第二十二代
 本多大將 様
四天王 酒井家第十八代 酒井忠久 様
四天王 酒井家第十八代
 酒井忠久 様
四天王 井伊家第十八代 井伊直岳 様
四天王 井伊家第十八代
 井伊直岳 様
旧西大平藩 大岡家第十五代 大岡秀朗 様
旧西大平藩 大岡家第十五代
 大岡秀朗 様
旧奥殿藩 大給家第十四代 大給乘龍 様
旧奥殿藩 大給家第十四代
 大給乘龍 様

 そして地元からは郷土史家でもあるおかざき塾代表の深田正義様、岡崎商工会議所会頭の古澤武雄様、それに私と司会の市橋先生の総勢12名による座談会とあいなったのである。

 まず始めに徳川様より時計回りに自己紹介を兼ねて御先祖と岡崎の関係、徳川家とのエピソードをお話して頂くことになった。
 徳川恒孝さんは、毎年様々な事業で本市がお世話になっており、徳川記念財団の理事長として、あるいは静岡商工会議所最高顧問として高名であられるが、奥様については御存じない方が多いことと思われる。
 徳川家18代当主御令室徳川幸子(さちこ)さんは、今でこそ徳川姓であるが元は細川家(熊本)に縁の深い寺島伯爵家の出自である。いかにもお姫様という風情をお持ちの方であり、元スチュワーデスとのことであった。
 また一つ面白い話を加えると、徳川恒孝さんが学習院初等科に通ってみえた頃、クラスメートに松平姓を名乗る方が2人、徳川姓の同級生が2人いたそうである。ところが一番仲の良かった友人は隣の席の毛利君であったという。かつては関ヶ原の合戦で雌雄を決した間柄の者同士が、席を同じくしてなごやかに語り合っているというのも四百年の月日の経過のなせるワザであろう。

 榊原政信さんは現在東京在住であり、会社を経営しておられ、榊原家17代目の当主である。先祖の領地替えが度重なったため全国各地に御縁のあるお寺が36ヶ寺もあり、そのおつきあいが大変であるということであった。現在は半分ほどのお墓を各県や市の文化財として委託してみえる。初代当主の榊原康政公は、在・岡崎時代は今の康生通東一丁目あたりにお住まいであった。江戸期の古地図によれば、現在のみどりや、さくらや、宝金堂、そして私の家の敷地のあたりまでが榊原家のお屋敷であったことが近年判明している。今回私も、かつての地主さんと記念写真を撮らせて頂いた次第である。

 「家康に過ぎたるモノ二つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と讃えられた本多忠勝の子孫にして、本多家第22代となる本多大將(ひろゆき)さんは、旧岡崎藩の最後の当主の末裔でもある。現在岡崎で行われている家康行列は、かつての藩士達が「徳川の伝統と本多家の恩を忘れないように」と、大正初期に行った武者行列を始まりとしている。本多大將さんは昭和45年のお生まれで、今回の参加者の中では一番お若く(44歳)、最後の岡崎藩主の子孫として今後ともよろしく御協力願いたいものである。

武者行列(岡崎市)

武者行列(岡崎市)

 酒井家第18代の酒井忠久さんは、現在山形県鶴岡市にお住まいであり、代々その地でお住まいとのことであった。任地が度々替わられたり、東京にいて大震災や戦災に見舞われたりした方々は、せっかくの先祖伝来の宝物や書類を消失されているケースが多いという。酒井家の場合、領地を移ることが少なかったため比較的そうした貴重な古文書等が多く残されているそうである。
 「いざ戦さ」となった時のために、御先祖様が自藩の城ばかりでなく、全国各地にある(あった)様々なお城の見取り図や絵図のようなものを多く収集されており、現在も忠久さんが代表理事をされている致道博物館に収蔵されているそうである。(岡崎城のものがあればありがたいのであるが・・・。)

 井伊家第18代の井伊直岳(なおたけ)さんは京都大学大学院を修了された博士であり、『新修彦根市史』編纂のお仕事にも関わっておみえになる。昭和時代には御先祖が9期連続して彦根市長職を務められたそうである。
 井伊家は滅亡した武田家の遺臣を配下に加えて以来、井伊の〝赤備え〟として武勇をうたわれてきた家柄でもある。井伊家は幕末の井伊大老の一件(桜田門外の変)でも有名であるが、私は個人的には50年程前に製作された小林正樹監督の松竹映画『切腹』を思い出してしまう。
 徳川幕府の治世が始まってからしばらく、江戸に流れついた旧西軍方の浪人が大名の邸宅を訪れ「生き恥をさらすことなく、庭先で切腹させてほしい」と頼み込むことがよくあったという話が映画の冒頭で紹介される(ストーリーは創作である)。
 しかしその本心は、自宅を血で汚されることを嫌う大名から追い銭をもらって退散すること、あるいは仕官のチャンスを狙うことにあった。ある時、そうした気風を嫌う井伊家の家老(三國連太郎)が、子供の医者代の工面のために狂言切腹をしようとした若い侍に対し切腹を断行してしまう。竹光(たけみつ)で詰め腹を切らせる仕打ちに怒った、若侍の育ての親(仲代達矢)は同様の仕立てで井伊家の屋敷に臨み、切り死にをする。
 昭和38年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した作品でもあり、私の好きな日本映画でもある。近頃リメークされた海老蔵主演の映画は華麗な仕上げではあるが、どうもウソっぽくて頂けない。そう言えば、時代劇を製作しなくなった晩年の黒澤明監督は、問われて「サムライの顔をした日本人がいなくなったから」と答えていた。

 大岡秀朗(ひであき)さんは、御存じ名奉行大岡越前公の第15代であり、現在メルセデス・ベンツ日本の常務取締役をしてみえる。1年に何度もドイツを訪れる多忙な方であるが、毎年本市の大平町で行われる西大平藩・大岡稲荷大祭には欠かさず御出席を頂いている。ちなみにゆかりのまち茅ヶ崎市で毎春行われる「大岡越前祭」も御先祖のものである。

 旧奥殿藩第14代の大給乘龍(おぎゅう のりたつ)さんは、御先祖の始められた株式会社日赤振興会の社長さんである。なんと私の高校の同級生の一人とかつて仕事仲間であったことが分かり、世の中の意外な狭さを実感したものである。大給家は江戸末期に長野県の臼田(現在の佐久市)に移っている。

 それぞれ十代、二十代と世代を重ねた名家の方々ばかりであるが、江戸幕府が始まってからはおのおの、城持ち大名や旗本として独立しているため徳川直参の家臣とは言えなくなっている。
 また今回私が面白く感じたのは、かつての武門の誉れ高き家系の子孫の方々が学者や文化人の風貌となっている点である。徳川恒孝さんなどはどこかの国立大学の教授のような感すらある。
 長らく岡崎に住み続けている私達も忘れてしまっていることがいくつもある。江戸時代に大名諸侯と呼ばれた人々は279家あったそうであるが、三英傑の出身地であるせいか、その内130家は現在の愛知県の出身者であり、さらにその内60家余りはこの三河岡崎一円の出であったそうである。もっとも、以来何百年もの時の経過があり、今も自らの出自を意識して生きている方がどれほどいるか分からないわけであるが、岡崎の人間としてはそのことをぜひ覚えていてほしいものである。

 私は26年間の県会議員時代、日本全国を訪れる機会に恵まれた。その折に各地において三河と同じ地名や言葉、文化・習慣を見たり聞いたり感じたりしたことが度々あった。考えてみれば決して故無きことではないのかもしれない。このところテレビは維新ものでニギヤカであるが、明治維新とても江戸時代の遺産による産物であると言えないこともないのである。
 日本人の几帳面で集団志向的性格が定まったのも、日本の伝統文化、独自の生活習慣と言われるものが発達・熟成し、定着していったのも、徳川時代の三百年近い平和な時代のことである。諸大名の力をそぐために行われたとされる参勤交代さえ、結果としては江戸の最新文化や風俗を全国に伝播させ、日本の文化水準の向上に寄与したとも言える。
 そして何よりも重要なことは、藩校や寺子屋教育による読み書き、ソロバン等の基礎教育の普及により、当時世界のどこもなし得なかった識字率90数パーセントという質の高い国民が誕生したことである。明治維新があの短期間で大きな改革を成し遂げられたのも、中国や朝鮮と異なり、国民全体で新しい思想や文化技術を学びとる国民国家の形成にいち早く成功したからである。そうした基礎を形づくったのはまぎれもなく、あの江戸時代のパックス・トクガワ(徳川による平和)であったと言える。
 私達はこうした歴史的真実を再認識し、自信と誇りを持ち、もっとそのことを力強くアピールしてゆくべきであると思っている。


上様のおな~り Ⅰ (2013.01.31)

上様のおな~り Ⅱ (2013.03.04)

|

« 悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました | トップページ | 『リバ!』2015年7月号 »

岡崎ゆかりの英傑たち」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事