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2014年7月 4日 (金)

岡崎城は宝の山 その2

岡崎公園 歴史的文化遺産視察(2014年3月27日)

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 当日3月27日、家康館の前に集まった私達は、三浦教授、中井教授のお二方を先頭にお城に向かって歩を進めて行った。

 現在も、岡崎城の北側には、空堀が二重に構えられている。
 この辺りはかつての我等ワンパク坊主達の主戦場(?)でもあった。今は植物保護のため立ち入り禁止となっている堀の中をヘビやトカゲをものともせず、背中にオモチャの刀、腰に二丁拳銃というメチャクチャないで立ちで走り回っていた。ちょうど楳図かずおのマンガ『まことちゃん』のイメージである。当時はフロシキで覆面をして石垣をよじ登ったりする忍者ゴッコも流行っていた。時に手をすべらせて転落するマヌケもいたが、誰もケガなどはしなかった。戦後十年余りの昭和30年代はそんなのどかなでワイルドな時代であった。

内田康宏

 先生方のお話では、我々が走り回っていたお堀の造りは、「戦国期の城の様式を伝える大変貴重なものである」ということだった。堀の斜面が土のままの所もあるが、この方が足がすべって攻めにくかったらしい(切岸、きりぎしという)。最初の堀の対岸側は石垣で少し高くなっており、かつてそこには土塀(どべい)が巡らされていた。城内に侵入して来た敵をここから、弓や鉄砲で攻撃できるようになっていたという。
 堀の上部の石垣の切れ目の通路はかつては土橋であり、対岸には「太鼓門」という二階建ての櫓門があったそうだ。→図の

岡崎城

 さらにこの城門を突破した敵は二つ目の堀に沿って360度左手に回らされることになる。右手に二つ目の堀、左手には石垣とかつて土塀があったせまい道は持仏堂曲輪(じぶつどうぐるわ)と呼ばれ、ここを通過する敵は城側から再び弓と鉄砲の洗礼を受けることになる。しかも後方からである。幸いにしてこの城は実戦でここまで攻め込まれることはなかった。
 この二つ目の堀は大きく右へわん曲している。このような形の堀は「清海堀」(せいかいぼり)と呼ばれ、このあたりでは大変珍しいものだという。しかもカーブの形状は美しく石垣で整えられており、お城ファンにとってはたまらない魅力であるそうだ。こうしたわん曲した堀は戦国期の特徴の一つでもある。土造りの浅いものなら東北地方によくあるそうだが、堀の外周面が石垣造りとなっているものは国内でも例が無く、石垣の形状から田中吉政の時代のものと江戸期に修復された部分の違いが分かるという(やはり専門家の目はスゴイ!)

岡崎城

Okazakicastle201407044

 お城の真北から二つ目の堀の上を渡る「廊下橋」がある。→図の
 これは城からの出撃や脱出を考えて造られたものである。直接、天守閣に接続する位置に橋があるのも珍しく、現存しているのは唯一岡崎城だけだという。
 今見られる橋は明治以降に造られた石造りのものであるが、本来は木製であり、屋根付きの櫓(やぐら)のような橋であった。しかし「石橋の方もすでに近代文化遺産としての価値があるため大切にするように」というお話であった。
 お城の東にある現在の「巽閣」(たつみかく)の北面の石垣は、「深くて、水堀とのコントラストも大変美しく、余分なモノを取り除いて修景してPRすべきである」との御指摘であった。
 「この部分の石垣は切り込みハギでモザイク状になっており、これは江戸後期(19世紀)の様式」とのことである。
 このように比較的新しい石積みと、戦国期と江戸前期、中期のものと多様な石垣が見られるというのも岡崎城の魅力の一つと言える。また巽閣の石垣の表面には、石工のノミの跡が残っている。きれいに平行なスジがついているもの、乱れているものなど個々の職人の腕の差まで察しがつくらしい。

アラモの碑(岡崎公園)

 現在巽閣の反対側には明治期の郷土の偉人、志賀重昂博士(明治期、イギリスの王立地理学会のメンバーにもなっていた地理・民俗学者)による、アメリカのテキサス州にあるアラモ砦の守備隊の戦いと日本の長篠城攻防戦の勇士達を讃える石碑が立っている。→図の
 同じものがサンアントニオ市のアラモ砦に贈られているが、これについても「近代の歴史遺産として大切にするように」ということであった。そして後ろにある石垣は枡形(ますがた)の虎口石垣と呼ばれ、これも関ヶ原の合戦以前のものであり、大変珍しいものだそうである。またここにも城門があったという(本丸御門)。

Okazakicastle201407041

 いよいよ龍城神社前からお城の正面位置まで来た。岡崎城の大きな魅力の一つは、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である。付櫓の位置や形状が同じであるし、天守台の北側に幅約6メートル、西側に幅約3メートルの武者走りの通路が設けられるなど、失われた豊臣・大坂城の天守の様子が数多くうかがえるという。徳川の本拠地で、豊臣の城の痕跡が残っているというのも一興である。
 天守台の石垣が忍返し(しのびがえし)の形、算木積みではなく、逆反りの勾配になっているが、これは決して手入れが悪くて石垣が孕(はら)んだわけではない。野面(のづら)積みという戦国期特有の石垣であり、この形状のものは現在では岡山城、延岡城と岡崎城の三城と、彦根城の一部のみにしか見られない。(三城に岡の字があるのは偶然か?) 写真に見られるように、石垣の上下で色が違っているのはカビと地衣類によるものだという。
 また城の西側から下る坂道の両側にある石垣にも、かつては非常口としての城門があった。石垣上部に残る加工の跡は門の冠木のなごりだという。「石垣の上にある松の木は、後世のものであり、石垣の保存のために悪いので切るべし」というのが三浦先生の御意見であった。

岡崎公園 歴史的文化遺産視察(2014年3月27日)

東照公産湯の井戸(岡崎公園)

 坂下の右手にある「東照公産湯の井戸」については、すでに井戸さらいも済み、来客が水に触れることができるように計画している。水質検査の結果によると、飲んでも無害ではあるが、鉄分とマンガンの含有量が多く、おいしい水とは言えないようである。しかし徳川家康も三河武士たちもこの水を飲んで大きくなったのである。
 いずれにせよ岡崎公園はすべて、かつての城郭の内側にあり、今回記載しなかったがまだまだ多くの歴史的事物に満ちているため、それらの一つ一つをしっかりと事実確認しながら適切で統一感のある案内表示をしてゆきたいと考えている。私も田中吉政の手による岡崎城の城郭が全国で4番目に大きなものであるということを、つい最近まで正しく認識しておらず、恥ずかしい限りであった。今一度郷土の歴史をきちんと調べ直し、後世に正しく伝えてゆきたい。

 近い将来の課題として「岡崎城をどうするか」という問題が生起してくることになる。現在、岡崎城は築55年を迎えているが、あと20~30年でコンクリートの劣化(中性化)によって強度不足となり、建て替えの時期を迎える可能性がある。
 その時に、再び現在のような鉄筋コンクリート製の城にするのか、それとも木造の城に戻すのか決断を迫られるのである。
 鉄筋コンクリートの長所は、防火性と強度にある。エレベーターや空調設備を完備でき、明るく、博物館的展示機能を持たせることができる。高齢者から子供、女性、身障者の方までお城に付随された機能と城からの眺望を楽しんでもらえることができる。
 しかし、コンクリートの長寿命化が計られている今日においても、コンクリートの劣化を止めることはできず、100年~120年先には再び建て替えの時を迎えことになる。
 木造の城に戻した場合、約40年ごとに屋根の葺き替えや漆喰(しっくい)の塗り直しが必要となるが、手入れを十分すれば400年は持つ城となる。そのかわり、純然たる城としての機能しかなく、歴史的好事家(マニア)以外の人々の目には殺風景な木造の建物としか映らない。もっとも天守閣とは本来、そうした戦時の物見櫓(ものみやぐら)である。誰もが登って楽しむものではない。ただ、文化財としての認証を得られれば国の補助を得られるというメリットがある。

 お城の専門家の先生方は当然、木造の天守をお薦めである。その場合、物品の展示のために家康館の別館か、新たな歴史博物館を造る必要性が出てくるだろう。もし木造にする場合には、やはり郷土の木(三河材)を使って造りたいものだ。それこそ本当の「我等が城」となる。
 いずれにせよ、両者の長所と短所をしっかり比較検討して、将来の岡崎にとって最も相応しい城をこれからの世代の市民に選択してもらえばいいことであると思っている。
 未来の城がどのようなものとなるか分かる頃まで、この世にいられそうにない私としてはいささか気にはなるところである。

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岡崎城は宝の山 その1 (2014.06.22)

岡崎城の将来について (2016.11.24)

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