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2015年6月

2015年6月28日 (日)

人生、これ忍耐?

 先日、某新聞を読んでいたら、40代の男性が「妻のくだらない話が悩みの種」と書いている記事を見つけた。「主語がなく何の話だか分からない。盛り上がりもオチもないマシンガン・トークが延々と10分くらい続く」というのである。思わず「オーッ同志よ!」と叫びたくなってしまった。私がいつも家で思っていることと同じであった。(不幸なことに彼の場合、対面して話を聞かされるそうだ。)
 ことに、仕事で疲れ、ようやく家に帰りつきホッとした時にこれをやられるとたまらない。インディアンの待ち伏せをくらった第七騎兵隊のようなもので、ひとたまりもない。疲労感は倍増、不快指数は300%となる。
 しかもNHKの定時ニュースを見始めたような時に限って話しかけてくる。そのため「人が国際情勢を考えている時に、隣の猫が屁をこいたみたいなくだらない話をしてくるな!」とか言ってモメることになる。いつもあまりのタイミングの良さに、嫌がらせでワザとやってるのかと思うほどである。

Clint Eastwood (The Good, the Bad and the Ugly)

 かつてカリフォルニア州のカーメル市長をやっていたクリント・イーストウッドは、記者から「夫婦生活を円満に長く続けるコツは?」と尋ねられた時、「忍耐の心で、ともかく妻の話をよく聞いてやることです」と答えていた。「さすがはダーティ・ハリー、クールだ」と当時感心したものであった。確かこのセリフを私は結婚式の祝辞の中で使ったこともある。ところがしばらくして、御本人のイーストウッドも離婚したため、「やはり、彼の我慢にも限界があったのか」と思った次第である。
 新聞には、併せて妻対策も掲載されていた。「10分くらいのことなら我慢して聞いてあげて下さい」とか「聞いているフリだけしていればいいのです」とか、「時には怒った方がいい」から「自分が選んだ相手なのだから、あきらめなさい」、はたまた「ダンナの方もつまらないグチ話を繰り返すことが多く、お互い様」といった意見が寄せられ、最後は「くだらない会話でもあるだけマシ。夫婦間で会話の無くなった状態こそ危機的状況を招くことになる」という警句のような言葉で結ばれていた。
 「あんなに情熱的であった二人なのに、〝あれから40年!〟」。どっかで聞いたセリフである。

 近年、60代の再婚が急増しているという。60代で再婚と言うことはこの長寿時代、死別より離婚の挙げ句というケースが多いのであろう。60面(づら)下げて再婚なんて、さらにめんどうくさそうである。そうならないためには「ただ忍耐あるのみか」と思うこの頃である。

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2015年6月24日 (水)

むらさき麦ビールと田んぼアート

Mr. Craig Morrey

むらさき麦100%ビール
 これまで岡崎市藤川町においては、「藤川まちづくり協議会」の皆さんを中心に整備された本陣跡広場、米屋あるいは「道の駅 藤川宿」を活用して活発なまちおこしの運動が展開されてきた。
 地元特産のむらさき麦を使った製品としては、お菓子やうどんに加え焼酎もあるが、今回むらさき麦を100%使用した地ビールが開発されることとなったのである。(地元ではクラフトビールと呼んでいる。)
 このアイデアは愛知産業大学の学生さんが地域活性化のプランの一つとして提案したものである。愛知学泉大学の横田正准教授の成分分析を経て、明大寺町に本社のあるプログレッシブパートナーシップのクレイグ・モーリーさんと微生物学の研究者であった冨成和枝さんが中心となり、蒲郡市にある同社の醸造所で完成された。

岡崎市・むらさき麦栽培地

むらさき麦100%ビールお披露目会

 むらさき麦は、成分に関してはふつうの大麦と比べて大きな違いはない。ビールの色こそ市販のメーカー品よりも濃く、味も濃厚であるが、意外にも酒をたしなまない私にも飲みやすいスッキリとした口当たりであった。食事時の飲用に適するのではないかと思った次第である。
 30キロのむらさき麦から、450リットルのビールができるそうであるが、量産するまでの量はなく、当面試験的に地元の飲食店を中心に限定販売をしながら生産を続けてゆくとのことであった。

 これは余談であるが、クレイグ氏は元・基礎生物学研究所の研究者であり、在米中は私のいたインディアナ州の隣のイリノイ州立大学で学んでいたそうである。彼は私がインディアナ州立大学にいたことを御存じであり、しばらくなつかしい昔話に花が咲いた。米中東部(五大湖の辺り)にあるインディアナ、イリノイ、パーデュー、ノートルダム、ミシガンの5つの大学は、アメフト、野球、バスケットボールなどでリーグ戦を行っており、ライバル校同士である。インディアナが優勝すると政治学部の前にある噴水に学生が飛び込み大騒ぎをするのであるが、私の在学中は残念ながらその機会は無かった。

内田康宏

田んぼアート開催
 また藤川町では5月24日(日)、家康公四百年祭を記念して「田んぼアート」というイベントが開催された。これは古代米を含む五色の苗を使い、実際の田植え作業をしながら一般公募によって選定されたデザインを描くものである。当日は多くの市民、親子の皆さんが参加された。
 図柄は、葵の紋と「いえやす公 400年祭」の文字、そして徳川家康公の似顔絵である。背景に緑色となるうるち米を使い、文字や似顔絵として赤、黄、黒、白の4色の稲に育つ古代米を使用する。田んぼには田植えをリードするためのヒモが張り巡らせてあったが、6月中旬頃から全貌が判別できるようになった。

家康公四百年祭田んぼアート(2015年5月24日)

家康公四百年祭田んぼアート(2015年5月24日)

田んぼアート(2015年6月)

 私は「康生生まれ、康生育ち」で農作業とは縁の少ない生活をしてきた者であるが、幸い小学生時代の先生の一人が「田植えをしたことのないような奴はロクな人間にならない」と言って、私に田植えと稲刈りの体験をする機会を与えてくれた。町育ちの子供にとって単に珍しい体験という記憶しかないが、今思えば貴重な機会を与えて下さった恩師には感謝している。
 今回も多くの親子連れが参加してみえたが、こうした機会に日本の文化、日本人の生活様式、日本人のモノの考え方の形成にも通じる稲作というものを自ら体験して親子で改めて語り合ってほしいと思っている。
 私も個人的にどのように苗が育ってゆくものか大変楽しみであるし、岡崎市東部の玄関口を飾る名物として、訪れる方の目を楽しませる試みとして今後も続けてほしいと考えている。なお、当日は「田んぼアート」のデザイン公募に参加され優秀賞を受けた7名の小中学生の表彰も行われた。

 今回の事業推進に対して御協力頂いたお地元の皆様、また御協賛頂いた多くの皆様に心から感謝申し上げます。

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2015年6月21日 (日)

桑谷山荘跡地・整備事業

岡崎市・桑谷山荘跡地

 平成24年12月に閉館した桑谷(くわがい)山荘の跡地利用については、昨年度地元の御意見をお聞きした上で、遊歩道を有した緑地公園としての整備が行われた。新しく植えられた樹木は、「日本原産の木」という国からの制限もあり、地元の希望によって選定されたものである。
 岡崎市内から唯一海の見える施設として、長年市民にも愛されてきた桑谷山荘であったが、前市政の折にすでに2度目の廃止計画が決定されていた。
 私の市政になってから、なんとか再興できないかと様々に智恵をしぼってみたが、自治体が行う事業としては赤字が大きく(年間約8千万円)、施設の老朽化と耐震性、そしてバリアフリー化の要請から建て直すほか、いかんともしようが無かった。

桑谷山荘パンフレット

 民間のノウハウで再生に挑戦する企業がどこかにないかと、金融機関のお力も借りて探したところであるが、取り壊しに約2億円かかる上、段差のある敷地に新築しなくてはならなかった。単に海が見えるということならば、他にもっと景観が良く整備の整った民間の施設がたくさんある中、わざわざ利便性の悪い立地に名乗りを上げる者は現れなかった。
 東部地区の皆様の中には、山綱町の竹千代温泉が無くなった後、東部における保養施設として存続を望む声もあったが、上記の理由により赤字が不可避の施設事業を推進することはできなかった。(「やり方次第」と言われる方もあったが、それならぜひその方にお任せしたいものである。)

 整備後の姿を実際に確認しておくために、5月10日(日)、東部地区に出かけた折に立ち寄ることとした。以下、その時に自ら足を運ぶ中で気づいた点を洗い出してみた。
 まず気がついたことは、地元の公園として活用するだけでなく、遠足や観光バスなどによってお客さんを招こうとするならば、現在の駐車場(17台)では手狭ではないかと思われる。今後、来客の状況を見ながら対応を考えたい。
 次に駐車場にあるトイレの便器の数が大小各1というのも気になった。行楽シーズンにお客が集中した場合、森の中で用を足してもらうことになるのだろうか? また、水栓が手押し式になっている点にも時代を感じた。山上における水の出しっ放しが心配されると共に、車の洗車をされないようにするためである。この場所に自動販売機が置けないわけである。世の中、性善説だけでは対応できないのである。

内田康宏

Kuwagai201505102

 坂道を登って久しぶりに展望台まで上がってみた。20年ほど前に来た時には、こんなことはなかったのであるが坂道を3分の1ほど登った所で息が切れてしまい休憩する必要があった。現地の様子から革靴やハイヒールで登るのはツライことが分かる。落葉が重なり足がすべる所も多く、ケガ防止のため運動靴の用意を呼びかける注意看板設置の要もある。

 展望台からの良好な景観を確保するためには、樹木の適切な管理の要があり、国有林の部分については国との連携をしっかりとってゆきたいと思う。展望台の上には常設のコンクリート・ベンチがあるが少人数分のスペースしかない。1階と周囲の空きスペースに休憩用のベンチの設置を考えたい。ベンチは地元の間伐材を使いたいし、さらに高齢者のために、登坂経路にもベンチの設置も考えたい。設置プランを練っていた展望台の透明板による風よけであるが、シーズン中にはかえって暑苦しく、冬には来客も少ないことから再考したいと思う。他にも良いアイデアがあればぜひ教えて頂きたいと思っております。

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2015年6月20日 (土)

『リバ!』2015年7月号

『リバ!』2015年7月号

『リバ!』2015年7月号が本日発行されました。内田康宏事務所からお知らせいたします。7月号のコラムは「大山鳴動して、ネズミ一匹!」です。
前号に続いて今回も市長自らイラストを描いています。

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2015年6月17日 (水)

徳川家康公顕彰四百年記念座談会

徳川家康公顕彰四百年記念座談会(2015年4月4日)

 本年は徳川家康公顕彰四百年を記念して、静岡市、浜松市と共に、この岡崎市においても様々な事業を展開している。
 この4月、徳川家第18代徳川恒孝(つねなり)様はじめ、四天王の各宗家、ゆかりの各藩当主の皆様が家康行列参加のため勢揃いされた。またとない機会であり、ぜひ何か記録として残したいと考え、4月4日(土)、座談会を持つこととなった。
 いずれにせよ、遠路はるばる、それぞれの皆様が古(いにしえ)の縁(えにし)によって家康公の生誕の地・岡崎市へお越し頂いたことは、誠に感謝に堪えない。心から「おかえりなさい」という言葉と共にお迎えしたいものである。
 会場となった八丁魚光の御主人も、古書をめくり、歴史をしのばせる三河になじみのある料理に工夫を凝らしてくれた。戦国時代の兵糧(ひょうろう)でもあった焼きミソと干飯(ほしい)を湯がいたものが最初に運ばれて来た時には、一種の感動のような気持ちがわいてきた。
 私も「どうぞ食事をしながらざっくばらんにご歓談頂き、皆様の御先祖が四百年以上前にこの地で団結し、世界史上にも類のない260年に及ぶ平和国家を築かれたことに思いを馳せながら、楽しいひとときをお過ごし下さい」などと御挨拶申し上げたものの、考えてみれば世が世なら拝謁すらかなわないお殿様方ばかりである。頂いた名刺を並べてみれば、歴史の重みのようなものを強く感じるのであった。
 どんな口切りで座談会が始められるものかと思っていたが、郷土の歴史家である市橋章男先生がコーディネーターとして手際良くリードして下さりホッとした。

 当日お越し頂いた宗家、当主の方は以下の8名の皆様である。

徳川御宗家第十八代当主 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主
 徳川恒孝 様
徳川御宗家第十八代当主夫人 徳川幸子 様
徳川御宗家第十八代当主
 夫人 徳川幸子 様
四天王 榊原家第十七代 榊原政信 様
四天王 榊原家第十七代
 榊原政信 様
四天王 本多家第二十二代 本多大將 様
四天王 本多家第二十二代
 本多大將 様
四天王 酒井家第十八代 酒井忠久 様
四天王 酒井家第十八代
 酒井忠久 様
四天王 井伊家第十八代 井伊直岳 様
四天王 井伊家第十八代
 井伊直岳 様
旧西大平藩 大岡家第十五代 大岡秀朗 様
旧西大平藩 大岡家第十五代
 大岡秀朗 様
旧奥殿藩 大給家第十四代 大給乘龍 様
旧奥殿藩 大給家第十四代
 大給乘龍 様

 そして地元からは郷土史家でもあるおかざき塾代表の深田正義様、岡崎商工会議所会頭の古澤武雄様、それに私と司会の市橋先生の総勢12名による座談会とあいなったのである。

 まず始めに徳川様より時計回りに自己紹介を兼ねて御先祖と岡崎の関係、徳川家とのエピソードをお話して頂くことになった。
 徳川恒孝さんは、毎年様々な事業で本市がお世話になっており、徳川記念財団の理事長として、あるいは静岡商工会議所最高顧問として高名であられるが、奥様については御存じない方が多いことと思われる。
 徳川家18代当主御令室徳川幸子(さちこ)さんは、今でこそ徳川姓であるが元は細川家(熊本)に縁の深い寺島伯爵家の出自である。いかにもお姫様という風情をお持ちの方であり、元スチュワーデスとのことであった。
 また一つ面白い話を加えると、徳川恒孝さんが学習院初等科に通ってみえた頃、クラスメートに松平姓を名乗る方が2人、徳川姓の同級生が2人いたそうである。ところが一番仲の良かった友人は隣の席の毛利君であったという。かつては関ヶ原の合戦で雌雄を決した間柄の者同士が、席を同じくしてなごやかに語り合っているというのも四百年の月日の経過のなせるワザであろう。

 榊原政信さんは現在東京在住であり、会社を経営しておられ、榊原家17代目の当主である。先祖の領地替えが度重なったため全国各地に御縁のあるお寺が36ヶ寺もあり、そのおつきあいが大変であるということであった。現在は半分ほどのお墓を各県や市の文化財として委託してみえる。初代当主の榊原康政公は、在・岡崎時代は今の康生通東一丁目あたりにお住まいであった。江戸期の古地図によれば、現在のみどりや、さくらや、宝金堂、そして私の家の敷地のあたりまでが榊原家のお屋敷であったことが近年判明している。今回私も、かつての地主さんと記念写真を撮らせて頂いた次第である。

 「家康に過ぎたるモノ二つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と讃えられた本多忠勝の子孫にして、本多家第22代となる本多大將(ひろゆき)さんは、旧岡崎藩の最後の当主の末裔でもある。現在岡崎で行われている家康行列は、かつての藩士達が「徳川の伝統と本多家の恩を忘れないように」と、大正初期に行った武者行列を始まりとしている。本多大將さんは昭和45年のお生まれで、今回の参加者の中では一番お若く(44歳)、最後の岡崎藩主の子孫として今後ともよろしく御協力願いたいものである。

武者行列(岡崎市)

武者行列(岡崎市)

 酒井家第18代の酒井忠久さんは、現在山形県鶴岡市にお住まいであり、代々その地でお住まいとのことであった。任地が度々替わられたり、東京にいて大震災や戦災に見舞われたりした方々は、せっかくの先祖伝来の宝物や書類を消失されているケースが多いという。酒井家の場合、領地を移ることが少なかったため比較的そうした貴重な古文書等が多く残されているそうである。
 「いざ戦さ」となった時のために、御先祖様が自藩の城ばかりでなく、全国各地にある(あった)様々なお城の見取り図や絵図のようなものを多く収集されており、現在も忠久さんが代表理事をされている致道博物館に収蔵されているそうである。(岡崎城のものがあればありがたいのであるが・・・。)

 井伊家第18代の井伊直岳(なおたけ)さんは京都大学大学院を修了された博士であり、『新修彦根市史』編纂のお仕事にも関わっておみえになる。昭和時代には御先祖が9期連続して彦根市長職を務められたそうである。
 井伊家は滅亡した武田家の遺臣を配下に加えて以来、井伊の〝赤備え〟として武勇をうたわれてきた家柄でもある。井伊家は幕末の井伊大老の一件(桜田門外の変)でも有名であるが、私は個人的には50年程前に製作された小林正樹監督の松竹映画『切腹』を思い出してしまう。
 徳川幕府の治世が始まってからしばらく、江戸に流れついた旧西軍方の浪人が大名の邸宅を訪れ「生き恥をさらすことなく、庭先で切腹させてほしい」と頼み込むことがよくあったという話が映画の冒頭で紹介される(ストーリーは創作である)。
 しかしその本心は、自宅を血で汚されることを嫌う大名から追い銭をもらって退散すること、あるいは仕官のチャンスを狙うことにあった。ある時、そうした気風を嫌う井伊家の家老(三國連太郎)が、子供の医者代の工面のために狂言切腹をしようとした若い侍に対し切腹を断行してしまう。竹光(たけみつ)で詰め腹を切らせる仕打ちに怒った、若侍の育ての親(仲代達矢)は同様の仕立てで井伊家の屋敷に臨み、切り死にをする。
 昭和38年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した作品でもあり、私の好きな日本映画でもある。近頃リメークされた海老蔵主演の映画は華麗な仕上げではあるが、どうもウソっぽくて頂けない。そう言えば、時代劇を製作しなくなった晩年の黒澤明監督は、問われて「サムライの顔をした日本人がいなくなったから」と答えていた。

 大岡秀朗(ひであき)さんは、御存じ名奉行大岡越前公の第15代であり、現在メルセデス・ベンツ日本の常務取締役をしてみえる。1年に何度もドイツを訪れる多忙な方であるが、毎年本市の大平町で行われる西大平藩・大岡稲荷大祭には欠かさず御出席を頂いている。ちなみにゆかりのまち茅ヶ崎市で毎春行われる「大岡越前祭」も御先祖のものである。

 旧奥殿藩第14代の大給乘龍(おぎゅう のりたつ)さんは、御先祖の始められた株式会社日赤振興会の社長さんである。なんと私の高校の同級生の一人とかつて仕事仲間であったことが分かり、世の中の意外な狭さを実感したものである。大給家は江戸末期に長野県の臼田(現在の佐久市)に移っている。

 それぞれ十代、二十代と世代を重ねた名家の方々ばかりであるが、江戸幕府が始まってからはおのおの、城持ち大名や旗本として独立しているため徳川直参の家臣とは言えなくなっている。
 また今回私が面白く感じたのは、かつての武門の誉れ高き家系の子孫の方々が学者や文化人の風貌となっている点である。徳川恒孝さんなどはどこかの国立大学の教授のような感すらある。
 長らく岡崎に住み続けている私達も忘れてしまっていることがいくつもある。江戸時代に大名諸侯と呼ばれた人々は279家あったそうであるが、三英傑の出身地であるせいか、その内130家は現在の愛知県の出身者であり、さらにその内60家余りはこの三河岡崎一円の出であったそうである。もっとも、以来何百年もの時の経過があり、今も自らの出自を意識して生きている方がどれほどいるか分からないわけであるが、岡崎の人間としてはそのことをぜひ覚えていてほしいものである。

 私は26年間の県会議員時代、日本全国を訪れる機会に恵まれた。その折に各地において三河と同じ地名や言葉、文化・習慣を見たり聞いたり感じたりしたことが度々あった。考えてみれば決して故無きことではないのかもしれない。このところテレビは維新ものでニギヤカであるが、明治維新とても江戸時代の遺産による産物であると言えないこともないのである。
 日本人の几帳面で集団志向的性格が定まったのも、日本の伝統文化、独自の生活習慣と言われるものが発達・熟成し、定着していったのも、徳川時代の三百年近い平和な時代のことである。諸大名の力をそぐために行われたとされる参勤交代さえ、結果としては江戸の最新文化や風俗を全国に伝播させ、日本の文化水準の向上に寄与したとも言える。
 そして何よりも重要なことは、藩校や寺子屋教育による読み書き、ソロバン等の基礎教育の普及により、当時世界のどこもなし得なかった識字率90数パーセントという質の高い国民が誕生したことである。明治維新があの短期間で大きな改革を成し遂げられたのも、中国や朝鮮と異なり、国民全体で新しい思想や文化技術を学びとる国民国家の形成にいち早く成功したからである。そうした基礎を形づくったのはまぎれもなく、あの江戸時代のパックス・トクガワ(徳川による平和)であったと言える。
 私達はこうした歴史的真実を再認識し、自信と誇りを持ち、もっとそのことを力強くアピールしてゆくべきであると思っている。


上様のおな~り Ⅰ (2013.01.31)

上様のおな~り Ⅱ (2013.03.04)

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2015年6月13日 (土)

悠紀斎田100周年記念お田植えまつり、無事開催しました

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 6月7日(日)、長年にわたり、地元六ツ美地区の皆様方とともに岡崎市が準備を続けてきた悠紀斎田(ゆきさいでん)100周年記念式典の本番を迎えた。当日は秋篠宮殿下、妃殿下をお迎えするということもあって、早朝より警察はじめ多くの皆様方に警備、交通整理、式典進行、会場造り、後片付けまで、お世話と御協力を頂き、無事開催できましたことを心より感謝申し上げます。

 今さら御説明の必要もないかと思うが、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」は、大正4年(1915年)に大正天皇即位の際の大嘗祭(だいじょうさい)に新米を献上するための斎田として、旧・六ツ美村(岡崎市中島町)が選ばれたことを記念し、代々受け継がれてきたものである。
 不思議なことに献穀を祝う行事がこうした形で毎年続いているのは、大正天皇の時の京都を中心としての東日本の悠紀(六ツ美村)、西日本の主基(香川県綾川町)だけである。他の天皇のときのものがどうして継続されなかったのか定かではないが、あえて考えてみれば、日本が比較的平和であった時代の式典として当時きちんと準備をして行えたものであったからではないかと思う。いずれにしても全国でも貴重な存在となっている。
 地元では田植え歌、踊り、装束、用具等は当時の記録と共に地域の宝としてきちんと保存されている。そうしたことが昭和41年の本市の無形民俗文化財指定、そして今日の「地域交流センター六ツ美分館・悠紀の里」における歴史民俗資料室としての展示につながっていると考える。
 岡崎市としては今後もこの歴史的・民俗的祭事の伝承に力を注ぎ、御協力を頂いている皆様方に対し、可能な限りの支援をさせて頂きたいと思っている。
 当日私はお昼頃、神事の始まる前に会場に出向いた。公用車で駐車場に入ったところ、宮様の車と間違えた御婦人達がかけ寄ってみえたが、私だと分かり、ガッカリして(?)戻っていかれた。

六ツ美中学校・六ツ美北中学校合同吹奏楽

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「葵」武将隊、観光大使おかざき、オカザえもん

 六ツ美地区の小学校・中学校の生徒による踊りと演奏、岡崎城西高校の和太鼓、グレート家康公「葵」武将隊の演武に加え、モチ投げも行われ、田畑と道路に隣接した会場には、地元を中心に鈴なりの人出で大にぎわいであった。

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

六ツ美悠紀斎田100周年記念お田植えまつり

 皇族代表として御出席頂いた秋篠宮さま、紀子さまは午後1時半頃、御臨席を賜った。黒とアイスブルーの対照的色調の服装で到着された両宮さまは、車を下りて歩き始めた途端、待ち受けていた市民からの割れんばかりの大歓声を受けられることとなった。やはり皇族は世代を越えた日本最大のアイドルであることがよく分かる出来事であった。

 秋篠宮御夫妻は、式典ご参加ののち、歴史民俗資料室の展示を興味深くご覧になってみえた。また子供達の作品に対しても一つ一つていねいに視線を送り質問をされてみえた。私達は同席しなかったが、お田植えまつりの儀式に参加した子供達の代表となごやかに会話を楽しんでみえたことが印象的である。
 最後まで会場に集まってみえる市民に対し、ていねいな対応をされ、握手の求めにまで応じておられた。観客のエキサイトぶりに警護の方々のハラハラした様子が見てとれるようであった。

内田康宏

 式典には御来賓として、大村愛知県知事、地元の三代議士はじめ多くの公職者の皆様に御参加頂き、改めて感謝申し上げるものである。また、香川県の綾川町からも藤井賢町長、議長さんはじめ、市民代表の方々も40数名おいで頂いた。当日の夜、岡崎ニューグランドホテルでは、実行委員会主催による主基・悠紀両斎田保存会交流会が行われた。
 両保存会、有志の方々の御尽力により、長年素晴らしい親交を深めてこられ、日本の稲作文化とお田植えの伝統行事を共に後世に伝承してこられた。
 今後とも互いに協力し、さらなる友好と重要な意義をもつこの伝統行事の伝承に向けてお力添えを頂くことをお願い申し上げるものである。


主基斎田100周年記念お田植まつり・ご報告 (2015.07.29)

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2015年6月11日 (木)

岡崎の国際交流 その2(姉妹都市交流)

姉妹都市中学生使節団・合同結団式(2015年5月25日)

 現在、岡崎市は海外3都市、国内5都市とそれぞれ都市提携をしている。アメリカのニューポートビーチ市(カリフォルニア州)とスウェーデンのウッデバラ市とは姉妹都市提携を、中国・内モンゴル自治区のフフホト市とは友好都市提携を結び、相互友好訪問事業を続けている。
 ニューポートビーチ市は昨年、提携30周年を迎え、春の桜まつりの時に訪日団をお迎えした。

The Newport Beach Sister City Delegation (April 7, 2014)

 そして秋には私、議長、市議有志、商工会議所会頭、国際交流協会会長を含む、30人程の訪米団で友好訪問した。

ニューポートビーチ市訪問(2014年10月)

Newportbeach201510154

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 その際には、現地で式典を行い、家康公顕彰400年を記念した家康公の石像を寄贈した。先方からも中央総合公園に記念植樹とベンチのある景観を造って頂けることとなっている。
 なおフフホト市とは、鳥インフルエンザ発生の影響もあってこのところ相互訪問が途絶えているが、米・欧の両市については現在も毎年中学校の生徒の代表20人程が相互に訪問しホームステイを行う関係が続いている。
 つい先日(5月25日)、岡崎市側の結団式が行われ、中学生代表の力のこもった決意表明がなされたところである。まず6月から7月にかけて、ニューポートビーチ市からの使節団を受け入れ、本市からの使節団の派遣はこの秋に行われることとなっている。ウッデバラ市においては、同じくこの秋、両市の使節団がそれぞれ訪れることになっている。

 若い時に異文化に触れるのは貴重な体験であり、感受性の豊かな若者達が自らの文化や生活習慣とは異なった考え方、生き方があることを知り、またそれと同時に人種や宗教が違っても同じ人間であるということを体感してもらうことは、日本の社会にとって重要なことであると考えている。
 さしたる天然資源も無い、孤立した島国である我が国は、外国との友好関係無しには国家の存立維持が難しいという宿命がある。国際的センスと国際関係の本質を読み解き、国のカジとりを誤らない人材を育てることは、将来の国家存亡にも関わる重要課題であると考えている。
 現実に岡崎の試みは様々な成果をもたらしている。かつての中学生訪問団のOBの中には、その時の体験が切っ掛けとなって外交官となり、スウェーデンのストックホルムにある日本大使館に赴任している人もいる。
 また以前、本市にも教員の海外研修制度というものがあったのであるが、長引く景気後退による財政的影響もあり、こちらの方はこのところ途絶えているように聞いている。子供達を教育する先生方には、できるだけ大きな視野を持ち、多様な考え方を理解してほしいと考えている。今後何らかの形で海外研修システム制度を復活させたいものと思っている。

 県会議員時代、私は「教員採用試験において、青年海外協力隊に参加したような人材は、加点ポイントを設けて優先的に採用してほしい」と常々申し上げてきた。
 単なる知識の伝達者ではなく、子供達に夢を語り、希望を与えてくれる教員になってもらいたいと思うものである。昨今頻発している社会的凶悪事件、陰湿なイジメや救い難いほど自己中心的な考え方の人間の増加を見る時、単に教科を教えるだけの教ではなく、人生の師となる教の育成ということも重要である。
 海外研修や海外体験だけがその解決策になると思うほど単純な考え方を持っている訳ではないが、様々な海外交流の機会を設けることによって、世界の多様性を知り、考え方の柔軟性を養い、型にはまった思考にとらわれない人材の育成ということが、子供、教師共に必要であると考えている。

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2015年6月 8日 (月)

岡崎の国際交流 その1(サウスカロライナ大学)

The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 昨年に引き続き、今年も米国サウスカロライナ大学の学生訪問団をお迎えすることとなった。これは私の高校時代の友人で、同じ水泳部仲間であった榊原祥隆(さかきばら よしたか)氏が主催するもので、同大学で教鞭を執っている榊原教授が昨年ビジネス・スクールの学生達を中心に訪日学習ツアーを催したことに始まる。
 日本では東京、京都、愛知と訪れ、主に定番の観光コースを巡ることになるが、愛知県においては名古屋、瀬戸、豊田、岡崎が訪問先に組み込まれている。これからは歴史や文化ばかりでなく、産業というものも日本観光の一つの売り物となる訳である。今回も、産業観光に先進的に取り組んでいるトヨタ自動車の組み立て工場とトヨタ博物館を訪れている。仲介の労を取って頂いた太田俊昭市議には大変感謝している。

 榊原教授はじめ17名の訪問団は、5月19日(火)、トヨタ自動車訪問後午後1時に岡崎市役所に到着した。昨年同様、学生さん達には市議会の議員席にお座り頂き、私共は議長と一緒に理事者席(注・議長席の左右の席のこと)でお迎えすることとなった。それぞれ歓迎のあいさつ、御礼のあいさつを済ませてから議場で記念撮影を行い、その後市役所内を見学しながら市長室まで御案内した。

The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 前回もそうであったが、学生達は室内の飾りモノや写真に興味津々の様であり、私が出席したクリントン大統領の就任式の写真や、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ブッシュ大統領夫妻(第41代)、安倍晋三総理との写真を眺めながら様々に質問をしてきた。
 私もアメリカ留学時代の写真を披露しながら忘れていたエピソードを思い出すことができ、大変なつかしい一時を過ごすことができたものである。

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内田康宏

 現在もアメリカ全土を網羅する長距離バス・ネットワークが存在するかどうか定かではないが、私が滞在していた38年程前にはグレイハウンド社の連絡網を中心にアメリカ全土を巡るルートが完備されていた。当時私は〝アメリ・パス〟という乗り放題バス・チケット(2週間・1ヶ月・2ヶ月)を使い、長期休みの間日本に帰らず、全米一人旅を繰り返していた。
 アメリカ人の上層階級は決してバス旅行などやらないが、この国の社会と人種の縮図をかいま見るためには良い経験であった。イナカ回りのコースでは気のいいアメリカ人と知り合いになれた。都市に近づくと急に黒人の割合が増え、南部に行けばメキシコ系の人々がどっと乗ってくるという具合であった。私のいたインディアナ州から西海岸へ向かう3日半の間、車窓の風景はトウモロコシと小麦の畑がどこまでも続いていた。「よくもまあ、こんなデカイ国を相手にケンカをしたものだ」と思ったものである。またその一帯は竜巻(トルネード)の名所でもあり、それも窓から見ることができたものだった。

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 シーズン・オフのイエローストーン国立公園に一人レンタカーで乗り込んだ時の話は学生達にバカ受けであった。時に私は、一般のアメリカ人が行かないようなところへも足を運んでいる。夜まで走ってもホテルが見つからず、滝のそばで野宿をしようとしたら、そこがグリズリー・ベア(灰色熊)のエサ場であったことや、真夜中の月明かりの下でコヨーテの遠吠えを聞いたことも、なつかしい想い出である。公園と言ってもイエローストーンは北九州エリアほどの広さがあり、各所に間欠泉が噴き出しており、野生の動物達とも遭遇する山岳地帯である。景色を眺めながら一人サンドイッチをほおばっていたら、周りにリスや鳥が集まってきて白雪姫状態になったことがある(ホント熊でなくてよかった)。その頃の私は刃渡り12センチくらいのナイフを腰にぶら下げていた。森の中で頼りになるのは自分ひとりであったからだ。今も当時の風景が夢に出てくることがある。

 私のイスの背後にかけてある犬の写真(アル)に気づいた女の子達から質問を受け、うっかり「彼は嫁さんより大事な犬だったんだけれど、去年17歳半で亡くなってしまい、僕は未だに立ち直れないんだ」と答えてしまった。「しまった! 彼らはアメリカ人だった」と思ったが、意外にも「その気持ち、よく分かる」と慰められた。愛犬家の心情は国境を越えるものであると分かった次第である。

アル

The students at University of South Carolina (May 19, 2015)

 学生の中には美術の知識を有する者もいて、飾ってあるピカソの絵(腕を組んで座る軽業師)を見て、「これは本物ですか?」と訊いてきた。「本物なわけないじゃないか。本物だったらこのビルが買えるよ」と言って大笑いとなった。
 その後彼らは岡崎城、並びに岡崎公園と八帖味噌蔵を見学し、東公園の恐竜達と対面してセントレアより帰途についた。

恐竜モニュメント(岡崎市東公園)

 後ほどアメリカから届いた礼状によると、まもなく映画『ジュラシック・ワールド』が公開されることもあって、東公園の精巧な恐竜モニュメントは大好評であったということである。

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 彼ら一人一人にはオミヤゲとして岡崎のパンフレットと共に観光DVD(英語)をプレゼントし、「帰国後、一人でも多くの知人・友人に見せてPRして下さい」とお願いしておいた。そんな小さな積み重ねが観光岡崎への一助となることと思う。アユの放流のように、彼らの中から日本に興味を持った者が再び来日したり、日本と関わりのある仕事に就く者が現れたりするかもしれない。日本に対して親近感を持ってくれるアメリカ人が一人でも増えてくれれば、我々の努力の価値は十分あると考えている。(つづく

The students at University of South Carolina (May 21, 2014)

(昨年2014年のときのもの)

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2015年6月 5日 (金)

伝統の力(絵ハガキと記念誌)

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 今、手元に百年前の岡崎市制施行時(大正5年)の記念絵ハガキがある。これは、元市議会議員でリバーシブル誌の初代発行者であった鈴木雅美氏がヤフー・オークションで競り落とし、この度岡崎市に寄贈頂いたものである。(鈴木氏からは、別に、同様の経路で入手された岡崎出身の刀鍛冶師の作である日本刀の寄贈も受けている。)
 ハガキに印刷されている写真は白黒ではあるが、往時の岡崎市を様子を伝える貴重な写真である。写真で見る限り、百年前の岡崎市は市となったとはいえ人口は3万8000人ほどのほんのイナカまちの風情であったことが見てとれる。当時、町と言えるのは連尺、康生あたりだけであったという。
 あれから百年、人口は10倍の38万人を越え、西三河の中核市(全国で45市)の一つとしての偉容を誇るまでとなった。先人達の偉業に対し、感謝と敬意を思うものである。

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 もう一つ、この古めかしい冊子は、愛知県行政書士会の岡崎支部長の島津達雄先生が東北地方に行かれた折に古本屋で見つけてきて下さった『家康忠勝両公三百年祭紀要』という、これまた貴重な、当時の記念誌である。こちらも市へ寄贈頂いたものである。
 岡崎の素晴らしさというのは、先達の偉業もさることながら、そうしたものをしっかりと受け止め、後世にきちんと伝えていこうとする精神を具備した多くの有意の市民が存在することでもある。
 両先輩に重ねて感謝申し上げると共に、市民の皆様に御報告申し上げるものです。

『リバーシブル』初代社主・鈴木雅美様

(『リバーシブル』初代発行者・鈴木雅美様)

島津達雄先生と共に(2014年)

(島津達雄先生と共に)

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2015年6月 2日 (火)

21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク

21世紀の朝鮮通信使友情ウォーク

 江戸時代に行われた朝鮮通信使の足跡をたどり、韓国のソウルから東京までの2000キロを共に歩いて新たな友情を育もうとしている人達がみえる。この試みは「21世紀の朝鮮通信使 ソウル―東京 友情ウォーク」と呼ばれ、今回(4月1日~5月22日)で5回目を数える。これまでに東日本大震災の年を除いて4回完遂されている。
 ことに今年は日韓国交正常化50周年の年であり、また朝鮮通信使の切っ掛けを作った徳川家康公の没後400年という節目の年でもある。そのため今回もメンバーの方達が岡崎を訪問することとなったのである。
 このところ歴史認識の違いの問題を抱え、両国関係がこじれたままであり、そうした状況の中で日韓両国の心ある方々はなんとかしたいと考えている訳である。現在のあり方は両国にとってなんのプラスにもならないのである。

 5月9日(土)午後4時半頃、友情ウォークの皆さんは岡崎市役所前に到着された。
 当日は日本人25人あまり、韓国のかたは十数名参加されていた。ソウルからここまで全行程を徒歩でみえたかたもあり、その健脚ぶりには驚かされるばかりである。ことに韓国側のリーダーである宣相圭(ソン・サンギュ)正使は全5回にすべて歩いて参加しており、誠に頭の下がる思いであった。なお宣会長は理学博士とのことである。
 私も岡崎市長として初めて歓迎の御挨拶をし、友好のペナントと朝鮮通信使「ユネスコ世界記憶遺産」登録キャンペーンののぼり旗を受け取ることとなった。
 この催しは、楽しく、仲良く「日韓友情ウォーク」を通じて歩いて市民交流の実を積み上げてゆくことを目的としているのである。国同士というものは政治や経済的問題で時にしっくりいかない時もあるものだが、そうした時に安全弁として機能するものが、一人一人の人間関係を通して培われた信頼や友情ではないかと考えている。そのために様々なパイプを通じた複層的交流が重要であると思っている。

 かつて、この岡崎にあった〝御馳走屋敷〟という施設は、朝鮮通信使の折にも幕府が正式な迎賓館として使用していたという。そうした由来を知れば、16世紀に秀吉軍の侵攻によって断絶した日本と朝鮮の関係を修復しようと尽力した家康公の意志を継いで我々も何かのお役に立てないものかと考えるものである。
 と言っても、友好や相互理解の旗印のもとに相手の考えを鵜呑みにしようと言うことではなく、事実誤認や誤解、偏見や悪意に基づいた意見に対しては、こちらも遠慮せずに正当に議論を戦わせてゆけばいいと考えている。
 相互理解とは、必ずしも同じ意見、見解に達することではない。相互のものの見方、考え方において、見解の相違があることを認識し、それがいかなる根拠によるものであるかということを知ることでもあるからである。それに、自分達にとって都合の良い資料だけを根拠にしての話では説得力に欠ける。近頃よく大都市で行われている、感情的憎悪のはけ口のような「ヘイト・スピーチ」はいただけないだろう。
 同じモノを見ても、その人の立っている物理的な位置、文化的素養、経験(歴史)、あるいは利害関係や思想的背景によっても、モノの見え方は大きく変わってくるものである。そうした中で、おいそれと意見が一致することなどあり得ないことは、中東とヨーロッパの関係一つ見てもよく分かることである。
 不満があるならば、堂々と理性的に、公の場で論証すればいいのである。こうしたことに日本は今まであまりに消極的であり過ぎたと言える。日本人は概して論戦を好まない気質があるが、それは国際関係では通用しない。黙っていることは自らの非を認めたことになるのである。
 欧米において盛んに行われている中韓の反日キャンペーンに対して、大人ぶって沈黙を通してきたことも今日の情況を招いた一因であると考える。よって我々は今後、様々な形で交流すると共に、不当な言論に対しては論戦を厭わないという硬軟おり混ぜた姿勢が必要であると思っている。

第5次・21世紀の朝鮮通信使

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